今までやったことないけれど、見た当日にちゃちゃっと冷蔵庫(自分の中)にあるものだけで1品つくるように書いてみます。
何も参照しないし、元々ウルトラマンに詳しくないし、書きたいところだけ書いて総論的なことは最初から放棄します。
※当社独自のネタバレ―ションテクノロジーにより、要するにネタバレしまくっています。未見の方はご注意ください。
TV版『シン・ウルトラマン』の総集編映画
総論としてまとめはしませんが、全体的な印象をいえば一種の総集編映画ではあるでしょう。
ウルトラマン登場前に「禍威獣(カイジュウ)」が何体か出現し、「禍特対(カトクタイ)」がそれを退治しています。
(この当て字をコピペするために、結局、Wikipediaページを見てしまった)
兵隊怪獣バボラーや、エーテル生命ゲゲラギロンもきっと退治されていることでしょう。
ウルトラマン登場後もいくつかの怪獣、星人が登場し、それらを撃退して映画は終わります。
開幕2秒で怪獣登場、即退治の流れに笑いましたが、まあ怪獣が出現する世界でないと、科学特捜隊は設立されないし、退治の実績もないと、対策の中心に置かれないし、で前史が必要と理解しました。
この映画を見て、『新世紀エヴァンゲリオン』を連想する人も多かったようですが、そもそもルーツのひとつですし、むべなるかな。
この、なんでいきなり「敵」が出現して、日本だけが狙われるのか、という当然の疑問を早めにうまく説明するのではなく、思わせぶりな謎にして、物語の興味として引っ張っていくメソッドってあの当時、本当に効果的だったなと思いますね。
もちろん『シン・ウルトラマン』では、もうそんなことはしていません。
ウルトラマン誕生と神永の献身
序盤、ウルトラマン登場と融合の流れ。
主人公・神永 新二(斎藤工)は、避難できていない子供を発見し、「私が保護します」的なことを言って、班長の田村(西島秀俊)も了承して、作戦本部を抜け出していく。
そして子供を保護し、ウルトラマンの地表衝突の衝撃から子供を守って命を落とす。
これがウルトラマン誕生の段取りだから流れは分かるんだけど、作戦本部には多数の自衛隊員がいるのに、5人しかいない「禍特対」のスーツ組の神永がわざわざ席をはずして、子供を保護しにいくのが不自然でもう少し何とか自然にならないのかな、と思えた。
この時の神永の献身は、ウルトラマンの心を動かすものであったと後に明かされるけれど、恐らく自衛隊員でも子供を守って命を落としただろう。同じことをしただろう。
これはただの偶然。そこに誰がいても同じことをするけれど、たまたま神永がその場にいて、命を落としたからウルトラマンになった、でもいいのかも知れない。が、その「たまたまその場にいた」がすごく不自然なんですよね。
例えば、神永が一人だけ外にいないといけない自然な理由を作るか、もしくは自衛隊員数名を連れて子供を保護にいくが、衝撃の瞬間にとっさに子供を抱えて吹き飛んだのが神永という感じで特権性を与えても良いのではないかと感じた。
ウルトラマンと彼
これは難癖ではなく、単なる素朴な疑問と前置きした上で。
『シン・ゴジラ』がそうであったように、ウルトラマンが存在しない世界に現れた銀色の巨人は「ウルトラマン」と呼称され、「彼」と呼ばれる。
これ、なんで「マン」で「彼」なんだろうな、と考えると色々と興味深い気がする。
ウルトラマンだから、マンだし、彼なのは当たり前だろう、という話なんだけど、例えばあれが本当に現実に現れたと想像するときに、マンで彼にするだろうか、いや人型ゆえに、そして人間の女性の身体的特徴が見えないゆえにやはりマンで彼になるだろうか、などと、どうでもいいことをマンで彼である私は思ったりした。
バディ関係を結ぶ者、上下関係を結ぶ者
この映画では、ウルトラマンと神永が融合してバディ(相棒)関係にあることを軸に、「禍特対」内での神永と浅見(長澤まさみ)とのバディ関係、さらにいえば、人類と外の星から来た知的生命体としてのウルトラマンとのバディ関係が強調される。
浅見と神永のバディ関係は、これがTVシリーズであればその関係性の構築をじっくり楽しめたことだろうが、総集編的映画なので、どうしてもそのつながりを支えるイベントが弱い(少ない)。
「禍特対」オフィスで、机を挟んで対面している浅見と神永だが、神永の机の周りにはテトラポッドが置かれている。
これはウルトラマンである秘密を隠している神永が、物理的にも心理的にも敷いている壁だろうが、これもTVシリーズであれば、その変化を色々と楽しめただろうと思う。(りんごが、切ったウサりんごになったり)
まあ、このテトラポッドは神永が人類に対しての消波ブロックの役割でもあることを示しているんだろう。テトラポットのぼって、てっぺん先にらんで、宇宙に敵飛ばそう。(「ボーイフレンド」の歌詞だとテトラポット)
その意味では、人間(日本政府)に従属を強いるザラブ星人はもとより、上位存在として認めろというメフィラスも当然、バディ関係は結べない。
だから単純に地球を襲うような怪獣より、そういう役割を果たせる外星人が選ばれたんだろうけれど。(でも、ウルトラ的な思い入れがあまりないので、ザラブ&ニセは省略できないかな、と思ったりもした)
そしてそれはゾフィー(ゾーフィ)にも同じことが言える。
メフィラスがウルトラマンとの戦闘中、ゾフィの監視に気付き、あれだけ地球にこだわっていたのに、やべーの来たからずらかるぜ、と身を引くのが面白かった。
確かに今作のゾフィーはやばい。
地球と人類を絶滅させるための兵器ゼットンを持ち込んでくるのがゾーフィなのだから。
発進!未完の最終兵器ゼットン
ゾフィーが発動させたゼットンが展開されていく。シルエットがロールシャッハテストのようだ。
これはまさに人類に対するロールシャッハテストなんですよ!(何か言っているようで何も言っていないコメント)
例の「1兆度の火球」で人類を滅ぼそうとするわけだが、記憶が確かなら、これに対する神永の説明が足らないのでは。
ゼットンが展開を終わり、「1兆度の火球」を放つまで、ある程度の時間がかかることを説明するセリフが無かったように思う。
これは具体的でもいいし、単に曖昧に時間がかかることだけを伝えてもいいと思う。
これが分からないので、いわゆる人類滅亡へのカウントダウンのスケールがうまく掴めなかった。
実際に、作中ではウルトラマンがゼットンに挑んで敗北。入院して、「禍特対」で滝がヒントを掴んで、国際会議も開き、対策を考えて、神永が目覚めて、再びゼットンに挑むまで、結局最後まで「1兆度の火球」は放たれない。
タイムサスペンスが無いなら無いでもいいと思うんだけど、結果から言えば「1兆度の火球」自体は特に人類の脅威では無かった。
あと映画見る前にTwitterで見かけた「ガンド・ロワ」はこれのことか、と納得もした。
決戦前。浅見に「行ってらっしゃい」と送られ、「行ってくる」と答えて変身し、ゼットンに向かうウルトマン。
作戦は成功し、帰還しようと必死で飛ぶがついには逃げ切れない。
ここはもう素直に見ながら、「ごめんキミコ、もう会えない!」だな、と思いながら見てました。
―― 1万2千年後。
ウルトラマンが太陽系に辿り着き、地球を見れば、地球には明かりが無い。
ああやはり、私がいない間に人類は外星人によって滅ぼされてしまったのか。
そうウルトラマンが思った瞬間、地上に小さな明かりがつく。
そのひとつひとつの小さな明かりが集まり、ひとつの言葉が浮かび上がっていく。
山本耕史「オカエリナサイ、私の好きな言葉です」
メ、メフィラス!<『シン・ウルトラマン』完>
境界線上の、狭間の存在ウルトラマン
色々といびつな所や思い切って割り切ったところもある映画で、『シン・ゴジラ』を同じく完璧さを目指した作品ではそもそも無いと思うので、それらがあることは前提として呑み込んだ上で、ウルトラマンなどへの思い入れなどで加点すればよく、いわゆる減点法で語っても、あまり意味がない作品ではあるでしょう。
私個人は、幼少期はウルトラマンと仮面ライダー大好きっ子でしたが、その後『機動戦士ガンダム』に出会ってから、そちらへ行ってしまった人間です。
幼少期のアルバムを見れば、すべて光線ポーズかライダー変身ポーズで写真に映っていたのに、ある時期から棒(ビームサーベル)を構えた姿に変わる。ここでガンダムを見たという境目が一目瞭然。
それからはウルトラマンを追い続けてはいませんが、それでもカイジュウとウルトラマンのバトルを十分楽しみました。迷っている方がいれば、見てみると良いと思います。おすすめします。
特撮やウルトラマンに詳しい方は、この作品をより楽しめると思いますが、私程度でも十分楽しめるのは、マーベル映画シリーズ(MCU)などと同じですね。
幼少期の私を思えば、子供視点とか民間人視点とか一切なかったなと思いますが、子供の頃、あてがわれたような子供視点キャラは好きではなかったし、作り手側的にも得意でないことはやらず、得意なことにリソースを費やすという意味では妥当(こういうのも完璧さではなく割り切りの選択)なのかな、とも思います。
そして、ウルトラマンと人間・神永が融合し、中間的な、境界線上の存在になったのを見て、やはりこれこそ主人公の王道のひとつだなと感じました。
ウルトラマン側から見れば、言ってしまえば『アバター』や『ラスト サムライ』であり、外部から来ながら現住人類に興味を持ち、そちら側に立つことにした男の物語でもある。
これは富野作品でいえば、『聖戦士ダンバイン』のショウ・ザマであったり、『∀ガンダム』のロラン・セアックだったりします。
ということで、何の話をしても最後は富野作品の話をしてしまう、というのがアドリブの書きなぐりでも証明されたところで、終わりといたしましょう。
普段は、富野由悠季ロボットアニメを中心にした記事を書いています。
もし興味があれば、以下の目次ページから良さそうな記事を物色してみて下さい。
【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
※「え? 父の日……?」と戸惑いの諸兄へ
本記事は父の日(6/20)用に準備していたものだが、諸事情により遅れに遅れたことを読者諸兄には謝らなければなるまい。ただ「父の日の気分で書いたんだな。そのつもりで読むか」程度のことは、当ブログの読者であれば可能であろうし頼まれなくてもやって頂きたい。
ということで今回の主役はテム・レイですが、その前に私自身の父の話を前座として少しだけ。
私の父は1年半ほど前に自宅で倒れ、小脳梗塞で入院。
一時は、ICUみたいな所に入っていましたが、幸い一命はとりとめ普通の病棟に移りました。
ただ入院初期には、脳の異常がなせるわざなのか、幻覚や奇妙な言動がいくつか見られました。
「気をつけろ! ロシアが俺を拉致しに来るぞ」
「今、筆を持てばダ・ヴィンチを越えるものが描ける」
普段とは明らかに異なるレベルの高い発言に、我々家族はそれを爆笑7、心配2、マジヤバ困惑1、程度の比率で対応していたのを思い出します。
命が、しかも意思の疎通もとれる状態で助かったのは本当に幸いなのだけど、そこにはテンション高めに妄想を語り、微妙に話が通じない父がいる。
もしかしてアムロがサイド6で再会した父テム・レイに抱いたような感情はこういう感じだったのかな? と、その時本当に思ったのでした。(現実をつい「これフィクションで見たやつ」と思ってしまいがち)
主人公アムロ・レイの父親テム・レイとは
テム・レイは、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイの父親です。
彼の基本的なプロフィールとして、ひとまずWikipediaの記述を引用しておきましょうか。
地球連邦軍の技術士官であり、階級は大尉。本編の主人公アムロ・レイの父親で、妻はカマリア・レイ。V作戦の中心人物であったとされ、モビルスーツ (MS) ガンダムの設計にも大きく関わっている。元々はスペース・コロニーの建築技師であるとも言われ、一年戦争勃発と同時に軍に移籍したという。登場回はテレビ版の第1話・33話・34話、劇場版三部作は『機動戦士ガンダム』・『機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編』である。
Wikipedia:テム・レイ
テム・レイというキャラクターが物語上なにをしたかと言えば、アムロが乗る事になるロボット(モビルスーツ)「ガンダム」を作った人、という事になるでしょう。
ですがこれは結果の話であって、別に息子を乗せる為にガンダムを作ったわけではありません。
ではテム・レイはどういう目的で、何の為に作ったのでしょう?
これに関しては、『機動戦士ガンダム』第一話で、若い連邦士官ブライト・ノア相手にテム自身がはっきり語っています。これはテム及びブライト・ノアの初登場シーンでもあります。
ブライト 「伝令。レイ大尉、サイド7へ入港いたしました。至急、ブリッジへおいでください」
テム・レイ「ん、了解した」
テム・レイ「ブライト君といったね?」
ブライト 「はい」
テム・レイ「何ヶ月になるね? 軍に入って」
ブライト 「六ヶ月であります」
テム・レイ「19歳だったか?」
ブライト 「はい」
テム・レイ「ガンダムが量産されるようになれば、君のような若者が実戦に出なくとも戦争は終わろう」
ブライト 「(アムロの写真を見て)お子様でらっしゃいますか?」
テム・レイ「ああ。こんな歳の子がゲリラ戦に出ているとの噂も聞くが、本当かね?」
ブライト 「はい、事実だそうであります」
テム・レイ「嫌だねえ」
自分たちが作る新兵器「ガンダム」によって戦争が少しでも早く終われば、ブライトのような若者が戦う必要がなくなると。
だからテムは「ガンダム」を作るのです。
職場のデスクの上に我が子アムロの写真を飾っていたりもして、父親としても彼なりに息子への愛情をもっていることは表現されています。
息子アムロと同世代の子供が戦場に出ているという現実に関しても、嫌悪感を示しています。
このあたり極めてまともな大人の感性といえるでしょう。
もちろんテムは優秀な技術者ですから、自分の技術を戦争に投入することには熱心です。
だからといって別に、マッドサイエンティストでも人格破綻者でもありません。
自分がすべきことは「ガンダム」を開発し、戦局を変え、戦争を早く終わらせること。
ただ、新兵器投入→連邦勝利=戦争終結=平和と考えるのは、やや単純というかピュアというか、恐らく政治的なものには疎いんだろうな、と思われます(技術者としての瑕疵ではないが)。
また、考え方としてはマクロのみであって、ミクロの視点は欠けています。
「ガンダム開発者」として、このあたりのしっぺ返しをテムは受けることになります。
主人公アムロ・レイの父親テム・レイとは
コードネームは作戦V。ということで開発される「ガンダム」は、戦局を変え、戦争を早期集結に導けるほどの兵器であると自負するテム・レイ。
考え方にもよりますが、実際にマクロの観点でテム・レイの仕事を見た時、一年戦争でのデータ集計や統計学的には総犠牲者数を減らすことに貢献した可能性もあるかも知れません。
もしかすると、ジオン・連邦関係なく若者の犠牲が、テムの希望どおり、少し減ったのかも知れない。
ただし、これはあくまでもデータとしての子供(若者)であって、ガンダムが戦場で活躍するたびに目の前で失われるものについては恐らく関心の埒外にある。
ましてや自分の息子が少年兵となってガンダムに乗り込み、人殺しをしながら戦争終結まで戦い抜く、という可能性のリアルに関しては全く想定していない。想像が及んでいない。
だからテムの中では以下の3点が並列に存在する。
・愛する我が子アムロ
・息子と同世代の子供が戦場へ出ている現実(イヤな世の中だねえ…)
・私の作るガンダムは戦局を変え、戦争を終結させる
しかし、それぞれは何もつながってはいない。
心情的にもつなげたくないのは分かるが、恐らくそういう可能性すらも考えていないと思われる。
だが皮肉なことに『機動戦士ガンダム』とはこの3つが全てつながる物語。
つまり、愛する我が子アムロが、ガンダムで戦場へ出て、戦争終結まで戦うのだ。
アムロ・レイは父テム・レイのことを何と呼ぶか
『機動戦士ガンダム』第一話で、いくつかの偶然による必然の決断とも思える、巧みな物語誘導で父の作ったガンダムに乗り込むことになる。
その直前、フラウ・ボウと別れてから、ガンダムへ向かうアムロとテム・レイが出会う。
これが第一話、そして物語中での父子の初めての対面であり、次に話すのは実に第33話となる。
少し会話を引用してみよう。
訓練された兵士は、以下のやりとりを読むだけで場面が思い浮かぶはず。
アムロ「父さん」
テム 「第三リフトがあるだろう」
連邦兵「リフトは避難民で」
アムロ「父さん」
テム 「避難民よりガンダムが先だ。ホワイトベースに上げて戦闘準備させるんだ」
連邦兵「はっ」
アムロ「父さん」
テム 「ん、アムロ、避難しないのか?」
アムロ「父さん、人間よりモビルスーツの方が大切なんですか?」
テム 「早く出せ」
アムロ「父さん」
テム 「早くホワイトベースへ逃げ込むんだ」
アムロ「ホワイトベース?」
テム 「入港している軍艦だ。何をしている」
連邦兵「エ、エンジンがかかりません」
テム 「ホワイトベースへ行くんだ」
テム 「牽引車を探してくる」
アムロ「父さん」
こうして見ると、アムロが何度も「父さん」と呼びかけているのが分かりますね。
東京03飯塚なら
「父さん?」「ホワイトベース?」「父さん?」「ホワイトベース?」「父さん?」
と、2つの言葉を異なるニュアンスで繰り返すだけで爆笑がとれる気がする。
ここでアムロに「人間よりモビルスーツの方が大切なんですか?」と責められているが、先に説明したとおり、マクロだけでミクロが無いテムからすれば、目の前の避難民より、ガンダムで救える(とテムが信じる)多数を見ているわけで、テム・レイという人間としては一貫している。
だから血も涙もない冷血な人間というわけではなく、単に「こういう人」であるに過ぎない。
もちろんこれは、人々が死ぬのを目の当たりにし、フラウ・ボウを港へ走らせた上で、涙をふりきって逆方向に走り出したアムロと対比になっている。
アムロが第一話でガンダムに乗り込むのは、テムの目には見えてない、身近な人々のため。
ちなみにアムロがテム・レイの事を呼ぶ時、第一話だけでも3種類の言い方が使い分けられている。
1つめが先程紹介した、テム・レイ本人を呼ぶ時の「父さん」。
2つめは「父」。これは当然、他者に対して。
アムロ「父を捜してきます」
フラウの祖父「アムロ君」
避難民「君、勝手に出てはみんなの迷惑に」
アムロ「父が軍属です。こんな退避カプセルじゃ持ちませんから、今日入港した船に避難させてもらうように頼んできます」
そして3つめは「親父」。これは身内感覚のフラウ相手や、独り言のときのみ使われる。
フラウ「ここも戦場になるの?」
アムロ「知らないよ。親父は何も教えてくれないもん」
アムロ「コンピューター管理で操縦ができる。教育型タイプコンピューター。すごい、親父が熱中する訳だ」
これらの台詞。例えばすべて「親父」や「父さん」で統一することも可能です。
でもアムロ・レイというキャラクターは、他者の前ではきちんと「父」と呼び、一方でフラウ相手や独り言では「親父」などと呼ぶが、決してテム・レイ本人の前では「親父」とは呼ばず、「父さん」と呼んでいる。
そういう使い分けをする、できる、デリケートなキャラクターとして表現されています。
この「父をなんと呼ぶか」問題。
個人的にはフィクションだけでなく現実でも重要だと考えていて。
例えば、私自身がアムロと全く同じ使い方なんですよね。友人と話すときに「うちの親父が……」などと言うけれど、父本人に対して普段「父さん」か「お父さん」としか呼ばない。本人の前で「親父」と呼んだことはない。
(そういう意味で関西弁の「おとん」「おかん」は、むちゃくちゃ便利な言葉)
大人になればいつか「親父」と呼びながら、一緒に酒を飲んだりするのかな、とか思ってましたが、「父さん」のままでしたね。
これは各父子での微妙な人間関係に基づくので、どの呼び方をすべきとか正しいとかは無いのですが、大人になる過程で呼び方が変化する人、しない人、それぞれいるようです。
ちなみに妹が父を呼ぶ時は「下の名前で呼び捨て」もしくは「クソジジイ」。
これが通るどころか、父さ……親父本人もまんざらでもなさそうな所が、父娘、父息子の関係の違いだな、と思っています。
そういう意味で私は、アムロのこの呼称の使い分けがすごく分かるタイプ。
アムロが持つ、父テムとの微妙な距離感はもちろんですが、けして父が嫌いではないし、ある種の敬意なんかも感じるんですよね。
アムロ・レイ、初戦闘でのたったひとつの過ち
この後、アムロはガンダムに乗り込み、初戦闘で2機のザクを撃破します。
テム・レイは、素人であるアムロがガンダムに乗っているのを知らないので、その戦い方の下手さに怒ったりもしています。
連邦兵「技師長、味方のモビルスーツが動き始めました」
テム 「動く? なんて攻撃の仕方だ。誰がコクピットにいる?」
私が設計したガンダムがあんな操縦で……なんて日だ!
などと思っているのも束の間、アムロが1機目のザクを撃破した際に、爆発させて出来たコロニーの大穴にテムは吸い込まれて、宇宙に投げ出されてしまいます。
これで33話まで出番なしで、再登場のときはもうあれなので、事実上ここで死んだようなものです。
第一作『機動戦士ガンダム』での最初のザク撃破は歴史的な1ページといっていいですが、同時に主人公アムロによる「父殺し」が行われたということでもあります。
ガンダムが最初に葬ったのはジーンのザクと、生みの親テム・レイです。
テムの役割上、ガンダムがアムロの手に渡れば、退場させてもよいキャラクターだとは思います。
ただその退場を、ジオン軍の攻撃で殺されてしまい、アムロはジオンと戦うことを誓う……などには全く使わない。
父親の喪失は動機設定にすら使われない。
それどころか「スペースコロニーに穴が空く」という宇宙世紀ならではの危機とそれによる悲劇を第一話で伝えるためのサンプルに使われているのが恐ろしい。
それはモブだけでなく、ガンダムの開発責任者という重要人物(ネームドキャラ)が一瞬にして失われることでより効果的になるだろう。
その原因はザクではない。初めてガンダムに乗った「素人」の下手な運用のせいだ。
つまり主役ロボット・ガンダムの強さとアムロの未熟さとがコロニーに穴を空ける、という展開が選択されている。
そのためには必然的に、第一話の敵役として、ザクは最低2機必要になる。
アムロの未熟さゆえに爆発させてしまう1機目。
そしてアムロの非凡さゆえにコクピットのみを貫く2機目。
アムロはぶっつけ本番でザクを2機撃破し、しかも2機目は問題点をきっちり修正している。
しかし、そのたった1度の失敗に対して与えられるペナルティが容赦ない。
マクロだけで目の前の人々(アムロ含む)のことは眼中になかったテムと、目の前の人々の為だけに衝動的にガンダムに乗ったアムロ。まるで双方への罰であるかのようだ。
さらにいえばこの後、テムが失われた事について、彼を知っているアムロやフラウ、直前に会話を交わしたブライトも含めて、誰もテムのことを気にすること無く物語は進む。まるで最初からそんな人物はいなかったかのように。
※追記
テムに対する言及について、Twitterでご指摘頂きました。完全に意図的ですね……。
そのセリフの存在忘れてました!(調べが甘い)調べてみると、第4話「ルナツー脱出作戦」のラストですか。逆に言えば、このつぶやきまで無いのか。仰るように、つぶやく場面がよりによって、人を宇宙に流すところなのは、完全に意図的なんでしょうね。
— HIGHLAND VIEW (@highland_view) September 23, 2021
父の喪失はあらゆる意味で、今後のアムロの行動動機として影響を及ぼすことなく、ここからは「君は生き残ることができるか」だけで物語が進んでいく。
そして最終回の2話手前、第41話「光る宇宙」まで行ったところで「別に戦う理由ないよね?」と突っ込まれる。
ララァ「なぜ、なぜなの? なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」
アムロ「守るべきものがない?」
ララァ「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」
アムロ「だ、だから、どうだって言うんだ!?」
そう理由はない。
一年間のテレビシリーズを続けなければいけないから戦うのだ。
おもちゃやプラモを売るから色んな敵と戦うのだ。
全43話に決まったから予定より多少コンパクトに戦うのだ。
ザクとガンダムが戦うのは、セ・リーグとパ・リーグが戦うぐらいの理由でしかない。
主人公の絶対的な動機が無いまま、最終ステージまで持っていくのが本当にすさまじく、またこれがラストへの重要な布石になるという意味で、大変すばらしい。
ちなみに『機動戦士ガンダム』の中で、アムロにもっともダメージを与えた攻撃はシャアでもジオングでもなく、ララァによる「あなたには何もないし戦う理由もない」という指摘だろうと思う。
アムロは全く反論できていない。
サイド6。それは人と人とが交わる、出会い系中立コロニー
第33話「コンスコン強襲」でアムロは父テムと再会する。
場所は中立コロニー・サイド6。
第1話以来の登場となるテムだが、この回でのアムロとのやりとりは驚くほど少ない。
ここでは、第33話におけるアムロとテムの会話をすべて引用してみよう。
サイド6でアムロは父テムに似た後ろ姿を発見し、それを追う。そして。
アムロ「父さん!」
テム「おう、アムロか」
アムロ「……父さん!」
テム「ガンダムの戦果はどうだ? 順調なのかな?」
アムロ「……は、はい。父さん」
テム「うむ、来るがいい」
アムロ「はい」
アムロは連邦軍の制服を着ているので、元連邦軍所属のテムは気づくとして。
「ガンダムの戦果はどうだ?」と、アムロがガンダムのパイロットである前提でいきなり尋ねている。
しかし前述したように、テムはガンダムに乗り込んだのが誰なのかは、知らないまま宇宙に投げ出されたはず。
ガンダムのパイロットが誰なのかは視聴者が知っているのは当然だが、いわゆる一般市民がガンダムのパイロットの正体を知っているとは思えない。
テムは元軍所属ですが、今や色んな意味で一般市民、下手するとそれ以下の知識しか持ち得ないと思われるし、ましてやアムロは、軍の重要機密に触れるモビルスーツにどさくさで乗り込み、しかもキャリアわずか数ヶ月の少年ですからね。
でもテムは、アムロがガンダムのパイロットであるというのが当然のように話しかけ、アムロはそれが父に期待した再会のひと言目では無かったにも関わらず、話を合わせ、テムの住居に向かう。
テムがアムロをガンダムのパイロットと認識しているのは、はっきりいえば事実関係としてはおかしいはず。
だが、テム自身の状況を前提に、子の期待に反し、久々に再会した子をガンダムパイロットとしてしか認識していない、という点が絶妙で、はっきりいってこの会話が圧倒的に正しい。
お互いの身の上を話す、という段取りを省略できるだけでなく、その省略こそがアムロにとって残酷なものになっている。
すばらしい会話とその演出だと思う。
先に、アムロとテムの会話が驚くほど少ないと書いたが、それはこのような残酷な省略によるもので、この父子はすでにそういった会話を長々と交わす状態には無い。
テムは、アムロを今の住まいであるジャンク屋の2階に案内する。
テム「ほら、何をしている、入って入って」
アムロ「こ、ここは?」
テム「ジャンク屋という所は情報を集めるのに便利なのでな。ここに住み込みをさせてもらっている。こいつをガンダムの記録回路に取り付けろ。ジオンのモビルスーツの回路を参考に開発した」
アムロ「(こ、こんな古い物を。父さん、酸素欠乏性にかかって)」
テム「すごいぞ、ガンダムの戦闘力は数倍に跳ね上がる。持って行け、そしてすぐ取り付けて試すんだ」
アムロ「はい。でも父さんは?」
テム「研究中の物がいっぱいある。また連絡はとる。ささ、行くんだ」
アムロ「うん……」
「父さん、僕、くにで母さんに会ったよ」
「父さん、母さんのこと気にならないの?」
テム「ん? んん。戦争はもうじき終わる。そしたら地球へ一度行こう」
アムロ「父さん……」
テム「急げ、お前だって軍人になったんだろうが」
アムロはテムの部屋から飛び出して、帰り道でテムに渡されたパーツを道路に叩きつける。
大変有名なシーンのひとつですね。
このパーツは、テムによれば、ガンダムが限界突破してレベル上限も上がる。4凸も夢ではない。
という触れ込みだったからか、「性能上がるかも知れないからダメ元で試してみればよかったのに」と、結構本気で言ってた人を見かけたことがある。というか、こういう人は今でもたまにいる気がしますね。
・アムロが一瞥しただけで古い回路と見抜けるほどの代物
・ろくな設備もない、ジャンク屋の粗末な部屋
・酸素欠乏症で変わり果てた父
これらの判断材料が揃った上での、父との決別のシーンなのに、アムロが 「うーん、ダメ元で試そうかな。性能が上がればラッキー。ダメなら捨てればいいし」 って思いながら、大事に持ち帰るってこと?
リサイクルショップの2階に住んでる認知症の父が、そのあたりのガラクタで作った部品を渡し、これをお前のPCやスマホに取り付けたら、処理速度が数倍に跳ね上がるぞ!と聞いて、あなたダメ元で取り付けますか、という話です。
父がそんなものを真剣に作り、語っていることに絶望して、帰り道で叩きつけるしかないでしょう。
このシーンはそれを許す構成にそもそもなっていないので、「ダメ元で試す」自体がありえないと思います。
フィクションは作りもので、ある意図をもって展開を構成しているので、それを無視して結果だけ変わるというのは原則ないからです(成立するなら構成の方が間違っている)。
逆に言えば、構成が変わればありえるので、アムロが父に期待をわずかに残すような鋭い発言をテムがしたりとかすれば、パーツをダメ元で取り付ける、などの展開もありえないではないかも知れません。
例えばまだ誰も指摘していない、アムロの操縦技術にガンダムの反応速度が追いついていない、ということをテムが指摘し、アムロが衝撃を受け、もしかして父さんは技術者としてはまだまともなのでは(そうであってくれ)……と半信半疑でホワイトベースに帰り、ドキドキしながらガンダムに取り付けてチェックしたら、そこで正真正銘のゴミと分かって、コクピットの中でひとり絶望する……。
などのシーンに変化させることは出来ると思います。
ただ、手間と尺がかかる割には実際のシーンより面白いというわけでもないので、やはりあの短いシーンで全て分かってしまい、お別れとなるのがベストなのではないでしょうか。
テム・レイを酸素欠乏症にしたのは誰か
テム・レイとの再会シーンで、もうひとつ検討可能性があるとすれば「テムが酸素欠乏症になった原因を、アムロが知る(気づく)かどうか」かなと昔から思っています。
テム「ジャンク屋という所は情報を集めるのに便利なのでな。ここに住み込みをさせてもらっている。こいつをガンダムの記録回路に取り付けろ。ジオンのモビルスーツの回路を参考に開発した」
アムロ「(こ、こんな古い物を。父さん、酸素欠乏性にかかって)」
テムの変わり果てた姿が酸素欠乏症によるものである、というのは基本的には視聴者の為の台詞(説明)だと思いますが、その事にアムロは早くに気づいています。
宇宙世紀時代の酸素欠乏症は素人や子供でも分かる病気なのかも知れないが、医者でもないアムロがいきなり断定的に真相を突く。
冷静に考えればやや不自然だと思うが、テムが最初からアムロをガンダムパイロットとして認識したのと同じく、限られた時間でもっと大事なことをやりとりするための最短手と思えば、処理としては特に問題ないと思います。
テムとは逆に、この時期のアムロはそれぐらい鋭くともそれほど不自然に感じないというのもプラスに作用します。
ただアムロは、父の状態には気づくものの、どういう原因で彼がそうなったのかについては何も言いません。
アムロは実は気づいているけどモノローグも含めてスルーしていて……という仮定は個人的には無いかと思っています。
なぜならばここでアムロが、テムの酸素欠乏症(宇宙漂流)の原因に気づくという要素を入れると、恐らくそちらで頭がいっぱいになってしまうはずで、シーン自体の軸もそちらへ動くし、サイド6での父との別離もしづらくなる、などの問題が色々発生してしまいます。
だから、アムロは酸素欠乏症には鋭く気づくが、その原因については鋭く気づかない。
あえてそういう処理がされていると思います。
もし気づいているなら、別の演出になっていると思うので。
結果として本編は、アムロが決定的なこと(原因)には気づかないようにするが、酸素欠乏症の情報は出したい、といった結構難しい情報のやりとりになっていると思います。
これに気付く(思い出す)のは、受け手の仕事です。
アムロは気付いてない。酸素欠乏症のテムは恐らく何があったのか語れない。
視聴者の我々だけは、テムがなぜああなったのか、その原因を知っている。
このシーン、アムロの父に対する目線や想いとは別に、視聴者だけが持ちうる目線と想いがあって、それが良いのですよね。
再会時に、酸素欠乏症になって以前のテム・レイでなくなっているところが壮絶で本当に上手い。
アムロが何もないまま戦い続ける日々から逃れる選択肢がここでなくなってしまう。
サイド6でアムロと再会した時、テム・レイが元のままだったらどうだっただろうか?
アムロがパイロットで戦果を上げ続けていたことに、親として狼狽してガンダムを降りろと言っただろうか。
開発者として、過酷な戦場をガンダムと戦い抜いたアムロを誇りに思っただろうか。
それとも願いとは真逆に、子供が戦争に参加できるようなモビルスーツを作ってしまったことを後悔するだろうか?
その答えは永久に返ってこない。
ちなみに余談ですが、テムのように本人が変化し語れなくなってしまったので、「原因」との面会で、それが暴露されないままシーンが進む、という意味では、のちの『∀ガンダム』第10話「墓参り」を連想することもできます。
気を病んでしまったハイム婦人と、その娘キエル・ハイムの面会。
目の前にいるのが、我が娘キエルに扮したディアナ・ソレルであることを、ハイム婦人は指摘できる状態ではなかった。
夫の死の根本的な「原因」であるムーンレイスの女王を迎え入れたことは、「墓参り」でのキエル=ディアナの涙へととつながっていく。
ガンダムF91で反復されるガンダム開発者の親と子
兵器であるガンダムの開発に関わりながら、愛する我が子が兵器に関わるのを想像できないテム・レイ。
皮肉なことに、父の作ったガンダムで才能を発揮して戦う息子アムロ・レイ。
この構図は、ガンダム仕切り直しの『ガンダムF91』で再現されます。
この作品でのガンダムを作ったのは、主人公シーブックの母モニカ・アノー。
母モニカも、テム・レイと同じように優秀な技術者です。
しかし自分が開発に関わったガンダムF91に、息子シーブックが乗り、戦場に出ていると知ると狼狽します。
モニカ「自分の子が兵器を扱うなんて……こんなことのためにF91の開発に協力したんじゃありません!」
これに対しては、メカニックチーフのナントにすぐさま手痛い指摘を受けてしまいます。
ナント「じゃあ何ですか奥さん、お子さん以外の者が戦って死ぬのは構わないとおっしゃるのですか?」
これはナントも手痛い批判。ナントは夢の始発駅。
つまりモニカもテムと同じく、自分で兵器を開発していながら、そのコクピットに誰かの息子が乗り込み殺し合いをする、それは自分の息子かも知れない――そういうリアルを全く想定していなかった(できなかった)人です。
仕事としての兵器(ロボット)の開発にのめり込む一方で、自分の子供が意図せず戦争に参加していると聞けば、狼狽するのが人の親と言うものでありましょう。だからそれ自体は当然で普通だと思います。自分勝手な理屈だろうと、我が子だけは別。人殺しなんてしてほしくない。
(その意味でサイド6再会時のテムがもっとガンダムを活躍=人殺しさせようとしていた事に注目したい)
そんな母モニカですが、ラストでは息子シーブックに対して、きっちり親として彼をサポートすることになります。
宇宙漂流する命を救うガンダムF91
鉄仮面カロッゾ・ロナが操る、巨大モビルアーマー・ラフレシアとの戦いの中で、ベラ・ロナことセシリー・フェアチャイルドは父カロッゾによって、宇宙空間に投げ出されてしまいます。
これは『機動戦士ガンダム』とは逆の、大人が子供を、父が娘を宇宙に放り出す、というシチュエーションになっています。
自らを自らの手で改造した鉄仮面(エゴマシーン)によって、命が宇宙に流されてしまうわけです。エゴエゴエゴマシーン、エゴエゴエゴステーション。
ラストでF91と鉄仮面のフェイスが重なっていましたが、マシン(ガンダム・鉄仮面)が肉親の命を宇宙に捧げてしまう、という点で『機動戦士ガンダム』と相似します。
ラフレシア撃破後、セシリーを探そうと慌てるシーブックに、母モニカはガンダムのセンサーと息子シーブックのニュータイプのセンスを合わせることで、宇宙に漂う命(セシリー)を探すことを提案します。
シーブックがダメだ無理だと泣き言をいっても、叱り、諭し、激励して導きます。
カツ、レツ、キッカに出来て、うちのシーブックにできないわけないでしょ!立て。立ちなさいシーブック!(そんなことは言ってない)
その結果、ダイスロールでクリティカルを出したシーブックは、宇宙に漂う命――セシリーを発見することができました。
サンクス! サンクスモニカ!
これには、技術者でもありシーブックの母(親)であるモニカ、彼女がつくったガンダムF91、そして「パイロット適性」のある子供シーブックの3つの要素が不可欠でした。三位一体、一心同体三銃士です。
つまりモビルスーツという兵器の開発者と、開発されたガンダム、そしてそれに乗る息子が協力すれば、宇宙漂流していた命を助けることも可能だったわけです。
宇宙漂流して、我が子アムロと再会した時に、親らしいことが何一つできなかったテム。
いわばこれは「技術者(テム・レイ)が、自らが生み出したもの(ガンダムとそのパイロット)によって、宇宙漂流者(テム・レイ)を救うことができた」という構図であり、ガンダムという兵器を作ってしまった男、テム・レイの救済というか、鎮魂になるのではないでしょうか。なるといいね。なることにしておこう。
ガンダムをつくった技術者として、ガンダムパイロットの親の物語として、テム・レイから始まった絶望を、『ガンダムF91』において、モニカ・アノーにて再演している、と考えれば、『ガンダムF91』のラストによって救われたのは、宇宙に漂わねばならなかった命(セシリー、テム)はもちろん、親でもある技術者(テム、モニカ)、人殺しの道具として生まれたモビルスーツ・ガンダム、そしてガンダムのパイロットになってしまった子どもたち、これら全てでしょう。
だから映画『ガンダムF91』で描かれる物語は、全体のごく一部でありながら、ファーストの再演(仕切り直し)という意味では、きちんと映画で終わっているのではないかと思います。
もちろん、なぜそれを父と子ではなく、母と子によって達成させてしまうんだろう、という指摘はできるでしょうね。
ガンダムで親子の絆を取り戻せるのは母親で、父親は結局また妻に逃げられながら効率の良い人殺し方法を考えている……。
変える女性たちと、変わらない男性たち
実は『ガンダムF91』に登場する主要な女性たちは、本来与えられたポジションを自分で変えていく(いける)人々として描かれています。
ロナ家から飛び出したナディア。
家庭(母親)ではなく開発者を選んだモニカ。
クロスボーンから離反し敵方についたアンナマリー。
血縁であるロナ家から、シーブックと仲間たちの元へ帰ってきたセシリー。
女性たちはみな、本来のポジションから自分の意思で生きる場所を変えています。
その一方で、愚直なまでに自分たちのポジションで、生き方を変えられない男たち。
特に3人の父親、シオ、カロッゾ、レズリーは命を落とします。
(レズリーの守ったポジションは立派ですが、構図と対比として)
このあたりに、シーブックを導く大人として、女性、母親が選ばれたポイントがあるのかも知れません。
まあ有り体にいえば制作者の、自分には出来ないだろうという諦めと、それを女性に期待したいというある意味勝手な願望でもあるのでしょうが……。
細田守もそうですが、富野由悠季も、父親という自分自身も属する存在に対して、自嘲気味で諦観も感じます。そのため父親という存在自体を過小評価する傾向があるようにも思えます。(母性とのバランスが悪い)
繰り返す過ちが、いつも人を愚かな生き物にするわけですが、繰り返すだけの生き物でもないと思いたいですね。
というあたりで今回は終わりにしておきしょう。
余談や参考リンクなど、もろもろ
というわけで、おテムテムこと、テム・レイを中心としたお話でした。おテムテム……。
この記事では省略しましたが、物語上のテムとの最後の別れのシーン。
確か劇場版『めぐりあい宇宙』では、テムの死を暗示するような、アムロが自分の中の父を殺したのを示すようなカットのつなぎがある、というすばらしい記事を、おはぎさんが書いていらしたはずなのですが、私の探し方が悪いのか今見つけられなかったので、確認でき次第、ここに参考リンクとして追加します。
あとこの記事を書いてから知ったのですが、テム・レイのパーツが実はガラクタじゃなかった、という視点の話があるらしいですね。
酸素欠乏症でガンダム開発から外されて、サイド6で監視対象となっていたテム・レイ博士だったが、その頭脳は完全には破壊されていなかった為、ガンダムの強化機能を実現する回路の設計図は本物だった説を、そのまま漫画化。すごいぞ。
— ちおね@長崎 2nd (@1970Chione) August 23, 2021
これが存在するからといって特に何がどうなるわけでも無いですが、いろんなところからネタを拾って膨らませないといけないから、この業界も大変だな、とは思いました。機会があれば読んでみようかなとは思います。
それから、記事の細かい手直しをして公開する直前にバズってた、あでのいさんのツイート。
自分達が50、60の年齢になった頃、雁屋哲が海原雄山を、板垣恵介が範馬勇次郎を、庵野秀明が碇ゲンドウを「討つべき敵」として描かなくなり、「和解すべき肉親」として描くようになった一方、同じ歳の頃に富野由悠季だけは相変わらず横っ面に右ストレート叩き込みたくなる父親を描き続けていた。
— あでのい (@adenoi_today) September 13, 2021
ツイートは続いているので、ぜひ全体を読んでいただきたい。50、60喜んで(右ストレート)。
さらに、以前、坂井哲也さんが書かれた富野作品での父親に関する記事。
富野作品で、これまでと違うタイプの「主人公の父親」が描かれる日はくるか。
https://tominotoka.blog.ss-blog.jp/2018-08-02
大変すばらしい記事なのでぜひ読んで頂きたいですが、本記事との関連を見出すなら以下の箇所。
※太字強調、筆者。これは、ファンとしては非常に書きづらいのですが、富野作品における「主人公と父親」の関係って、濃淡の違いはあれど1種類しかないと思います。
自身の研究にしか興味がない父親と、それを拒絶する子、です。
父親なんてどうしようもないものだから、子供はこれを拒絶して生きていけばいい、というわけで、実際にアムロも「テム・レイ殺し」を二度ほどして成長していったわけです。
それは、先に書いたように、自分の父がそうだったし、自分自身もそうであるという諦念と自嘲もあるでしょうが、見方を変えれば「甘え」でもあるでしょう。
女性であり母であるモニカみたいに子供と向き合って導くことなど父にはできない。
こういう悲しい生き物なんだから許してね。
ということでもある。甘えでもあるし、研究開発(いちばん楽しいこと)を邪魔するなよというある種の脅しでもある。(なんか村上龍みたいになってきた)
こうしたところが魅力でもあるので難しいところだけれど、色々と踏まえた上で、坂井さんの新しい「主人公の父親」を見てみたいという意見に、私も全面的に同意したいと思います。
(坂井さんも丁寧に書いているが、富野の描く父親の否定ではない)
最後に。
『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンの父フランクリンは、前半の主役機ガンダムMk2の設計者で、これ自体は、テムとアムロの関係と同じです。
しかし、後半の主役機Zガンダムの基本設計はカミーユ本人のアイデア。
開発者の父にもらったガンダム(Mk2)は見掛け倒しのフェイク。
本当に乗りたい自分だけのガンダム(Zガンダム)は、自分の手で作ればいい。
この作品については、親の設計でなく、主人公の少年が設計した可変ガンダムこそが作品タイトルにもなる真の主役機である、という構造が重要かと思います。詳しくは以下をご覧ください。
Togetterまとめ:「ガンダムが「ガンダム」である意味」
https://togetter.com/li/630810
それではまた次回。
あ、そうそう、冒頭で書いた、小脳梗塞の影響で幻覚に踊り、妄言を吐いていた私の父。
症状が落ち着くとすっかり元の状態に戻りました。つまらないけど、戻ってよかった。
ただしその後、何か都合の悪いことになると、「俺は脳の一部が死んどるから仕方ない。そう責めるな」とやたら言い訳に使うクソジジイになりましたので、流せるものなら宇宙に流したい。
カイ・シデンは人が神様になれることを信じるか <ガンダムUC『獅子の帰還』と、人が世界を変えるための正攻法の話>
アニメ富野由悠季ガンダムZガンダムガンダムUCカイ・シデンシャア・アズナブル
2021-06-11
その『獅子の帰還』には、『機動戦士ガンダム』に出演していたカイ・シデンが登場して、この小説での主人公リディ・マーセナスに対して、こう話す場面があるという。
「神様に片足突っ込んだ馬鹿を友人にしちまったのは、君だけじゃない」
カイ・シデンのセリフと考えると、なかなか興味深いと思いませんか?
今回はこの一言のセリフだけをよすがに、1本書いてみることにします。
神様に片足突っ込んだ馬鹿とは誰か
『獅子の帰還』は、このBlu-ray BOX初回限定版の特典として、脚本が付属したのが初出らしい。
その後、ドラマCDにもなり、今はマンガ化もされているようだ。
私はいずれも読んでいないが、現在も将来的にも恐らく読みそうにないので、Wikipediaの記述を頼りにすることにしよう。
Wikipedia:「カイ・シデン」には、『獅子の帰還』に登場する彼についてこう書かれている。
連邦から釈放されたリディ・マーセナスに11月12日に接触し、「バナージ・リンクスは生きている」と告げ車に乗せる。情報局の尾行をまくためにハンドルをさばきつつ、ミネバ・ラオ・ザビを戦争の矢面に立たせないために、リディを争いに巻き込まないために、バナージは消えるしかなかったと説明する。バナージの生存を確かめたいと言うリディに対し、命がけの覚悟が必要と諭しつつも、「必要な情報はくれてやる」と告げる。なぜ自分にそこまでしてくれるのかと問うリディに対し、「先輩風を吹かせたかったんだろうよ。神様に片足突っ込んだ馬鹿を友人にしちまったのは、君だけじゃない」と答えている。
Wikipedia:「カイ・シデン」
検索して、いくつか調べてみたが、このとおりのセリフが登場するのはどうやら事実のようだ。
カイが言う「神様に片足突っ込んだ馬鹿(友人)」とは、当然アムロ・レイのことでしょう。
ということは、アムロもバナージも同じ「神様に片足突っ込んだ存在」であると、カイが語ったことになる。
『機動戦士ガンダム』で「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」とまで言ったあのカイ・シデンが、『逆襲のシャア』と『ガンダムUC』後のこの時代には、アムロ・レイを「神様に片足突っ込んだやつ」と思うように変化したのだ、という解釈なのだろうか。うーん……。
逆シャアのラストを見て、あれは「神様に片足を突っ込んだやつ」とサイコフレームがあれば起こせる、再現性のある説明可能な現象(なんたらショック)なのだ、という立場でいくと、そういう解釈になるのかな。
神様になる方法は逆立ちではなく、足を突っ込むことだったんだな。
どこをどうを突っ込めばいいのかは分からないが。
逆立ちしたって人間は神様にはなれないとは何か
復習と確認を兼ねて『機動戦士ガンダム』での「逆立ちしたって…」の場面を引用してみよう。
第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」にて、出撃前の作戦会議にてアムロが、ニュータイプの立場で「作戦は成功します。あとビットコインは買いです」と皆に断言します。
そのあと、出撃の為にエレベーターで降りていく場面。
カイ 「さっきお前の言ったこと、本当かよ?」
アムロ 「嘘ですよ。ニュータイプになって未来の事がわかれば苦労しません」
セイラ 「アムロにああでも言ってもらわなければみんな逃げ出しているわ、恐くてね」
カイ 「そりゃそうだな。逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」
一年戦争の時、カイ・シデンは、アムロと同じようなタイミングでモビルスーツに乗り始め、その後ずっとアムロの後ろで戦っていた。
アムロが自分達とは何か違うことについて、よく分かっている人間のひとりだろう。
そのアムロが、みんなの為に「優しい嘘」をついたことを知って、カイは「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」と言う。
ここでの「人間」は、アムロ個人のことでもあるし、人類全体のことでもある。
「逆立ちしたって」というのは、どうやっても、どうあがいても実現できない、という言い回し。
つまりカイは、アムロにはちょっと違うところもあるけれど、結局は自分たちと同じただの人間であって、都合のよい便利な存在(神様)ではないし、なりようもない、と結論づける。
ニュータイプ様の「優しい嘘」はありがたく受け取った上で。
「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」はいかにもニヒルなカイ・シデンらしい台詞ではあるけれども、それはニュータイプという道具の不完全さを皮肉っただけでなく、同時にアムロ個人を、自分たちと少し違うだけの同じ人間と定義づけている言葉で、個人的にはどちらの意味も重要だと考えている。
この後のア・バオア・クー戦で、カイも他のホワイトベースクルーと同じく、頭に直接響くアムロの声を聴く。
しかしカイと仲間たちに特に驚いた様子はない(もちろん余裕のある状況ではそもそも無いが)。
姿なき声だけで人々を導く、という状況だけを見れば、人によっては「これこそ神様に片足」と思うかも知れないのに。
このあたりは最終回としての畳み掛けるような処理ではあるのだけど、ホワイトベースという共同体が長い時間をかけて完成した上に、事前にカイによる「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」――つまり、多少人と違う事が出来ても同じ人間でしかない、とこの作品でのニュータイプを結論づけているので、ホワイトベースクルーが自然にこれを受け入れていることに不自然さは感じない。
アムロからの皆への心の呼びかけは、おチビちゃんたちが脱出するアムロに呼びかけ誘導する形で返される。
ランチ(脱出艇)の上で、両手を広げ、アムロを迎え入れるホワイトベースの仲間たち。
このランチの上の人々のニュータイプ的な能力、感度は実にバラバラだ。
高い人もいれば低い人もいるだろう。カイ・シデンも別に高い方ではない。
でもそのことは、ホワイトベースに偶然乗り合わせた仲間たちの中では何も問題にならない。
だからこそ、アムロはニュータイプの自分にとってあまりにも魅力的な、同種のニュータイプであるララァの世界を振り切って、同じ人間として生きる仲間たちが待つ世界へ帰還することが出来た。例え人間の世界が色々大変でも。
(と、書くとエヴァ旧劇的な要素も内包していると分かる)
『機動戦士ガンダム』最終話のサブタイトル「脱出」は、炎上する宇宙要塞ア・バオア・クーからの脱出は当然として、もうひとつの意味は、甘美なララァとの世界から抜け出せるかということだろう。
そのためにアムロは、外が見えない状態のコアファイターで宇宙要塞の産道を通って外の世界へ「脱出」するのだが、そこには待ってくれている人たちがいた。アムロを祝福し歓迎してくれる人たちがいた。
ちなみに、シャア・アズナブルの最期も限りなくこの状態に近い(モニターが死んだ脱出カプセル)のだが、彼を待っていたのは母なる地球の大気圏と断熱圧縮の熱だけだった。
神様になれない人間が、世界を変えるためには
『逆襲のシャア』劇中では、シャアがアムロに対して「今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ!」と迫るシーンがある。
もちろんこんな事は神様だってやったことない無理難題です。
シャアもそれは分かっていますが、それでも言いたくなったわけですし、実際に全人類という体で私を救ってほしいという意味では本音ではあるでしょう。
ただ、もしもカイ・シデンが、この「今すぐ愚民ども全てに叡智を授けてみせろ」という台詞を聞いていたらひどく呆れるでしょう。
カイはガンダムの続編『Zガンダム』の時に、こう手紙に書いています。
「リーダーの度量があるのにリーダーになろうとしないシャアは卑怯」
そしてハヤト・コバヤシがその手紙の内容を受けて、直接シャアに進言します。
「10年20年かかっても、地球連邦政府の首相になるべきです」
このカイとハヤトの台詞はまったくの正論です。
シャアに本気で世界を変えるつもりがあるならば、いちパイロットに逃げてウダウダするのはやめて、覚悟を決めて何十年かけても政治で世の中を動かしなさいと言っている。
これが出来ないと最終的に、自分を道化と愚痴りつつ小惑星を落とす羽目になるのだから。
カイとハヤトがこの正論を言うことができるのは、アムロと一年戦争を戦い抜いて、「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」メンバーズとなり、ニュータイプに叡智を授けてもらおうなど欠片も思っていないからです。
ニュータイプの力をずっと近くで目の当たりにし、ア・バオア・クーでは脳内に呼びかける声も聞いた2人なのに、人類のニュータイプへの革新だの希望だの、そういった幻想を全く持っていないのは、なかなか尊いですね。
地に足のついた2人には分かっている。
「人間の世界」を変えるには、地味でも遠回りでも、何十年かけようが、正攻法をする以外は無いと。都合のよい魔法など無いと。
その正攻法の旗印になれとシャアに勧めるのは、シャア・アズナブルもまた自分たちと同じ普通の人間だからです。
彼に期待するのは本人のニュータイプ能力や人の革新だの何だのではなく、その生まれや能力を活かしてリーダーシップを取ることだからです。
もし何十年もかけて正攻法で世界にアプローチする覚悟があるならば、2人はこれを支持するでしょう。
ところがシャアという人はこれが出来ない人で、彼の人生のテーマとは「キャスバル・レム・ダイクンという己の運命から、いかに逃走を果たすか」だと言っていいと私は考えている。
名前を変えて違う人生を生きるのはシャアにとってはそのために必要不可欠なことだった。
そして完全に違う人間に生まれ変わるために必要だったのがララァ・スン。彼女を導き手(母)として生まれ変わるその機会を、アムロによって永久に奪われたことが、アムロとシャアの因縁として最後まで付きまとう。
シャアは、カイやハヤトの言う正論自体は理解していたと思いますが、はっきりいって自分はそれをやりたくない。
だから、何十年もかけて地球連邦の首相にはならないくせに、かといってセイラのように軍や政治からきっぱり身を引くわけでもなく、クワトロという偽名のいちパイロットとして中途半端に戦争に関わる。
セイラが身内として、死んで欲しいと思うのもまた正しいと思うぐらいには、不穏な男です。
キャスバル=シャア=クワトロとして、ダカールでは(珍しく)自ら表舞台に立って演説しましたが、ブレックス准将が生きていれば自分ではやらなかったと思われるし、この演説自体は内容が割とふわふわしていて、ティターンズvsエゥーゴの政争(世論がエゥーゴに傾く)としては価値があったものの、言ってみればそれだけという気もする。
第24話「反撃」でブレックス暗殺→第37話「ダカールの日」。
ブレックスの死とシャアのダカール演説までの間には話数が結構あるが、別にその間、シャアがリーダーシップを発揮してるわけでもない。
まるで劇場版的な圧縮処理だが、ダカールで演説する予定だったのはブレックスにしておいて、控室にいた所を暗殺される。遺言を残されて、シャアは急遽、血まみれのスーツで演説を行う。赤い彗星の赤は返り血の赤よ!
これぐらいのドタバタであれば、ふわふわ演説でも大丈夫かな、と思える。
こうして運命に逆らい続けたものの、最終的にはジオンの遺児キャスバルから逃げ切れず、ネオ・ジオン総帥になってしまい、アムロ・レイから
「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」
と言われるようなことをしてしまう。
このアムロの台詞は、カイとハヤトが『Zガンダム』でシャアに時間をかけた正攻法を勧めたことを踏まえると、アムロ、カイ、ハヤトの3人が共有している基本的な理念のようなものと言えるかも知れません。
カイもハヤトも『逆襲のシャア』への出演はありませんが、『Zガンダム』で突きつけた正論は刻を越えてシャアに刺さっていく。
話が大幅にずれた(すぐにシャアの話になってしまう)。
ちなみに『獅子の帰還』でのリディ・マーセナスは、「軍を辞め、父ローナンの私設秘書となる」そうなので、色々あって、結局は政治の道に入ることを選んだ、ということになるのかなと思います。
この話の流れで言えば彼はシャアとは違い、何十年もかかる正攻法の道を選んだ賢明なキャラクターともいえるだろう。
ただ個人的にはその要素よりは、このキャラクターを生んだ人間の物語の駒として、恐らく何十年もこれからの宇宙世紀や地球連邦に影響を及ぼす役割なんだろうな、と考えてしまうが。
それに私は、シャアのその徹底的な逃避を愚かなものだけとは思ってはおらず、むしろある種の賢明さとして尊いものだと考えているんですよね。
どうしようか。今回はカイ・シデンの……まあ、いいか(よくない)。
うちに帰れば「死ねば」のFAX30m
父性的な責任から逃れるのがシャアのライフワークと私はよく言いますが、これは単に批判なだけではなく、とても賢明で、その抵抗を尊いものだとも思っている。
貴種流離譚的なものからの徹底的な逃走というか。
キャラクターとしても物語にしても、リディのようになる方が賢明で収まりはいいし、もしくはシャアの場合、逆にジオン総帥には立場上すぐにでもなれてラスボスになれる。
そのどちらも選ばない。物語の類型を拒み、運命を拒み、モラトリアムな逃走を続ける。
そういうシャアを愚かというのは簡単だけれど、この点において私は、彼の逃走意思を絶対に否定はしたくない。
シャアの立場だとジオン・ダイクンの遺児としてリーダーでも革命家でも何でも出来る。
周囲も利用したがるし、頼りたがる。カイやハヤトだってフロントにはクワトロに立ってもらうことを考えた。
安易な革命ごっこに乗らず、インテリの世直しもせず、逃げることを選択したクワトロは賢明だと思うけど、完全に逃げ切って、別の人間として生きるためにはやはりララア・スンが必要になったと思う。
そのララァを奪ったのがアムロで、シャアの人生設計(アムロもだが)これによって狂いまくる。
だからシャアはジオンの遺児という己の運命からついに逃げ切れなかったことを、アムロの責任にしている部分がある。
逃げ切れなかったシャアは、アムロを巻き添えにする。お前にも責任があると。
セイラの「死んで欲しい」は本当に正しいので、シャアのオフィスに「死ねばいいのに」と書いたFAXを何枚も送って欲しい。
(これはFAXでないと、何ともいえない情念と面白みが出ない)
サイコな妄想(ゆめ)の扉
話がなぜか(なぜかではない)大幅にずれましたので、元に戻しましょう。
カイ・シデンという人物に対する私の認識は
「逆立ちしたって人間は神様にはなれないからな」
原作でのこの言葉が示すとおり、アムロもシャアも人間に過ぎす、神様にはどうやってもなれない。人間として自分たちの出来ることで前に進んでいくしかないな。
……ぐらいのスタンスかな、と考えていました(今も)。
カイは一年戦争で理不尽な悲しい思いもしたし、ニュータイプの存在も体験も身近にあったのに、それでもこの現実的な視点が彼らしいな、と思っています(今も)。
もちろん「そのカイが考えを改め、人間が神様になることを認めるほどにサイコなあれはすごいのですよ」と、仰る方もいるかも知れないですが、後付けマッチポンプに特に興味がないので、私の知ったこっちゃないです。
それより純度の高いサイコフレームを一発キメると、気持ちのいい幻覚、時にはアムロやララァの亡霊すら見えて、強烈な快楽を得られると言われています。
但し宇宙世紀依存症の副作用や、闇社会の資金源として食い物にされる事もあるので服用には皆様も注意されたい。
あなたの考えるカイ・シデンは、人間が神様になれることを信じますか?
それでは最後にすてきなナンバーをお送りしてお別れしましょう。
明石家さんまで「ウイスキー・コーク」
サイコフレーム ギュネイ・ガス そしてあふれる人…人…人…・
そんなありふれた街でありふれた恋を僕はひらうかもしれない
でもぼくは沢山のひとと付き合うより ただ一度のありふれた恋でもいい
めぐりあったそのひとを 守ってあげたいと思う
(イントロ鳴り始める)
……あれ? このオチ、むしろ私が純度の高いサイコフレームをキメてるように見えない?
ブログ投稿のリハビリとして、過去ツイートから適当にネタを選んでおいたのだが、期せずしてある種のタイムリーさが出てきたような気がする。が、それは単なる偶然であって、人がそんなに便利になれるわけ……ない・……。
【関連記事の紹介】
「帰れる船」としてのホワイトベースとアーガマの対比 <『機動戦士ガンダム』での優しい嘘の共同体>
記事中にあった、物語終盤のホワイトベース共同体の成熟について具体的な例を紹介しています。これがあった後に、アムロの「優しい嘘」が来るという流れになっています。
また対比として『Zガンダム』終盤のアーガマはどうだったのか、という点を考えています。
かなりご無沙汰なのもあり、ひとまずリハビリ代わりにボリュームの少ないものを選びました。
本ブログでも過去にいくつか書きました「作詞家・井荻麟の世界」。
今回は『戦闘メカ ザブングル』のエンディング曲である「乾いた大地」です。
『戦闘メカ ザブングル』という作品について
『戦闘メカ ザブングル』は、1982~83年放送のロボットアニメ。監督は富野由悠季。
内容は戦闘メカ(ウォーカーマシン)に乗った主人公ジロンたちがザブってザブってザブりまくる冒険ロボット活劇です。
作品の舞台となる惑星ゾラは西部劇風の荒れた世界ですが、支配階級「イノセント」が与えた
「泥棒、殺人を含むあらゆる犯罪は3日逃げ切れば全て免罪」
という「3日限りの掟」が存在しています。
加害者は3日逃げようとするし、被害者は3日追いかけて果たせなければあきらめねばなりません。
それがこの星のルールであり、「3日限りの掟」は、この星に住む人間「シビリアン」の価値観全体に大きな影響を及ぼしています。
例えば、惚れっぽく冷めやすい、長期的でなく刹那的な人生観、理想より現実、ルールを与える上位存在への盲従など。
物語は、両親を殺したならず者ティンプ・シャローンを、掟の三日を過ぎても追いかけ続ける変わり者の少年ジロン・アモスが登場して動き始めます。
「乾いた大地」は、このような作品のエンディング曲です。
この曲名は、西部劇風に荒れ地と砂漠ばかりの惑星ゾラの大地から来ていると思われますが、水分量のことだけでなく、「3日限りの掟」が支配するドライでサバイバルな社会の意味も含んでいるでしょう。
それでは「乾いた大地」1番の歌詞を引用しつつ、具体的に見ていきましょう。
『戦闘メカ ザブングル』ED「乾いた大地」
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もしも 友と呼べるなら
許して欲しい あやまちを
いつかつぐなう時もある
今日という日は もうないが
生命(いのち)あったら 語ろう真実
乾いた大地は 心やせさせる
乾いた大地は 心やせさせる
心の中の友に呼びかけるような詞ですが、ポイントはここ。
「許して欲しい あやまちを いつかつぐなう時もある」
ごく普通のフレーズが並んでいますが、舞台である「3日限りの掟」の惑星ゾラをうたった詞と思えば、見方は変わってきます。
どうやら「友」に対して、何かあやまちを犯してしまったようですが、惑星ゾラでは3日過ぎれば、どのようなあやまちであろうと、基本的に償う必要などないはずです。
「友」の方も、3日以内に報復なり何なりケリをつけられないのなら、それは自分が悪いのであり、何の罪にも問えません。もう終わったことにするのがこの星のルール。
これに関しては、上沼相談員「償わない」、南光相談員「償わない」、ゲストの瀬川相談員「償わない」、そして弁護士の先生も「これは償う必要はないですね」という、『バラエティー生活笑百科』ではありえないパーフェクトな結論が出ております。
でも歌詞では「今日は無理だったが、いつかつぐなう(時もくるだろう)」などと意味不明な供述をしており、警察では精神鑑定も含め動機の解明にあたる方針です。
惑星ゾラには今と、今から3日後までしかない。
「いつか」などという、途方もない不定の未来など存在していないのです。
『戦闘メカ ザブングル』のエンディング曲にも関わらず、その作品世界と矛盾した歌詞。
これは一体どういうことなのか?
「3日限りの掟」を無視した「いつか」
社会的なルールでは免罪されているようなことを、それでも「いつか友にあやまちをつぐなう!」と強く想うことは、言ってみれば個人的なこだわりに過ぎません。
イノセントから定められた「3日限りの掟」を逸脱した、自分だけのこだわり。
すなわち、この人は自分だけの持論を持っているわけです。
……持論を持つ?(いつもの)
持論を持つ
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じろんをもつ
▼
ジロンヲモツ
▼
ジロ・デ・イタリアは自転車レース
▼
ガゼッタ・デロ・スポルトはイタリアのスポーツ新聞
▼
カゼッタ岡は宇宙人
カゼッタ岡、おまえいったい何星人?(m.c.A・T)
ということで、持論を持つこととディフェンスに定評があるといえば、ジロン・アモス。
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ここまでの流れに異論!反論!オブジェクション!のある皆さんも、ここについては同意頂けることかと存じます。
主人公ジロン・アモスが、親のかたきを3日過ぎても追い続けるような、常識はずれの変わり者であることはすでに紹介しましたが、「乾いた大地」での、いつか友につぐなうのだ、という(惑星ゾラ基準で)非常識な歌詞は、これに重なります。
ひとまず、与えられた社会ルールより、己の感情や信念を優先するジロン・アモスをあらわす歌詞としておきましょう。
ただし歌詞はこの後、ジロンのこだわりを吹き飛ばすような惑星ゾラの厳しい現実をうたいます。
惑星ゾラで生きるための厳しい現実
「今日は無理だったが、いつかつぐなう(時もくるだろう)」という個人の想いを歌った後の歌詞は、こう続きます。
「生命(いのち)あったら 語ろう真実」
つまり、想いを果たすには「まあ、俺もお前(友)も、お互いこんな世界で生きてまた会えたらな」というシビアな条件が付きます。
いつか真実も語り、友につぐないたいが、いつ死んでもおかしくない。何が起きても変じゃない。そんな時代さ、覚悟は出来てる、ということですね、要するに。おお、なんてヒューマン。
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西部劇風世界の惑星ゾラで生き抜くのはそれぐらいシビアであるという現実がここで語られ、曲はサビに入ります。
「乾いた大地は 心やせさせる」
環境は人の心に大きな影響を与えてしまう。惑星ゾラの大地、3日限りの掟が支配する生存競争の世界は、人の心をやせさせる、つまり、疲弊させ、貧しいものにしてしまう。
このサビの部分については、1番以降もこうなっています。
2番 : 「乾いた大地は 心すさませる」
3番 : 「乾いた大地は 心こおらせる」
シビリアンの心はやせた上に、荒み(荒れて、刹那的に、粗雑になり)、凍って(冷たく、無感情に、高山厳のようになって)しまう。
このサビの部分で表現されているものは、シビリアンが惑星ゾラで生きる厳しい現実なんだろうと考えます。
曲の前半では、社会ルールを逸脱した、個人が理想とする強い感情をうたいながらも、後半は、それを果たすためには人の心を痩せさせ、荒ませ、凍らせるような世界で生き残らなければならないという現実を歌う。
この順番がちょっと面白いですね。
想い(理想)→厳しい現実、であって、現実→想い、ではないところが。
だが、悲観は感じない。
「まあ、命あったらね」と、現実は現実としてドライに明るく受け止めている印象を受けます。
気晴らしにロシアンルーレットやるのがシビリアンですから。
最後に昇る朝日(サンライズ)を浴びるエンディング・アニメーションの力もあって、不思議と希望やたくましさを感じながら、この曲は幕を閉じます。
乾いた大地を、みんな走れ!
主人公ジロンが乾いた大地を走る姿から始まるこのED曲は、惑星ゾラの厳しい現実を歌いながらも、それに反逆するジロンのこだわりもまた歌っていて、それが最終回「みんな走れ!」の全員で走るエンディングにつながっているんだろうと思います。
物語ラストに、この世界では恐らく見捨てられるのが普通であろう存在になったエルチは、仲間たちから離れるためひとり荒野に飛び出します。
それに気づき、追いかけてきたのはジロン。
主役機ザブングル(エルチ)と二代目主役機ウォーカー・ギャリア(ジロン)の追いかけっこが始まります。
ちなみにジロンが追いかける方向は、エンディングでジロンが走る方向(←)です。
ただしエンディング・アニメーションと違うのは、走って追いかけてきたのが実はジロンだけではないということ。
仲間たち全員が、エルチとジロンを迎えに走ってくる。追いついてくる。
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惑星ゾラ基準では特殊なこだわりを持っている超変わり者ジロン・アモスは、ED「乾いた大地」にあるように、たった一人で走っていたのですが、この作品が終わりを迎えた時には、一緒に走る仲間たちが生まれていました。そこにはちゃっかり敵対していたキャラクターたちも。
みな、この惑星ゾラで生き抜いてきて、主人公ジロンに良かれ悪かれ影響を受けたシビリアン、いや地球人たちです。
惑星ゾラと呼ばれる地球での彼らの走りは終わらない。
お互いに肩を貸し合いながら走り続けるでしょう。
厳しい惑星ゾラの現実と、それに流されずに持論にこだわるジロンの想いを同時に歌う「乾いた大地」は、『戦闘メカ ザブングル』という作品世界を十分に表現しており、すばらしいエンディング曲です。
そして全50話を見て「乾いた大地」も繰り返し聞くことで、いくつもの孤独に走る夜を越え、最終回「みんな走れ!」のあのエンディングに辿り着くための曲です。
あなたも、彼らと友に「乾いた大地」を走ってみませんか。
かすんだ地平の向こうに果たして何が見えるのか………?
何が見えるんでしょうね。
さて。
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今夜はお前とカタカム・ズシム(関連記事紹介コーナー)
では最後に、このブログで過去に書いた記事の紹介を。
『戦闘メカ ザブングル』関連記事
基本的にそれぞれの記事は独立していますので、順番に読まなくても大丈夫です。
惑星ゾラで生きるための、たったひとつのルール。<"異世界もの"としての戦闘メカ ザブングル>
本記事でも紹介した「三日限りの掟」と、最終回エンディングについての記事です。
ブルーストーン経済によるシビリアンコントロール<『戦闘メカ ザブングル』惑星ゾラ開発史>
『ザブングル』の舞台である「惑星ゾラ」が、ロボットアニメの物語世界として出来上がるまでを、富野監督の手記を元に追いかけます。分かりやすくするために図を入れてあります。
ジロン・アモスの持論に基づくダブルスタンダード<『戦闘メカ ザブングル』のイノセント・ワールド>
上のブルーストーン経済記事の続編というか、補遺拾遺のような記事ですが、独立して読めます。
ウォーカーマシンとリアリティのハンドリング <『戦闘メカ ザブングル』が生んだ「フィクションチャイルド」>
『ザブングル』で感じるリアリティとは何か?なぜウォーカーマシンは「ガソリンとハンドルで動くロボット」なのか?人工人類シビリアンとはなんだったのか?などなど。
「作詞家・井荻麟の世界」関連記事
こちらは井荻麟作詞の曲をテーマにした記事です。
シンデレラ・カミーユは、地球で過去と対峙する<『機動戦士Zガンダム』挿入歌「銀色ドレス」とフォウ・ムラサメとの出会い>
『機動戦士Zガンダム』挿入歌「銀色ドレス」の歌詞を追いながら、カミーユが地球に降りた意味を解説します。
「MOON」から「月の繭」へ 菅野よう子から井荻麟へ <『∀ガンダム』が第1話から最終回までに獲得したもの>
同じく『∀ガンダム』後期ED「月の繭」の歌詞を追いながら、「MOON」と対比します。
最終回までに獲得したものはなにか?という意味で、今回の「乾いた大地」に通ずるものがあるかと思います。
それでは最後に今回のお題「乾いた大地」の歌詞「いつかつぐなう」という想いに応えて、改めてこのすばらしいエンディング曲を聞きながら、お別れするとしましょう。
いつか、いつか、いつか……。
『機動戦士ガンダム』からRX-78、主役ロボットであるガンダムが登場するということで公開前から話題になりました。
このガンダム登場シーン。
初代ガンダムが、後のシリーズ作品である『ガンダムZZ』の主役機ZZガンダムの決めポースをするということで、Twitterなどで違和感の表明や批判なども見かけました。
また、これに対する批判として、制作側のコメントを引用したり、(何らかの)愛はあるのだ、というような弁護も見受けられました。
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私はこの予告編を見た時に、ZZポーズがどうこう以前に、物語の設定上のこともあるだろうけど、ガンダムへ「変身」することにアメリカっぽさを感じました。自分自身がガンダムになる。俺がガンダムだ。
日本で同じようなシーン(ガンダムで戦う妄想の具現化)がつくられるとしたら、恐らく白いノーマルスーツを着て、コクピット内で後ろから照準をぐいっと前に持ってくるというコクピット内のアムロの動作を「見得」として表現するような気がします。
日本のロボットアニメ的には、ロボットを操縦する少年(アムロ)になりたいからね。
例外的なZZガンダムのヒロイックポーズ
『レディ・プレイヤー1』でのガンダムは、オンラインゲームのプレイヤー(ダイトウ)が使用する一種のアバターのようなものなので、物語設定上でもガンダムへの「変身」で問題はなく、そこを踏まえておくことは重要でしょう。
このシーンで、ガンダムと一体化した変身を完了したダイトウに「見得」を切らせたい、と考えるとしても、ヒーロー物のような分かりやすい「見得」は『ガンダム』(特に富野ガンダム)にはほとんどありません。
それでもあえて富野ガンダムから引用したければ、必然的にZZのあのポーズが選ばれる可能性は高いのではないでしょうか。
確か『レディ・プレイヤー1』のスタッフ発言では選んだ理由として、シンプルに「かっこいいから」というような事を語っていたと思いますが、そもそもシンプルに「かっこいいヒーローポーズ」を探しても選択肢はかなり少ないわけです。
個人的には、愛がない/あるなどの批判や弁護以前に、これが本質的なところであり、なおかつ興味深いところだと思っています。
例えば、ZZの合体シーンを手がけたという越智博之さんのツイート。
レディ・プレイヤー1 のガンダム出撃。空中で一瞬取るあの決めポーズの元ネタは、やっぱりコレなんだろうか。
— 越智博之 (@Corporate_X) 2018年4月19日
実はコレ、自分が描いたものなんだ。えらい昔の仕事だが。#レディ・プレイヤー1 pic.twitter.com/flwPQBQKmM
シリーズの途中からZZの決めポーズが無くなったのは、富野さんの意向です。監督が手を入れたコンテで具体的な指示が出ています。
— 越智博之 (@Corporate_X) 2018年4月19日
自分は#1のときZとは意識を変えてコミカルな芝居を入れろと演出に指示しているのを見てスーパーロボットに寄せてみたんですが、どうやら好みではなかった様子で。
この合体バンクが許されるようなコメディタッチで『ガンダムZZ』の物語は始まりましたが、後半にシリアス路線への修正があったことが、決めポーズの消失に影響があったのかも知れません。
それはマシュマー・セロやキャラ・スーンといった、前半のコメディ路線で活躍したキャラクターが、後半の物語に登場するために(強化人間として)人格を変更させられたのと同じように。
もちろん全体の話として、富野監督が自分が手がけたロボットアニメ作品内での「かっこいい決めポーズ」が好みではないというか、ひとつの方向性として意図的に取り除いていた、ということもあるでしょう。
ZZガンダムのあのポーズにしても、操縦するロボットという観点で言えば、ロボットの動作は全て操縦の結果であって、あの決めポーズをわざわざ操縦しているのですか?という話ですし、仮に合体バンクよろしく、合体時のオート機能の賜物であるならアナハイム正気ですか?という話にもなるわけです。蛍原さん、正気ですか?(ケンコバ)
ちなみに今川泰宏監督の『機動武闘伝Gガンダム』では、モビルスーツによるケレン味あふれる「かっこいいポーズ」が頻出しますが、エクスキューズとして、この作品のモビルスーツはパイロットの動作を再現(=トレース)するモビルトレースシステムを搭載しており、ダイトウのガンダムアバターと同じく、操縦ではなく一体化した状態です。
ガンダムの動きやポーズは、モビルファイター(格闘家)の動きやポーズそのものなので、何も問題はありません。
『レディ・プレイヤー1』でのダイトウのガンダムは、そういう意味では『Gガンダム』に近いものといえるでしょうね。
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登場シーンのあとの戦闘シーンはどうなのか
ちなみに、予告編を見たあと、実際に劇場で『レディ・プレイヤー1』を見に行きましたが、ガンダムでの戦闘シーンは(映像としての)ガンダムっぽさはありませんでした。
アムロっぽい動きもないですし、戦う相手である巨大なメカゴジラをビグザムに見立てたようなカット割りもありません。
ですがこれはアバターで変身したダイトウによるアクションシーンなのですから、当然なのです。
ただ、予告編のZZポーズでどうこう騒ぐ意味は肯定であれ否定であれ特に無いと思いますが、この戦闘シーンの方が「ヘイ!アメリカンにカッコよくしといたぜブラザー。クールだろ?」感は正直あります。
アムロの操縦ではなくダイトウのアクションなので、もちろん間違ってはいない.。
間違ってはいないが、ガンダムっぽさがあるかどうかといえば、特にガンダム感はない。
とはいえ、登場シーンに関しては『レディ・プレイヤー1』はハリウッド映画であることや物語の設定、それを踏まえた登場時の演出上の要請を考えると、選択肢の少なさからZZのポースが選ばれるのは妥当ではないか、と個人的には思います。
『ZZ』への愛とか、あれがいちばんカッコいいガンダムのポーズかどうかとは以前の問題として。
「ガンダム、大地に立つ」と「ラストシューティング」
と、いうわけでヒロイックな見得切りポーズが少ないファーストガンダムですが、日本人的な感覚だと、ガンダムが胸から排気しながら立ち上がり目が光る、いわゆる「ガンダム大地に立つ」シーンだけでも、充分にヒロイックさを感じているような気がします。
単に寝てるところからよっこらせと立ち上がっているだけなのですが、『機動戦士ガンダム』の、そして今となってはガンダムシリーズの極めて象徴的なシーンですからね。
ファーストガンダムには他にも印象的なアクションがいくつかありますが、第一話の「ガンダム大地に立つ」と合わせて、もっとも有名で人気があるのは最終話の「ラストシューティング」ではないでしょうか。
シャアが乗るジオングとの最終決戦で頭部と片腕を失ったガンダムによる、長い戦いを締めくくる最後のアクション。
以前の記事に書いたことがありますが、『機動戦士ガンダム』最終局面での、ガンダムの頭と片腕の吹っ飛ばしは、最後の大サービスといえるでしょう。
子供時代から、頭(と片腕)を失ったガンダムには最終回ならではの特別感(サービス)を感じていたと思います。
子供の私は大喜びだったわけですが、あの場面で傷ついていくガンダムにガックリきたり、テンションが下がったという人の話は、少なくとも私の経験では聞いたことがありません。
頭と片腕がなくても、生理的嫌悪感も倫理的罪悪感も感じる必要はない機械の体。
要するにこれこそがロボットという肉体だと思うんです。
いくつかの意味で傷つくことを(簡単には)許されない、事実上のスーパーロボットだったガンダムが、身体に欠損を生じながらも戦う姿、これこそ「傷つくことを許された肉体」であるロボットならではの戦闘シーンです。
「たかがメインカメラ」と言えるすごさ
『機動戦士ガンダム』はシリーズ化され、さまざまなガンダムという機体が生まれますが、角つきのあの顔であればガンダムというぐらいに、顔自体がヒロイックなシンボル(物語内でも商業的にも)となっています。
その顔がジオングの攻撃によって失われた時、アムロはこう言い放ちます。
アムロ「まだだ、たかがメインカメラをやられただけだ」
これはかなりすごい台詞で、ガンダムのシンボルであるあのヘッドが、アムロ・レイにとっては「たかがメインカメラ」であるというのは、のちにリアルロボットと呼ばれるこの作品らしい認識であると思います。
さらにはメインカメラという重要な機能を失っても、ニュータイプであるこの時のアムロなら戦える、シャアのジオングを追える、という『機動戦士ガンダム』だからこそ到達した最終話の台詞でもあります。
私は未読なのですが実際、マンガ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』では頭部を失ったら戦えなくなるという描写があるという話も聞きました。
ガンダムサンダーボルトで個人的に好感度高いのは、アタマを吹っ飛ばされたモビルスーツがみんな戦えなくなるところですよ。吹っ飛ばされても平気なくらいなら、最初からアタマなんてつけませんよ。大事だからついてるんですよ。
— もくば (@soratobu_uma) 2016年3月20日
ロボットの頭部が重要なメインカメラやセンサーの機能を持つ部位であるという世界観で、それを失えば、普通の人間だったらまともに戦うのはかなり難しい、というのは想像はつきます。
アムロの台詞は、ヒーローロボットの頭を「たかがメインカメラ」であるというリアリティに置いた上で、飾りでなく機能をもった頭部を失っても、なお戦えるニュータイプが登場したこの作品ならではの発言と考えると、大変興味深く、すばらしいものだと感じます。
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「RX-78 ガンダム」のアイデンティティ
さらに言えば「ラストシューティング」のシーンでは、オートで動く無人状態で、パイロットのアムロは搭乗していません。
つまり「ラストシューティング」は、ガンダムの顔も無い、主人公のアムロも乗ってない、何だかよく分からない片腕のロボットが演じるラストシーンなのです。
しかしTVシリーズ第43話を、映画でも3本の劇場版を見てきた者にとって、あれは紛れもなく応援してきたガンダムで、直前にアムロと分離したことで、より純粋にロボットとしてのヒーロー性、シンボル性が高まったようにも思えます。
顔のないロボットによるラストシューティングは、今も『機動戦士ガンダム』屈指の名場面としてシンボル化されています。
ガンダムの顔ついてないのに。 主人公が乗ってないのに。
映画『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』では、このラストシューティングがポスター化もされています。
(検索したらちょうどAmazonでこのポスターが出品されていた)
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TVアニメ作品の映画化であり、すでに「ラストシューティング」が名場面として認知されていたとはいえ、そして他にもポスターがあるとはいえ、大胆なポスターです。
『機動戦士ガンダム』と言いつつ、肝心のガンダムの顔がどこにもないわけですから。
それでもこのポスターが作られたのは、玩具(商品の顔)として、キャラクターとして、大事な頭部を失っているけれども、ラストシューティングをするあのロボットというのはガンダムでしかありえないのだ、という事なのでしょう。
ガンダムフェイスを失ってなお、いや失ったからこそ成立するキャラクター・アイデンティティ。
のちのシリーズが示すように「あの顔」を持つロボットこそが特別なモビルスーツ「ガンダム」と呼ばれます。
でも始祖たるファーストは、「あの顔」を失っても「ガンダム」と呼ばれる境地に到達している、といえるかも知れません。
頭部などたかがメインカメラだと、そう言えるニュータイプによって。
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おまけ『宇宙世紀残侠伝 片キャノンの政』
ラストシューティングと言えば有名なのは、ここまで書いたように当然ガンダムのあれです。
しかし同じく最終話、リックドムに一撃もらうものの、倒れ込みながらの片キャノン(片乳的な表現)で通路の先のリックドムを撃ち抜いた、ガンキャノンのラストシューティングもかなりの美技で、個人的には大好きです。
え?ガンタンク? ハヤトは……ハヤトは……がんばってたよ!うん、がんばってた。
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もしガンキャノンのパイロットになれたら、あの倒れ込みながらの片キャノンの練習だけしようと思います。
そして、「片キャノンの政(まさ)」みたいなあだ名で恐れられるぐらいになって、
「キャノンを2発とも同時に撃っちまうのは素人のすることよ」
「お、おめえは片キャノンの政!」
といった感じで背後から颯爽と登場したい。
「か、片キャノンの政……知ってるぜ。奴の片キャノンで仕留められなかった機体はねえ」
「……じゃあ両肩にキャノン積まなくていいような?」
「バカ野郎!奴は前方と直上の敵を同時に左右の片キャノンで撃ち抜けるって話だ」
「見ろよ、なんてえキャノンさばきだ……」
「奴のガンキャノンの赤は、返り血を浴びた真っ赤な血の赤よ!」
……片キャノンの政、同時に2発撃ってるな。
まあ、彼にとって同じところに2発同時に撃ちこむのは無意味ぐらいの意味かな。
いや、どうでもいい。片キャノンの政の発言の整合性なんて死ぬ程どうでもいい。
ていうか、そもそも片キャノンの政ってなんなんだよ。誰だよ。
関連記事
「ロボットチャンバラ」としてのガンダム<ビームサーベル戦闘論>
本稿でも触れた「傷つくことを許された肉体」であるロボットの戦闘シーンについての記事。
ガンダムが「ガンダム」である意味
ファースト以降のガンダムは物語的にも、メタ的にも全てフェイクである、というまとめ。
ファーストとは違い、フェイクだからこそガンダムフェイスの存在が重要であって、失うわけにはいかないものになっています。
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