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「飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守」のお礼と補足。そして富野フォロー。

前回記事、飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話> を多くの方に見ていただいたようで誠にありがとうございます。
ご訪問いただいた方、コメント、トラックバック、ブックマークしていただいた方、言及記事を書いていただいた方など皆様に感謝いたします。

身近な友人・知人向けに書いているようなブログなので、何気なくアクセス解析をのぞいた時は何事かと怯え、おしっこもれそうになりました。(我慢しました)
さらに、はてなからの訪問が多かったので見てみると、私の想像を絶するブックマーク数が!(ここで残念ながらもれました)
正直そこまでの内容の記事でもないなと自分でも思うので、時期も時期だし、皆様が何かを考えたり意見を述べるきっかけ作りぐらいにはなったのかな、と受け止めることにしました。

あとみんな宮崎駿と押井守好きすぎです。
どんだけ好きなんですか。(特にはてなの方)


調べてみると、囚人022さんにブックマークしていただいたのがきっかけになったようです。
囚人022さんのはてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/prisoner022/
囚人022さんには、この少し前の記事もブックマークしていただいたようでありがとうございます。以前からブログを拝見していましたので嬉しいです。

記事については、アクセスやブックマークに対して嬉しいというより、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちでいっぱいだったのですが、コメントやブックマークコメント、言及記事などを見ると、より深い情報や鋭いツッコミ、別視点、補足などがありとても刺激的でした。

ですので、私の記事だけでなく、ブクマコメや言及記事なども読んでいただき、丸ごと楽しんだり考えたりしていただくのが一番いいですね。
コメントやブクマコメに良いこと面白いことがいっぱい書いてあるので、それも読んでいただいて「なるほど!」「面白いな!」「いやいやこうも考えられないか?」「待てよ、そういえば…」「知っているのか雷電!」で全然いいと思います。

というわけで私の記事部分だけでなく、ぜひ記事コメント、ブックマークコメントや言及記事などもご覧下さい。

はてなブックマーク - 飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話>
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html
(とりあえずブックマーク数が圧倒的に多いはてなを。コメントと言及リンクがまとまっていて紹介しやすくていいですね)

最初は記事にいただいたコメントやブックマークコメントを受けて、色々お返事したりしようと思っていたのですが、量的に私の手に負えない感じなのと、色んな方が鋭い分析や示唆に富む発言をしてくださったりしてるので、あまり必要性を感じないと思っていますがどうでしょうか。
(いただいたコメントなどを見て、私自身が大体満足したからというのもあります)
なので、皆さんの刺激を受けて書きたいな、と改めて思ったことだけ書かせていただこうと思います。



■前回記事について

前半は、押井監督のリアリティをコントロールするという概念が面白いなあ、というメモ。
後半は、押井・宮崎両監督のキャラクターというか性質の違いを分かりやすく考えようとしたもの、という感じです。
個別の作品論や、作品全てを分析した総括というわけでもないので、そういうご期待に添えなくて申し訳ないです。

先日放送のNHK「崖の上のポニョ」密着番組を見たのですが、その中で宮崎監督が

「この映画見て、『波の上を走れるんじゃないか?』と子供が思ってくれたら、やったぜ、と思うね」

みたいなことを言ってましたね。
この発言などはまさしく、無茶をアニメーションの魅力で通す人ならではだと感じました。

押井監督の舞台もアニメですが、こういういかにもアニメらしい説得の仕方はしないです。
かといって「じゃあやっぱり押井監督はアニメじゃなくて実写やってればいいのに」というわけでも無い気がするんですよね。

アニメは言うなれば全て幻想で、背景からキャラから何から何まで全てをゼロから用意しなければ成り立たないのですが、逆に言えば用意したものには全て理由がある。必要なものと判断して選択したものだからです。
言わば画面にある要素は全て押井監督が選択したものであり、意図が反映されたもの。
その全ての要素をコントロールできるところが、アニメが押井監督に合っている、というか好みなんじゃないかな、と思うんですよね。
その結果、押井アニメは押井監督の意図やメッセージがすみずみまで盛り込まれていることになり、押井純度が限りなく高くなるのがたまらんのでしょうね。
実写は情報量が多すぎてコントロールしきれなかったり、その情報量がノイズになってしまうことさえありますから。(もちろんそれが魅力なんですけども)
押井実写映画を私はあまり見ないのですが、見てない「アヴァロン」なんかは実写をアニメ素材みたいにコントロールしようとした作品みたいなイメージがあるのですが、どうなんでしょう?

結局、宮崎、押井の両監督共に幻想であるアニメを作る以上は、いかにすばらしい嘘をつくか、という世界のお人だと思います。その意味では同じなんですよね。
いかにこの嘘に説得力を持たせて観客に見せるか、という所こそが大事なのであって、そのためのアプローチが違うからこそ対照的に見えて面白いんじゃないでしょうか。
宮崎世界がリアリティが低い、死なないとか、押井世界がリアリティ高い、死ぬ、ということではなく、見せたいモノのためにチョイスしている世界とやり方こそが面白いということですね。

宮崎駿

・すばらしいアニメーション(動き)で無茶に説得力を持たせる。そのクオリティは宮崎本人が担保する。
・このためキャラクターデザインを作品ごとに選ぶということはなく、どの作品も当然「宮崎キャラ」になる。
・「コナン」や「ラピュタ」でも人は死にますが、危機的状況で死んでしまう人々と生き残る主人公の差は(それは言ってしまえば配役の差なのですが)、画面上においては「主人公としての精神と行動」の結果である、というように見せている気がします。
・つまり前回記事でも言いましたが、少女を守ろうとする「意志の強さ」や「優しさ」、それを行動に移す「勇気」。それがある人間は死なない(死ぬべきじゃない)。ここが嘘部分。こういう人間はこうあって欲しいという嘘。
・そして、その嘘は宮崎のすばらしいアニメーションで説得される。「パズーえらい。すごい。がんばった。」すばらしい説得。喜んで説得されますよ私は。
・あと、ピンチを勇気をもってくぐり抜けようとする時、その行動は報われるという視聴者(子供たち)との見えない信頼があり、それを守っているイメージがあります。


押井守

・動きの説得力については、押井本人は担保できないし、しない。
・代わりに、脚本や絵コンテ、画面構成などのクオリティは担保する。
・キャラクターデザインも、作品ごとに表現したい世界を体現できるような説得力を持ったキャラクターを選択する。
・例えば、押井監督がパズーがピンチをくぐり抜ける場面を作るとして、その理由を「勇気と優しさに支えられた行動」のような精神的なものには決してしないだろうなあ(もっと色々理屈がつくはず)。
・街並みや銃器などのリアリティも、大きな嘘の説得力をもたせるために外堀を埋めているようなもんなんでしょうか(本人の趣味でもあるでしょうが)。
・別に押井監督に限らず、宮崎駿みたいな方法で動きの説得力を担保できない場合、それ以外の要素をきちんと固めて説得しようとするのが当たり前だし、それが冷静な判断な気がします。


私は「ポニョ」も「スカイ・クロラ」も見てませんし、作品ごとに色々例外もあると思いますが、両監督のキャラクター傾向として。
両監督ともやっぱり面白いですね。
個々の作品が、というか両監督が同じように好きです。

押井監督の制作スタンス辺りから、少し前に菅野よう子さんのインタビューで見かけた「富野監督は音楽も絵も信じてない」という話題につなげたりできないかな?と考えました。

菅野よう子:とにかく言葉がいっぱい、攻撃か弾幕のように出てくる方で(笑)、おまけに本人が音楽の力をまったく信じてない。多分、自分の言葉しか信じてない、全部台詞で言っちゃう。最初は「あ゛ぁ〜! 」って感じでしたけど、「音楽も絵も信じてない人なんだ」って分かってからは大丈夫でした(笑)。


富野監督も押井監督と同じく、画や動きの説得力を本人が担保するわけではないので、やっぱり脚本(セリフ)や設定(世界観)、絵コンテなどを押さえることで自分の作品を作るタイプなんだろうと思います。
しかし押井監督以上に信用してないイメージがあるのは、元々の性質もあるでしょうが、虫プロの時代からありとあらゆる作品に参加してさまざまな体験をされていることが影響しているかも知れませんね。

視聴者に対して物語のクオリティを保証する方法として、自分がコントロールできる要素以外をあまり信用しない、という作り方を選んだ(選ばざるを得なかった)という部分があったのかも。
動画がひどいかも知れない、イメージに合う音楽がない、キャスティングに不安要素がある、安彦さんが倒れた、デザインや設定にノーを出された、などなど。
これまで体験した極限状況が、「信用しない(完全にコントロールしきれない要素には寄りかからない)」作品を生んでしまった一要素なのだとしたら、監督本人にとっても参加スタッフにとっても悲劇なのかも知れませんね。
でもそこで菅野さんみたいに監督に色んな意味で負けないような人が音楽の力を見せてくれれば、お互いのためにもそれでいいんでしょう。



■余談(富野由悠季の場合)について

富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。


上記について、何人かの方がコメントなどしてくださってましたが、前回記事はタイトル通り、宮崎押井の話題に絞ろうと思っていましたので、富野監督は最初からオチだけ担当していただこうと考えていました。
そのため、いくつかパターンは考えました。

絶体絶命
→女性が[かばう]コマンドで代わりに死んでくれる(ただし男性のみ有効)

絶体絶命
→そのとき、なんかが発動した。で、歴史が動いた!あとお腹の赤ちゃんも!

絶体絶命
→黙示録(皆殺しwith万有引力)


結局、2代目ロボ登場パターンを選びましたが、戦闘中に駆けつけるビルバインやZガンダム等が何とか該当するものの、(ご指摘のとおり)ピンチ脱出には直接関係ないパターンが多いですね。
この表現には「グレートマジンガー」登場が最もふさわしいというのはごもっともと思います。(特に劇場版「マジンガーZ対暗黒大将軍」)

「2代目ロボ」という言葉に集約させましたが、商品を次々に登場させないといけないさだめのTVアニメを色々工夫して作ってきたという意味だと思っていただければ。
スポンサーとの兼ね合いの中、ああいう作品を作る富野監督は(大変でしょうけども)とても素晴らしいと思っています。
イデオンのデザイン押し付けられて、105mの巨大遺跡にして乗り切ったのは本当にすごいですよね。

※トミノ愛について
用を足しに行くときに「どこへ行くの?」と問われて「トイレに行くと言っている」と答えるほどには富野監督、富野アニメ共に愛してますので、愛ゆえにオチに使わせていただいたことをご理解いただければ幸いです。
(「とってつけたオチ自体いらないだろ」とのご意見もあるかと思うのですが、何かオチが無いと不安で仕方ない悪い病気です)
富野アニメ記事はまた色々書いていきたいと思いますので、その際にまた考えたりすることにします。

タグ : 押井守 富野由悠季 宮崎駿 アニメ

2008年08月06日(水)22:10  |  アニメ  |  TB(1)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑

飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話>

高いビルから飛び降りたら、あなたは死にますか?
そりゃあ死にますよね。だってにんげんだもの(みつを)。


ではアニメやマンガの住人はどうでしょう?
現実と同じく死んでしまうお話もあれば、地面に人型に穴があいてギャグになって終わり、というのもありますね。
その違いって一体なんなの?

というようなお話。



こういった作品ごとに違うリアリティに対して、押井守は、
「作品のリアリティは、監督によってコントロールされるべきものだ」
とインタビューで話しておりました。
(出典はアニメスタイル2号の押井守インタビューですが、部屋のどこにあるのか見つからないので大意です)

ここでのリアリティとは、出てくるキャラクターや背景が写実的なのか、という画だけの問題でなく、演出などを含めた作品全体で表現されるリアリティをさします。
つまり高いビルから飛び降りたときに、キャラクターが死んでしまう作品なのか、ギャグで済む作品なのかは、監督がコントロールするものであるということですね。

押井守はインタビュー中で、自身が監督した「機動警察パトレイバー」を例に出していました。

例えば、2階からパトレイバーのキャラクターが飛び降りたとする。
その時に下に池があり水しぶきがあがるだけで<ケガをしない>のか。
それとも<ケガはするが次のシーンですっかり直る>のか。
それとも<現実どおりのケガをする>のか。

パトレイバーは展開されたメディアによってリアリティのレベルが微妙に違うものとしてコントロールされている、と。

ちなみにマンガとアニメのパトレイバーだと<ケガはするが次のシーンですっかり直る>ぐらいのリアリティかな?
<現実どおりのケガをする>のは、劇場版パトレイバーのリアリティになるでしょうか。
<ケガをしない>のは、パトレイバーのコメディ回でもありえますが、まあ、うる星やつらですかね。

つまり太田さんが同じように暴れても、アニメやマンガではケガをするぐらいで済む(でも次の回には治っている)けれど、劇場版では死んでしまうかもしれないわけですね。

■作品世界を体現するために選ばれるキャラクター

このインタビューで面白いなあ、と思ったのは、押井守にとって、まず作品で表現したいリアリティレベルの設定ありきで、キャラクターデザインの絵柄は、そのために選ばれるものだということです。

先のパトレイバーでいうなら、劇場版は明らかにアニメ版とは違うリアリティでリデザインされているし、映画「攻殻機動隊」では、主人公草薙素子を肉感的なリアリティのあるキャラクターデザインとし、原作士郎正宗のものから大きく変えました。
それは全て、作品で表現したいリアリティをキャラクターに体現してもらうため。
ビルから飛び降り、格闘し、大口径の銃をぶっ放すサイボーグ軍人女性の首が細いわけはない、肩が張っていないわけはない。
だから原作の士郎正宗がデザインした首の細い(いわゆる)マンガ的なキャラクターを使わなかった。
つまり、作品の方向性、必要なリアリティと密接な関係がある以上、キャラクターデザインは単純な絵の好み、良し悪しだけでは選べないということ。
こういう考えの元では、結果的にキャラクターデザインと作品世界のリアリティが一致し、「ずれ」は生じない。

そんな押井守監督作品では「うる星やつら」の諸星あたるも「攻殻機動隊」の草薙素子も、高い所から飛び降りても死なないキャラクターになっています。
しかし作品で設定されているリアリティが違うため、結果は同じでも理由は違う。
「うる星やつら」はそもそもキャラクターが死なない(ギャグで済む)リアリティレベルであるから。飛び降りても好きな子の名を叫べば夢から覚めて助かるような不思議SF世界といった方がいいでしょうか。
「攻殻機動隊」ではうる星と違い、キャラクターは死にます。トグサや荒巻ですら飛び降りたら死ぬでしょう。そんな世界で死なないために全身義体のサイボーグで、さらに頑強な肉体を持ったキャラクターにリデザインする必要があったわけです。
(無茶をするため道理を通すのが、リアリティの高い作品の制約であり、その言い訳の工夫こそが面白さとも言えるでしょうね)

制作側はまず表現したい世界ありき。そしてその世界の表現に適したキャラクターが選ばれる、という過程があるというのが面白いところです。
選ばれたキャラクターは作品世界を体現した存在ですので、デフォルメキャラ→ギャグ世界と、キャラクターを見ただけで世界を理解してもらえるようにしてるわけですね。
(この世界は物理法則や人体構造を無視してますよ、というメッセージですよね)
一方、視聴者は制作過程などすっ飛ばして作品をまず見ますから、リアルなキャラクターだからリアルな世界で、デフォルメキャラだからギャグ世界だと素直に感じるのですが、それはメッセージの受け取り方として間違ってないわけです。

ちなみに同インタビューでは、押井が、他のアニメ作品をさして、
「キャラクターと作品世界が一致していない作品が多すぎる」というようなことも言ってましたね。
具体的な作品名は一切あげていなかったけども、思い当たるフシは色々ある。
リアリティのないキャラクターでハードな生き死にバトルをしたり、萌え美少女たちがトラウマ博覧会して人生を語ったりするようなことを言ってるんじゃないかな。
私も未見のアニメ作品のキャラクターだけ見た後で、実際に作品を見て「え?中身はこんな話だったの?」と見かけとのギャップに驚いたことが何度もあったように思います。

さて、この「飛び降りてケガをするか、死ぬかどうか」というのは、あくまで「リアリティのコントロール」を説明するための例にすぎないのですが、この例を色々考えていくと面白いところにぶつかります。
なぜなら「飛び降りても絶対死なないアニメ」を作っている国民的アニメ監督がいるから。
もちろん宮崎さんちのハヤオ君のことです。

■飛び降りる宮崎駿

それは例えば宮崎アニメでよくあるこういうシーン。
高い塔やビルのてっぺんで、少年はとらわれの少女を助けるが敵に追い詰められる。逃げ場はない。
絶体絶命のピンチ。どうする?どうやってこの危機を乗り切る?

こんな時、宮崎アニメで少年はどうするか?………そう、正解は「勇気をもって飛び降りる」です。
少女をお姫様だっこして飛び降りる。飛び降り方は色々バリエーションあれど、とにかく飛び降りる。
少年は地面に着地し、体全体にしびれが走るが、両足をふんばり、少女と共に駆け出す。
まさに宮崎アニメだと毎度1回は必ずあるようなシーンですよね。特にコナン、カリ城、ラピュタが思い浮かびます。

でもこういった宮崎アニメの見せ場シーンも押井守に言わせるとこうなる。
「せっかく絶体絶命の危機のシーンを作ったのに、主人公の無茶で簡単に脱出されるんだったら脚本の意味が無いじゃないか」

↑これ、昔、何か古いアニメ評論の本で読んだ気がするのですが、手元にないので良く分かりません。(こういう場面でで「アニメであること」に逃げるからダメなんだ的なことも言ってたような気もします)

まあ、確かに飛び降りても大丈夫なようにあれこれ理屈をつけたり、夢世界にしたり、キャラクターすら変えた押井先生に対して、「我慢する」ですからねえ(笑)。

先ほどのリアリティコントロールの話と合わせて、2人の作家性の違いが見て取れて大変面白いですね。
私が感じるに、つまりこういうことじゃないかな。

宮崎駿

・絶体絶命のシーンをドキドキワクワクのダイナミックな動きで突破することこそアニメーションの楽しさと信じている。
・そうでなくて何がアニメーションなのか。飛び降りてケガをするキャラクターの物語は、リアルな肉体を持った実写でやればよい。
・無茶を通せば道理が引っ込むものだ。観客が「道理が引っ込んで当然」と思うほどの魅力的な動きを作ればよい。
・飛び降りた少年がケガするのはナンセンスで、ケガをするかどうかでなく、少女を守るために飛び降りる勇気があるか、少女の重さを歯を食いしばって耐えられるかどうか、そこが重要なところだ。それができる少年がケガするわけがない。


押井守

・絶対絶命のシーンは道理(脚本・構成レベル)でつくられる。ならばその解決も道理で行いたい。
・というか絶体絶命までの最悪のシナリオを登場人物たちが知恵を絞り、行動し、それを回避するような話が好き。(劇場版パト1なんか完全にそう)
・観客が危機回避を納得できるだけの理屈は必要なはずだ。そのためには、危機脱出のための伏線をはったり、駆け引きさせたり、言い訳をちゃんと作ろう。
・問題はその作品のリアリティレベルがどの程度か、ということだ。それに応じてシーンはつくられ、リアリティが守られる。
・最終的に飛び降りざるを得なくなったとしたら、飛び降りても助かる理屈を付けるし、その作品のリアリティレベルに応じてケガをさせるだろう。
・もしくは好きな子の名を叫べば夢から覚めればよい。夢の中ではリアリティは関係ないからどうとでもなる。
・夢から覚めた世界もまた夢の中でないとなぜ言い切れる?いや、まて。そもそもこの映画を見ている俺達の実存さえも疑わしい。いや、まて…(以下、永遠に続く)


乱暴にまとめれば「道理を壊して無茶を通す宮崎駿」「無茶をするため道理を通す押井守」といったところでしょうか。

この2人の違いは思想の違いもあるけれど、宮崎が絵を描くことができる監督であり、押井は絵を描くことができない監督であるという違いも大きく影響しているでしょうね。

宮崎駿の考え方こそアニメーションそのもの、とは言えると思います。ディズニーやトム&ジェリーなどにも通じる魅力ですね。
ただこれは宮崎駿本人が天才アニメーターであることで支えられている。ジブリ作品(紅の豚以降?)はしっかりした脚本がないそうで、脚本はアニメ作りながら作るし、アニメの都合でどんどん変えられていく。 (ジャッキー・チェンの映画の作り方と似ているなと思います)
究極的に言えば、自分だけでアニメが作れるから出来る方法です。

一方の押井守は絵が描けないので、当然絵は誰かに描いてもらうことになるわけです。
そうなると自分はそれを管理(コントロール)する側にならざるを得ない。
だから脚本、絵コンテ、画面構成を重視することになります。なぜなら、その部分さえしっかり握っていれば、誰が絵を描こうと、押井守の映画になるからです。
それらをさえてれば、自分の映画をれる=押井守。そうか、そこから来たネーミングか!(押井さんはキャラクターではありません)

私個人でいえば、絵心が無いことと、理詰めで理解しやすいことを考えると、押井守の考え方に感銘を覚えます。
(もちろん、宮崎駿「作品」は魅力的で大好きなのですが)

解決法の違いがそれぞれの監督の長所や魅力となっているので、どちらが正しいとかではなく、お互いが自分の信じる演出をするのが正しいのでしょうね。
それにしても対照的で面白いですね。

※余談
富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。
これじゃないですかね。やっぱり。スポンサーの枠組みの中で最大限の仕事をしてきた人としては。ピンチは新商品が登場するためにこそ存在する!

タグ : アニメ 宮崎駿 押井守 パトレイバー 攻殻機動隊 富野由悠季

2008年08月02日(土)09:55  |  アニメ  |  TB(2)  |  CM(23)  |  EDIT  |  Top↑

FNS27時間テレビ 25時間目の奇跡

「FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」がすさまじかった。

今年は、三宅恵介定年を受けての明石家さんま司会。
すなわちタイトル通り「オレたちひょうきん族」ベースということで、世代的にドンズバな私としては注目していたので出来る限りがんばって見た。
それに、さすがに27時間テレビのさんま司会は年齢的にもコネクション的にも最後っぽい気がしていたから、生き証人になるために見ました。

面白ポイントは色々あったのだが、なんといっても「さんま in めちゃイケ」。
これを生で見れただけでも、見た価値があった。見てなかった人は生で見れなかったことを後悔しながら、ネットで補完するべき。
とにかく、放送開始から25時間目に起こった奇跡について紹介しよう。

まず見てなかった人のために、そこへ至るまでの流れを説明しておく。

■伝説再び

・「さんま in めちゃイケ」は19:00ごろスタート。
・さんまが裏のTBS「からくりTV」に出演のため、1時間はさんま抜きでもたせることに。
・めちゃイケメンバーで始まり、ネプリーグ終わりのネプチューン、雨上がり決死隊など芸人達が次々と集合。
・ここでペナルティワッキーに巻き込まれる形で、今田耕司登場。
・今田は「さんま in めちゃイケ」終了後の、21:00スタート「列島カーペット」司会のため、楽屋で休憩中。めちゃイケに出演予定は無かったと思われる(ここ重要)。
・20:00 さんま漁解禁。「27時間テレビ 名場面ベスト5」スタート。1位は当然、伝説のレンジローバー破壊ネタ。

ここまでは単に前フリ。

ここで、ビートたけしが別スタジオにいることが明かされ、カメラを移すと、鬼瓦権造がペインティングアートをしている。
問題は何にペンキをぶちまけているか。サイドミラーなどがチラチラうつり、車であることがモロバレ。さんまの車であることは当然の流れ。
ところが車の全景がうつると、ナイナイ岡村が声を上げる。「完全に僕の車です!」爆笑するさんまと一同。
しかし、さらにカメラを引くと、車の上に、岡村の車が載っていることが明かされる。
岡村の車の下敷きになっているのは、もちろん、さんまの車である。しかもボディ全てにペインティング済み。

さんま「だ、誰か、ヤツを止めなさーい!」

さんまと一同は、たけしのいるスタジオに走る。
飛び込むと、たけしは未だにペインティングの真っ最中。
さあ、ゲームの始まりだ!

■25時間目の奇跡

※ここからは動画見たほうがいいので、あえて略す。(動画あれば追加)

なんだかんだで、さんまの車に乗り込むたけし。
スタジオ内で暴走を始める。逃げ惑う芸人達。
そのとき、暴走する車の前に、今田が!
266663.jpg

―――という、感じ。

その後どうなったかって?

簡単にいうと、たけしの乗った(さんまの)車に、今田がひかれました。
(PTAとかには内緒だぜ)

<YouTube動画> (いつまで見れるのか分かりませんが。)

※見直してみたら、今田が一瞬手招きしているようにも見えるな(笑)。
※これの前段階も面白いので見つけたら追加します。

事故ポイントだけでなく、一連の流れのすばらしさに久しぶりに笑い転げましたよ。
ここから先は見てない人には分からないと思うが、何がすごかったか、何が面白かったか挙げていきましょう。

■奇跡前

・何より、久しぶりに「ビートたけし」の暴走を見た。
・「ビートたけし」が芸人として終わっていることは、本人を含め共通見解だと思うのだが、それでもなお画面に映っている彼に我々が何かを期待してしまうのは「こういう事」をする人だと知っているからだ。
・見ていると分かるが、たけしとのペンキの掛け合いのところはグダグダというか、うまく行っていない。
・お笑いウルトラクイズのラストの全員乱闘みたいに「なっていない」。多分、そういうシーンだったと思うのだが。たけし軍団なら想像通りにいったのではないか。でもたけしとからんだことの無い芸人ばかりで誰も前へ出て行かない。
・そんな展開を救おうと前へ出たのが、ホリケン(KY上等)、こじまよしお(周囲に押されて?)、そして今田というのが面白い。
・この一連の流れは、生放送ゆえのぐだぐだ感とそれを阻止しようとする人々の攻防が見れて実に面白い。生ならでは。
・岡村は、今田にたけしが運転している車の窓へ放り込んでもらったのに、何もできず。 ナイナイは大御所とからむのが本当に下手だな。生にも弱いのかも知れない。
・恐らく台本は、車に載ったたけしが車庫入れ(ブロック)のセットに突っ込んで終わる、だったはず(画像を見ると分かる)。だから、たけしの行動は全て打ち合わせ通り。
・ゆえに、それを知っているめちゃイケメンバーはきちんとセット前から逃げる。
・しかし、今田はそんなことを知らない(当然だ。出演予定はなかった)。突っ込むはずのセットの前に立つ。
・たけしは「台本通りの暴走」で、予定通りセットに突っ込んで、結果的に今田をひく。予定ではブロックに突っ込むが、もちろん今田が大ケガするので、そこまでの突っ込みはしない。
・今田はすごいな。逃げなかったが、たけしとアイコンタクトでもあった?完全にやりすぎコージー。やりすぎジーコー(事故)。
・すごいのは、すぐにカメラが倒れた今田をうつしたこと。(そして今田はすぐに足を隠したように見えた。もだえただけか?)※動画見直したら、立ち上がろうとしただけみたい。
・CMに入らなかったのもすごい。てっきり入るのかと思ったが、入らず、今田は元気に立ち上がる。

■奇跡後〜エンディング

そしてコーナー終了からエンディングまでがまた素晴らしかった。

・ここまでをノーカットで見せてCM。CM明けは今田司会の「列島カーペット」。たけしにペンキをかけられ、体中真っ青なまま元気に司会をする。
・つとめて明るく振舞う今田。「おいしい思いさせてもらいました」とまで言う。暗いイメージをかけらも見せようとしない。
・同じくペンキをかけられ、真っ赤な(ウソ)の明石家さんま登場。今田と赤青コンビ。
・なんだかんだでエンディング。ひょうきん懺悔室。ここでの懺悔人選は、番組のエピローグとして完璧。「ひょうきんオールスターズ」「今田耕司 」「たけし&さんま&三宅恵介」(予定調和的メンバーの中に、ただ1人飛び込みで今田が入っていることが全てを物語りますね)
・この「今田懺悔」の効果は大きい。今田が全く元気なことを最後に視聴者に印象づけると同時に、MVP今田に晴れ舞台をつくる。アドリブ展開だろうがすばらしい。
・最後の最後に「ひょうきん族」のオープニング曲「ウイリアムテル序曲」がかかり、しっちゃかめっちゃかになって、笑顔のさんまのアップできれいに終了。

以上。

冒頭に言った通り「ひょうきん族」ドンズバ世代なんですが、ひょうきん芸を21世紀に見てもしゃあないことは分かってるんですよね。
確かになつかしキャラクターなんかは見ても仕方ないんですが、やっぱり、こういう場面でのたけし、さんまの立ち回りは本当にすさまじい。
これで最後だと思って見たけど、さんまがまた司会をやらない保証は全くないな!(笑)

あとは、ダウンタウン、たけし、さんま、全てと番組をやってきた今田耕司のすさまじさ。
(ただし今田を番組の大将にするより、常に大御所が上にいる若頭の立場でこそ、最大の効果を発揮すると思います)
さんま率いるひょうきんチームとネプリーグをやった後、めちゃイケに合流したネプチューンが「お笑い第四世代落ち着くわー」としみじみ言ってたのが象徴的だけど、雨上がりにしろ、ナイナイにしろ、基本的には同世代じゃないとダメなんだよね。
同世代で上下関係の幅がほとんど無く、ネタのバックボーンが同じで、空気の読み方が同じでないとできない。
それを破壊したのが初期のダウンタウンだったし、破壊せず全てに適応するのを選んだのが今田耕司といえるかも知れない。

それにしても、基本的に台本通りのはちゃめちゃ劇とはいえ、見てるほうですら一瞬ひやりとする場面をノーカットで放送し、それが全く事故でも何でもなく、ただ単に面白いだけだった、というのは一種の奇跡だった。

恐らく、全て台本に沿って進めた「予定通りの暴走劇」をそのままやるのが一番安全だったろう。苦情は色々くるのは想像できるから、どうせそれを覚悟でやる企画。ただ安全面だけは問題ないように制作側は配慮をしていたはずだ。
しかし本番当日、出演予定の無い今田はこの場にいてしまったし、それによりハプニングが起き、生放送だから、それが全て放送されてしまった(そして何事もなく無事だった)。
何より、今田のおかげで前後を含めた一連の流れは笑いを増したし、救われた。
乱暴な言い方だが、予定より面白くなって、ケガもないなら、結果オーライだ。
私はそういう意味でこれを許容する。今田本人もあの瞬間の直後に許容したはずだから。
最悪の場面を考えると(その後の世論とテレビ界を考えて)ぞっとするが、今はこのわずかな奇跡を喜び、そして大いに笑いたい。

※追記
あの場面の本当の面白さは、生放送ゆえの「この後、誰がどうするの?」を、現在進行形で見守る楽しさだったと思います。だから冒頭で言ったようにリアルタイムでないと本当のドキドキが味わえない。
多分、リアルタイム視聴した人は、最近のショートネタ見せ番組に象徴されるような「いいから、てっとりばやく面白いの見せてくれ」ではなく、ドキュメンタリーというか、集団演劇が進むのを応援するように見てたと思うんですよね。あらすじは大体想像がつくけど、ディティールは分からないアドリブ主体の演劇。
「これ、この後、誰がどうすんの?誰か前へ出て!うまいことつなげて……わー!(今田轢かれる)」
実際、今田が轢かれたあとで、私がまず考えたのは今田の安否でしたが、それは純粋に体の心配だけでは無かったことを正直に告白します。
「ここまでいい場面ができあがったのに、体にさしさわるケガでもしてたら、傷がつく!何事も無かったように立って!そして笑って!」
と、自分が見守った場面が崩壊することこそを何よりも心配しました。
そして、こういう(ある意味狂った)視聴者、スタッフ、演者の気持ちを全て分かっているような、その後の今田耕司のプロフェッショナルな対応に何より感動し、こんな記事を書いているんだよね。

※この場面見たくなりました?なったら私の勝ち。もし他にもネットで名場面の動画見つけたらコメントででも教えてくださるとありがたいです。

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2008年07月28日(月)16:43  |  テレビ  |  TB(1)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

「ロボットチャンバラ」としてのガンダム<ビームサーベル戦闘論>

アイキャッチ
「リアルロボット」ものという言葉を作った機動戦士ガンダムは、さまざまな意味で後世に影響を与えた。
だけど子供の頃、なぜガンダムが好きになったのかといえば、その理由は「善悪も無いリアルな戦争」でも「ニュータイプ論」でもなく、すばらしく出来のいい「ロボットチャンバラ」アニメだったからに他ならない。

保育園の頃、なわとびをグフのヒートロッドに見立てて遊んでいたのを未だに覚えている。恐らく相手側は、木の棒か何かをビームサーベルに見立てて、ヒートロッドと戦っていたんだろうと思う。多分、みんなも似たようなことをしただろう。
この頃の自分達にとって、ガンダムは面白いロボットチャンバラが見れるアニメであり、ニュータイプはごっこ遊びのスパイスのようなもんだった。

ファーストガンダムは、それまでのロボットアニメとは違うものとして「別格」扱いされることが多いけど、忘れてはいけないのは、ガンダムがロボットアニメ(男の子アニメ)のお約束を全くはずしていないこと。
はずすのではなく、むしろお約束の全てを高いレベルでこなしたからこそ、子供達に人気があったアニメであったことを忘れてはいけない。

そういうわけで、ガンダムを「ロボットチャンバラ」アニメとして、振り返ってみよう。



■ロボットチャンバラとは

「ロボットチャンバラ」、同じような言葉に「ロボットプロレス」があるが、これらの表現はどちらかといえばネガティブなイメージで使われることが多い。
おもちゃ会社のコマーシャルフィルムであるロボットアニメがいかに子供だましであるかを表現するための言葉として使われるのが一般的だ。
(実際、富野監督も自虐的に「ロボットプロレス」という発言を何度もしている)

だがここでは、世代的に富野アニメで産湯をつかった人間として、子供達を魅力したロボットアクション=ロボットチャンバラ、としてポジティブなイメージで使いたい。
「ロボットプロレス」でなく「ロボットチャンバラ」の方を使うのは、ビームサーベルのためだが、詳しくはこの後を読んでもらえれば分かるだろう。

■ファーストガンダムの戦闘名場面大行進

ファーストガンダムのアクションは大変魅力的なのだが、まずは自分にとって思い出深い戦闘アクションを箇条書きで並べてみました。(チャンバラでないシーンも含まれます)

・1話。爆発させないためにザクのコクピットだけをサーベルで突き刺す(有名なシーン)
・空中のドップ部隊を叩くために最大限のジャンプ→着地(冷却)→ジャンプ。
・グフ戦。ヒートロッドに苦戦。最後の斬り合いで下から入って、腕ごと叩き切る。
・トリプルドム戦。ジェットストリームアタック破り。踏んづけてサーベルを突き刺す。
・ジャブロー。逃げるアッガイを追って全機切り捨てる。白い悪魔伝説のはじまり。
・シャアズゴック戦。ズゴックのビーム砲をシールドで受けるがビームが貫通。やられたと見せかけて、シールド裏から射撃。
・ドレン艦隊戦。当初姿を見せないが、オーラスで直上から登場。正確にムサイのブリッジ、2つのエンジン、主砲をつぶす。白い悪魔伝説その2
・ドレン艦隊のリックドムと格闘。ヒート剣の動きを読むアムロ。「上か下か……下か!」しかしかわされ、ヒート剣をシールドで受ける。が、シールド切られる。あやうしと思いきや、実はシールドの下でもう1本サーベルを抜いていた。
・コンスコン戦。12機のドムを撃破(うちガンダムが9機)。白い悪魔伝説その3。
・テキサスでのギャン戦。フェンシング的な動きをするギャン相手に二刀流サーベルで圧倒。
・ジオング戦。オールレンジ攻撃を封じるために懐へ飛び込む。コクピット位置を胸と読んで射撃(でもはずれ。頭が逃げる)。
・頭と片腕を失ったガンダムでラストシューティング。

「記憶に残っているもの」を出すために、あえて調べたり、映像を見直したりはしないで挙げてみた。(なので、多少の記憶違いや、良い場面のもれがあるかも知れません。)
それでもこれだけの数がぱっと出てくるのは劇中にいかに印象的なアクションシーンが多かったか、ということですね。
特にすばらしいのが、リックドムなど名も無いパイロット相手にも名シーンが続出しているところ。
富野アニメというと戦闘しながらディベート、というイメージを持たれることが多いけど、少なくともファーストガンダムはおもちゃ会社のコマーシャルフィルムとしての仕事を完璧に果たしていますね。(少なくとも私にとってはそう)

私はドレン艦隊戦の第32話「強行突破作戦」が好きで好きで、ガンダムのエピソードベスト5を決めるときはこれは必ず入れると思うのですが、この回を「アムロがプロフェッショナルになったエピソード」として紹介することが多いです。「連邦の白い悪魔」回です。

※この回のダイジェスト動画がありました。

白い悪魔の登場は、4分12秒ごろからです。
冒頭のザクレロ戦(前座)、直上からムサイへの全く無駄の無い射撃。リックドムとの格闘、格闘の合間にドレン艦ブリッジへの攻撃、と見所多数。
しかもこれらを、ドレンと木馬を挟み撃ちにするつもりだったシャアのザンジバルが到着する前に全て終わらせるという鮮やかさ。
もし興味をもたれたらぜひ見直してみることをおすすめします。

と、言っておきながら何ですが、実はこの回、全体で見ると色々残念なことになっているのです。もったいない回です。
完全にジオン側(ドレン)視点の物語にして、ドレンが化け物(白い悪魔)に襲われて戦慄する、というお話にリメイクすると相当面白くなると思っています(めぐりあい宇宙でリメイクしてましたが、TVシリーズの第32話としてリメイクしたのが見たい) 。
ダイジェスト動画見ていただくと分かりますが、ムサイ撃沈後にガンダムが登場(4:37)、アムロが2カット登場します。最初のカットは目線が見えず素晴らしいのですが、その次に横顔が映っているのがもったいない!「ドレンを殺すまでは表情を見せない」にするだけでも白い悪魔度が格段に上がったように思います。
ガンダムは出撃シーンも見せず、アムロも最低限しか登場せず顔も見せない。ひたすら「白いやつがいません!」「必ずいるはずだ探せ!」とパニックになるジオン軍のお話。一種のホラー映画だね。

■なぜファーストガンダムには格闘戦が多いか

ちょっと脱線してしまいましたので、話を戻しましょう。
ファーストガンダムはチャンバラ(格闘戦)が多いイメージがありますね。
1話はビームライフル無しでまずビームサーベルですし、その後もグフ、ドム、ビグザム、ギャンと全てビームサーベル決着です。
ララァを死なせてしまった一撃もビームサーベルでした。ラストのジオング戦はシューティングでしたけども。

ファーストの格闘戦の多さは、作品内の理由を適当にいえば、こんな感じでしょうか。

・ジオン軍側から見れば、ガンダムに対し射撃戦があまり役に立たない。格闘戦の方がまだまし。(ビーム兵器レベルじゃないと歯が立たない)
・ガンダム側から見れば、射撃でも充分優勢ですが、機動性、運動性の高さ、ビームサーベルという武器の優位性からして格闘は有効な手段だった。(ヒート剣とビームサーベルが鍔迫り合いするようなシーンが出てきてしまってましたが)

まあこの辺りは、こじつけというか後付け理由にすぎなくて、制作側として純粋にチャンバラやる意識が強かったんでしょうね。やっぱり。
それは作った人々の世代というのもあったかも知れませんが、なんといってもビームサーベルがスターウォーズ(ライトセイバー)に強い影響を受けたからでしょう。
スターウォーズの公開は1977年(日本公開は1978年)。ガンダムはご存知1979年放送。
どこかのインタビューで、富野監督がライトセイバーを先に出されたのは悔しいというような発言をしていたように思います。

そもそも、スターウォーズ自体が黒澤明のサムライ映画(「隠し砦の三悪人」)を下敷きにしているので、
黒澤明(日本刀)→スターウォーズ(ライトセイバー)→ガンダム(ビームサーベル)
というのが、スペースチャンバラの系譜になっているわけですね。

■ビームサーベル戦闘の問題点

ところがライトセイバー(ビームサーベル)戦闘は、素材としてみた場合、結構むずかしいポイントがあるんですよね。
それは「ヒットしたら切れなければいけない」という点。
なんせすさまじい切れ味ですからね、この剣は。

これの何が問題かというと、戦闘中ヒットすれば、必ず致命傷となってしまうからです。

ビームサーベル戦闘の祖、スターウォーズのライトセーバー戦を思い出してみましょう。
ジェダイの騎士同士でしか発生しませんが、人間同士の戦いです。
ライトセイバーがまともに当たればジェダイ騎士といえども、肉体はたやすく切れてしまいます。
エピソード1で、強敵だったダース・モールが、オビ・ワンのクリティカルヒットで、末期の言葉を発する間もなく、あっけなく真っ二つになりましたよね。
ライトセイバー戦をまともにやると決着がああなるしか無いんです。
そうでなくとも四肢を失うことになるでしょう。ルークは父ダース・ベイダーに手首を切り落とされました。
ベイダーの告白も合わせて名シーンですが、敗北したルークはその代償に手首を失うのです。

チャンバラ映画のように「切れた」ということにして倒れる、というのは武器の性質上やりづらいのですね。
そのため、そうしたい時は、エピソード4でオビ・ワンが倒された時のように「突き刺す」という使い方(殺し方)をせざるを得ない。
また激しい攻防を描く中で、四肢が切れてしまうというのも、どうにも後味が悪いものです。
(「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」までいくと面白くなりますが)
結局「何合も打ち合うけどなかなか有効打は入らない」「勝負を決める一撃をどちらが先に決めるか」という描写にどうしてもなってしまう。

実際、スターウォーズでも、ジェダイ騎士は限られた存在のため剣同士の戦いは少なく、戦闘の多くは対ザコ戦、対メカ戦になりましたが、そうなるしかないと思います。
メカ相手にバッタバッタと薙ぎ倒すしか、後味の良い爽快感を得る方法が無いからです。

こういったことを考えると「ライトセイバー戦が本当に有効なのはロボット物である」ということが見えてきませんか?

■ロボット+ライトセイバーの理想的な関係

【ロボット物でライトセイバーを使う利点】
・どれだけ切っても大丈夫。だってロボットだから。マシンだから。
・やっぱりマシンだ。100人切っても大丈夫。
・四肢を切られても平気。だってロボットの手足だから。
・復活も容易で、矛盾も無い。だってロボットだから。
・致命傷を受けても、それは機体が切られただけ。パイロットの生死とは必ずしも直結しない。
・切られた後、パイロットは脱出するなり、最後の言葉をしゃべったりも自由自在。
・人間形態でないもの、サイズの違うものとの戦闘もできる。(対艦船、対ビグザム戦など)
・敗者は最後に花火(機体の爆発)となって華々しく散り、結果が分かりやすく絵面も悪くない。


どうでしょうか。
精神衛生、倫理面のマイナスもクリアーできますし、ロボット物でこそライトセイバーはその名の通り光輝くのではないでしょうか。

特に「傷つくことを許された肉体」というのは大きい。
刀傷ではありませんが、ラストシューティング時のガンダムが印象深い理由の1つが「片腕、頭を失っていること」なのは言うまでもないでしょう。
頭を失っても戦えるロボットは、激闘の結果として「不具」の姿になることを許された存在なのです。

とはいえ、アニメーション制作の面から見て、傷つくロボットの描写というのは面倒な存在でしょう。バンクフィルムが使えなかったりするでしょうし。
ロボットが傷ついていい存在だからといって、やりたい放題できるわけではないということです。
そう考えると主役機が「ほぼ無敵」の設定になっているガンダムは実にすばらしいですね。
実際、TVシリーズにおいて、ガンダム(RX-78)の機体は数えるほどしか傷を受けていません。
でもそれは「ガンダムが無敵」だからしょうがないのです。決して腕が飛んだり、足が切れたりすると、余計な手間が増えるからじゃないんだからね!勘違いしないでよね!
(ガンダムの偉大さは、ロボットプロレスのお約束全てに大人の言い訳をちゃんとしてくれた、ということだと思います)

最後の最後で、ガンダムが片腕、頭を失うのは、それまで見てきた視聴者へのサプライズでありサービスといえるんじゃないでしょうか。

ライトセイバーという武器は、ビームサーベルへと名を変え、ロボット(傷つくことを許された肉体)というパートナーを得ることで、初めてその真価を発揮したように思えます。



さて、このようにロボット物でライトセイバー戦が有効であることと、それを生かしてガンダムにすばらしい戦闘アクションが多いことを説明してきたわけですが、これはあくまでファーストガンダムだけのこと。

ファースト以降のガンダムでは魅力的なチャンバラ、戦闘アクションはめっきり無くなってしまいます。全滅といってもいいでしょう。
せっかく「ロボット+ライトセイバー」という最高の舞台を手に入れたガンダムがなぜ?どうして?

長くなりすぎましたので、それはまた別の機会に。

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タグ : ガンダム スターウォーズ 富野由悠季

2008年07月22日(火)21:58  |  アニメ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

【ガンダム三大悪女】 カテジナ・ルース裁判

ガンダム三大悪女

以前、友人との雑談に「ガンダム三大悪女」の話題が出た。
ガンダム(宇宙世紀)で「悪女」のレッテルを貼られた3人のキャラクターのことだ。
(「宇宙世紀三大悪女」と言った方が正確かな)

ところが友人と話してみると、2名は同じだったが、3人目が一致しない。

(さて、ここで皆さん「ガンダム三大悪女」が誰だか、思い浮かべてみましょう。―――浮かびましたか?では続きをどうぞ)

一致した2名は、恐らく皆さんの想像通り。

・カテジナ・ルース(Vガンダム)
・ニナ・パープルトン(ガンダム0083)


問題は3人目。

私は、ベルトーチカ・イルマ(Zガンダム)
友人は、クェス・パラヤ(逆襲のシャア)

2人とも、それなりに納得できる部分(罪状)があるので、お互い「なるほどな」と思ったのですが、では世の中的にはどっちが正しいのでしょう?
検索して調べてみると、こんなことが書いてありました。

ガンダムWiki - 宇宙世紀三大悪女
http://hiki.cre.jp/GUNDAM/?BigThreeWickedWomenOfUniversalCentury

あと一人は天然クェス・パラヤ説と計算高いベルトーチカ・イルマ説がある。


あー、なるほど。3人目にはベルトーチカとクェス、両方の説があるわけね。
私と友人は、ベルトーチカ説、クェス説をそれぞれ覚えていたというわけか。
つまりは、上2人は固定だけど、3人目には不動のメンバーがいないわけですね。
無理に三大にせず、2トップにするなり、四天王にするなりすればいいと思うけど「三大美人」「三大悪女」のように女性を3人1セットにする言葉があるから仕方ないのかな。

3人目に不動がいない以上、「三大悪女の三番目はあなたの心の中にいます」として空席とし、各自がガンダムで嫌いな女性キャラを当てはめればいいと思います。
普通にシーマ姐さん(ガンダム0083)とか、サラ・ザビアロフ(Zガンダム)とか、シャクティ(Vガンダム)なんかが票を集めるかも知れない。人によっては、バーニィを殺したクリス(ポケットの中の戦争)を挙げる人もいるかも知れませんね(「悪女」という定義に合うかどうかの問題はあるけど)。
上で紹介したページのリンクにある「宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン」も大変面白い。確かにシャアとアムロの人生を狂わせた影響力は最大級と言ってもいい。

宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン
http://drupal.cre.jp/node/1900

私個人は、ベルトーチカはどこかで読んだ3人目というだけなので特に推す理由もない。
というかですね、3人目どころか、不動の2トップであるカテジナ、ニナも別に悪女と思わないんですよね。
ネットを見ると、この2人はビッチ扱いされて蛇蝎のごとく嫌われているのですが、私にはなぜそこまで言われるのがよくわからない。
ちょっとその辺りを突っ込んで話してみましょう。



■ニナ・パープルトン(ガンダム0083)

↓人物詳細はこちらで(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3

ニナについては、昔、ファーストガンダムと比較する形で書いたことがあります。

ガンダム0083とガンダム0079の比較
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-26.html

不動の悪女になってるけど、人殺しも何もしてないのに、ここまで嫌われるのはすごいね。

彼女については以前書いたように、シリーズ構成や脚本が悪いのであって、ニナ自身はその犠牲になっていると言っていい。
「あの場面」を生かすのであれば、少なくとも以下の要素が必要だったのではないか。

・ガトーのガンダム強奪の時点で、ニナがガトーに気付く
・フォン・ブラウン市でニナがガトーに出会ってラストへの伏線をふっておく
・阻止限界点後、ガトーはかばうが、コウには銃は向けない

(コウに殺しをさせたくないのに彼に銃を向けてはいけない。人殺しの道具そのものを否定して止めるべき)

しかし、これらは明らかにシリーズ構成や脚本が悪く、ニナがそのワリを食った格好だ。
ガンダム0083は、ビデオ作品として第一期、第二期に分けてリリースされたはず。
売れ行き次第では第一期で販売が終わることもあったのではないか(もちろん好評につき全て制作された)。
その変則的なリリース体制が、ニナとガトーの関係描写に影響を与えた可能性があるのでは、とも思うのだがあいにく資料がない。

要するに私としては、ニナの「罪状」を全てキャラクターに背負わせるのはあまりにかわいそうだな、と思うのである。
もちろん画面内で物語が展開された以上、画面に出ているキャラクターに責任が生じてしまうのも理解はできる。
だがそれにしたって、ニナがコウを裏切ったとか、裏切っておいてエンディングではちゃっかり微笑みながらコウのところへ戻ってきたなどは、あまりにキャラクターの表面的な行動だけで好悪を決めすぎていてもったいないとしか思わない。

世の中には、主人公(0083の場合、本当はガトーだけど)にダメージを与えるキャラクターに過敏に反応する人が多いのだろうか。でもダメージを受けたのは主人公で、視聴者(あなた)じゃないんだから、そこまで嫌わなくてもと思うのです。
こうやって調べながら書いてる最中で、レコア・ロンド(Zガンダム)も評判悪いと聞いて今びっくりしたけど、みんな、女の裏切りというだけで許さないのかな。すごいな。お話が面白くなるかとか、豊かになるかどうかじゃないんだな。



■カテジナ・ルース(Vガンダム)

↓人物詳細はこちらで(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9

ニナが人殺しなしで悪女界入りした女なら、カテジナは人を殺しすぎて悪女界入り。
(あー、でも結局、彼女も主人公サイドから敵サイドへの裏切りキャラとして認識されているのか)

私はカテジナに非常に思い入れがあって、いつかきっちり彼女について書こうと長年思っているのだけど、とりあえずその雛形のつもりで書く。

まずカテジナの「罪状」を整理してみようか。

(1)主人公ウッソの「憧れのお姉さん」から、敵(ライバル)の「女」へ(裏切り)
(2)敵パイロットとして、主人公に立ちふさがる
(3)シュラク隊皆殺し(最終回まで続く)
(4)ウッソの母を捕獲(母の死の遠因)
(5)生身の水着美女部隊(ネネカ隊)をウッソにぶつける
(6)ウッソとクロノクルを戦わせて、残った方を愛すと宣言
(7)最後の最後にオデロに手をかける
(8)ラスボスとしてウッソと対決


………こうして並べるとすごいね。
裏切りや味方キャラ殺しなんかはいくつかのキャラクターがやっているけど、ここまで揃えた人は確かにいない。ガンダム界の松永久秀。

では、これらの「罪状」に対して出された「判決」はどうだったのか。

・愛したクロノクルを失う。
・視力を失う。
・記憶を失う(ここはどちらともとれる)
・ウッソ・エヴィンを失う
(つまり全てを失い、精神と肉体に深い傷を負う)
・生まれ故郷の街ウーイッグへ全てを失って戻る


最大のポイントは極刑である「死刑」を免れたことでしょう。
「死刑」判決が出なかったことに不満を持つ人も多いようですが、そう思うのはとても悲しいことだと私は感じます。
これについては後ほど解説しましょう。

それではまず、ここから私は弁護人として、カテジナの罪状を弁護してみます。
その前に、Vガンダムそのものについてある程度語っておかないといけないが、長くなるので乱暴なのを承知で、1点だけに絞ります。
それは「Vガンダムは狂った世界、登場人物も状況も全て狂っている(ついでにいえばその当時の監督も)」ということ。
カテジナを考えるときに、これを前提とする必要があるということは覚えていて欲しい。

【カテジナの弁護】

(1)主人公ウッソの「憧れのお姉さん」から、敵(ライバル)の「女」へ(裏切り)
カテジナは、ウッソにとっては憧れの年上のお姉さんポジションだったんですよね。
ウッソは成り行きでガンダムに乗り、レジスタンス組織リガ・ミリティアのパイロットになってしまうが、子供をモビルスーツに載せて戦うようなリガ・ミリティアのやり方に反発していたのがカテジナさんです。
リガ・ミリティアのカミオン隊は老人ばかり。その老人が子供に人殺しをさせようとしている。これに嫌悪を表明したカテジナ。どちらが狂っていてどちらがまともなのか。
とにかく、もともとリガ・ミリティア(味方サイド)の理念に共感しているわけでも何でもなかったということは覚えておかなければいけない。

「でも結局、敵であるクロノクルにホイホイついていっちゃった娘さんなわけだよね?」
確かに行動はね。
でもね、彼女を勝手に「憧れのお姉さん」像(アイドル)として見てたのはウッソであって、それはカテジナの実体じゃない。
wikipediaでは「家庭を顧みない父、それにかこつけて愛人を作っていた母に幻滅していた」と紹介されている。カミーユみたいな家庭環境ですね。
多分カテジナは故郷の街(ウーイッグ)を出たかった。こんな家族や生まれ故郷と関係のないところで生きたかった。
そこへ紳士的な好青年クロノクルがやってきた。彼女は新しい世界へ連れて行ってくれるクロノクルについていく。(カミーユがクワトロについていったのと行動は同じ)
カテジナに必要だったのは彼女を孤独から救い外へ連れて行ってくれる存在、はっきりいえば白馬の王子様であって、彼女を幻想のお姫様として崇めたてまつる少年じゃない。
(もっといえば、外へ行くきっかけがあればいいわけで、厳密にはクロノクルでなければいけない必要すらないのだが)

地方の高校生が進学時に地元ではなく東京の大学を選んで、親元を出て、自分の住む世界を変え、自分を変えていこうとするのと根本的には変わらないと思う。
その時に自分を慕ってくれた近所の子供がいるからといって、東京へ行くのをやめる人がいるだろうか。そしてそれは裏切りなのか。

ウッソはこの「憧れのお姉さん(ウッソの幻想)の裏切り」が最後の最後まで理解できない。
そのことがウッソとウッソ以上にカテジナを苦しめることになる。

(2)敵パイロットとして、主人公に立ちふさがる
クロノクルについていったカテジナは、敵パイロットとして登場する。
外の世界に出たカテジナがパイロットとなったのは、もうついていった男(クロノクル)が軍人だからとしか言いようがない。
ここで「クロノクルの女」のポジションに納まり何もしないのは、カテジナの本意ではない。
カテジナは外の世界へ何かを見つけるため、何かに変わるために来たのだ。主婦になるためではない。そのための行動力も能力もある。彼女の状況で男(クロノクル)のために働くと軍人になる。
(カテジナが自分の両親の関係に反発と嫌悪を抱いていることで、男を支える女性になろうと努めたのかも知れない)

(3)シュラク隊皆殺し(最終回まで続く)
(4)ウッソの母を捕獲(母の死の遠因)
(5)生身の水着美女部隊(ネネカ隊)をウッソにぶつける
(7)最後の最後にオデロに手をかける

ここはまとめて「ひどいことした」シリーズ。
この中で私がいらないな、と思うのはオデロ殺しぐらい。あとは、もうどうしようもないかな、と思う。

最初の大前提として「Vガンダムは狂った世界」と書いたが、Vガンダムはとことん成人男性が戦わない世界だ。
ウッソが所属するカミオン隊は、老人ばかり。そこへウッソ達子供が戦闘員として加わり、後に女性だけのシュラク隊が加わる。
まともな成人男性はシュラク隊の隊長オリファーのみ。これは明らかに狂っている。

敵対するザンスカールも、表で戦うエースは、カテジナ、ルペ・シノ、ファラなどが中心で、クロノクル、ピピニーデン、タシロは女を戦場に出し、自分は後方に構える。
(さらにいえば、ザンスカールの実権を握るのはカガチだが、シンボルとして表に出すのは女王マリアである)
Vガンダムは、戦場で女と子供達が殺し合いをする「狂った」お話なのだ。
この戦場では、お互い殺す相手は当然、女性(シュラク隊、ネネカ隊)や子供(オデロ)になるだろう。もうVガンダムの世界ではどうしようもない。
(それでも個人的には最後にオデロを殺すのだけは余計だったんじゃないかと今でも思う)

(6)ウッソとクロノクルを戦わせて、残った方を愛すと宣言
(8)ラスボスとしてウッソと対決

これも狂ったVガンダムの世界が生んだこと。
クロノクルがラスボス(シャア)のポジションに座ればいいのだが、彼は「女王の弟」というポジションだけで精一杯の人間だった。
クロノクルは人が良すぎたし真面目すぎた。彼が女王の弟でなければ、軍人でなければ、カテジナと愛の巣をつくって幸せに暮らしたかも知れない。
だが彼は不向きな軍人も女王の弟もやらなければならない運命だった。真面目だからそれを愚直にこなそうとした(地球クリーン作戦のような狂った作戦すら)。

カテジナは最終回で「……クロノクル、来いっ!」と、クロノクルを呼び寄せ、ウッソと戦わせますが、あれはクロノクルにウッソを討って欲しかったんだろうな。カテジナ自身がウッソを倒すのでは意味がない。愛した男がそうしてくれなければ、何も断ち切れない。
そう考えるとクロノクルvsウッソは、カテジナ"が"愛した2人の男の戦いであり、「勝った方を愛す」という、彼女の宣言はあまりに悲しすぎる。必ずどちらかを失う悲愴の決意であって「男を手玉にとる」ようにはとても見えない。
しかし敗北するのはカテジナが勝ってほしかった(愛したかった)クロノクル。その彼が死の間際に「姉さん、マリア姉さん、助けてよ…マリア姉さん…」と叫んだのもあまりにも悲しいが、彼をこんな目に合わせたのは女王マリアだし、救いを求めたのも姉マリアだった。カテジナではない。

こんな男しかいないVガンダムの世界では女性が頭をはるしかないのだ。
カテジナがラスボスになるのは、こうした状況からも、これまで彼女が殺した人間の数からもどうしようもなかったのではないか。
男達が敵としての役割(人殺し、うらまれ役)を果たさないから、女が引き受けるはめになっているだけで。

以上で弁護を終わる。
一番大きいのは、カテジナが孤独で、自己実現欲の強い積極的な女性だったということじゃないかな。
ウーイッグの麗しき令嬢ということで、経済的にも容姿も能力も不足はなかったはず。でも両親を含めた周りの大人達には絶望していた。脱出したかった。飢えていた。

終盤にウッソとこんなセリフのやりとりがある。

カテジナ「腐らせる物は腐らせ焼く物は焼く、地球クリーン作戦の意味も分からずに!女王マリアは子供達の為に汚い大人達を潰して地球の肥やしにしたいのよ!」
ウッソ「ウーイッグのカテジナさんの言う台詞じゃないですよ!あなたは家の二階で物思いに耽ったり、盗み撮りする僕を馬鹿にしていてくれれば良かったんですよ!」
カテジナ「……男の子のロマンスに、なんで私が付き合わなければならないの!」


ウッソが言うカテジナは、カテジナにとって本当のカテジナではない。だから「男の子のロマンス(幻想)」には付き合うつもりはないと言っている。
だがウッソにはそれが分からない。「カテジナさん、おかしいですよ!」と迫り、彼女を追い詰める。
「ウーイッグのお嬢さん」「二階で物思いにふける」「ウッソのお姉さん役」というのは、カテジナにとって捨ててきたものだというのに。

ただカテジナは「ウーイッグのお嬢さん」から「ザンスカール帝国の軍人」へクラスチェンジすることで、多くのキャラクターを殺した。それは事実だ。
普通、ガンダムでは何人かのキャラクターに分散させる「キャラ殺し」をただ1人で背負った格好だ(なぜここまでさせたのだろうとは思う)。
例えば全滅ラストのZガンダムですら、カミーユと因縁の深いジェリド、野蛮なヤザン、ラスボスのシロッコなどに「キャラ殺し」を分散させているのに。

物語で犯した罪にはそれ相応の対価を支払わなければならない。
つくりものの世界だからといって何をしてもよいということは決して無い。因果は応報する。
では、ここまでの罪を犯したカテジナがなぜ「死刑」ではないのか。

私は裁判長(富野監督)が下した判決は極めて妥当だと考えています。それはなぜか。

【カテジナ裁判判決の妥当性】

私は本放送中、終盤でカテジナが「死ねなくなった」と感じたのを覚えています。
あまりに罪が多すぎて、「死」ですらそれをあがないきれないほどの業(ごう)を背負ってしまったからです。

「死」は現実では最大の罰ですが、物語のキャラクターにとって最大の罰とは限りません。物語の中の「死」といえば、そのキャラクター最大の見せ場になることも多いからです。
こうして憎まれるキャラクターが死ぬことで、視聴者はカタルシスを得て満足し、ようやく許される場合もあります。

しかしカテジナは死んで罪をつぐなう限度すら越えてしまった(と、私は見ていて感じました)。 だから「死ねなくなった」。

このためVガンダムの終盤での私の関心事は「カテジナを殺してしまうのかどうか」でした。
カテジナを死なせてしまったら、富野監督を見損なうな、と思っていました。

そこへあのエンディング。富野監督はカテジナを殺さなかった。
ごめんなさい。さすがです。疑ってすみません。と感動しながら思いました。

wikipediaにはラストについてこういう記述があります。

死亡せずに生き残った理由は富野由悠季総監督の意図であり、「死よりも重い罰を与えたかった」とコメントしている。


この発言、出典が明らかでないですが、特に間違っているとは思えません。
エンディングでのカテジナの扱いは、まさに死より重い罰といっていいでしょう。
彼女は、肉体と精神に深い傷を負い、全てを失った上で、あれほど出たかったはずのウーイッグに戻り、これから先の人生を生きていくことになります。

ただね、このカテジナのラストは「死よりも重い罰」と同時に「救い」なのだと、私には感じられる。富野監督は、カテジナを絶対殺したくなかったんじゃないかな。

カテジナを殺さないためには「死よりも重い罰」を与えるほかない。

Vガンダムは、まるで「名作物」のような感動のエンディングになっているが、こんなガンダムのラストは史上初めてだった。
この感動のエンディングの主役は、シャクティとカテジナの両ヒロイン。
視聴者に憎まれ、あれほど死を渇望されたカテジナにあんなエンディングを用意するなんて!

あれはもう「死より重い罰」と同時に最高の愛であり、カテジナの救済であると私は信じる。

富野監督はあのラストについて、対外的には「死よりも重い罰を与えたかった」と言っているかも知れないが、それは一般的に憎まれ役になっているカテジナのことを配慮した表現であって、実のところ、最大限の罰を与えることで、最大限に彼女を救いたかった、というのが本当のところなのではないだろうか。
救うにはあの方法しかなかった。殺してはダメ。それでは救えない。だからVガンダムのエンディングはあれしかない。あれ以外のラストがあると思えない。
それはVガンダムの中でたった一人、「死ねない」ところまで追い込んだキャラクターに対してのつぐないかもしれない。

ちなみにシャクティとのラストシーンも色々解釈できるつくりになっているので、どうとでも取れますがここでは深入りはやめておきましょう。また別の機会に。

というわけで、以上が私がカテジナを悪女と思わない理由です。
いや、悪行三昧なのは事実なんだけど、「悪女」のレッテルで片付けたくない理由、といった方がいいかな。
これほど作品の中の重いものを背負わされ、その背負ったものに対する代償を払わされたキャラクターはガンダムではいないんじゃないでしょうか。



「ガンダム三大悪女」(またはその候補者たち)のレッテルが、主人公を裏切った女に与えられている傾向があるのは、ちょっとあまりに男性の身勝手な視点すぎる気がしますね。なぜそこまで憎めるのかちょっと不思議に思います。
(女性の選ぶ「ガンダム三大悪女」を聞いてみたい気がします)

私は、創作物のキャラクターを憎むということが基本的にないのでその気持ちが良く分かりません。
キャラクターを上手く扱ってくれなかった制作者をうらんだりはしますけどね。
(ジャイアントロボとかジャイアントロボとかジャイアントロボとか!)

テーマ : 機動戦士ガンダムシリーズ - ジャンル : アニメ・コミック

タグ : アニメ ガンダム 0083 Vガンダム カテジナ 富野由悠季

2008年07月14日(月)10:46  |  アニメ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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