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せめて大晦日まで(に読もう)、と私は言った:正しきジュブナイル、新城カズマ『15×24』

2009年11月15日

新城カズマ『15×24』
この小説のタイトル『15×24』は、「15人×24時間」のこと。

主人公は自殺志願少年を含めた少年少女15人。舞台は12月31日、東京の24時間。


というのを聞いて、それだけの興味で買いました。うん、面白そうだ。

手に入れて2巻まで読みました(3巻が未だ買えていない)。そして実際に面白かった。
面白かったので、紹介も兼ねて、感想や考えたことをメモしておきましょう。(※ネタバレなし)

ちなみに私は、新城カズマさんの小説を読むのはこれが初めて。
そしてライトノベルは普段はほぼ読みません。以前読んだのは、桜坂洋『All You Need Is Kill』(2004)。その前は、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズ(1998〜)をいくつか、という程度。
キャラクター小説としては読まずに、物語の枠組みが面白いという評判を聞いたものだけ読んでいる感じです。



『15×24』はどんなおはなし?


15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1)15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1)
(2009/09)
新城 カズマ

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大晦日を迎える東京で、1人の少年が自殺サイトで知り合った人物「17」とともに死のうとしていた。しかし、「17」と連絡を取り合うのに使う携帯電話が盗まれてしまう。そしてその携帯電話の中にある自殺予告のメールは17歳の少年少女に転送されていき、彼らはそれぞれの理由で少年を捜索し始める。その一方で自殺予告のメールはインターネットを通じて拡大していき、暴力団をも巻き込むようになる……。
Wikipedia - 『15×24』あらすじ


12月31日、少年が間違いで出した自殺予告メールをめぐり、クラスメイトや巻き込まれた人たちが、少年を探して東京中を駆け回る。タイムリミットまでに自殺を止めることができるのか、というようなお話。
携帯、メール、ネットを駆使する、東京中を舞台にした24時間鬼ごっこ、という感じです。
今のところ(私が読んだ2巻まで)は基本プロットどおりの展開なので、想定の範囲内であるが面白い。まだまだ話を広げているところなので、ここからどうなるかは分からないけれど、毎度ながら私はそんなのは全く気にしない。

主人公だけでも15人いて、めまぐるしく視点が変わるのがとても楽しいが、15人全てが高校生ほどの少年少女
ライトノベル的には当たり前かも知れないが、はじめは少し抵抗感があった。

なぜ主人公である15人全員が少年・少女なのか


「主人公(視点となる人物)が15人もいるなら、小さな子供や大人や老人も入れたら視点も幅も広がるし、読者側でも感情移入先の幅が広がってバランス良くなるのに」と思いました。第一印象として。はじめはね。

『サマーウォーズ』でも、高校生2人を中心に置きながら、家族をいう形態をとることで意識的に幅広い年齢をカバーしようとしていました。広く遠くへ届くものにするときはその方が良いことが多いはずです。

なぜ、15人もいる主人公が全員、少年・少女なんでしょうか?
「そりゃライトノベルだから、当たり前でしょう」なんて声が聞こえてきそうですが、考え方はともかく結論は同感なので、「うん。そうだね」と私も答えるでしょう。そして、次にこう続けるかな。
なぜなら、この作品はライトノベルが引き受けるべき、正しいジュブナイル(少年・少女向け)だと思うから。

多数のキャラクターをひとつのテーマでつなぐ物語


自殺志願の少年を探して止めようと全員が奔走する中で、15人の少年・少女達は「生と死」について考え直すことになります。
現実の世界でそうであるように、「死生観」については全員がバラバラです。
全員がひとつの目的のために行動するお話なのですが、その行動動機は全く違い、それが各キャラクターの違いになります。
つまり、この物語で、各キャラクターの個性というのは「死生観」によって表現されています
「死生観」が各人バラバラであることでキャラを立てているわけです。

早い話、少年少女15人が
「死ぬっていけないこと?」
「生きるってどういうこと?」
というトークテーマの『真剣10代しゃべり場』をしている物語といってもいいでしょう。

登場人物が多い物語をコントロールする方法のひとつとして、テーマ(抽象的で、絶対にひとつの答えが出ないものがのぞましい)を設定し、登場人物全てに、そのテーマに対する考えを述べさせます。
これによって、多数の登場人物のポジショニングを分かりやすく整理し、キャラクターを立てるわけです。
たとえば、田中芳樹ならトークテーマは「政治」「戦争」「民主主義」あたり、福本伸行なら「金」「勝負」などだったりしますね。
考え方が真逆のキャラクターや、同じ考え方なのに敵味方のポジションに別れるキャラ、テーマに対しておちゃらけて真剣に答えないキャラ、テーマに対する考え方を述べない謎のキャラクターなど、ひとつのテーマに沿っているので、読者にとっても多数のキャラクターを覚えやすくなります。

『15×24』の場合は、トークテーマが「死生観」。
このテーマに対して、どう考えるか、どう行動するか、それが各キャラクターの個性です。

「でも主人公だけでも15人もいるんでしょ?こんがらがりそう。覚えきれるのかな…」

そういう心配はあまり必要ないと思います。
人間なら誰でも関わる根本的なテーマですし、「死生観」を軸に巧みに整理されていますので、必ず主人公達を覚えることができるでしょう。

非常に上手いというか真っ当なつくりだと思います。
15人もいるキャラクターを個性分けするのに、このような手法を使い、いわゆるオタクデータベース的な、類型的なギミックにはほとんど頼っていない。

普段ライトノベルを読まないような人(私もそう)でも、すんなり受け入れることができる構造と強度があることが読み進めるうちに分かってきたので、ならばなおのこと、全員を少年・少女にしてしまうのはもったいない、と思えてきたのだけど、2巻までを読み終えて分かった。

それでもこの『15×24』では、15人全員が少年・少女である方がいい。そうあるべきだ。

大人はわかっちゃくれない――いやわかったことにしてるんだ


15×24link two―大人はわかっちゃくれない (集英社スーパーダッシュ文庫)15×24link two―大人はわかっちゃくれない (集英社スーパーダッシュ文庫)
(2009/09)
新城 カズマ

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ある程度年齢がいった読者(私もそう)であるなら、『15×24』で書かれる少年・少女たちの多様な「死生観」を見ても、驚くことも、新しく発見することも、考えが変わることもないでしょう。
それは、この年齢になるまでに、みんなそれなりに『しゃべり場』を済ませたし、実際の体験もいろいろしたから。

だから、このトークテーマの『しゃべり場』に「参加者としての大人」を混ぜてはいけない。
話が一瞬にして終わってしまう。
それは子供の考えより、大人の方が正しいから――ではない。
大人はその話を終わらせる(折り合いをつける)ことで生きているから。生きることにしたから。

私自身も何か悟ったわけでもない。かろうじて分かったことはわずかに2つ。
1つ、正しい答えなんかない。誰も答えは知らない。
2つ、それを踏まえた上で、自分なりに答えを用意して、生きていくしかない。
(中島敦『悟浄出世』ですよね。要するに)

大人はこのトークテーマの『しゃべり場』に参加する資格がない。すでに失った。
参加資格があるのは、まだこの折り合いをつける前段階を生きる少年・少女達のみ。
だから、パネラーである15人全員を少年・少女にして、「死」と「生」について考えて、討論しながら、行動し続けるのが正しい。

大人は『しゃべり場』のおとなゲストのようにあくまでアドバイザー、または立ち塞がるもの、としてしか、この物語には関わらない方がいいんじゃないかな。

『15×24』における主人公15人全員が少年・少女というのは、きちんと意味があり、またそれが物語中で機能していると思います。
まだ途中だけど、それは最後まで裏切られることは無いんじゃないかな。2巻読了までにそう信じていい、という信頼感が私の中に生まれています。

ちなみに、ジュブナイルとしてすばらしいと、私はいってますが、「死生観」を含めて、大人には食い足りない、子供向け、というわけではありません。
年寄りの私でも充分に楽しんでいます。「死生観」だけでなく、ミステリ、パズル的なタイムサスペンス、現代のコミュニケーション(とすれ違い)ドラマ、ネット(メール、ブログ、掲示板)要素など、多層的に面白さを積み上げているので、さまざまな楽しみ方ができるはずです。

2009年の12月31日には、こん平師匠のカバンと同じくまだ若干の余裕があります。もし興味をもたれたら、ぜひ読んでみることをおすすめします。
今年の大晦日は、『15×24』を知っているかどうかで、いつもと違う大晦日になるかも知れませんよ。

余談:『15×24』はライトノベルであるべきか


15×24 link three 裏切者! (集英社スーパーダッシュ文庫)15×24 link three 裏切者! (集英社スーパーダッシュ文庫)
(2009/10/23)
新城 カズマ

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『15×24』がライトノベルで出たことについて、主に売上の面からネットでいろいろ意見がありましたね。詳しいことは、まとめてくださっている以下の記事で読んでいただくとして。

『15×24』問題まとめ - ウィンドバード
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20091101/1257034123

サマーウォーズ問題の次は、15×24問題か。日本は今日も問題だらけだ。

その中には「マニアック」「フックが弱い」というご意見もありますね。

主人公は少年少女15人。舞台は12月31日の24時間。携帯やネットを駆使した東京鬼ごっこ。


というのは、フックにもならないのかな。私はこれで読む決意をしたのだけれど。

映画だとこれぐらいの情報で、中身(の面白さ)が伝えられるものを、面白そう!となって見に行くイメージですよね。(ひとことで面白さが伝えられるものに落とし込んでいる)
私がこういう時の説明にいつも使うのは、『スピード』。
「時速80km以下になったら、バスが爆発する!走り続けるバス。乗客の運命は?」
これだけで面白さが説明できる良い映画。この一行で見に行ける。
実際、『15×24』を貸すよ、と言った友達に、上記の一行で説明したけど、なかなか面白そうね、と言ってくれた。

もちろん、映画と小説では形態が違うし、
「『15×24』はキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックがいないんだよ」(そちら側のフックもあるので)
とも言えるかも知れないけれど。

ライトノベルはマンガ雑誌に似ていると思うので、週刊連載マンガのように、耐久性と汎用性のある設定の物語を構築して、あとは人気が続くまでシリーズを続けられるような体制を整える方がいいんでしょう。
初期目標は変わらないけど、道のりは調整できるようにして、人気キャラクターや敵(エピソード)を自由にやりくりできるようにする方が使いやすいはず。
でも、長編人気マンガと同じく、そういう面白さはキャッチーな一言では説明できない(しきれない)と思う。少なくとも私はできない。
外部にまで通じる面白さは、説明が一行で終われるタイプの方が向いていると、個人的には思っています。

ただここまで述べたように、ライトノベルというものに、いわゆるジュブナイル(少年少女向け)という意味と機能がまだきちんとあるのであれば、『15×24』はライトノベルで出すにふさわしい小説だと、私は考えます。

まさしく中学生とか高校生に読んでほしいから、彼らがおこづかいで買えるように、安価な文庫で売ってあげてほしい。
その役割をするのにいちばんふさわしいレーベル(ジャンル?)こそがいわゆるライトノベルじゃないの?
だからライトノベルで出たことは全然間違ってないと思うけどなあ。

もちろん「ライトノベル」というものについては全く無知なので、ジャンルやビジネス的にどうこう言えないけれど、こういう作品を引き受けることにライトノベルの価値があるんじゃないのかな。ちがうの?

それとも面白いのに売れてないらしいと、大人が売り上げを心配して、あれこれ言ってるだけ?
もちろん、いちばん読んで欲しい層(中・高生)が全然買ってくれてない、興味も持っていないということであれば、大変さみしいことだし、そこは問題にしてもいいけれど。
単に売り上げがどうこうを問題にするのはあまり意味が分からないなあ。
それとも売り上げの悪いライトノベルがすぐ絶版になったりするなどの心配なのかな?
それこそ、その際は初期目的は終わったということで、他の出版社などから、違う売り方で出しなおしたりすればいいかな、とも思う。面白いのは確かなんだから、何とでもなるような。何とでもしようよ。
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はてしなく、どうでもいい日々【twitterまとめ】

2009年11月09日

また、FC2さまのお怒りに触れて、広告掲載の辱めを受けることになってしまいました。
とりあえず、記事は準備しつつあるのですが、すぐ更新できないので、恒例の広告消すだけ記事をあげたいと思います。

twitterをはじめていますので、過去の雑多な発言からピックアップして、まとめました。ゆえに古い話題も混ざっていますがご了承ください。
また、そのままですと私のtwitterhttp://twitter.com/highland_view)を見ていただいている人には無価値なので、誤字脱字の修正や補足などをしてあります。



はてしなく、どうでもいい日々


■パチンコ『CRマクロス』


(TVCM放映直後)
TVCM観ましたが、パチンコ『CRマクロス』が出るんですね。
パチンコマクロスは何年か前に友達といろいろ話したことがあったけど、とりあえず板野サーカスリーチとかもいいけど、ブリタイ司令の「キースーをしてみろ」リーチが絶対いるよね、ということになった。

ブリタイ司令の「キースー強要リーチ」を大当たり(カイフンがミンメイとキス)させて、ひともうけしたら、豪勢にシースーを食べにいったらいいと思う。キースーしてシースー。ツェーマン ゲーセンのシースー。

(TVCM放映後しばらくして…)
「合体の次が来る!」はいはい、出産、出産。と思うほど、パチンコ『CRマクロス』のTVCMを見る回数が多すぎて、さすがにつらくなってきた。
これはもう、パチンコマクロスがシリーズ化された時を想像して楽しむ(逃避する)しかないな。

パチンコ『CRマクロスプラス』
台からホログラムで飛び出してきたシャロン・アップルにみなメロメロになり、とろん、とした顔でパチンコを打ち続ける。
シャーロン!シャーロン!そして店内に響き渡るシャロンコール。
カータカム!カータカム!そしてどさくさで響き渡るカタカムコール。

パチンコ『CRマクロス7』
熱気さん「パチンコなんてくだらねえぜ!俺の歌を聴け!」
あ、あれ?玉が出ない。なんで?
※パチンコ『CRマクロス7』では、ザ・熱気バンドことFIRE BOMBERのライブが終わるまで(熱気さんが満足しきるまで)、争いの元になる玉は出ない仕様となっておりますので、ご了承ください。

パチンコ台の分際で、パチンコなんてくだらないと言い切る熱気さんがかっこよすぎる。

■21世紀の信長をさがせ!


空前の武将ブーム(らしいが実感ゼロ)の中、直江兼継や石田三成はいいとして、織田信長をやるような若い俳優がなかなかいないなあ、という話になった。
信長はやはり、イケメン成分だけではなく、魔王成分も必要になりますよね。
そこで「21世紀の信長をさがせ!オーディション」をやるのがいいんじゃないか、と提案した。

オーディションは「うつけ審査」と「正装審査」の二部構成。
「うつけ審査」は、それぞれが、きゅうりを丸かじりしたり、それぞれがオレ流UTSUKEスタイルを披露する。で、そのあとの「正装審査」は一転して、バシッとフォーマルでりりしく。審査委員長、斉藤道三も見惚れるほどの、UTSUKEとのギャップをいかに作り出せるかがポイント。

これまでの大河などでは、割と若めの信長としては、反町隆史や吉川晃司がやったりしたけどね。
あとキムタクもどこかでやったりししてたけど、見てない。ぶっちゃけ見てない。

GTO反町信長
反町信長は「POISON」のイントロ流れる中、バックで「GTO」のネオン点滅させながら、信長やってくれればよかったんじゃないか。
「GTO」の意味については、「グレート・天下人・オダ」とか「グレート・天下布武・オダ」とか色々あるけど、「グレート・てっぽう・オダ」が一番頭が悪くていいかな、と思う。

K2信長
吉川晃司(K2)の信長は、K2がシンバルキックをやったら、織田軍が攻撃開始すればいいと思う。
開始後は、「BE MY BABY(COMPLEX)」のPVのように、K2が前に出たら、右翼が前進。代わりに布袋が下がって、左翼が後退、という感じで戦闘指揮をとればいいと思う。


2人とも魔王成分が高すぎる。3:15あたりで、K2から全軍突撃の指示が出ます。

マンガあれこれ


■『BLEACH』藍染様は天の意志で動く


週刊少年ジャンプ好評連載中のマンガ『BLEACH』は、相変わらず敵ボスである藍染が登場すると、何がしたいんだか良く分からないことになる。これはどういうことなのか。

BLEACH (12) (ジャンプ・コミックス)BLEACH (12) (ジャンプ・コミックス)
(2004/03/04)
久保 帯人

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敵ボスである藍染が何らかの行動を取る際には、サイコロをいくつか振る。
手元にある「藍染様 行動判定表」を見ると、出た目の合計数に対応する行動が書いてあるので、出た目にしたがい、判定表どおりの行動をとることにする。

例えば、サイコロを3個振って、出た目が「2」+「5」+「4」=「11」だとする。判定表の「11」のところを見ると、「突然、部下を殺す」と書いてあるので、藍染はいきなり部下を殺す。サイコロが絶対なので、絶対にそれに従うこと。

サイコロの出目が絶対。つまり行動が先。理由があと。
「突然、部下を殺す」が決定したあとで、部下を殺す理由を考えなければならない。

判定表には、他にもいろいろとんでもないことが書いてあることにする。
「現在の状況を計画通りだと笑う」
「全員に紅茶を強要」
「雛森がいかに自分を慕っていたか語る」
「真の敵の存在をほのめかす」
「いきなり涙を流す」
「私は○○の兄だ、と言い出す」

これらが実行されるかどうかは、サイコロ次第。
当然のように、一護たち主人公サイドは、誰も藍染の行動を予想できず、後手後手に回る羽目になる。作者すら予想できないので当たり前なのだが。
一番頭がいい、鋭いキャラでも「…悪い予感がする」ぐらいの曖昧な予測しかいいようがない。

かくして『BLEACH』には、さらに「なん…だと…?」のセリフが続出することになる。

サイコロの出目なんてまさしく神のみぞ知るわけで。
つまり主人公たちは、「敵ボス藍染」というか、「神」と戦わなければいけないということになる。

と、いった感じに「藍染様 行動判定表」が存在する、ということにして、『BLEACH』を読むと、より楽しめるんじゃないでしょうか、というおはなし。

ちなみに冗談でも皮肉でもなく、そういう考え自体ちょっと面白いかな、というのもある。
物語の全てでなく、理詰めの構成を崩壊させる一要素として作っておき、神のお導き(サイコロ)で使用する。作者も制御できない存在をつくるために。

物語発想法的に、自分の狭い枠から離れた物語をつくるために、あるルールでランダム生成して、つじつまを合わせる。というようなものもあるが、そうではなく、きちんと基本の物語フレームがある連載マンガで、一匹、混沌を飼っておくような使い方をする感じだろうか。
TRPGのリプレイにおける判定みたいなものかな、とは思うけど。
まあ、実際はいろいろむずかしいのですけどね。

■『ブラックラグーン』9巻


『ブラックラグーン』最新巻を読んだ。ロベルタ復讐編終了。
twitterで書いていた『NARUTO』のメモ等をまとめて、「憎しみの連鎖」と「暴力の正当性」あたりの記事に仕立てなおそうと思っているけど、いい参考になった。

ブラック・ラグーン 9 (サンデーGXコミックス)ブラック・ラグーン 9 (サンデーGXコミックス)
(2009/10/19)
広江 礼威

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ロックは最終形態として、サングラスかけて、髪型ちょっと変えて、ロック・ホーム(間久部緑郎)になってもいいな。名前も緑郎なんだし。
最終的に、日本からロアナプラに来た同級生か元同僚の「ケン一」の逆位置に立つ存在として現れる。

『ブラックラグーン』は、ロックとレヴィの関係を掘り下げれば、危ういバランスは崩壊し、ストーリーは不可逆となって、いつでも終われるはずだ。
それまでに楽しい楽しい、死の舞踏会をどこまで続けるか。個人的には、まだまだ舞踏会を続けてほしいけど。12時の鐘にはまだ早い。

今回で、ロック側の準備は整ったように見えるし、やろうと思えば最終章できると思う。
最近話題になってた「ストーリーひきのばし論」からすると、全力疾走するストーリーなら「ロック・レヴィ編」をさっさとやればいい。でも、そういう問題じゃないと思う。

『ブラックラグーン』の舞台である街「ロアナプラ」は、楽しい楽しい死の舞踏会をするために、良い舞踏会場になるためだけにあつらえた街なので、そこで面白いダンスができて、観客が喜んで拍手するうちは踊ればいいんですよ。まさしく、それをするための街なんだから。

結果としての「物語」に重きを置く、物語至上主義者のような人は、すぐ全体の物語の質とか完成度とか言い出すけど、それはあまりに視野が狭すぎるとしか思えない。私はそういう人とは良い友達になれそうにないなあ。

いつかは終わると分かっている舞踏会を、観客の拍手の数を見ながら、もっとも多くの人が幸せになれるところ、そのギリギリを見定めて踊り続ける。そういう物語だってたくさんある。

「終わりどころ(落としどころ)が見えない」のではなく、誰でも分かる「終わりどころ」を提示した上で、観客の顔見ながら、ダンスを踊り続けるマンガは私は大好きだけどね。現在進行形の価値がある。
しかし(結果としての)物語至上主義者のような人はそうではないらしい。評判のいい愛蔵版コミックスだけ買ってればいいのにね、と思ってしまう。

■浦沢直樹『BILLY BAT』は何のマンガなのか


浦沢直樹『BILLY BAT』 が何をするマンガなのか、というのはちょっと興味がある(話の中身自体にはあまり興味がない)。連載時、はじめの数話を見た時は、「20世紀少年」からさらにさかのぼって、「昭和」と「手塚治虫」をやるつもりなのかな、と漠然と思ったが、その後を見る限りどうも違うらしい。

BILLY BAT 1 (モーニングKC)BILLY BAT 1 (モーニングKC)
(2009/06/23)
浦沢 直樹長崎 尚志

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単行本派の人にはネタバレになるけど、物語は、時間と空間を大きく越えていく。キリストの最後の晩餐。アメリカの黒人差別。今連載中のパートは、忍者ものだ。
昭和ではじまったものの、時間と場所がバラバラな短編がいくつか続いている。各エピソードの共通点は「ビリーバット」の存在だけ。

個人的には、浦沢直樹が一番面白いのは、物語の立ち上げと短編だと思うので、その武器を最大に生かす構造を作るべきなんじゃないかと常々思っている。

テンマが老夫婦に親切にされるエピソードなどが結局いちばん面白いが、「MONSTER」の中にそれをたくさん入れると、「わき道ばかりで全然、本筋が進まない」と言う人が出てきてしまう。
いっそのこともっと、わき道そのものを生かす構造の方がいい。

そういう意味で、「ビリーバット」を軸(言い訳)にして、さまざまな短編をつくる、というのは悪くないのではないか。いわば「ビリーバット」を、手塚治虫「火の鳥」に見立てて、「ビリーバット」が出てきたら、『BILLY BAT』だ、というマンガでいいんじゃないか。

浦沢直樹の忍者ものなんて初めて見たし。ありとあらゆるマンガのタイプを書いて欲しいぐらいだ。手塚治虫もありとあらゆるマンガのタイプを書いたのだから。

「そんな好き放題やって、ビリーバットの謎とか、ラストはどうするんだ!」と思われるかも知れないが、それについて、私は以前ブログにも書いたけど、浦沢直樹だけができる解決法がある。

解決法は「新連載」を用意すること。それで全て解決できる。
なぜなら浦沢直樹でいちばん面白いマンガは常に「新連載」だから。
恐らく終わりかけの『BILLY BAT』より何倍も「新連載」は面白い。今までもそうだったから。

ということで、私の中では、今のところ『BILLY BAT』 は『火の鳥』ということにしている。
予想というより希望だ。出来れば好き勝手に、おもしろ短編をいろいろ作ってくれないかなという希望。書いたことないジャンルにもどんどん挑戦してほしいなあ。

と、いう『BILLY BAT』論を、ご飯食べながら友人に話したら、どこにビリーバットが出てきたら面白いか、という話に当然なった。

ラスコーの壁画にバットマーク。伊達政宗の持っている鎧のカブト飾りにバットマーク。ナポレオンのエジプト遠征でバットマーク。ベーブ・ルースが手術する子供と約束したホームランを打つバットにバットマークなどなど。

なんでもよい。浦沢先生に書いて欲しいシチュエーションと、ビリーバットの登場アイデアを書いて、ハガキを送ろう。出来れば、歴史上の名場面の方がいいぞ!

幼稚園の先生が「みんな、自由に好きなものを描きましょうね」と園児にお絵かきさせる。
「はい、ではみんな、絵を見せてー」
園児全員がいっせいに画用紙を先生に見せると、全員の画用紙にビリーバットの絵が…。
もちろん、園児の目は全員、浦沢直樹がいつも描く、虚ろな目の子供のホラー顔。

あとは『火の鳥』だと未来あるけど、現代〜未来ネタどうする?となって、火星の表面にバットマークとか、なぞの宇宙電波の波形をある法則で図形化したらバットマークとかでいいんじゃないか、ということになった。
(あとで、単行本を買った友人に聞いたら、火星ならぬ月面でバットマークネタはすでにあったらしい。わー。その回読み損ねてる。でも、やっぱいるよねその場面と、改めて納得した)

まあ『BILLY BAT』がこの先どうなるか全然わかんないけど、浦沢直樹歴史名場面集(ただしビリーバット付き)マンガになればいいなあ。

書物をめぐる冒険


水滸伝


AKB48を見ていたら、SKD108(エスケーディー ワンオーエイト)でもいける気がしてきた。
SKD108=水滸伝108星なので、メンバーはもちろん全員アウトローにして大酒飲みの好漢108人。「どきどきすいこでん」みたいに女性化とかじゃなくて。
いける。何がいけるかよくわからないがいける。

こんな水滸伝が好きな私が、北方水滸伝を読まない理由は大きく2つ。
登場人物が近代的な内面を強く持ちすぎているから。
もうひとつはキューバ革命に見立てるのが趣味に合わないから。
要するに単なる好みの問題なのだが、力作・大作であるのは確かなので興味はある。こんなときどうすればいいのか。

結論として「北方水滸伝読本」というガイドブックを買いました。年表や地図やキャラクター紹介(謙ちゃんの解説つき)など盛りだくさん。
オカズはこれで十分。水滸伝自体は知っているわけだから、あとは脳内で何とでもできる。
偽史・異世界もので育ったオタクは、年表と地図とキャラクター一覧があれば良くも悪くも消費できてしまう。

替天行道-北方水滸伝読本 (集英社文庫)替天行道-北方水滸伝読本 (集英社文庫)
(2008/04/18)
北方 謙三

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■IQ84


友人から村上春樹1Q84』を借りて読み、先日返した。
その際に友人とさまざまな話をしたが、最も意見が分かれたのは、「『1Q84』は村上春樹以外が書いても成立するか?」だった。

1Q84 BOOK 11Q84 BOOK 1
(2009/05/29)
村上 春樹

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1Q84』はbook1の150ページあたりで、物語の枠組みと材料が出揃う。
私はたった150ページで提示された物語の構造をすばらしいと感動した。
1Q84』序盤150ページの基本フレームがあれば、この物語は、ここからどんな方向へも行ける、どんな話も乗せられる、と思った。あれは、それぐらい使い甲斐のある物語構造だ。

この先、最後まで読み進めていくと、ストーリー的には「うーん」と首をかしげることになるかも知れない。しかし、そんなことで序盤の150ページで提示した物語構造に傷がつくことはない。私はこれだけで十分『1Q84』を評価する。

もちろん、ストーリー自体やキャラクターより基本設定や構造をすばらしいと思ってしまうところに私の歪みがあるのだが。
すばらしい物語フレームや基本設定に一番価値があると思っているんだよね。私は。
そこがすばらしければ、その物語フレームを多くの人が使えばいいし(古代から人間はそうしてきた)、リフォームの匠が良いリビルドをすればいいと思っているから。

ところが、そんな私でも、村上春樹の物語に関しては、村上春樹だけにしか書くことを許されない世界だと思っていたのだ。
ハルキ小説のためだけに作られた世界には、ハルキキャラしか存在できないし、ハルキストーリーしか展開できないと。

しかし「1Q84年の世界」については、村上以外の他の作家や、他の媒体で書いても成立するのでは、と感じた。村上春樹の本はある程度読んでいるが、それは初めての感覚だった。

もうひとりの村上こと、村上龍なら分かる。例えば『五分後の世界』。
本人も世界観だけを共通にした複数の物語を書いているし、他の作家が『五分後の世界』を舞台に作品を作ることもできるだろう。

1Q84年の世界」の場合も同じように、主役の2人などメインキャストはもちろん触れないが、世界だけをシェアして、「月が2つある」という患者を診察する精神科医の話や、月が2つに見えてしまった天文学者の話などをやれるんじゃないか。友人にそう話した。

しかし友人は「それでも、あれは村上春樹が書いて、あの話じゃないと、1Q84にならないと思う」という。その話も分かる。大塚英志が言う(信じる)、技術で書けるものを取り除いていったときに最後に残る作家の固有性のようなものとして。

ただ何も私は村上春樹をコピーしようと言うわけじゃないんですよね。それはそれこそ二次創作にしかならないので。あくまで「1Q84年の世界」をシェアできないか、という話。これまでの村上春樹作品と違い『1Q84』はシェアできそうに思える。

他の作家が書く『1Q84』自体に興味があるわけではないので、作品の成立や内容の是非はどうでもいいのだが、村上春樹を読んで初めて、シェアできる物語世界かもと感じたのが、もっとも大きな驚きだったので。私だけかなあ。

それにしても。
「1984年」と「1Q84年」、2つの世界の見分け方が「月が2つあるか、どうか」というのが興味深いんですよね。
「空に浮かぶ2つの月」という異世界イメージがそれこそ、ライトノベル(しかも原初の)と最初思ったのだけれど、この世の中で、絶対1つしかないもの、そして、地球上の誰もがその共通の1つを確認できるもの、というのはそんなに無い。地上ではなればなれの主人公2人が絶対に同じものを見ているという保証が空に浮かぶ月にはある。
他のもので表現できないかな、とあれこれ考えてみたけれど、良いものを思いつかなかった。
陳腐なイメージだけど、代替物が確かに無いように思い、それなりに納得した。

富野作品関連


■私の血にはジオンが流れているの


とりあえずバンダイは、「連邦の白」と「ジオンの赤」というワインをつくって、法外な値段で売り出せばいいと思う。

【レストランにて】
男「じゃあワインは連邦の白もらえる?」
ソムリエ「白ですと、79年のいいものがご用意できますが。他には86年、87年、93年なども取り揃えております」
男「93年もいいけど、やはり白は79年だよ。君はどうする?」
女「私、赤がいい」
男「ジオンの赤は何かある?」
ソムリエ「79年もございますが、当店では83年をおすすめいたします」
男「83年!」
女「どうしたの?」
男「83年はジオンの当たり年なんだ。79年をさらに数年寝かせたような深みがあってね。ではそれを」
ソムリエ「かしこまりました」


このあと、男のワインうんちくが延々と続いていく。 これガンダムひと通りできるなあ。
最近は白ワインの粗製乱造がどうたらとか、僕は79年物以外は本物とは認めないとか語りまくって、心底、女の子にうざがられたらいい。

■ドレイク王宮廷のマサチューセッツヤンキー


そういえば、ダンバインの事を考えていた時に、『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(マーク・トウェイン)を引っ張ってくると面白いかも、と思いついたことを、忘れていた。

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『アーサー王〜』は、ショット・ウェポンが、アーサー王の配下になるような話なので比べると面白い。
アーサー王宮廷に、近代のテクノロジーを導入するけれど、最終的に時代に排除されるような形になる。

バイストン・ウェルの各国に1人ずつ地上のスペシャリストを配置するのはどうかな、と考えた。たとえば4人なら「軍事・戦闘」「政治・経済」「科学・技術」「文化・芸術」のスペシャリストをどれか1人という具合。どの地上人が来るかで、国の行く末が大きく変わるというネタはどうかな。
どの地上人が来た国が、幸せに近づけるのだろうか。



今回は以上です。広告表示消すためはいえ、さぼり記事ですみません。いや、エコ記事。エコ記事と言わせていただきたい。

ちなみにヱヴァ破感想の続きはとりあえず凍結します。間が空きすぎた上に、たいして新しい内容もないし、他にもっと書きたいこともできたので、そちらにします。

さて、こんなしょうもないことばかりつぶやいている私のtwitterを見たいという奇特な方は以下でご覧ください。
http://twitter.com/highland_view

あ、過去ログを見るという意味では、Twilogの方が便利ですので、よろしかったらこちらもどうぞ。
http://twilog.org/highland_view

世界の美しさを少年はまだ知らない。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』感想【01】

2009年10月02日

この夏は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破(以下、ヱヴァ破)を3回観ました。

同じ映画を劇場へ複数回観に行ったのは実は生まれて初めて。
「聖闘士に同じ映画は二度通用しない(=貧乏+めんどい)」という車田理論で生きてきたこの私が、まさか同じ映画を3回も見ることになるとはな。

シュラ「すでに1度見た映画になど何の価値がある?なんのために何度も見るのだ!なぜだ!?」
紫龍「…シュラよ。聖闘士ならわかりきったこと…」
シュラ「…?」
紫龍「女神(アスカ)のためだ!」


これは、半分ぐらいは本当の話。



私の中では旧劇場版(『THE END OF EVANGELION(以下、EOE)』でキレイにエヴァは終わっていたため、その後の10年どころか、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(以下、ヱヴァ序)』すら興味が持てず、観にも行きませんでした。(『ヱヴァ序』はいまだに見ていません。)

しかし、チルドレン(レイ、アスカ、シンジ)が三位一体となって放つこの映画の破壊力は、小規模ながら宇宙創造のビッグ・バンにも匹敵する…すなわちアスカエクスクラメーションぐらいの衝撃があって、個人的には驚きました。快楽の量が尋常じゃない。そりゃみんな何度も見るわ。

あと、たまごまごさんこそ真のアスカエクスクラメーションの使い手です。
ヱヴァ破の感想を3文字で書くぜ(たまごまごごはん)



では、感想メモです。

  • 普通にネタバレあります。未見の方はご注意。

  • 3回見たけど、最後に見てから、かなり日がたってしまったので、間違ってたりするところもある。だってにんげんだもの(みつを)。

  • とんでもなく長文になってしまいましたが、メモなので全部読まないと意味が分からない記事にはしていないつもりです。できるだけ見出しをつけましたので、目に付いたところだけ読んでいただいてもいいと思います。



アバン:第3の使徒戦


  • オープニングは、仮設伍号機vs第3使徒。

  • ユーロネルフ伍号機開発会議。
    「うちのエヴァどうする?」「日本やアメリカとは差別化したいな」「せっかくだし何かヨーロッパっぽくする?」「うーん…」「騎馬にしてランスつける?」「(全員で)それだ!」
    とか言ってつくったりしてるといいな。実際、狭いトンネル内で馬上試合のような正面からのすれ違いバトルをしてたしね。

  • 加持「大人の都合に子供を巻き込むのは気が引けるなあ」に対応しての、マリ「自分の目的に大人を巻き込むのは気後れするなあ」。
    加持の言う「大人」が自分も含めた多くの大人たちを意味しているのに対して、マリは「自分」であって「子供たち(チルドレン)」じゃないんだね。

タイトル;ヱヴァンゲリオン新劇場版:破


第7の使徒戦:前略、空の上より


  • いきなりアスカさん登場。TV版の海上から空中へ、海から空へ舞台を変えて。

  • 私は昔から弐号機の活躍シーンが好きすぎる。「アスカが好き」でも「弐号機のデザインが好き」でもなく、「アスカが弐号機に乗って暴れ回っているのが好き」というのを分かってもらえるだろうか。
    無駄のない動きをするレイの零号機、初心者&キレたらヤクザのシンジの初号機と比べると、アスカの弐号機がもっともアニメーション的な活躍をさせやすい。

  • 私は、第八話「アスカ、来日」で、弐号機が八艘飛びしたときに、これこそ何年も待ち続けたガイナアニメだ!と感動したような、SFおもしろアニメとしてのエヴァが大好きな人間なので、アスカ、いやアスカ姐さんにはいつも感謝している。

  • そんな魅力的な役割を持つ弐号機だが、後でパンフを読んだところによると、弐号機のデザインが少し変わったのは、おもちゃがあまり売れなかったので、じゃあツノでもつけようか、ということであるらしい。『不思議の海のナディア』島編での「キング対キング」を思い出した。

  • (メカキングを前にして、物足りなそうなサンソン)
    サンソン「ツノをつけるんだ!」
    ジャン「ツノなんかつけたら、重くなるんだけどなあ…」
    サンソン「でもそっちの方が強そうだろ?よし、これで勝てるぞ!」


  • ここだけでなく、映画全体を通してなんだけど、弐号機のアクションシーンにイメージBG(背景)がやたら多いのはなぜなんだろうか。ゲームかパチンコ用の汎用性を前提としたアクションシーンみたいで何か面白かった。

  • 使徒をキックでぶち抜いた弐号機が着地する地上には、零号機がぬぼーと棒立ち。腰に手をあて、得意げに立つ弐号機。「状況終了!」…すばらしい。ここ、いちばん笑いました。

  • エヴァってパイロットと機体が同一化(シンクロ)するから、前述したようなアクションはもちろん、こういった立ち姿だけでも、アスカそのもの、レイそのものになる(だから、コクピット内のカットが省略できる)。

第8の使徒戦:天からくるもの


  • 純粋な対使徒戦としては、今回のメインイベント。

  • シンジが使徒を受け止めるよね、うん受け止めた…うわあ!変なの出てきた!

  • 事前に他の皆さんの感想で見ていたとおり、確かに恐ろしいまでに旧シリーズの存在を前提にしてますね。旧シリーズが体に染みついている私は無意識のうちに、次のシーン、次のアクションの「未来予測」をするんだけど、スクリーンでその予測はどんどん裏切られていく。これはもうサービスでやっているとしかいいようがない。

  • それでいて全体のストーリーラインは変わらない。ただ意味だけが変わっている。

  • 映画ゆえに省略される使徒もいる中で、この使徒との戦いが選ばれて、別の意味づけがされたのはすばらしいな。オープニングで誰の力も借りずに独力で使徒を倒したアスカが、自分ひとりの無力さと、チームプレイの重要さを痛感する戦いになっている。だが、ストーリーラインは何も変わってはいない。

日常パート:告白昇降室(エレベーター)


  • このパートで、みんなが少しずつ積み上げた幸せが大輪の花を咲かせる。
    (ただし、咲き誇る花は散るからこそに美しい。)

  • 綾波レイ主催のお食事会が決定。難関と思われたゲンドウ参加の交渉を成功させたレイは、栗田ゆう子(美味しんぼ)級。これから先ゲンドウは、舌打ちしながら全ての要求に答えることになるだろう。

  • アスカとレイの、おなじみエレベーターシーン。アスカの平手を受け止めたレイの手には、アスカより多くのバンソウコウが巻かれている(最初より増えてる)。

トウジではなくアスカが参号機に乗ることになるわけだが、ここに至る過程において、すべての人々が「他人のために」行動した結果であることがやはりすばらしい。

シンジ「みんなのためにお弁当(料理)をつくろう」

それを食べたレイ。
レイ「私も料理を覚えよう。みんなのために食事会をひらいて、そこに碇くんと司令も呼ぼう」

レイに食事会への参加を頼まれたゲンドウ
ゲンドウ「そんな時間はな…」(ユイ「シンジを頼みます」)「…ああ、わかった。行こう」

レイの食事会(とシンジ)に対する想いを知るアスカ
アスカ「あんた達が楽しみにしてる食事会のために、私が参号機に乗ってあげるわよ」

参号機起動実験での衝撃展開はCMのあとすぐ!


誰も悪くない。悪くないどころか、みんなそれぞれ他人のことを思いやって行動し、それが良い連鎖を起こしている。
それなのに、意味は違ってきているのに、ストーリーラインが全く同じであるゆえに、幸せを崩壊させる事件は発生する。それは運命といってもいい。

もちろん、その「運命」については、四号機消滅の際に、加持が「本当に事故なのか?」とつぶやいたりして、あらゆる人為的な可能性もあることを示唆するのがいやらしいところだ。もちろん、真実がどうかなんて知らない。

だがそれは、アスカの決意と行動の価値とは何も関係がない。だからどうか、「トウジの代わりに参号機に乗らされた」「アスカがかわいそう」とは思わないでほしい。
彼女は自分の意志で乗ることを決め、それに誇りをもっているはずだから。運命は過酷だけど、一歩先のことは誰にも分からないのだから、その時その時で悔いのない行動をとるしかない。やり直せる機会は1万5千回も来ない。

  • 全員がポジティブに他人のためにする行動が連鎖して、最終的にアスカに行きつくところや、「バチカン条約」による弐号機の凍結など、全ての要素がアスカが参号機へ乗る(幸せのピーク)ために再構築されている。

  • DVDが出たら、イベントやシーンをキャラクターごとにバラして、それぞれがどう機能しているかメモをとると、構成の巧みさを堪能できそうだ。

  • ただ、いくら劇場作品とはいえ、多くの要素が幸せのピークを作るための材料として使われており、あまりにノイズが少なすぎるかも知れない。私は構成に無駄がないのが好きだけど。そういう意味では、マリはノイズ(違和感)効果を持つキャラクターなんでしょうね。

  • 参号機事故の知らせを玄関で聞くレイ。キッチンでは盛大に吹きこぼれる鍋。
    これなんの料理だったんでしょう。みそ汁?食事会で?自分は肉食べないけど、みんなが好きなごちそうだからビーフシチューを作ったとかだったり、
    レイ「…精進料理。お肉、入ってない」
    しないか。

第9の使徒:参号機は赤く塗れ!(己の血で)


  • 日向「分析パターン出ました…青です」
    …よかった。ここまであまりに「未来予測」がはずれるので、分析パターンも「青です。…限りなく透明に近い…青です」とかに変わってるんじゃないかと思ったけど、全然そんなことはなかったぜ!

  • シチュエーションはTV版とほぼ同じ。今回は、参号機にはアスカが乗っており、シンジはそれに気付いている。

  • 参号機が初号機の首をしめる。その両手をはがそうとする初号機。あれ?両手はがせちゃうの?と思ったら、参号機からもう二本腕が生えてきた!
    旧シリーズをもとにした「未来予測」はこうして楽しく裏切られる。もし次のループがもしあれば、参号機にはあと二本の腕を追加するしかないな。両肩に星マークがついているやつね。

  • ■なぜ、参号機事件の際にレイが出撃していないのか


  • このパートで、なぜレイが出撃していないのか。というのは、とても気になった。

  • 制作的には映画の尺とエネルギーの節約だが、時間と労力の問題を考えなくても、レイは出撃させない方がいいはずだ。なぜなら、この劇場版のシチュエーションでレイが出撃した場合、シンジにとって「アスカとレイのどちらを救うか」という二択の構図になる危険性が高くなってしまうと思うから。

  • 今回の映画では特に、その構図に見えてしまう危険性は避けたいところ。つまり、あらゆる意味でレイは出撃するべきではないので、出撃しない。

  • と、ここまで考えて、ではTV版はどうだったか、と気になり、思い出してみた。

  • TV版では、レイ、アスカ共に出撃しているので、彼女ら2人は共に参号機と戦う立場。
    しかし、恐らくは省力化を大きな理由として、レイ、アスカはすぐに撃破され、結局、シンジvs参号機という、映画と同じ構図になる。

  • アスカ、レイ共に無力化されるのみで、参号機は彼女らを殺そうとはしない。殺すか殺されるかの選択を突きつけられるのはシンジのみ。当時はあまり意識していなかったが、この構図はかなり作為的につくっているなあ。

ごく普通の物語なら、この参号機を止める話は、多分こうなるんじゃないかな。

(A)参号機を倒す → 参号機パイロットが傷つく
(B)参号機を倒さない → 参号機のために、仲間や周り(世界)が傷つく


このような構造にして、どうやっても誰かが傷つくが、主人公は選択を迫られるというジレンマにするのが、普通かな、と思う。しかしエヴァではTV版、新劇場版ともにあくまで「自分が殺されるか」「相手を殺すか」という対立軸にしている。

(A)参号機を倒す → 参号機パイロットが傷つく
(C)参号機を倒さない → 自分が殺される


  • この選択に、世界と第三者は介在しない。他人のために、世界のために殺すのではなく、あくまで自分のために殺す。
    しかしシンジは、この「自分が殺される」かも知れない状況を与えても、参号機への攻撃を拒む。徹底的に拒む。

  • このシンジの全身全霊をかけた拒否は、エヴァンゲリオンの「エヴァと乗り手の同一化(シンクロ)」があってこそ。「根性なし」だけでは、あの拒否の徹底さが理解できなくなる。参号機の首を絞める初号機の手は、シンジの手そのものだということ。

  • そうであることを踏まえたとき、このタイミングで登場する「ダミーシステム」の凶悪さにほれぼれする。

  • ■変更されたダミーシステムの凶悪さ


  • 今回の劇場版で、従来のダミープラグはダミーシステムに変更された。ダミープラグの場合は、単に操作系統が切り替わる印象だったが、ダミーシステムは違う。コクピットの後方からダミーシステム用の機械がシンジにかぶさってくる。しかもご丁寧に、視界は隠して、後ろからシンジの両手をおさえるような形、つまりこれは「二人羽織」だ。

  • 後ろから両手をつかまれて「はい、ここが参号機の首ですよ。にぎにぎしましょうね」とダミーシステムが二人羽織しながら、参号機を壊していく。これはたまらない(シンクロ切断していればいいという問題でもない)。しかも、今回は誰が参号機に乗っているのかシンジは知っているのだ。

  • ダミープラグを、「二人羽織」(ダミーシステム)にしたのは、分かりやすくて、悪趣味で、本当にすばらしい。

  • こうして、シンジはTV版より、さらに深く深く絶望して、いわゆる「男の戦い」パートへ進む。

戦闘パートD:男の戦い、再び


  • 「司令部の半分は壊せるよ」と、おなじみの脅しをかけるシンジ。
    「子供の駄々に付き合っているヒマはない」と、おなじみの処理をするゲンドウ。

  • ミサトがもしあの場にいたら、可能性が低くても、アスカを救出する作戦を立案してしまうだろうし、ゲンドウとは対立する可能性も高い。だからレイと同じく、ミサトもリツコもあの時、司令部を離れていた。これによって、シンジの憎しみは、ゲンドウただ1人に集約される。

  • 気を失ったシンジは、これまたおなじみ脳内電車シーンへ。もう細かいセリフは覚えていないが、印象深かったのは2つ。

  • ■「楽しい世界」から「イヤな世界」へ


    ひとつは、世界への嫌悪と、父への憎悪。
    世界と自分を肯定しかけていたシンジが、アスカの件でがらりと変わる。

    レイ「イヤな世界?」
    シンジ「そうさ。怖いエヴァや使徒がいる世界。父さんがいる世界。イヤなことをさせられる世界。父さんはダミーがあれば僕がいらない世界。僕も友達も嫌な思いをする世界。でも、いいこともあったんだ。でも結局は壊れてしまう。イヤな世界さ」


    『ヱヴァ破』では、幸せのピークまで上げていたからこそ、絶望への落差は深い。世界に絶望する一方で、父に必要とされない自分にも価値がないとも思っている。

    ■SDATとのお別れ


    もうひとつは、父からもらったSDAT(音楽プレーヤー)。シンジは「これを付けていると父さんが嫌な世界から守ってくれているような気がした」と言っている。これは「移行対象」というやつなのかな。いわゆる「ライナスの毛布」。
    普通は母から離れる幼児の孤独や不安を和らげる物理的な対象を指すそうだが、母のいないシンジの場合は父になるのだろうか(そういえば、アスカも人形持ってたな)。

  • SDATをある種の移行対象としてみることができるなら、ぬいぐるみや毛布をいつか手離すように、SDATとお別れするときもくるはず。
    だから、シンジがSDATをゴミ箱に捨てたのは、父の保護なしで直接、世界と向き合う決心をしたということでは正しいなと思った。訣別の仕方がひどいのがエヴァだけど。

  • ごく普通の物語ならどんなお別れの仕方がいいのか。
    ヘッドホンつけて、世界と自分との間にSDATを入れて身を守るんじゃなくて、父やレイと一緒に音楽を聴いて共有するとか、その音楽を演奏したり歌ったりして自分のものとして消化するとか、かな。これはさすがに、エヴァでは無理…
    レイ「司令…今度、碇君達とカラオケ…どうですか?」
    ゲンドウ「そんな時間はな…」(ユイ「シンジを頼みます」)「…ああ、わかった。行こう」
    栗田レイ子さんだったら、いけるかもしれない。

  • だから、ゴミ箱のSDATをレイが拾って零号機のコクピットに入れたというのが、ちょっと良く分からなくて。ゲンドウとシンジの絆のアイテムだというのは分かるけど、それはあくまで一時的な対象のはず。やはり、お別れの仕方がこれではよくない、間違っているということなんだろうか。

  • SDATの最終的な場所が零号機のコクピットというのが面白いところだな。この後の『Q』では、シンジとレイがいつまでもくっついているわけにもいかないので、TV版でのサルベージとEOEのラストを合わせたようなことをしなければいけない気がするけど、そこでの道具として、SDAT(または音楽)が使われたりするのかも知れないね。

■最強使徒襲来


  • おなじみの最強(かつ最も同情されている)使徒がやってくる。
    シンジもいつもどおり、街の外へ出ようとしていたはずが、いつのまにやら、ジオフロントのシェルターへ。

  • マリっぺが、弐号機で出撃して、ビーストモードも使うが、敗れる。

  • 続いて、綾波がミサイルかついで特攻するも、残り1枚のATフィールドが破れない。

  • そこに、満身創痍の弐号機が来て、網脂(ATフィールド)を食い破る。

  • ミサイルが使徒のコアに激突→シャッター閉じ→レイが弐号機を放り投げて逃がす。
    ここでレイがマリに礼を言い、これでチルドレン全員に「ありがとう」を言ったことになる。

  • 爆発。巻き込まれた零号機はこんがりロースト。もちろん使徒は無事。(残った零号機はスタッフでおいしくいただきました。)

  • 一緒に観たパチンコ好きの友人と、鑑賞後話す。(私3回目、友人1回目)
    どうだった?事前に言ってたように、パチンコにしやすいでしょ?ATフィールドもすさまじく多層構造になってて、パリパリ割り甲斐があるし。
    友人「確かに。零号機の特攻リーチのときに、ビーストモードの弐号機が来たら激アツだね。」
    そのあと、シャッター閉じてしまうけどな。爆炎で激アツではあるけど。

  • 弐号機のマリが、シェルター内のシンジを発見するが、「(エヴァに乗るかどうか)そんなことで悩む人もいるんだ」っていうセリフが印象深かった。

    旧エヴァの「乗るかどうか」というのは、かなりテーマに関わる大きな問題で、父親の用意した舞台でロボットに乗って成長するということに最後の最後までシンジは抵抗したのだけれど、マリはそれ自体が問題にならないほどの外部から来たんだな。外部というか、2009年のキャラが1995年にやってきた、という感じか。

  • マリは、この映画で二体のエヴァを使い捨てている。彼女にとっては「できる」「できない」だけが問題で、そのためなら大人達もエヴァも利用する。

  • マリに、乗らないなら早く逃げれば?死んじゃうよ。と言われるも初号機のもとへ走るシンジ。

■世界と少女の天秤


  • 零号機(レイ)を取り込んだ使徒との戦いで、初号機はシンジの意思による覚醒をする。
    シンジ「お父さんを…いじめるな!」じゃない。 「綾波を、返せ!」
    ここから大感動のクライマックス。

  • シンジ「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波は…せめて綾波だけは、絶対助ける!」

  • 「世界」と「女の子」を天秤にかけて、「女の子」を選んでいるように見えて、実は天秤になっていない。
    シンジにとって、「世界」はイヤな世界でしかないし、「自分」は価値が無い存在でしかない。
    (そうではなかったはずなのに、アスカの件でそうなってしまった。)
    だから今のシンジにとって「世界」も「自分」も、「代わりなんかいない大事な女の子」と釣り合いのとれる価値のあるものになっていない。

  • 綾波救出の場面は本当に美しいと思うけれど、「女の子」の代わりに「世界」と「自分」をどうだっていいと言い切ってしまうシンジを見るのは、あまりにせつない。

  • 「世界」と「代わりのない女の子」を天秤にかけて「女の子」をとる、というのは、言ってしまえば、シンジの父親であるゲンドウの道だと思うんですよね。ゲンドウの基本像が新劇場版でもあまり変わらないのであれば、ということですが、実際に『ヱヴァ破』でもシンジにこう言っている。

    ゲンドウ「自分の願いはあらゆる犠牲を払って自分の手で掴み取るものだ。大人になれ、シンジ」


    とりあえず従来のイメージで良いならば、ゲンドウの言う「あらゆる犠牲」の中には、当然のように「世界」が含まれるはずだ。
    ゲンドウは世界に愛されているとは感じてはいないし、自分も世界は愛さない。「代わりのない女」と「世界」が釣り合うはずもなく、願望のためなら、喜んで「世界」を差し出すだろう。ネルフも。いつも隣で支える冬月も。息子であるシンジですらも。

  • だから、『ヱヴァ破』のラストで、シンジは結局、父親と同じ事を、父より先にしてしまった、とも言える。

  • そして、だからこそ、この後のシンジはゲンドウの一歩先を行き、ゲンドウと戦えるようになれるかも知れない。毎回やるやると言って、毎回やってない父と子のドラマをやれるかも知れない。

  • もちろん、綾波救出が間違っているとは思わない。
    使徒に侵食されたアスカ、使徒に飲み込まれたレイと、似たような構図が続くのにも価値がある。
    アスカの場合には、シンジは何もできなかった。父の命令は聞けないし、殺すなら殺される方がまし。それでシンジは満足かも知れないが、何も解決しない。結果、参号機は処理された。
    しかし、シンジの前に、再度同じような状況がやってくる。シンジは、ミサトの言うところの「自分自身の願いのために」、レイを救う行動に出る。シンジのレイ救出には、アスカに対する失敗が前提としてあるはずで、そう信じたい。
    エヴァは「繰り返し」の物語。状況は繰り返されたが、シンジは同じ過ちは繰り返さなかった。
    (だから、シンジがアスカでなく、レイを選んだ、レイがヒロインだ、というわけでもないと思う)

  • ゲンドウより、シンジが幸せなのは、「代わりのいない大事な人(女の子)」が、ゲンドウには1人で、シンジには2人いたことかも知れないね。

そういう意味でも感動的で、この場面は本当に、本当に、美しいけれど、この美しさは新劇場版全体のプロセスの中で、あくまで中間地点の美しさ、ということになるはずだ。ならないといけないと思う。

なぜなら碇シンジという少年は、この世界の美しさ(Beautiful world)と、自分の美しさ(Beautiful boy)を、まだ知らないのだから。

大人が子供に対して、

ミサト「この世界は、あなたの知らない面白いことで充ち満ちているわよ。楽しみなさい」


と、語り、それに対して、「そっか、私、笑えるんだ…」と自分に気づいた少女が、

アスカ「うん。そうね。ありがとう、ミサト。」


と、答えた、この世界の美しさを。

スタッフロール:宇多田ヒカル『Beautiful World (PLANiTb Acoustica Mix)』


(歌詞より)
「もしも願いひとつだけ叶うなら、君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ」


そういう意味では、シンジの願いは『ヱヴァ破』のラストで叶ってしまったんだな。

この曲で初めて、心の底から宇多田ヒカルの曲をすばらしいと感動した。本当にすばらし…

(歌詞より)
「寝ても覚めても 少年マンガ 夢見てばっか」


ほっといてくれ!あとアニメでも夢見てばっかだよ!この記事が何よりの証拠だよ!(ぬるい涙)

エンディング:天からくる槍


  • 天から槍が降ってきて、初号機に突き刺さる。

  • これは、シンジの「美しい救出劇」に釘を刺す一方で、TV版「男の戦い」での、覚醒したエヴァはもう誰にも止められない→次の回でなぜか止まっている、という展開に対する良い補完だと思う。

  • カヲル「今度こそは幸せにするよ。碇シンジ君」
    この言葉を額面とおりにとれば、新劇場版のシンジで私が目指してほしい幸せとは対立するかもね。

次回予告


  • 独眼竜アスカ姐さん登場。首から下が全く見えてないのが怖い。

  • 「アスカの体はどうなってるのコンテスト」を開催して、みんなから、アスカ姐さんのボディを募集したら盛り上がってレッツパーリー。

  • で、応募作の中で一番面白いのを大賞に選んだ上で、それを捨てて、全然違うのを実際の画面に登場させたらいいと思います。



以上です。

個人的には、四部作の二作目として、きっちりと途中段階としてのクライマックスになっていてすばらしいと思います。
「最後までいかないと評価できない」という方も多くいらっしゃるでしょうが、私は逆にすばらしい「二作目」として評価します。このあとの二作がどうなろうと、私の中では『ヱヴァ破』がすばらしい二作目であることは変わらないでしょう。

総論的なまとめとして、いくつかのポイントについて書くつもりでしたが、あまりに長文になりすぎましたので、記事を分けます(今更言うな)。おかしいな。27曲目とかいろいろ省略したはずなのに。
一応、「リビルド」、「ループ」、「マリ」、「この後の展開」、「幸せを求めること」、「サービス」などについて、書こうと思っています。
もし、よろしければ次回もお付き合いください。
[世界の美しさを少年はまだ知らない。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』感想【01】]の続きを読む

世界の危機には「家族で食事」を <『サマーウォーズ』 フィクションと現実で異なる「正しい行動」>

2009年09月03日

世界の危機まで、あと2時間。あ、今2時間をきった。
あなたならどうする?
とにかく急いで何とかする?
それもいいけれど、もしもあなたが物語世界の住人なら、他にとるべき「正しい行動」があるかも知れません。

sw

「現実での正しい行動」と「フィクションでの正しい行動」


前回記事である映画『サマーウォーズ』の感想メモをアップして、しばらくしてから、ARTIFACTの加野瀬さんのtumblrに気付きました。

と、思ったら、「世界危機のタイムリミットが刻まれているときに、なぜ呑気に全員でご飯食べてるんだ」と怒っている人もいるらしい。現実で取るべき正しい行動と、フィクションでの正しい行動は別物なんだけどな。
サマー”ウォーズ”バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ> - HIGHLAND VIEW 【ハイランドビュー】

これ難しいなー。これだと『海猿』の「救助途中で携帯電話」も「フィクションでの正しい行動」とも言えてしまう。
http://kanose.tumblr.com/post/168562507


確かに難しい問題ですね。加野瀬さんのご指摘に刺激されて、改めて考えをまとめてみたくなりました。
『サマーウォーズ』を例に出しますが、考えることは広く物語全般について。
「現実での正しい行動」と「フィクションでの正しい行動」の違いとは何なのか?



物語の中でも全力を尽くせ!


私は残念ながら映画『海猿』を見たことが無いのですが、「人命救出を急がないといけないような場面で携帯で長々とプロポーズ」が、当時ネットで話題になっていたのを思い出しました。
映画『海猿』のクライマックスでは、人命救助のタイムリミットが迫る中、主人公は恋人に携帯で連絡し、5分ほどプロポーズをするようですね。その後、救助に向かう。

なるほど。シチュエーションだけ見れば、『サマーウォーズ』での最後の食事と、確かにあまり変わらないですね。

実際、感想やレビューの方を少し検索してみると、「感動的な場面。感動しない人はどうかしてる」といった意見もある一方で、「人の命がかかっているのにおかしい」といった批判的な意見もなかなか多い。

『サマーウォーズ』でも、同じように怒っている人を私は見かけたわけですが、「フィクションでの世界や人命の危機」に、「現実で取るべき最適行動」を取らないと「おかしい」「頭が悪い」「リアリティがない」と批判するタイプの方は確かにいらっしゃいますね。
そういう方から見れば、『海猿』や『サマーウォーズ』のこれらのシーンは、「タイムリミットが刻まれているのになぜ時間を無駄にし、全力を尽くしていないのだ」ということになるのでしょう。

『サマーウォーズ』ご飯食べない派


こうしたクライマックスで「ご飯食べない」派の方に満足していただくには、こんな感じにすればよいのでしょうか?

・タイムリミットが迫っているのだから、時間を無駄にしない。
・全員集合してご飯は食べない。そんなことしてる場合じゃない。
・問題解決のため、全力を尽くす。


非常に堅実な行動です。もし現実で、ということでしたら、確かにこのような行動を取るしかないでしょう。

ただ、私の考えでは、食事なしルートを選んだら、間違いなく作戦は失敗します。敗北します。100%負けます。

では、映画どおりに、残り時間を浪費してでも、全員でご飯を食べたなら?
間違いなく、作戦は成功します。勝利します。100%勝てます。


なぜなのか?
それは「物語」だから。

「リアリティの無い行動」で約束される勝利



『サマーウォーズ』のあの場面では、「全員で食事」という「リアリティのない」行動をしなければ、作戦は成功しなかったでしょう。

私にとって「フィクションでの正しい行動」のラインはやはり、現実のルールでなく、物語のルールに従うかどうか、というところにあります。逆に言えば、物語がきっちりと構築されていないと選べない、成立しないわけですが。

「それにしても現実に沿って行動したのに成功確率0%ということはないだろう。もっと無駄なく行動して、10分、いや15分は稼げば、20%ぐらいに確率が…」

そういう問題ではありません。成功確率は0%です。

『サマーウォーズ』は、「家族の食卓」をひとつのテーマとして、物語を組み立てていました。
あの場面で食事をしないのであれば、どんなコンピューターや暗号の技術を使おうが、勝利は約束されません。

前回記事での「家族の食卓」部分を引用してきましょう。

  • インタビューなどで監督自身が語っていたように、「家族の食卓」は作画的にもテーマ的にも重要な役割を果たしていた。とにかく、みんなでご飯を食べる。

  • しかし中盤。栄ばあちゃんが侘助をナギナタで追い回す際に、食卓は一度崩壊する。

  • 次の日の朝(「栄の退場後」)、これまでひとつの食卓を囲んでいたが、はじめて別々のテーブルで、一人ひとりに配膳された食事をとり、食卓がバラバラに。

  • しかし、侘助が帰還し、親族が再びひとつになると、大テーブルをみんなで囲み、大皿の料理を取り分ける食事をとる。ここは良かった。侘助が食卓につく際に当たり前のように誰も何も言わないのがよかった。

  • 食卓の役割が非常に分かりやすい。

  • と、思ったら、「世界危機のタイムリミットが刻まれているときに、なぜ呑気に全員でご飯食べてるんだ」と怒っている人もいるらしい。現実で取るべき正しい行動と、フィクションでの正しい行動は別物なんだけどな。

  • 世界の危機の土壇場で、家族全員で食事をする、というのは「リアリティのない」行動なんだけど、きちんと組み立てられた物語の中では、これがも最も正しい行動になる。

    私は、フィクションがフィクションだからこそ可能な世界の救い方をする方が好き。
    もちろん、こんな解決は「現実ではあるわけない」。
    でも巧妙な物語の組み立てをすることで、現実の合理性を、物語の合理性が越えることができる。それが物語の快楽のひとつだな、と思っているのです。

    「みんなでお食事」Q&A


    「…食事の意味は分かった。でも、食事という、問題解決に全く関係ないことをしてるのはやはりおかしいんじゃない?」

    最後の「家族の食卓」シーンについては、初めて全員で食べる食事であると共に、状況の整理と作戦会議、さらにいつも不利な状況でも戦わざるをえない陣内一族としての覚悟とあきらめのシーンにもしていました。
    ここからノンストップの怒涛の最終決戦に突入しますので、食事を兼ねて、いくつかの処理を同時にしています。
    何より観客のためのシーンになっていて、クライマックス前の良い「決戦前夜」だな、と思います。

    「…食事の意味は分かった。でもカウント始まってから、わざわざ食べなくても、カウント前に食事すれば反発もないんじゃない?」

    うーん。確かに方法としてはそちらもありますね。でも、あえてカウント後に食事という構成を選んでいると思います。その方が対比も面白いですし。
    「家族の食卓」という物語の構造をちゃんとつくっているから、私はむしろ、タイムカウント中での「みんなで食事」シーンを、ニヤニヤ楽しんだほどです。
    だって、全員で食事してるからには、極端に言えば、残り時間なんか別に関係ないしねえ。

    「…食事の意味は分かった。でも、現実的な行動をしても絶対失敗するかどうかは、やってみなくちゃ分からないんじゃない?」

    クライマックスでの「家族全員での食事」が作戦成功のキーだということは、逆に言えば終盤まで成功の条件はそろわない、ということでもあります。
    中盤で、ケンジ(立案)、カズマ(キングカズマ)、理一(自衛官)、太助(コンピューター調達)、佐久間(OZ内サポート)など、問題解決に直接関わることのできるメンバーのみで、ラブマシーンに戦いを挑みましたが、これは失敗、敗北しました。
    直接の原因は、翔太兄がスーパーコンピューターを冷やすための氷を別の場所に移してしまったから、コンピューターが熱暴走を起こしてしまったこと。
    ここはコメディシーンにもなっていますが翔太は何も状況が分かっていないからこそ、そうしたわけですし、女性陣は「うちの男どもと来たらバカばっか」と、家事や雑事に追われて、何の関与もしていません。
    この中盤戦では、OZでの戦いに現実的に対応できるメンバーがほぼ揃っているはずなんですが、でもこれではダメなんですよね。家族の一部だけでは。
    何より最後のピース、侘助がまだ来ていない。「全員」にはどうやってもならない。(で、侘助を呼ぶ役割が夏希なんですよね)

    つまり一部のコンピューターが分かる人だけで現実的に事に当たっても、物語としては成功にはしませんよ、というのは中盤戦での敗北、という形で一度やっているわけです。

    と、いうことは「全員で食事せずに、最終決戦に向かう」というのは要するに、「失敗した中盤戦をもう1回繰り返す」だけ、ということになるわけですね。

    『海猿』のプロポーズ大作戦


    『海猿』のプロポーズ大作戦についても、受け入れられるかどうかというのは、それまでに組み立てた物語で、すでに半分は答えが出ているはず。
    「プロポーズしておかないと、この後の奇跡の救出が成功しない」と思えるだけの物語構造を組めていたのなら、別に問題はないのですが、どうもそうではないらしい。

    お膳立てだけではなく、プロポーズシーン自体も、タイムリミットに誰かの生命が直接かかっているにも関わらず、5分もの時間をプロポーズに使う、というのはあまりに長すぎたみたい。(サマーウォーズのタイムリミットは衛星の落下。その結果として二次的に被害が出る)

    ただ、だからといって、『海猿』のプロポーズ大作戦の存在自体を否定するつもりはありません。
    私は見ていないですが、役割はだいたい同じような感じだと想像します。
    つまり、生死を賭けた救出任務の前に、恋人と「約束」をして、帰り道のロープ(絆)をつくっておく、というような感じなんでしょうね。

    でも、ネットの感想を少し見た限りでは、あまりうまく作用していないみたい。
    それが本当なら私は、主人公が現実に取るべき最適行動をとらないことを批判するより、行動はフィクション的には正しいのに、機能不全を起こしている物語構造の方を批判する方を選びたいな。



    おまけ「お願い!! 説得に時間を!」



    もっと単純で、極端で、すっごく分かりやすい例では、『トップをねらえ!』5話「お願い!! 愛に時間を!」の「炎となったガンバスターは無敵だ」がありますね。
    そうです。「合体しましょう!」「お姉さま!」フー!のとこです。フーのとこ。



    宇宙戦艦ヱクセリヲンを護衛しながら、戦うバスターマシン1号、2号。
    地球の大ピンチなんだけど、コーチの命が気になってついに戦えなくなるカズミ(お姉さま)を、ノリコが説得する。宇宙怪獣により傷ついていくヱクセリヲン。絶体絶命。

    使い物にならなくなったカズミはほっといて、ノリコは地球のために全力を尽くせよ。
    と、あの説得シーンを時間を無駄にした行動だと文句つける人はまずいないでしょう。

    だって炎となったガンバスターは無敵だって言ってるんだから、2人の気持ちがひとつになって合体できたら、もうどんな不利な状況になっていようとそれは勝てますよ。敵が何億いようとね。
    「お姉さま、アレを使うわ」「ええ、よくってよ」にしかならないです。

    私はつくづく、世界のルールを巧みに書き換えるような、よくできたフィクションが好きなんだと改めて思いましたよ。
    リアリティがない?ええ、よくってよ。それと引き換えに、すばらしい物語が組まれていればね。

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    サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>
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    サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>

    2009年08月19日

    夏期休暇に田舎に帰省して、地元の友人2人と映画『サマーウォーズ』を見てきました。
    なんとなく、そのシチュエーションの方が映画がよりステキになる気がしたから。

    友人A「…『サマーウォーズ』やってるシネコンがある、でかいショッピングモールまで、車ですっごいかかるけどな!」

    君たちもTVCMなんか見て、面白そうって言ってたじゃないか。

    友人B「でも、誘われなかったら、見には行かなかったな。遠くて大変だし」

    まあ、車出してもらった君らは確かにお疲れサマーウォーズなんだけど、きっと君たちに損はさせない。
    この映画は、そういう映画のはずなんだ。

    サマーウォーズ

    映画『サマーウォーズ』上映終了。

    ―どうだった?

    友人A「おもしろかった!『ぼくらのウォーゲーム!』は昔見たけど、いい感じに忘れてて全然楽しめたよ」
    友人B「俺はアニメとか全然見てないけど、おもしろかったよ。で、OZってなに?」

    ―終わってから言うか。ああ、あなたはPC持ってなくて、ネットも全然やってないもんな。

    友人B「でも携帯ではやってるし、映画の最初にOZのプロモーションビデオがあるし、なんとなくは分かったけどね。」
    友人A「思い切って来てよかった。楽しかった」

    友人たちは、とても楽しんでくれたようだ。良かった良かった。さあ、ご飯食べて帰ろうか。

    友人B「で、自分はどうなの?」



    期待していたのは「みんなにとって80点の映画」


    『サマーウォーズ』については、前回のエントリで書いたように、幅広く多くの人に楽しんでもらえる映画になればステキだな、と期待をしていました。

    この映画は、「誰かにとって100点の映画」であることより、「みんなにとって80点の映画」であることを選択すべきだろうと。

    例えば、まだ感想記事がまとめきれてないけれど、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、私にとって100点といってもいい。でも、それはこれまでのエヴァ体験を含めた人生が大きく影響するので、みんながみんな100点をつける映画だとはとても思えない。人によって極端に差が出るタイプの映画だと思う。

    その意味では『サマーウォーズ』は、そういう私の期待に応えてくれた。
    ホームランバッターではなく、アベレージヒッターに徹していて、平均点が高い映画になっていると思う。
    劇場には、お盆ということもあってか、家族連れの姿も多かったし、アニメをパチンコの液晶でしか見ていないような地元の友人も楽しい映画として、面白がってくれた。

    公開前に、あんな記事を書くほどに期待と心配をしてたわけだから、私もとてもうれしい。

    なのに、なぜ、こんなにも、もやもやサマー(ウォー)ズなんだろう。
    純粋に私自身の体験としてはどうなんだ、と言われたら、それが、その、正直に告白して、びっくりするほど、テンションが上がらなくて困った、という他ない。

    楽しんでいないかと言われれば、楽しんだ。面白かった。
    うまいなあ、らしいなあ、と感心しながらも見た。

    にも関わらず、目の前(スクリーン)に美人がいるのにちっともエレクチオンしないので、これは私がウォーゲームをDVDでたくさん見てるからだなとか、いろいろ理由をつけながら見たが、結局、最後まで自尊心とラブライフを取り戻すことは出来なかった。

    そのことには困惑している。理由は自分でも未だによく分からない。
    僕の体が昔より、大人になったからなのか。

    本当は「ネットと現実」、「家族」、「田舎」などについて、何か話をするのが『サマーウォーズ』感想のお作法だと思うけれど、こういった経緯もあり、あまりそういう部分と、それを語ることに興味が持てなかったので、鑑賞しながら、考えていたことをメモ形式で書くことにします。(※思い出したり、思いついたことは随時追加する予定です)
    メモなので、思考があっちこっちに行ってますから、メモ同士のつじつまがあっていなかったりもしますし、絵コンテ集や設定資料なども見てないので、あくまで映画を見た上でのメモと、とらえてください。

    <ネタバレ注意>
    上映中なので全てを語るようなネタバレはしませんが、それでもネタバレ満載なので、ご注意を。
    ただし、最大のネタバレはやはり『ぼくらのウォーゲーム!』なので、未見の人はそのまま見ずに『サマーウォーズ』に行った方が良いでしょう。



    映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ


    全体で見ると、「世界規模の混乱を家族だけで解決するには、どういう家族構成にすればいいか」、という視点で見ると、とても興味深い映画だった。
    実際のところ、主人公の友人1名を除けば、田舎の陣内家のみで話が進み、問題が解決する。
    陣内家は、この映画のためにつくられた、問題解決のための家族集団なので、そこにリアリティがどうこう言うのは、割合ナンセンスかな、と思います。

    ■「陣内家の人々」
    • 「映画の舞台となる陣内家は、由緒正しい名家だが、財産の類は一切ない」というのを冒頭でわざわざ強調するのも、家族のネガティブ要素のひとつ「親族間での財産争い」をなくすためでしょうね。映画に不必要な要素は全てつぶしておく。

    • 内科医、自衛官、消防士、救急救命士、警官、水道局員など、問題解決に役立つ職業を出す必要があるが、これを家族だけでまかなうには、陣内家の男たちがそういう特殊な職業ばかりについていなければならないことになる。
      しかし、その理由として、「『人の役に立て』というのが栄ばあちゃんの教えであり、それを忠実に守っているから」で処理しているのは、なかなかすばらしい。

    • 親族が映画に必要な職業にしかついていないのは必然なので、あとはどう言い訳するかだけ。
      それを、栄おばあちゃんの信念ということにし、ばあちゃんを敬愛し実行している子供たち、ということにしてしまうのはストーリーの補強的にも悪くない。(いわゆる私の好きな「1アイデアで複数の効果」というやつ)

    • ただ女性陣は主婦ばかり。ちょっとバランスが悪いかも知れない。
      もし専門的な職業についた男性陣と主婦である女性陣ということで分ける意図なら、女性陣は「男どもはバカだよねえ」と言いつつ、家の実務的なことを切り盛りしている方が良かった気がするなあ。葬式や食事の準備、子供の世話とか。
      栄ばあちゃんのもうひとつの教えである「よくないのは、ひとりでいること、おなかが空いていること」については、女性陣が解決する、と分かりやすく単純化しても良かったかも知れない。
      アカウント貸しはしないといけないけど。

    • 公式サイトの陣内家家計図を見たときに気づくのは、長男(栄ばあちゃんの長男)がいないこと。
      長男の存在が消されているのは、家長としての栄ばあちゃんの強化と、「栄の退場」後に家長権の委譲が長男へスムーズに行われてしまうからでしょうね。主導権を取る人間が存在してしまうと、混乱が発生しないから。

    • ヒロインである夏希先輩の両親は、OZの混乱の影響もあり、エンディングにしか登場しない。両親がいると夏希先輩は、当然のように親を頼るので、両親は解決後にしか娘の元へ来させない。


    • ■「家族の食卓」
    • インタビューなどで監督自身が語っていたように、「家族の食卓」は作画的にもテーマ的にも重要な役割を果たしていた。とにかく、みんなでご飯を食べる。

    • しかし中盤。栄ばあちゃんが侘助をナギナタで追い回す際に、食卓は一度崩壊する。

    • 次の日の朝(「栄の退場後」)、これまでひとつの食卓を囲んでいたが、はじめて別々のテーブルで、一人ひとりに配膳された食事をとり、食卓がバラバラに。

    • しかし、侘助が帰還し、親族が再びひとつになると、大テーブルをみんなで囲み、大皿の料理を取り分ける食事をとる。ここは良かった。侘助が食卓につく際に当たり前のように誰も何も言わないのがよかった。

    • 食卓の役割が非常に分かりやすい。

    • と、思ったら、「世界危機のタイムリミットが刻まれているときに、なぜ呑気に全員でご飯食べてるんだ」と怒っている人もいるらしい。現実で取るべき正しい行動と、フィクションでの正しい行動は別物なんだけどな。


    • ■「主人公ケンジくん」
    • OZ混乱の犯人扱いされたあと、警官の翔太兄(にい)に身柄を拘束され、車で連行されるが、そのときに「え?この家を出るの?」って驚いた。
      連行途中で陣内家に引き返すのだけど、『ぼくらのウォーゲーム!』がマンションの部屋から一歩も出ずに解決したように、陣内家から一歩も出ずに解決させるのかな、と勝手に思っていた。
      あれは、ケンジに実際発生している混乱を、肉眼で確認させるためなんだろうか?

    • ちなみに陣内家に来た夜には、大家族なんて苦手だ、と言っていたのに、翌日の身柄拘束時には、楽しかった、来れて良かったと告白する。正直、ここはよく分からない。

    • 個人的には、親類一堂が集まって大家族状態になることが当たり前の夏希先輩にとっては、普通で面白くもない毎度のことで、そういう当たり前が、ビジターのケンジにとっては楽しい、ということにした方が良かった気がするなあ。
      ケンジ「こうやって、全国から親族が集まってみんなで食事するって面白いですね」
      夏希「そう?私には当たり前すぎて、面白くとも何ともないんだけど」

    • その後、「栄の退場」があったり、侘助と親族のいさかいがあったりして、夏希先輩が親族特有のうっとうしさがイヤになり、「家族」に絶望するパートに進んでおく。
      そこでケンジがバラバラになってた家族をひとつの目的でまとめあげて、夏希が再度、家族っていいな、と再発見する。
      ケンジが陣内家に入っていって、親族の大切さ、すばらしさを再認識させてくれたから、夏希はケンジに魅かれる。というような展開の方が分かりやすかったんじゃないのかな、という気がする。


    • ■「ヒロイン夏希先輩」
    • 先に書いたように、個人的には「家族」の良さを認識するのは、ケンジでなく、この人であるべきな気がする。そういう意味で夏希を主人公のように扱う方向もあったかも知れない。

    • 「侘助に負けているのに、花札決戦の代表になることに説得力がない」との声も耳にするが、侘助との勝負では、夏希の方が手札も良く、引きも良く、基本的に夏希はついてた。ただ、勝負の駆け引きという意味では侘助の方が上だったというのを見せたかったんじゃないかな。
      ラブマシーンは花札の知識が無い上に、AIのせいか駆け引きも侘助ほどでは無いので、十分勝てる見込みのある勝負だった、という意図だったのかな、と思った。

    • ただ後述するが、私個人としては、こういう映画ならくどいほどにフリがあって、それを回収していくのが好きなので、夏希=ラッキーガールのシーンが細かく挿入されている方が好き(もちろん、ケンジ君は対比としてアンラッキーということになって気の毒な目に会うだろうけどね)。幸運であることは絶対にセリフでは出ないが、こうした細かいコメディシーンで分かる、ということにする。

    • 最後に軌道がずれた人工衛星が落ち、温泉が湧き出るのも夏希のおかげにすればいいよ。もちろん、何かするわけではなく、衛星をキッとにらんで、「ここには!おばあちゃんのいるこの家には落ちないで!」と叫ぶだけでいい。それで十分。


    • ■「侘助」
    • 「栄の退場」のあと、このまま伊丹十三『お葬式』になってしまうんじゃないか、と思ったが、映画見た後で調べてみたら、『お葬式』の主人公の名前が「侘助 (山崎努)」なのか。なるほどね。


    • ■「キング・カズマ」
    • 仮想世界OZでのアクション担当。

    • カズマの問題は、いじめと、はじめて年の離れた兄弟が出来たことに起因するが、解決にはケンジはほぼ関係ない。

    • 主人公が全ての問題を解決する必要は無いが、あれほど大家族の食卓から離れていたカズマが、中盤からはいつの間にか家族の輪に入っていたので、食卓の輪に戻るきっかけだけ、ケンジが作った方が良かったかな、と思うんだけど、どうだろうか。

    • 年少組の子供たちがマスコットなだけなので、カズマの兄弟っていいな、お兄ちゃんになるっていいな、と思うきっかけ作りに貢献してもいいかも知れないな。


    • ■「ラブマシーン」
    • 敵であって、敵でない。善悪の概念の無く、全ての人々に迷惑をかける災害のようなもの。
      災害に対して、誰が悪い、なぜこうなったと言っているヒマなどなく、行動して、ことを収めることが何より先決。そして陣内家には、災害対処のエキスパートが揃っている。
      この映画は、災害を収束させたところで終わり、内面や、善悪の判断は、意図的に映画の外に置いている。

    • ラブマシーンが、アカウントを奪い、成長して、権限を増やし、神々しくなっていく様を見て、星新一のショートショートを連想した。
      「神」とは何か、を知るため、研究者が「神」に関するありとあらゆるデータをコンピューターにインプットしていく。コンピューターは次第に光を帯び、そして最後は人間からは見えなくなった。
      (と、いう感じの話だったと思う。あれは、どこに収録された、なんと言う話だったろう?)

    • ラブマシーンは知識欲、知的好奇心を与えられたハッキングAIだそうだ。知識を蓄え、知的好奇心を満足させられるなら何でもする。しかし、ラブマシーンから与えられた意味不明の暗号を、知的好奇心だけで解いてしまったケンジと、何がちがうのだろうか(ケンジは結果的に無罪だったが)。
      もちろん違うのだけれど、その辺りは割りと省略してあるのかな。

    • ケンジがなぜ、数学オリンピック代表になれなかったのか、というあたりと、ひたすら貪欲に知識を蓄えて強大化するラブマシーン、とかの対比でもうひとつぐらいテーマ足せそうだけど、まあ優先度低いよね。


    • ■「その他いろいろ」
    • ケンジの友人佐久間くんは、すばらしく便利だな。デジモンだと光士郎だね。

    • 『ぼくらのウォーゲーム!』は、「デジタルモンスター」という、ポケモンタイプの作品が原作だったため、主人公はデジモンを前線で戦わせ、後方で指示を出す、という形だった。この形式は「友達」を戦わせる一方で、主人公は手を汚さない。
      そのため『ぼくらのウォーゲーム!』では、後半で主人公がモニタの中のネット世界へ入りこみ、デジモンと一体化して、直接戦いに参加する。

    • 「主人公が主体として戦闘に参加する」というのは絶対に必要なシークエンスだと思うが、『ぼくらのウォーゲーム!』の中でもっとも、概念を大事にして、現実を飛び越えた場面だった。ポケモンタイプの作品で主人公が戦いの主体となるためには仕方ないのだが、他の場面とのリアリティレベルと比べて、どうしても私は違和感が残った。

    • 『サマーウォーズ』では、本人がアバター(ネット世界での分身)と同一なので、デジモンが抱えていた問題は最初からクリアーされている。時代の変化と、オリジナル作品であることで自然かつスムーズに解決されたね。

    • 「栄の退場」後、ショックを受ける家族全員を大広間側から、カメラを横移動させながらとらえるシーン。メガネのおばさん(声は『時かけ』のヒロイン)が、赤ちゃんにお乳をあげている。非常に分かりやすい。

    • 栄ばあちゃんは、物語の途中であんなことになってしまうが、あれ無しで何とか構成できないかな、というのを色々考えた。
      もちろん「かわいそうだから」とかではもちろん無く、あれが絶対必要な要素なのかどうか、ちょっと考えてみたかったのだが、映画という限られた時間だと、あれを入れて構成を組むのがもっとも分かりやすくて、流れもスムーズになるはず。
      ただ、もっとも効果的であるのを認めた上で、それに抗いたい気持ちに少しなった。


    • 細田守に何を求めるのか―私の場合


      私は細田さんに、情緒的な所は全然求めていないんですよね。
      求めているのは、構成が巧みで、視点が俯瞰的で、対比を重視して、展開を同時進行して、それをキレイに最後に全部回収して、というテクニカルなところなんですよね。テクニカルな「まんが映画」なところが好き。
      だから例えば、細田さんの作品で「泣く」ことはこれまで無かったですし、求めてもない。

      そういう意味では、『サマーウォーズ』はもっと悪ノリして「やりすぎ」て欲しかったという気がする。
      リアリティなんて、豚に食わせてもいいから、うまくいきすぎ、やりすぎな細田アニメが私の好みです。

      ■やりすぎサマーウォーズ

    • 後半の見せ場、花札決戦。夏希アバターの魔女っ子変身シーンで、てっきり栄ばあちゃんにもらった朝顔柄の浴衣にちなんで、朝顔柄に変わるかと思ったのに全然そんなこと無かった。ジョンも気がきかねーな!

    • 最後に温泉が湧きますが、温泉が湧くこと自体は全然いい。リアリティとかなんて関係なく、むしろ湧くべきだとすら思うが、温泉の「フリ」が無いような気がする。「フリ」した上で温泉湧こうよ。
      先に書いたように、湧いたのは、ラッキーガール夏希のおかげということでいい。

      そしてスタッフロールを後日譚のフォトアルバムみたいにして、一族みんなで温泉入ろうよ。
      いやがるカズマも湯船に入れて、カズマが女の子だという誤解にとどめをさそうよ。

    • 紅白まんじゅう等の、まんじゅうネタは回収されてるんだっけ?セリフは無かったと思うけど、背景にあったりしたんだろうか。そこまで確認できなかったけど。

    • 物語と並行して進行する高校野球の試合は、細田さんらしい要素なんですが、決勝戦の決着は問題解決後、いつのまにか着いてしまっていました。
      非常に分かりやすい要素なので、どうせなら最後も、やりすぎなほど、重ねるほうが好み。例えばこんな感じ。

      延長戦。ランナーを置いてのサヨナラのチャンスに、上田高校のピッチャー(陣内家)が平凡な外野フライを打ち上げる。ダメかと思いきや、なぜか敵外野手がこれを落球。サヨナラ勝ち。
      (もちろん、このプレイが行われている瞬間には、ケンジによる軌道修正が行われており、プレーの描写自体は当然省略される)
      アナウンサー「平凡な外野フライに見えましたが・・・なにか落下予測地点に誤差が生じたのでしょうか?風でしょうか?」
      解説「どうでしょうか?これはまさに、奇跡としかいいようがありませんね」

    • あとは、落ちてくる小惑星探査衛星を、エヴァ三体で受け止めたらよかったんじゃないかな。三体の配置は女のカンで。

      アスカ「思ったより、全然速いじゃない。私じゃ間に合わない!」

      ケンジ「よろしくお願いします!」(エンターキーを押す)
      落下軌道を微妙に変える小惑星探査衛星。

      シンジ「軌道が変わった!ミサトさん!」
      ミサト「605から607!急いで!」

      箱根から上田までは遠いけど、シンジさんが音速を越えて走ればきっと何とかなるよ。




    • 『サマーウォーズ』まとめ


      いい映画であることは間違いないのですが、細田さんにしては、同時進行イベントと、対比構造が弱いのでは、という印象を受けました。(もちろん、私は「やりすぎ」大好き病なんですけどね)
      リアリティや、話のつじつまやディティールを、勢いとスピード感でねじ伏せるような映画であれば、前半でまいておいた要素が全てクライマックスに向かっていく必要がありますが、(意図的でしょうが)回収していないものや、スムーズでないものもあり、全てが1点に集まるような感覚が私には味わえませんでした。
      私がノリ切れなかったのは、『ぼくらのウォーゲーム!』体験のせいでもなく、このあたりなのかな、という気が、この文章を書きながら何となくしてきました。
      リアリティがどうこうでもなく、家族やネット世界の描き方がどうこうでもないんですけどね。
      映画ってむずかしいですね。

      いろいろ書きましたが(妄想しか書いてない)、『サマーウォーズ』は金曜ロードショーで立派に放映できる映画です。
      そこが本当の『サマーウォーズ』のスタートなのかな、という気もします。
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