今回は、『機動戦士Zガンダム』の挿入歌「銀色ドレス」をきっかけに、カミーユ・ビダンとフォウ・ムラサメの関係、そしてカミーユが地球に降りた意味などについて、あれこれ考えてみましょう。


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『銀色ドレス』はとにかく難しい


富野由悠季監督が「井荻麟」というペンネームで行ってきた作詞活動を語りつくす「井荻麟作詞論」。
TOMINOSUKI / 富野愛好病のkaito2198さんが進めている一大連載です。

その第53回 OP・EDおよび挿入歌のビジネス事情その2 が公開されてまもなくのこと。

kaito2198さんと富野アニメの挿入歌について話し合っていたとき、ふと気づく。

私「挿入歌といえば、『銀色ドレス』の記事がまだですよね? なぜなんでしょう?」


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『銀色ドレス』はテレビアニメ『機動戦士Zガンダム』の挿入歌。
連載では、第34回 「銀色ドレス」 として予定されていましたが、第53回に至っても、その記事はアップされていませんでした。このような扱いは「銀色ドレス」のみです。

kaito2198さん「あれは難しいですね……」


その後、それはなぜなのかという説明を受け、私自身も生まれて初めてちゃんと歌詞と向き合ってみて、未だ記事化されてなかったことに納得しました。確かにこの曲、難しい……。

kaito2198さん「いちばん難しいのは、そもそも誰の視点の曲なのか、ということです」


「視点」ですか……ちょっと『銀色ドレス』について整理してみましょう。

『銀色ドレス』は誰の歌?


まず歌詞全体については、以下のリンク先をご覧ください。

銀色ドレス(歌詞タイム)
http://www.kasi-time.com/item-6175.html

視点を考える上で必要な基本情報は以下のとおり。

歌い手:森口博子(女性)
一人称:僕(男性の一人称)
二人称:君


※歌詞中に「暖めておくわ」(女性語)が一箇所あり


劇中での使われ方としては、第20話「灼熱の脱出」で挿入歌として使われました。
カミーユが、フォウの協力で宇宙へ上がるときの曲です。

使われ方から普通に考えれば、女性(フォウ)から男性(カミーユ)に向けた歌でしょうか。
歌っているのも、女性である森口しぇんしぇい(博多風味)ですし。
高杢しぇんしぇい!森口しぇんしぇい!(このネタ、さすがに解説がいるような気がする…)

でも、一人称が「僕」ですから、男性(カミーユ)視点で、女性(フォウ)に向けた歌と考えてもいいのかも知れない。

と思ったら、歌詞中には「暖めておくわ」のように女性語になってる箇所もある。
ではやっぱり、女性の歌? どっちなんだろう?

歌詞が全てロジックで説明されるべきとは思わないけれど、曲にとって大事なポイントである「視点」のレベルで、どう考えればいいのか迷いますね。

女性歌手による「僕」について


やはり、考え所は女性歌手による「僕」にありそうな気がします。

私は音楽には全く詳しくないので、女性歌手による「僕」についても表面的なことしか知りません。
ただ、少し検索などして調べてみると、その効能としては以下のようなものあるようです。
  • 音として「わたし」より「ぼく」の方が、言葉が短くアクセントになる。力強さもある。
  • 女性が「ぼく」と歌うことで、「少年」性を帯びる(中性、性未分化的なものも含む)
  • 女性が男性視点として歌う(その逆も)ことでの、違和感の効果
  • 受け手になる男性への寄り添い、受け入れやすさ(アイドルソングなど)

純粋に、音や字数の問題もあれば、女性歌手+僕で性をミックスしたり、それで何らかの感情を生み出すような効果もあるようです。

そう考えると、「銀色ドレス」は女性視点(フォウ)? それとも男性視点(カミーユ)?ということではなくて、どちらも同時に存在する曲なのではないか、と思えてきました。

その根拠を『Zガンダム』本編に求めてみましょう。
フォウとの出会いを描いた第19話「シンデレラ・フォウ」では、カミーユとフォウはまさしくシンデレラのような時間制限付きのデートを楽しみますが、お城を去らなければならない制約のあるシンデレラは、フォウの方です。

フォウ:夜中の12時までには戻る。それくらいの時間は構わないだろう?
見張り役:12時ですか?
フォウ:今殴ったことは勘弁して欲しい。今は、少しだけ時間が欲しい。
見張り役:わかりました。大尉にはそう伝えましょう。


これでフォウは12時までのシンデレラとなりました。
結局、この後、サイコガンンダムの登場により魔法は解けてしまうのですが。


そして次回となる第20話「灼熱の脱出」では、今度はカミーユに時間制限が付きます。
アーガマが衛星軌道上に、コースを固定できるのは、24時間のみ。
この好機に何としても宇宙へ帰らなければなりませんが、フォウの協力により、スードリのブースターを奪うことでカミーユは無事に宇宙へ戻ることができました。
(この場面で流れるのが挿入歌「銀色ドレス」)

この回のカミーユはいわば、ブースターの馬車に乗り、宇宙へ帰るシンデレラ。
つまりシンデレラ・カミーユになっています。

宇宙に戻ってきたあとで、エマに「地球で恋をして来たんでしょ? 」と指摘されたように、地球に忘れ物をしてきたというのもシンデレラですね。

それぞれがシンデレラを演じた第19話「シンデレラ・フォウ」と第20話「灼熱の脱出」は、こうして対になっており、おとぎ話と同じく束の間の出会いと別れが、カミーユ、フォウの両面から描かれています。

であるなら「銀色ドレス」も、どちらかの曲ではないでしょう。
フォウの曲であり、カミーユの曲であるはずです。
だからこその女性歌唱の「僕」ではないのか。

今日という日はよかった(今日以外はよい日じゃない)


kaito2198さんと色々議論しながら、私たちはこの「シンデレラ・フォウ&シンデレラ・カミーユ視点」で、ひとまず「銀色ドレス」を整理できるのではという手ごたえを得ました。

例えば、そういう視点から改めて歌詞を見てみると、歌い出しもすんなり受け止められますね。

僕も見つめてた 蒼い瞳
ある日 突然に 消えてしまう


ファウもカミーユも蒼い瞳なので、これは2人が見つめ合っているわけだし、突然目の前から消えてしまうのも、片方ではなく2人が共に体験したことですからね。
フォウとカミーユの視点の融合というか、2人の重なりが感じられます。

歌い出しはあくまで一例。
歌詞全体の解説については、kaito2198さんが書かれた記事をご覧ください。

井荻麟作詞論 第34回 「銀色ドレス」
http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-1331.html

それにしても、毎回こういうレベルでの歌詞の検証をしているのは改めてすごいと思いましたね。

ちなみに個人的には、「銀色ドレス」の歌詞の中ではこの部分が好きですね。

濡れた手を拭いて 全て済むと
君が思うのは いけないけど


この歌が兵士でもあるフォウとカミーユの両方を指すとすれば、何によって手が「濡れて」しまっているのかは、いわずもがな。
図らずも「濡れた手」になってしまった少年と少女が最終的にどうなったかを知っている身としては、やるせない気持ちになります。もちろん手を拭いたからといって全て済むものではないにせよです。

ですが、この歌はけして絶望の歌ではありません。
戦場で敵味方になって殺し合う中で訪れた、一瞬にして永遠の奇跡を描いた歌。
12時までの舞踏会で魅かれ合い、一瞬の出会いを尊いものとして、「今日という日(だけは)よかった」と喜び合う歌です。たとえ、二度と会えないかも知れないとしても。

「銀色ドレス」ってどんなドレス?


今さらですが曲名でもあり、歌詞にも入っている「銀色ドレス」って一体なんなのでしょうか?

シンデレラのイメージとドレスを合わせると、女性用のパーティドレスのようなものを想像しますが、この曲がカミーユの事も歌っていることを考えると、カミーユに殴り殺されるかも知れません。

それにシンデレラのドレスの色は、銀色ではなく青色と決まっているようです。
これは、欧米において、青(ブルー)は、幸せ・忠実・信頼・純潔を表すことから来ているそうで、聖母マリアのシンボルカラーも青。
ブルードレスはシンデレラの「純潔・貞操・清純」などを表現しているようですね。

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では銀色のドレスとは何か?
恐らく一意ではなく、いくつかのイメージを持っているものと思いますが、そのひとつとして私は、銀色ドレス=モビルスーツ説を推したい。

モビルスーツは、宇宙で輝く金属色(メタリック)なドレス。
ここではスーツではなくあえてドレス。

特にカミーユにとっては、宇宙に戻った第20話「灼熱の脱出」の次の回が、第21話「ゼータの鼓動」。
番組タイトルにもなった主役機Zガンダムの初登場回です。

カミーユは、自分がデザインに関わった銀色のドレスで、番組後半の宇宙を駆けることになります。

フォウにとっても、モビルスーツは彼女が着ねばならない一種のドレスなのですが、彼女にとってモビルスーツの存在はネガティブなものでしかないので、フォウに対してはそのまま、キラキラとした美しいドレスのイメージで良い気がしますね。

映像をつくるなら、銀色ドレス=Zガンダムで宇宙を駆けるカミーユと、美しくキラキラしたドレスのフォウを重ねるようなイメージでしょうか…………Zガンダムとキラキラのフォウ?……どこかで見たような?



「銀色ドレス」と同じく、森口博子が歌う後期OP「水の星へ愛をこめて」が、イメージ的には近いんじゃないのか。これ。
フォウは別に銀色のドレスは来てないけど、謎のキラキラに包まれて、カミーユがZガンダムで駆けていく。そうそう、まさにこんなイメージ。
子供の頃から思っていますが、このフォウのキラキラってどういうイメージなんでしょうね。格子状で、何か具体的なものを表現してる気がするんですけど、分からない。鎖とかそういうイメージなのかな。

そもそも銀色ドレスのイメージを「水の星へ愛をこめて」に見出すというのも、何か間違っている気もするけれど、森口しぇんしぇいで上手くつながったような気もして面白いといえば面白い。

過去がない少女と過去を捨てたい少年


「銀色ドレス」では、同じシンデレラとして歌われたカミーユとフォウですが、そんな2人が一瞬の邂逅のあと別れることになったのは、共通点ではどうにもならないほどに根本的な違いがあったからでしょう。


強化人間フォウ・ムラサメは過去がない少女。
「強化」のため、自身の過去の記憶や本当の名前すら失っており、「フォウ・ムラサメ」という名前もムラサメ研究所の4(four)番目の被験体ということで与えられたものに過ぎない。

フォウが戦う理由は、それで過去の記憶が取り戻せると信じているから。
(正確には、ムラサメ研究所がそう信じさせているだけ)

何もない彼女は、記憶が、過去がどうしても欲しい。その意味で彼女は「過去」のために生きるキャラクターです。

ではカミーユはどうか。

カミーユと言う名前で生きてきた過去は、彼にとってコンプレックスであり、少し複雑な両親との家庭環境も含めて、出来れば否定して捨て去りたいものだろうと思います。
だからカミーユは、盗んだガンダムで走り出す。行く先も分からぬまま。暗い宇宙の帳の中へ。
でなければ、あんなにも簡単に日常を捨て去ることはできないでしょう。

コンプレックスである過去から目を背けての行動ですから、未来といってもポジティブな面だけではありません。
若者らしく屈折はしていますが、それも含めて前しか見えないという「未来」志向のキャラクターです。

「未来」に生きるカミーユと、「過去」に生きるフォウの会話は悲しくすれちがいます。

カミーユ:本当の名前は?
フォウ:わからないわ。私には昔の記憶がないのよ。知りたいんだ、昔のこと。それを探していたの。
カミーユ:でも、思い出なんて、これからいくらでも作れるじゃないか。

※中略

カミーユ:フォウ、アウドムラへ行こう。君が連邦軍にいる理由なんてないんだ。
フォウ:あそこに、あそこに私の記憶があるの。あの飛行機が私に記憶を持って来てくれる!
カミーユ:フォウ
フォウ:孤独はイヤ! 紛らわしたくても紛らわす思い出もないのよ。両親のいるカミーユには、理解できないでしょ。

※中略

フォウ:私は記憶が欲しいの。自分のことをもっと知りたい!
カミーユ:フォウ、出て来るんだ。
フォウ:Mk2を倒せば、ムラサメ研究所は私の記憶を戻してくれると言っていた!
カミーユ:それは違う! そんな約束、あてになると思っているのか?
フォウ:自分のことを知りたいのが、いけないことなの?
カミーユ:フォウ、宇宙へ行こう。
フォウ:宇宙へ?
カミーユ:エゥーゴの技術なら、君の記憶を取り戻せるよ、フォウ。
フォウ:研究所で治せなかったことを、宇宙で治せるものか!
カミーユ:やってみなくちゃわからないだろう?


カミーユは、宇宙へ行けば記憶を取り戻せると説得する。もちろんその保証などありません。
ただカミーユは未来を信じている。

だが過去にこだわるフォウは、カミーユの語る無根拠な未来を信じることができない。
彼女は結局サイコガンダムから降りず、明るい未来が待つという宇宙に出ることのないまま、その生涯を終えました。

つまり、この2人の関係は、

宇宙=未来=カミーユ vs 地球=過去=フォウ

という構造になっています。

ホンコンでの一瞬の出会いのあと、カミーユが宇宙へ戻ってZガンダムを手に入れ、フォウはサイコガンダムから離れられないまま、宇宙に上がることなく終わってしまう、というのは示唆的です。

この時点でのカミーユを、宇宙=未来の象徴的キャラクターとして見たとき、フォウとの出会いだけではなく、この一連の地球パート全体が、過去との対峙といえるかも知れない。
ちょっと地球編を振り返ってみましょうか。

地球での過去との対峙


カミーユが地球に降りるのは、第11話 大気圏突入からです。
なぜ地球に降りるのか。地球連邦軍(ティターンズ)の拠点である南米のジャブローを攻撃するためです。

ジャブロー基地は、前作『機動戦士ガンダム』に登場した、まさしく過去の象徴的な場所です。
過去には激戦が繰り広げられ、アムロ達が必死に守った重要拠点ですが、『Zガンダム』では、カミーユたちは攻めこむ側。
しかし、激戦どころかジャブロー基地はもぬけのから。核で消滅させられてしまいます。
カミーユは、伝説のホワイトベースクルーのひとり、カイ・シデンをレコアと共に救出します。
これが、最初の「過去」との出会い。

それから、カイ・シデンを皮切りにして、前作『機動戦士ガンダム』の人々と出会います。
ハヤト・コバヤシ、カツ・コバヤシ、そして、一年戦争の英雄アムロ・レイ。
ホンコンで、ミライ・ヤシマ。

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ベルトーチカ・イルマには「アムロさんにMk2を譲らない?」と、ガンダムのパイロット(主人公)の座を、過去の主役に譲るように迫られる。だがカミーユは絶対に、その座を譲らなかった。

これもひとつの過去との対峙だと思いますが、この件については以下の記事にて詳しく書きましたので参照されたい。

カミーユにMk2を譲れと迫る、ベルトーチカの必然 <『Zガンダム』と『エルガイム』の主人公たち>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-225.html

そして、この記事で詳しく取り上げた、「過去」に生きる少女フォウ・ムラサメとの出会い。

ここでカミーユは、コンプレックスだった過去をフォウに話し、少女の承認を経て、自分の名前(過去)をついに受け入れる。

フォウ:カミーユ……カミーユ、もう一度だけ聞いて良い? 今でも「カミーユ」って名前、嫌い?
カミーユ:……好きさ!……自分の名前だもの!」


カミーユは最終的にフォウに自分の名前について訊かれ、自分の名前だから好きなんだ、とまで言えるようになります。

宇宙=未来=カミーユという構造を前提に、この地球編自体を「過去との対峙」編なのだとすれば、そのラスボスというか最終イベントは、カミーユが彼自身の過去と対峙し、それを受け入れることが出来るのか、ということになるでしょう。
そして、それを可能にしたのが、そもそも嫌いになる名前も過去の記憶も何もない少女だった。

「過去は、記憶は、すばらしいもの」と無条件に肯定できるフォウという存在によって、カミーユは過去を乗り越え、再び宇宙に戻ることができました。
しかし、そのフォウのキャラクターは強化人間として人工的に、強制的につくられた、という歪んだものです。
それでもそんな彼女でなければ、カミーユは救われなかったかも知れない。でも、フォウは――。

この、こうでなければ2人は出会うことも、その先もなかった。だが、それでもなぜこの2人は出会ってしまったのか。
というのは、前作のアムロとララァとの出会いにも言えますが、富野作品で特に特徴的な因果ですね。
個人的には、この因果のやるせなさが、富野作品の強力な魅力のひとつです。

それでいくと、地球=過去を背負ったフォウは、カミーユは救えても、彼女自身は地球から出られない(救われない)んですよね。この構造のままでは。

「永遠のフォウ」と「ロザミアの中で」


はっきりいって、フォウというキャラクターはホンコンで役割を終えているので、キリマンジャロでの再登場は物語としては必要がないと思います。

総監督の富野曰く、テレビシリーズの当初の構想ではフォウは第20話「灼熱の脱出」で死なせる予定であったとの事である。しかし、そこでフォウを死なせてしまったらストーリーが1年続かない事に気付いたため、うやむやな形で生死不明という事で一時離脱させ、第35話「キリマンジャロの嵐」で再登場させたという。従って、劇場版では当初の構想を忠実に反映させた話の流れとなっている。
Wikipedia:フォウ・ムラサメ


フォウの地球(ホンコン)での役割はすばらしいけれど、殺すためだけに登場させたキリマンジャロは見ていてつらいですね。
ホンコンで一度、キリマンジャロで一度、二度殺す必要はありません。
劇場版でカットされたのは、彼女のためにも当然にして優しい処理だったと思います。

ただ、キリマンジャロにおいて、カミーユの目の前で死ぬことによって「永遠のフォウ」になるでしょう?
もう過去も未来もなく永遠の存在になってしまう。宇宙で未来を生きるはずだったカミーユが最終的にああなってしまったことを考えると「永遠のフォウ」の存在は結構重いような気もします。
カミーユをあの結末に向かわせる分水嶺のようなポイントが「永遠のフォウ」にあったかも知れない。

個人的には「永遠のフォウ」は耐えられるけど「ロザミアの中で」は耐えられないんですよね。
「かわいそうだが、直撃させる」以外にしてあげられることがないって、ニュータイプとか、ガンダムとか何なんでしょうね。
リアルタイムで見ていた時から、何度も見返す今に至るまで、カミーユじゃないけど、宇宙でバイザー上げたくなる。

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あけましておめでとうございます。

このエントリは、2016年最初の記事として、このような新年のあいさつからはじめようと思って、正月明けぐらいに記事のほぼ全文を用意してたんですが、先日突発的に「月の繭」に関する記事を書いてしまいました。

「MOON」から「月の繭」へ 菅野よう子から井荻麟へ <『∀ガンダム』が第1話から最終回までに獲得したもの>

これが書けたことは幸いでしたが、その代わり、順番が入れ違いになってしまいました。
一応、挨拶の機会もないですし、冒頭のあけおめ残しておいたけど、さすがにもう違和感がすごい。

さて、この記事は当ブログ1年間の記事を紹介する、毎年恒例のまとめ2015年版です。
これまで忙しい年末にがんばって公開していましたが、昨年2014年版はさぼって年明けに公開したところ、「アラ、いいですね」の波が何度も押し寄せて来てしまい、今年も年明けということになってしまいました。

2015年に書いた記事数は、11本。
久しぶりに二桁いった気がしますが、かといってセレクトするような数でもないので、全て紹介します。
記事数は少ないですが、熟練の職人が心を込めて、ひとつひとつ手作りしております。
柔らかな口当たりと、ほのかな甘味をお楽しみください。




2015年唯一の富野アニメ関連記事


当ブログは特に専門的なテーマのない雑多なブログですが、メインコンテンツは富野由悠季監督のアニメーション作品に関する記事になるでしょうか。
ところが振り返ってみたら、2015年は1つしか記事書いてない!

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ベルリの前に広がる日本海に『キングゲイナー2』を幻視する <グレートメカニックG「富野由悠季 G-レコを語る」1万字インタビューより>

『Gレコ』放送終了後の富野監督インタビューを元にした記事。
結構アクセスとブックマークを頂きましたが、私の記事が、というより、富野監督の発言に注目が集まった感じでしょうね。
ただ、私はこれを書きながら、いくつか宿題というか、課題のようなものに気づかされたように感じました。(まあ、それを素直に書くかどうかは別問題なんですけれど)

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『Gレコ』は、この後、総集編劇場版が進行中であると聞きます。
このインタビューで登場したポイントがどうなっているのか期待したいですね。

マンガ版『機動警察パトレイバー』を読みなおそう!


2015年は、マンガ版『機動警察パトレイバー』を15年ぶりぐらいに読み直し、そして記事を書き始めた年、ということになるでしょう。


もともとシリーズ記事どころか、ブログにするつもりすらなく、きっかけは『パトレイバー』についてのツイートでした。起点はこれ。


その後、psb1981( @takepon1979 )さんと長い雑談になり、色々と興味深いトピックが生まれてきたので、「アラ、いいですね」の波が何度も押し寄せてきて、これはブログにでもまとめないと、もったいないなという誘惑に負けてしまいました。

記事の一覧


第1回:1988年に生まれた、1998年の物語<シリーズ『機動警察パトレイバー』:時代背景>

第2回:コワモテの優しい巨人<シリーズ『機動警察パトレイバー』:山崎ひろみ>

第3回:MEGANE AND POLICE(メガネ&ポリス)<シリーズ『機動警察パトレイバー』:進士幹泰>

第4回:悪・即・弾 その男、凶暴につき<シリーズ『機動警察パトレイバー』:太田功>

第5回:第二小隊の学級委員は決して犯罪者に屈したりはしない!<シリーズ『機動警察パトレイバー』:熊耳 武緒>

以上の5記事を書きましたが、シリーズは終わっていませんので、2016年も引き続き『パトレイバー』記事は書きます。

順番的には、このあと「後藤喜一」について書かなくてはならないのですが、彼については優れた言説がネット上にすでに数多くあります。ですからその存在を踏まえた上で、少しひねった形で書く必要があるかな、と考えてはいます。

ただ、ツイートで全て吐き出した時点で、自分の中で一旦終わってるので、再度モチベーションを上げ直して、ひとつの記事にまとめる、というのはそれなりにしんどかったりします。

とはいえ、自分でも満足している熊耳さんの記事などは、改めて考え直すことで到達できたので、やっぱり必要な過程ではあるんですよね……。『パトレイバー』のことを考えるだけで、口座にお金が振り込まれる世界へ行きたい。そんなバビロンを目指すプロジェクトは2016年も続きます。ああ、約束の土地へ、どうぞ導いて。

『機動警察パトレイバー』記事が一覧できる目次ページも作りましたので、宜しければご覧ください。

【目次】『機動警察パトレイバー』記事インデックス

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細田守監督作品『バケモノの子』


映画『バケモノの子』は、2015年7月に公開された細田守監督の最新作。

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この作品についても全く記事を書く予定ではなかったのに、結果的に3本も書いてしまいました。
映画自体は、公開後まもなく劇場で見て、感想ツイートを少しして、psb1981( @takepon1979 )さんと色々雑談して、で終わるはずでした。

それから3ヶ月ほどのち、10月に入って坂井哲也(@sakaitetsu )さんが『バケモノの子』をご覧になって、あれこれとお話をしました。


こうしてTwitter上で面白い話が色々と集まってしまったため、「アラ、いいですね」の波がまた何度も押し寄せてきて、これはブログにまとめないともったいないな、の精神により、以下の3本の記事を書く結果を招いてしまいました。

子育て西遊記 in ケモ街diary <映画『バケモノの子』と中島敦『わが西遊記』>

これは作品のモチーフのひとつ、中島敦『わが西遊記』から見る、子育て西遊記としての『バケモノの子』のおはなし。
それは私が昔から見たかったものでした。

東京都渋谷区「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件<映画『バケモノの子』の「父子」と「普通」について>

こちらは、がっつり長文感想。でも映画のレビューじゃないですね。
細田映画の風物詩「モヤモヤ」を中心に、鑑賞後に物語について色々考えたことをメモしたもので、いわば思考のはらわたのようなものです。
作品についてのツッコミも色々しています。
特に大きいのは、記事タイトルにあるとおり、「父と子」の戦いと、「普通」ってなに?という2つでしょうか。

『バケモノの子』の不正な.zipを解凍して見えてくるもの <映画『バケモノの子』と子供の危機にいない父>

前記事とは全く逆に「親子げんかもせず、熊徹と九太が一体化する」という展開は、この映画にとって正しいものであった、というスタンスで、作品を考えていきます。
そこで注目されるのが、この作品に登場する、もうひとりの父親。

この3本目の記事は、個人的には、2015年に書いた中では熊耳さん記事と並んで、よく書けたかな、と自信を持っています。
時期ハズレなこともあって、全く注目されませんでしたけどね。
そもそも『バケモノの子』自体が、50憶以上のヒット作のわりには、これまでのような賛否両論の議論が起きていないというか、話題力があまり無いんですよね。荒れてないといいますか。
でも、モヤモヤ成分はこれまでと同じくらい含まれていると思うんですけどね。

細田映画は金曜ロードショーでリピートされるようになってからが本番ですので、そこに期待したいなあ。



『FURY(フューリー)』はいいぞ!


えーと、最後は劇場版『ガールズ&パンツァー』の記事ですね。



あ、失敬失敬。実写版『ブラピ&パンツァー』の方でした。
やけに、西住殿に『ファイトクラブ』感があるなあ、『セブン』デイズ・ウォーダディだなあ、と思ったら、ブラッド・ピッドでござった。

FURYYYYY!! おまえは今まで殺したドイツ人の数を覚えているのか <映画『フューリー』でのブラピ&パンツァー>

劇場版『ガルパン』のちょうど1年前ぐらいに見てる映画なんですね。
動くモノホンティーガーが見れる映画でしたが、戦車とか全然分からない私にはその価値は分かりませんでしたが、映画としてバケモノとして描かれていたことは分かりましたよ。

番外編:


西島秀俊さんのCMでおなじみ、インスタントラーメンの日清ラ王。

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この日清ラ王のCMについて、色々気になることをいじったりしながら、インスタントラーメンのCMにおける「誰がラーメン作るのか?」問題を考えていきます。

「まるで、生めん。」は誰がために <日清ラ王TVCMの“ラーメン誰がつくる”問題>

Wordpressで作ったサブブログの記事なので番外としました。
しかも、ブログ全体としてはまだ色々といじってる途中なので、不完全な状態なんですが、記事書いちゃったので。

サブブログは単に、サーバー借りて、Wordpress入れて、色々いじってみよう、という遊びをするためだけのものなので、器が目的で、内容とか一切考えてませんでした。

FC2ブログの方が、アニメなどの長文ネタで固まってきてるので、それ以外のことを書く場にすればいいかな、とは思ってるんですが。
で、Twitterでツイートした短いネタなんかを、リサイクルすればいいしと思って、ラーメンネタの記事を書いたんですが、結局、長文になりましたね。これはもう病気やね。

何とか短くてどうでもいいネタを書いていきたいと思いますので、サブブログも宜しくお願い致します。

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2015年の記事は以上です。
予定にまったく無かった記事を、多く書くことになってしまった1年だったな、という印象です。

Twitterでの話が面白くて「アラ、いいですね」の波が何度押し寄せても、私は絶対に屈したりはしない!

記事を書くことになっちゃったよ……。

といった即堕ち2コマの繰り返しというか。
ただでさえ記事を量産できないのに、自分で自分の首を締めたとしか言いようがありません。笑うがいい。このような痴態をさらした私の姿を。

Twitterは元々、アウトプットが苦手な自分のためのメモやブログの元ネタづくりとして始めたので、意図通りともいえるんですが、記事にするときにはゼロから書き直すので、手間はそう変わらないんですよね。

この記事を書いている今現在だと『ガールズ&パンツァー』のツイートが多いので、あれを仕立て直せば、何本か記事が出来ると思いますが、再構成の手間というか、それをする過程でもう一段面白くなる確信がないと、どうしても二の足を踏みますね。
そうじゃないと、ただの清書というか、繰り返しの作業のようになってしまいますから。

全ては言い訳……だがな少年。やらない言い訳ばかりを思いつく、それが大人というやつなんだよ。

そうは言いつつも新年ですから、ここは前向きに、2016年というか将来の目標的なことを書きましょう。
  • いつか『パトレイバー』シリーズ記事を何とか完結させたい。
  • いつか台湾に旅行にいきたい。(行った事ない)
  • いつか北海道に旅行にいきたい。(行った事ない)
  • いつか同人誌に参加したい。(作りたいではないのが最低なポイント)

こういうの書いたことがないのですけど、最近私の友人が「結婚したいな……」と周りに言ってたら結婚することになった、と報告してきたので、ははあこれやな。この欲望に対する正直さと率直さが、幸運を呼び込むんや。ドリームがカムしてトゥルーになるんや。決戦イズフライデーなんや。と、感じたので、珍しく書いてみました。

台湾と北海道は行った事ないので純粋に旅行として行きたいのと、この場所ならブログを通じてのお知り合いにお会いできそうなので。
北海道行った時は、ぜひ『波よ聞いてくれ』聖地巡礼ということで、スープカレー食べに行って「おい、ルーがしゃばしゃばじゃねえか。ルーがしゃばしゃばだから店長呼んで来い。いやだからルーがしゃばしゃばで」みたいな、今どきそれ言う?みたいな感じで、初めてスープカレー食べた昭和世代ごっこしたいと思います。(ちなみにスープカレー何度も食べたことあります)

同人誌は、ブログとは違う面白さがあると思うので1度くらい体験してみたいなと思うのですが、「行動なき意思団」と呼ばれるほどの持ち前の行動力のなさと、社交性の低さで、実現に至っていません。というか実現に至ろうと行動したことがないです。

なんていうか、すべて「いつか」という、具体性のない未来へ丸投げしてる感じが何ともいえないですね。

いつか、いつか、いつか。
かなえたいと。きっとかなえたいと……。

私も、ソーメンマンさんの息子が、眠るシューマイを見守るような優しい目で、この世のあらゆるものを見つめていきたいと思っております。今年もよろしく!(すがしい顔で)



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TOMINOSUKI / 富野愛好病のkaito2198さんが進めているビッグプロジェクト「井荻麟作詞論」
富野由悠季監督が「井荻麟」というペンネームで行ってきた作詞活動に関する記事を全109回で語る一大シリーズ連載です。

このたび第52回として、『∀ガンダム』の後期エンディング曲でもあり、最終話の挿入歌でもある「月の繭」の記事が公開されました。

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曲の詳細な解説は、kaito2198さんの記事をご覧頂きましょう。

井荻麟作詞論 第52回「月の繭」
http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-1641.html

この記事に大いに刺激を受けましたので、私も、私なりに「月の繭」について語ってみたいと思いペンをとった次第です。



kaito2198さんみたいに歌詞を追いながら、曲の全体像を浮かび上がらせるような事は出来ないので最初からする気はありません。

私がするのは「月の繭」の個人的な解釈です(妄想も多分に含まれる)。
名曲はさまざまな解釈を許す懐の深さを持っていますので、それに甘えてみようかと思います。
ですから、これからの話はあくまでこの曲が持つ無数の可能性のひとつと思って下さい。

「月の繭」の「繭」とはなにか


「月の繭」という曲は、シンプルでありながら、奥の深い歌詞になっています。

まず特徴的なのは、歌いだしから始まる情景描写。

山の端 月は満ち
息づく あなたの森

夏草浴びて眠る
愛おしい 横顔

おぼろな この星
大地に 銀の涙


これについてはこれまで「井荻麟」の歌詞を追ってきたkaito2198さんも「月の繭」記事にて、こう書いておられます。

今までの記事で論じたとおり、井荻麟の作詞だいたい「意志表明」か「物語性」のどちらの特徴を持っている。しかし、この曲は「意思」「物語」など動的な要素をもっておらず、むしろ静的な情景の描写に徹している。


この静かな情景描写が続く歌詞は、井荻麟の作詞としては特徴的(珍しい)ようです。

そして、この後の歌詞。

繭(まゆ)たる蛹(さなぎ)たちは
七たび身をかえる

青にLaLaLu LaLaLu染まる 恋し繭玉(まゆだま)
揚羽(あげは)の蝶になる


ここで出てくる「繭(まゆ)」というワード。

そもそも曲名自体が「月の繭」なんですが、「繭」という言葉は、1番の歌詞に上記の2つが入っています。
2番の歌詞には含まれておらず、最後にもう一度サビの繰り返しとして「青にLaLaLu LaLaLu……」がリピートされます。
  • 静かな情景描写が続く、特徴的な歌詞
  • 曲名にも歌詞にも使われている「繭(まゆ)」という言葉

なぜ「月の繭」は、井荻麟の作詞としては珍しく静かな情景描写が続くのでしょうか?
そして、この曲における「繭」とは、いったいなんなのでしょうか?

「繭(まゆ)」という言葉の意味


まず辞書的な意味で「繭(まゆ)」とは何か、改めて確認してみましょう。

1.完全変態をする昆虫の幼虫が、中でさなぎとして休眠するため、口から糸状の粘質分泌物を出して作る覆い。砂粒・葉などを利用するものもある。

2.蚕が口から糸をはいて作る殻状の覆い。白や黄色で、中央のややくびれた楕円形をしている。生糸の原料。

http://dictionary.goo.ne.jp/jn/209670/meaning/m0u/%E7%B9%AD/


御蚕さんの白い繭玉をイメージしますね。あの繭です。
イモムシのような幼虫が繭から出ると、完全HENTAIし、羽をもった成虫に生まれ変わっています。

ちなみに歌詞では「揚羽の蝶になる」とありますが、チョウはごく一部の例外をのぞいて繭を作りません。

『∀ガンダム』という作品の中ではどうでしょう。
主役ロボットである∀ガンダムは、「月光蝶システム」という武装を持っています。
まさしく揚羽蝶のような羽で飛び回り、ナノマシンを射出し、人工物を分解して砂状に変え、かつての地球文明の全てを埋葬した恐ろしい兵器です。

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物語の最後で、∀ガンダムはターンXと相討ちのような形となり、繭玉のようなものに包まれて眠りにつきました。
『∀ガンダム』において「繭」と「蝶」といえば、これを最初にイメージする方も多いでしょう。

では、これこそが「月の繭」の正体なのでしょうか?

ディアナは月の女神


本編に登場しているわけですから、それらがもちろん「蝶」と「繭」であることには間違いありません。

ただ、ここでは他の可能性も考えてみましょう。

そのヒント。歌詞の中の「あなたの森」について、kaito2198さんはこう書いていらっしゃいます。

「あなたの森」というのは、『∀ガンダム』のモチーフの一つでもあった「金枝篇」で取り上げられた「ディアナの森」のことだろう。神話においてディアナは月の女神である同時に森を司る女神でもある


ディアナは月の女神であり、月の象徴でもあります。

それでは月=ディアナとして、曲名の「月の繭」を「ディアナの繭」と読み替えてみてはどうでしょう。

後期エンディングのアニメーションでは、まさしくディアナ・ソレルが1匹の揚羽蝶へと変化していましたね。

ではその揚羽蝶を生んだ繭とはなんなのか。

私は「ディアナの繭」とは「地球」のことではないかと思います。

それはいずれ大地に眠るディアナ・ソレルを包んで、また次の命(蝶)を咲かすための繭玉です。

そして、もっとマクロに言えば、地球とは人類すべてにとっての繭玉ではないでしょうか。
大気という安全な繭に包まれた繭玉の中で、人類は生きている。

つまり「月の繭」とは、「地球」という言葉をひとつも使わずに「地球」そのものを表現した言葉

「月の繭」とは「地球」のことだったんだよ!

shockscience.gif

この「月の繭=地球」説は、歌詞妄想研究家highlandviewの説として、FC2ブログを通して、世の中に正式に発表するものです


……とまあ、そう考えてみてはどうかな。サイ九郎。

恋はスリル・ショック・サイエンス。

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どんどん増えるよ黒歴史


「月の繭」を地球そのものと考えると、この曲が美しい地球の情景描写から入るのも自然かつ必然に思えてきます。

繭玉が青に染まるのも、宇宙(月)から見た地球の姿をイメージすれば、海の青と雲の白で覆われたこの星は、宇宙に浮かぶ青き繭玉に見えるのかも知れません。

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この地球で、人類は何度も何度も失敗を犯してきました。
そのたびに∀ガンダムが月光蝶システムで文明を埋葬し、黒歴史をひとつ積み上げてきました。

どんな時でも、地球は人類の繭玉となって、次の蛹(さなぎ)を蝶にかえしてくれたことでしょう。
いつかは、もっと美しく、銀河まで羽ばたける揚羽の蝶になると信じて。

しかし、何度も何度も愚かなことを繰り返し、黒歴史を増やす人類。

歌詞でいえば「七たび身をかえる」に部分が相当します。

七生(しち‐しょう)
この世に七度生まれ変わること。永遠。しちせい。

http://dictionary.goo.ne.jp/jn/97881/meaning/m0u/%E4%B8%83%E7%94%9F/


人類はそれぐらい愚か生き物なんですが、いつか、はるかかなた、もしかすると、より良い生き物になれるのかも知れない。

……本当に?

全てのガンダムのエンディング曲


卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。
我らが雛で、卵は世界だ。
世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。
世界の殻を破壊せよ。
世界を革命するために。


「卵」と「繭」は存在としては似ていますが、大きく違うのは、繭は幼虫が自分自身でつくるんですよね。

いわば「生まれ変わりたい」という本人の意思がないと繭というものは存在できないわけです。

この「七たび(永遠に)生まれ変わる宿命であろうとも、生まれ変わり続けたい」というところに、人類の意志、そして、わずかばかりの希望みたいなのを感じても面白いのかな、と思います。

さて「月の繭」2番の歌詞には「繭」というワードが含まれないことは先に紹介しましたが、ではどんな歌詞が展開されているのか。

あの月 あなたなら
哀しみを写さずに

世の揺らぎ見つめて
嘆かずに飛んでみる

風にLaLaLu LaLaLu唄え 翅(はね)に月うつし
揚羽(あげは)の蝶になる

揺らぐ夜に生まれ 銀河をわたる蝶よ
いのち輝かせよ


1番が地上の美しさと繭玉の歌だとすれば、2番は繭から出て、宇宙へはばたく蝶たちへ捧げる歌になっています。

特に「揺らぐ夜に生まれ~」の部分などは、ガンダムシリーズ全体を表現している歌詞といえるでしょう。

私たちは数多くの『ガンダム』という作品を通して何を見たのか。
まさしく、銀河を渡ろうとした幾多の蝶たちが、宇宙(そら)で輝かせた命を見てきたのではなかったか。
そこには、はかなく散った命も、愚かしい命も、あたたかな命も、たくさんの命があった。

kaito2198さんもこう書いていらっしゃいますが、私も同意見です。

「世の揺らぎ」「悲しみ」は長い歴史の暗部のことを示すように読み取れる。それが劇中の黒歴史ではあるし、今までガンダムシリーズで描いてたあらゆるもののことなのでしょう。


もうひとつ。

命の尊さ、それから時と生命が永遠に続くだろうというテーマは、2015年時点での最新作『ガンダム Gのレコンギスタ』まで包括できるものなので、ガンダムシリーズにおいて究極なエンディングテーマである。


「MOON」と「月の繭」との関係


さて「月の繭」を地球に見立てた説をお送りしていますが、ここで少し視点を変えましょう。

「月の繭」という曲の成り立ちについて、kaito2198さんの記事から引用します。

特筆すべきなのは、この曲の旋律の大元となる「MOON」は音楽担当の菅野よう子氏が『∀』において一番最初に作った曲で、1話のラストシーンに使われていたものであるため、この歌詞は数々の井荻麟作詞のなかでも数少ない曲先の仕事となる。


「月の繭」のベースとなった曲「MOON」は、『∀ガンダム』第1話のラストで使われた印象的な曲です。

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Gabriela Robin名義の詞・歌が載っていますが、歌詞に特に意味はないようです。
作曲の菅野よう子さんはよくこの方法を使います。どこの言葉でもない鼻歌のようなものでしょうか。

この「MOON」のメロディーが先に存在し、それに井荻麟氏が詞をつける、というプロセスで「月の繭」という曲は完成しています。
この流れは重要な意味を持つので、覚えておいてください。

kaito2198さんによれば、この「曲先(曲が先行して存在する)」という方式は、井荻麟作詞では珍しいケースになるようです。

その上で私の(結果論的な)解釈を言えば、第1話ラストの「MOON」は月から降りてきたムーンレイスの少年ロラン・セアックの曲です。
地球人の私には何を歌っているのかもさっぱり分かりません。ムーンレイス視点の月世界の曲です。

しかし最終話ラストの「月の繭」はどうでしょう?
ここまで語ってきたとおり、地球視点の地球の言葉(日本語歌詞ですが)がついた、地球の曲になっていますよね。

すなわち。

キエル:「MOON」から「月の繭」へ

ディアナ:「菅野よう子」から「井荻麟」へ

キエル&ディアナ:「また、お会いいたしましょう」


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そして『∀ガンダム』は全50話1年をかけて、月の民の帰還と地球との融和を描き、菅野よう子の曲と井荻麟の詞が出会い、見事作品と同じく「月と地球が融合した曲」が生まれました。

『∀ガンダム』とは「MOON」が「月の繭」の歌詞を獲得するまでの物語といえるのかも知れません。

ですから私は「月の繭」出だしの情景描写パートで、もうすでに感動してしまいます。

山の端 月は満ち
息づく あなたの森

夏草浴びて眠る
愛おしい 横顔

おぼろな この星
大地に 銀の涙


なぜなら、第1話でロランが叫んでいた「地球ってとってもいいところ」を、この詞こそが表現してくれているから。

最終話に「MOON」は「月の繭」となり、美しい星とそこで生きていくすべての人々の歌となったのです。


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もちろん「MOON」と「月の繭」の成り立ちは意図的なものではなく、私による結果論的な後付けに過ぎません。

でも菅野よう子が月をイメージして作ったであろう曲に、富野由悠季(井荻麟)が地球の美しさを歌う詞をつける、というプロセスは、ロマンのある解釈をする余地を与えてくれていると思っています。



以上、妄想エンジン・フルスロットルでお送り致しました。

この記事で全体に渡って引用させて頂いたkaito2198さんには、記事はもとより、Twitterなどでも「月の繭」について楽しくお話をさせて頂きました。kaito2198さんがいなければ、ここまではっきり言語化することもなく、この記事を書くことも無かったと思います。本当に感謝しております。

井荻麟作詞論シリーズはまだまだ継続中ですので、他の曲の解説も含め、ぜひご覧ください。

井荻麟作詞論109回リスト(詳細版)
http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-1214.html

「月の繭」はさまざまな解釈の余地をもった懐の深い名曲です。
もちろん先に述べたように、今回の私の解釈は、この曲がもつ多くの可能性のひとつに過ぎません。

「繭」とはいったい何なのか。
あなたは私の解釈に、コクーンとうなづいてもいいし、マユツバだといぶかしんでもいいのです。




関連記事


「月の繭」と言えば、後期エンディング曲として使われましたが、印象的なのは、やはりフルで使われた最終回ラストの奇蹟の6分間。

その中のさらにごく一部のことを書いた記事です。よろしければこちらもご覧ください。
ロランとソシエの雪の夜の別れのキスについて。

惑星の午後、僕らはキスをして、月は僕らを見なかった。<『∀ガンダム』最終話「黄金の秋」より>


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11月に入ったというのに、7月公開の映画の話を続けます。俺たちの夏はまだ終わらない!
記事タイトルは、釣りというか、とんちです。



映画『バケモノの子』については、これまで2本の記事を書きました。

子育て西遊記 in ケモ街diary <映画『バケモノの子』と中島敦『わが西遊記』>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-237.html

東京都渋谷区「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件<映画『バケモノの子』の「父子」と「普通」について>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-238.html

※本記事も含め、当社独自のネタバレーションテクノロジーにより、全編に渡ってネタバレしております。

特に2本目の記事では、物語について、私自身が疑問に思うことを確認しながら考えています。

その中で、大きくスペースを割いて書いたのが、「バケモノの父・熊徹と、主人公・九太(蓮)が、親子ゲンカでもして親離れ・子離れせず、逆に一体化してしまうこと」に対する疑問でした。

ステレオタイプの古い頑固親父として描かれた熊徹と、現実世界での進学を考えている九太の間には、進路に対する家庭内対立がありました。
しかし、この対立はその後の「一郎太事件」もあり、曖昧なまま解消されることになります。

熊徹は最後まで九太を子供扱いして、「我が身を犠牲にしてでも我が子を守る」を文字通り実践します。
実際のところ、九太との修行によって熊徹は強くなれましたし、猪王山との決戦も九太なしでは勝てなかったでしょう。一方的な保護・被保護の関係ではないと思います。

それにも関わらず、あくまで親と子の関係にこだわり、九太のために身を尽くす熊徹。
結果的に熊徹が消えたことで、現実世界へ九太を返すことになりましたし、心の剣は進学はもちろん九太が生きる支えになるとは思います。でも、正面から九太に向き合って、二人で答えを出したわけではないんですよね……あくまで父による独断、一方的な愛情表現に過ぎない。

この展開に、父親または男性としての都合の良いロマンチシズムを濃厚に感じてしまいました。

私自身が父親という立場を経験したことがない、という受け手の問題も要因としてあるとは思いますから、「オヤジの愛情とはそういうもの」「自己満足だが、だからこそいい」という意見もあるかも知れません。

ともあれ、私としては「熊徹と九太の一体化」に対して、感動というよりは、違和感、疑問を感じてしまったわけです。

「熊徹と九太による感動のシーン」の肯定


そこまで熱心に調べたわけではないけれど、ネットでの『バケモノの子』の感想や反応を見る限り、映画はおおむね好評なのではないでしょうか。ラストの「熊徹と九太の一体化」についても基本的には感動を呼ぶシーンとして、受け入れられている印象を受けます。
興行収入50億円突破、おそらく60億円近く稼いでいる映画ですから、その結果から見ても、多くの観客が作品に期待を寄せ、そして観客の望むものを提供できているのだろうと思います。

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私としては否定的な「熊徹と九太の一体化」シーンも、このラストこそが求められているものだった、ということなのでしょう。
実際に、このシーンで涙したり、多くの感動を呼んでいるのはまぎれもない事実ですしね。

ですから、この事実を一旦受け入れた上で、この映画をもう一度考え直してみることにしました。

つまり「熊徹と九太が一体化する」という展開は、この映画にとって正しいものであった、というスタンスを取ることになります。

これは、前回書いた自分の記事を真っ向から否定するものになるのですが、それはやむをえません。
前回までに書いた諸々のことは一旦忘れることにしましょう。
何か新たな視点を得ることができればそれで良いのです。

「熊徹と九太が一体化する」ことを捉え直す上でポイントとなってくるのは、熊徹と九太ではなく、九太の実の父親だと私は感じています。
この実父を足掛かりに考えてみることにしましょう。

二度のピンチを救った父と救ってくれなかった父


物語の後半(ラスト)は、一郎彦が変化した巨大な白鯨が出現し、大混乱の渋谷が舞台となります。
バケモノの世界「渋天街」ではなく、現実世界で決着するわけです。

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それにも関わらず、九太の実父はラストには一切関与をしません。

九太の実父は、久しぶりに会う子供との距離感が上手くつかめず、子供の意志を尊重しているようでいて、その心に土足で上がりこまない代わりに、まったく踏み込んでくれません。
優しいけれど肝心なことはしてくれない父親です。

位置関係を見ても、九太が父親と再会を果たした商店街もまた渋谷区で、この近辺に住んでいるはずですから、実父は渋谷区民のはずです。
しかし、それでも父親が登場することはありませんでした。

何より大事なことは、このことによって、実父は我が子九太(蓮)の本当のピンチに、二度とも駆けつけなかったということです。

一度目のピンチは、母が死んで孤児になった9歳のとき。(映画の最初)
二度目のピンチは、渋谷で白鯨に襲われて死にかけるその8年後。(映画の最後)

この二度のピンチをともに救ったのが、熊徹です。

渋谷で路頭に迷っていた蓮を見つけ、九太と名付けて弟子にし、実質の養父として8年育ててくれました。
さらに渋谷で白鯨に追い詰められていた九太を助けるため、我が身を捨てて九太の力になることを選んでくれました。

九太と熊徹は一体化し、熊徹は九太の心の中で見守り続ることになります。
そして九太は現実世界で実父と暮らし始める、という所で物語は終わり、めでたしめでたし、となるわけですが、これは逆に言えば、心の中に熊徹がいなければ、実父と普通に暮らしていけなかったということでもあると思うんですよね。

だって二度とも自分を助けてくれなかった父親ですから。

幻想の父親と、現実の父親


心の闇(穴)を埋めてくれた他人がいて、初めて九太は安定を得たわけです。
映画の描写を見る限り、実父と暮らすことで安定したわけではなく、熊徹によって安定した九太だから、実父との暮らしを受け入れることができた、と考えた方が因果が自然です。

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私などは、九太と熊徹の疑似親子の決着としての「九太と熊徹の一体化」に反発を覚えたわけですが、何も助けてくれない血縁の父親よりは、実際に手を差し伸べてくれた赤の他人との関係の方がまだ信用に値するという話であれば、理解できます。

映画のメインは熊徹と九太の親子関係なので、見ている男性、特に実際に父親の立場の方は、そちらに感情移入してしまいがちだと思います。

でも実際の親子関係は、九太と実父のそれに近い方がほとんどのはずです。
熊徹のようなステレオタイプの昭和親父でもないし、師匠と弟子として何かを教えながら四六時中一緒に生活しているわけでもないし、何よりバケモノと人間の疑似親子ではなく、実父と九太のように血縁の親子である方がほとんどでしょう。

現実の父親たちは「熊徹」ではなく「実父」に近い。
だからこそ幻想(理想)の父親として熊徹が機能している。

これを前提に、ラストの実父(現実の父親)と九太の同居を考えてみれば、父親または父性というものへの視線はむしろシビアと言えるのかも知れません。

もちろん熊徹の方へ感情移入して感動することは自然で容易だし、実際にそちらへ誘導して気持ち良くさせてくれるのですけどね。

熊徹と実父が渋谷で出会う可能性


『バケモノの子』がこのような構造をしているからこそ、可能性として浮かぶのは、渋谷で2人の父が出会う物語。

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例えば物語後半の白鯨が現れて大パニックの渋谷。
同じ渋谷に住んでいるだろう実父は、TVニュースなどで事件を知り、また映像の中で逃げ惑う九太の姿を目にして、自転車に飛び乗り、勇気を振り絞って現場へ向かう、という展開はひとつのパターンとして考えられます。

もちろん武術の心得も何もなく、息子より弱い父親が現場に駆け付けても何にもならない。
だが、息子が大ピンチで自分は父親なのだ。そういう問題ではない。

このパターンの場合、熊徹は重体の体を押して、九太を追って渋谷に出てきていることにしましょう。
そこで、熊徹と実父が出会う。

「九太!」「蓮!」お互いが同じ子供を助けに来たと気づくが、それぞれ呼びかける名前が違い、それでお互いが「九太の実の親父か」「蓮を育ててくれたという恩人はこの人か」と気づく。

その後「誰が九太(蓮)の父で、誰が息子を助けるのか」という父同士の意地の張り合いの後、致命傷で動けない熊徹が刀に変化して九太に加勢することを思いつき、その意気を汲んだ実父が協力することで、父親間の父権のスイッチ(熊徹から実父へ)がスムーズに行われるかも知れない。

このとき実父は、刀になった熊徹を九太に手渡す役割を果たし、「九太、負けるなよ」みたいに、熊徹の代わりに「九太」と呼びかけて激励しても良いかも知れないですね。
この場合、九太の救出は、熊徹の独断ではなく、2人の父親による共同作業ということになるでしょう。

もちろんこれは単にひとつの例(妄想)に過ぎませんが、実父を排除した上での九太と熊徹の一体化ではなく、実父(現実の父)と熊徹(理想の父)の一体化のように見せることが出来るかもしれない。

この映画には、現実の渋谷と幻想の渋天街という2つの世界があり、父親もまた現実の実父と、幻想の父親の2人がいるが、最後にその2人が出会って、少しだけ2つの世界が近づく、というような形で。

役割を終えた幻想の父は消え、彼から父親をきちんと継承した現実の父が、息子と暮らし始める。
このような感じなら、実父と九太のその後の生活も何も心配することはないでしょう。

なぜ実父は物語のラストに関われなかったのか


でも前述したように、実際には同じ渋谷区にいながら、実父はこの場に現れることはありませんでした。
9歳の蓮を救えなかった実父には、8年後の二度目のピンチに今度こそ駆けつけるという機会すら与えられてはいない。

これは意図的な排除であると私は思います。


お話をシンプルに熊徹と九太に集約したり、尺の問題などの要因もあるでしょうが、そもそもここで実父を救う映画ではないのです。多分。

この実父の扱いをベースに考えれば、この作品は「母親は選べないけれど、父親は選べる」という話です。
助けてくれない血縁の実父より、人生や生きる方法を教えてくれる大人の方が自分にとって大きな存在になりえます。

誰から生まれてくるか(母)は選べないけれど、父親(師)は子供が選べる。
自分にとって適切な父親(師)を探しなさい。
それは何人いてもいいのです。そういう人をたくさん見つけなさい。
さらにこの映画でいえば、バケモノのように、自分とは異なる存在でも父親(師)になりえるのですよ。
……というメッセージ。
このメッセージは正しいと思う。

もちろん大人だからといって完全な存在ではなく、子供と一緒に成長しなければならない不完全な存在だということも描いています。不完全な父親しか登場していませんしね。
ただ、大人とは、大人であることを引き受けた存在の事を言い、一定の能力や資格のことではありませんから、別にそれはそれでかまわないとは思います。

『おおかみこどもの雨と雪』と『バケモノの子』の息子たち


先ほどの「母親は選べないけれど、父親は選べる」という話で行けば、前作『おおかみこどもの雨と雪』との対比も面白いでしょう。

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『おおかみこどもの雨と雪』は『バケモノの子』とは逆に、父と死別し、母と暮らす2人のおおかみこどもの物語です。

物語の後半、母である花とは全く関係ないところで、男の子である雨が父親(師)となる老アカギツネの先生を見つけて、親離れしようとします。

花は彼に「なにもしてあげてない」と嘆きますが、実際に具体的なことは何もしていません。
ですが、男の子はそれでいいのです。母の知らないところで自分の世界を見つけ、勝手に大人になっていくのです。

この「男の子が、実親と関係ないところで勝手に父親(師)を見つけて独り立ちする」という要素は『おおかみこどもの雨と雪』も『バケモノの子』も全く同じですね。

『おおかみこどもの雨と雪』では、子離れの気配に気づいた花は我が子を手放すまいとしますが、最終的には子供の選択を承認して、子離れ・親離れが成立します。

花さんは田舎に引っ越し、右に曲がれば山、左に曲がれば人里(学校)という形で、おおかみか人間かの選択肢だけは用意しました。

そこでおおかみの道を選択した息子を、独立した個人として承認し、自分を子供にとって不要な存在として認めて子離れしたので、立派な母親です。
花さん、えらい。母の映画は、我が子を逃がすまいとするシーンと手放すシーンが必要なのかも知れない。

では、母不在で父親複数の『バケモノの子』ではどうでしょう?

九太は最初から実父を頼っていませんね。
それは孤児になった9歳のときからで、父親を探そうとも求めようともしていませんでした。
彼にとって父とはその程度のものという認識だったのかも知れませんが、その後、外部で父(師)となる熊徹を見つけ、渋谷の白鯨事件を通して、勝手に大人になってしまいます。

大人への通過儀礼を終え、九太から蓮に戻った彼は、はっきりいってすでに大人ですから一人暮らしでもすればいいのです。
現実世界を支える存在としては楓がいますし、目標も実父に相談することなく大学進学と決めています。

それでも蓮が実父との同居を選んだのは、彼の優しさと、前述のとおり心の中の熊徹のおかげといってよいと思います。
すでに大人だからこそ、父の事を考えて同居を選ぶという域に達しており、要するに大人になった蓮の気遣いと温情で、子供とその父親という関係が継続しているに過ぎません。

もちろん実父はそれを何も知らないでしょう。

実父は蓮のおかげで父親をやらせてもらい、蓮もまた彼の前では子供を演じるでしょう。
もしかすると蓮の配慮により、空白の8年間を埋めるために今後8年ぐらいは、実の父子による「疑似親子」関係が続く可能性もあります。

大人になった男の子が、母から離れる『おおかみこども』と、父と同居してあげる『バケモノの子』という対比は面白いと思います。
これは細田監督の母へのリスペクトと、父への憐み(自己憐憫)を私は感じます。

そういう意味では、蓮は少し出来が良すぎる息子で、父親にとっての「幻想の息子」に近いかも知れませんけどね。

それでも映画に登場した実父という存在


熊徹はあくまで幻想(理想)の父親です。
ゆえに21世紀の今、ほとんど存在していない古めかしい頑固親父のような造形でも構わない。
そういったステレオタイプの昭和親父と同じく、フィクションとしての父親なのですから。

だからこそ、この映画を見ている父親を含んだ男性たちは、熊徹に過度に感情移入し、子供と一体化して永遠の心の中に生き続ける展開に感動しすぎない方が良いような気がします。

もちろん普通に見れば、熊徹と九太親子にスポットが当たっているので、男性に限らず多くの人が、熊徹に感情移入して感動して泣けるんだろうとは思います。
でもそれは細田監督からしてみたら計算通りみたいなものでしょう。
だから幻想の父だけでなく、きちんと現実での父も登場させている。
そのあたりが大人(男性)向け目線かなと思いますね。

実際のところ、両親をともに交通事故で亡くすというプロットでも映画は成立すると思うんですよね。
そうなると現実世界とバケモノ世界の天秤という意味では、楓の役割がより重要となるはずです。
実父不在の場合はバランスの為にも、蓮との恋愛関係に近いところまで踏み込まざるを得ないでしょう。

しかしそれで何の不都合が?
実父のシーンを楓との恋愛描写に振り分けた方が「商品」としてはより魅力的になったかも知れない。
だがこの映画では、楓を恋愛対象ではなく、あくまで蓮に対する共感者、導き手ぐらいに留めている。
逆に言えば、そこまでしてでも、この実父というキャラクターを登場させているとも言えます。

つまり細田監督にとって、実父というキャラクターは、この映画に絶対欠かさないものだったはずなのです。
であるにも関わらず、ラストの危機にも楓や熊徹が参戦する一方で、実父は場にいる機会すら与えられない。恐らく意図的に。そこが面白いところです。

熊徹と九太のような親子関係という男性にとって気持ちの良いものを提供しながら、自身も父親となった細田監督は、現実の父(自分自身)とはこういうものだと思っているのかも知れません。

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ですから、パッと見の第一印象ほどには父性礼賛な作品ではないですね。
むしろ、父性への戸惑い(模索)からか、良い父親はひとりも出てこない。
そういう分かりやすい父親像はすでに存在しないのだ、ということで、血縁でなくとも、複数の父を探そう、という話にしていると思います。
もしくは、ひとりの偉大な父ではなく、複数人で役割分担をして、何とかひとり分ぐらいにならないか……というぐらいの弱々しい父性なのかも知れません。

それは今の少子化社会で、父親になれないまま生きる男性(私を含む)の問題でもあります。
実の子はいなくても、誰かの父親(役)になることはできるかも知れないし、それぐらいはしなければならないのかも知れない。
別にひとりで子供を背負うこともなく、地域社会や共同体内や職場などで、それぞれが少しずつ役割分担をすればよいのかも知れない。
もしかすると、熊徹のように、実の父親以上に影響を与えるようなケースもなかにはあるかも知れない。

ただ「この子の心の中で生き続けたい」などと言う父親側の自己陶酔的な欲望は必要ないと思うけどね。

最後に。「熊徹と九太の一体化」の肯定


ここまで「熊徹と九太の一体化」を一旦肯定した上で、実父に視点を置いて改めて考えてみましたが、いかがだったでしょうか。
私は、実父という存在を前提にするのではあれば「熊徹と九太の一体化」も一つの方法だと、肯定するに至りました。

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前回記事から続きで読んでいる人からすると「完全に意見が真逆になってるじゃねーか」と思われるかも知れませんが、前提条件と違う視点を設定したら、違う答えが出てくるのは自然だと思います。わたくしは全く悪びれない。

それに、これまでの自分の見方や意見を捨てたりしたわけではありません。
異なる視点をひとつ手に入れた、ということなので、単純に見方が増えたと自分では思っています。

実際、映画の中心たる熊徹と九太の関係と決着を、犠牲をしいられた一郎彦のことを含めて、父親側にとって都合のよいものとして批判することはできると思いますし。

ただ「見たいもの」「気持ちいいもの」を提供するのがフィクションのひとつの役目という意味では、それで50億円以上稼げるわけですから、まさにバケモノですよ。
それでいて、実父の存在のように、気持ちいいだけの、快楽だけの映画にはしていないのが特徴的ですね。
(これが、いわゆる細田映画の「モヤモヤ」を生む要因のひとつ)

私の中では、映画『バケモノの子』についてはこれで決着です。
また何かどなたかの刺激的な意見を目にしたら変わるかも知れませんが、記事としてはこれで完結としたいと思います。

興収50億円以上、毎年金曜ロードショーで放映できる映画で、こういう構造の作品をつくるのはやっぱりすごいと毎回思っています。
次作も楽しみですが、やっぱり、そろそろ息抜きが必要な気はしますね。押井守の監督勝敗論的にもね。


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前回記事では、映画『バケモノの子』の感想をお送りしました。

子育て西遊記 in ケモ街diary <映画『バケモノの子』と中島敦『わが西遊記』>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-237.html

作品のモチーフのひとつである『西遊記』を中心にした話をして、最後に、長年見たかったものを私に見せてくれて、細田監督ありがとう、と感謝の意を表しました。大変きれいな記事でございました。

今回は細田映画の風物詩「モヤモヤ」を中心に、鑑賞後に物語について色々考えたことをメモしてみます。

あのですね。はっきりいって呆れるほど長いですよ。自分でも呆れますから。

思考のぐるぐるをそのまま書いてますからね。ズバッと一言で切り捨てていけば短く済むでしょうが、思考のはらわたを書くこと、見せることこそ、この記事の本質ですから、どうしても長くなります。申し訳なかとです。

ブロックを、映画の要素ごとに分けていますから、なんでしたら興味のあるブロックだけご覧ください。

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もはや遠慮するような時期でもないので、ネタバレ全開でお送り致します。
ただ、映画を見たのが7月の1回だけですから、記憶の方がすでに曖昧になりつつあります。
当時の自分のツイートを確認しつつ、何とかあの頃のピュアな気持ちを思い出して、がんばる所存です。

映画『バケモノの子』について


映画『バケモノの子』は、2015年7月11日に公開された日本のアニメーション作品。

『時をかける少女』、『サマーウォーズ』、『おおかみこどもの雨と雪』の細田守監督の長編オリジナル最新作で、興行収入50億円突破の大ヒットを記録しています。

あらすじなどは前回記事をご覧ください。



映画前半と後半で大きく異なる雰囲気


さて、前回記事からの流れでいきますと、前半はおおいに楽しんだと。では後半および物語の終わり方についてはどうなの?
と、当然なるわけですが、この作品は前半と後半でかなり雰囲気が異なっています。
少なくとも『西遊記』的なものは前半で終了します。

後半、特に物語の落とし方に関しては、個人的にはかなり疑問というか、モヤモヤが残りました。
その後しばらく何日かは、物語というものについて考えさせられたといってもよく、これは細田映画で毎度体験する宿題のようなものです。
この鑑賞後の何日間に残るモヤモヤと、それを晴らすために思考を巡らすことが、細田映画の楽しみ方のひとつと表現するのであれば、私は今回もめいっぱい楽しんだことになるでしょう。

では、そのあたりのことを色々と書いていくことにしましょう。
後半と物語の落とし方のことが中心ですが、それに関わる前半の要素についても言及します。

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あらかじめ申し上げておくと、これは批判というわけでも、自分が思ってたストーリーにならなかったクレームでもありません。
映画自体にもの申すというより、自分自身の物語に対する考え方(スタンス)を確認している、というのが近いと思います。

「モヤモヤ」するところは、細田監督と私とで何らかの考え方の違いが生じているはずなので、映画ではなぜこうだったのか。もし自分だったらどう考えるか、ということを私なりに確認していきます。

ですから、物語はこうあるべきだ、というような「物語の正しさ」の話でもありません。

つまりは長々と単なる「好み」の話をするわけです。
ですが、物語に対する最終的スタンスはこの「好み」でいいのでは、と思っています。
(多分やってはいけないのは、「物語の正しさ」を説くフリをしながら「好み」を話すこと)

主人公「蓮(九太)」について


バケモノ世界へ行くまでの主人公「蓮(九太)」の境遇は、以下のようになります。
  • 両親は離婚しており、母親と共に暮らしていた
  • 9歳のとき、母親が交通事故死で他界する
  • 母方の親族が、九太を引き取って育てることになった
  • 母方の親族は、ある程度裕福そうで、また貴重な男の子ということで大事にすると言っていた
  • 父親は母の死後、現れなかった。(親族が意図的に知らせなかったと思われる)
  • 親族にもらわれることを拒み、渋谷の路地裏で孤児となる。

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両親を揃って交通事故死としなかったのは、のちに実父を登場させ、人間世界とバケモノ世界の狭間で悩むジレンマを作るためと思われます。
生き残るのが母ではなく父だったのは、父親がテーマであるこの作品で、人間世界の実父とバケモノ世界の養父という対比をさせるためでしょう。
また父でなく母が生存していた場合、熊徹では勝負にならないほど母という存在が強い(勝ってしまう)、ということもあると思います。母には勝てなくとも、父VS父なら勝負になります。

実父が生存しているにも関わらず「孤児」の立場を作るために、前段階で離婚させた上で、母の死後(推測ですが)母の親族による情報の遮断をさせています。実父はこれで「不可抗力」で息子を孤児にできます。
(実父は、のちに事故と子供の失踪を知り、それからは息子を探し続けていたということが知らされます)

実父「無罪」のまま子供を孤児にする一方で、母の親族は、イヤな大人の役回りを担当しています。
彼らの蓮に対する態度もどこか高慢で好感を持たれるようなものではありません。

とはいえ蓮を引き取ること自体を嫌がってはいませんし、恐らく不自由のない暮らしは約束されています。
もちろん彼らの都合の良いように蓮の人生は流れてしまうでしょうが、誰も引き取り手がいないとか、あからさまに迷惑がられるとか、引き取ったあと児童虐待されるような最悪の状態にはならなさそうです。

しかし、蓮はそれでも彼らの世話になるのではなく、「一人で強く生きていく」ことを選び、孤児となり、渋谷の裏路地に暮らすストリートチルドレンとなります。(もちろん「一人で強く生きていく」は、蓮の本当の望みではないわけですが)

正直なところ、母方の親族が記号的で、孤児の境遇をつくるための道具となっているのですが、かといって渋谷の裏路地で暮らした方がマシに思えるほどの最悪な大人にもしていないように思えます。
「一人で強く生きていく」を孤児になるための、そしてバケモノ世界へ飛び込ませるための動機として使って問題ないと思うのですが、あの時点で、わずか9歳の主人公・蓮があそこまで親族を憎んで、ひとりで生きていくことを選ぶモチベーションの持ち方が、映画を見る限り私にはよく分からなかったところがあります。

ちなみに画面に登場する母の親族は、みな顔が見えない演出がされています。

この作品で他に「顔の見えない大人」といえば、女子高生・楓の両親です。
ですから、顔の見えない大人=蓮の母方の親族=楓の両親 という意味では、「親族にもらわれていった蓮」こそが楓の姿である、とは言えると思います。

それは分かるのですが、実父生存のまま「不可抗力」で孤児にするという作品の都合と、しかし母方の親族も最悪の人間というわけでもない、というやや中途半端な処理が私の違和感の出所なのかも知れません。

母の親族はこれ以降まったく登場しませんから、あくまで道具立てのための存在であるなら、いっそのこと最悪の存在にした方が良かったのでは、という気が個人的にはしています。

熊徹への弟子入りと「強さ」について


孤児となった蓮は、バケモノ熊徹に拾われ、色々あった末にその弟子「九太」として、バケモノ世界で暮らしていくことになります。本記事でも、以降は「九太」と呼ぶことにしましょう。

師匠・熊徹に与えられた朝食は、卵かけごはん。九太は生卵が気持ち悪くて食べられない。
九太の大好物は、お母さんのハム入りオムレツ。
しかしバケモノ世界にそんなものはありませんし、作ってくれる人もいません。
生きていくためには、もうオムレツ(母)が無いことを自覚し、生卵(父)を受け入れないといけません。
九太は、覚悟を決め、食べられない卵かけごはんを無理やり飲み込みます。

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そんなこんなで、バケモノ世界で修行を始めたあたりから、「強く生きていく」の「強さ」が、武術的な意味での「強さ」に変化していきます。

もちろん9歳の子供が願った「一人で生きていける強さ」を、弟子入り後に武術的な「強さ」に変化させてもいいけれど、その場合、武術修行を建前にして、共同生活能力や、料理・洗濯などの生活能力などを学ぶ、という感じになることが多い気がします。
武術的な「強さ」を求める修行をしていたけど、人生で本当に役立つ、本質的な人間の「強さ」とはそこにある、という感じで。

九太も、武術を学ぶかたわら、弟子として掃除や洗濯もするわけですが、そもそも、バケモノのリーダーを決める熊徹VS猪王山の戦いも、弟子を育てた経験が参加条件とはいえ、力と力の激突で決定されるもの。
作品全体を通して、戦闘力としての「強さ」が支配しているように思えます。

実際、猪王山の次男である次郎丸が、九太と友達になったのは、九太が強くなったからです。
(逆に言えば「強さ」が無ければ、この友情は成立していなかったと思われる)

このルールとシステムの中で生きてきた熊徹が求める「強さ」とは、バケモノ世界でいちばん腕っぷしが強いこと、になるでしょう。それはバケモノなんですから当然と言えば当然です。

ただ九太。君が欲しがっていた「強さ」って、本当にそれで良かったんだっけ?
それとも、もう1人じゃなくなったから、武術的な「強さ」で良くなっちゃったのかな?

『悟浄出世』的な諸国漫遊をして、この世にはさまざまな「強さ」の考え方があり、直線的な概念でもなく、その道の達人や賢者でも簡単に答えなど出ないということに、九太も感銘を受けていたようでしたが、それが後半に活きた印象は受けませんでした。(だから、この場面はまるまるカットした方が映画としては分かりやすくなるかも知れない)

このバケモノ世界を支配する「強さ」と対比されるのが、恐らく現実世界での「勉強」で、後半、九太は勉強にのめり込むことになります。
一見、バケモノ界での「強さ」から離れ、人間世界での「強さ(勉強)」に目覚めたようにも見えますが、こちらはこちらで、モヤモヤするところがあったりします。では、次はそのお話を。

楓の出会いと勉強と、得られる「普通」


中盤あたりで、九太は、熊徹から逃げる形で偶然、現実の渋谷に戻ってきます。

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渋谷の図書館で女子高生の楓と出会い、9歳から学校へ通っていない九太は、彼女から勉強を教えてもらうことになります。
九太はめきめきと学力を伸ばし、楓から高卒程度認定試験を受けて、大学進学を目指してはどうかとすすめられます。

バケモノの世界で力となる強さを教えてくれた師が熊徹であるなら、人間世界で力となる知識を教えてくれる師が楓ということになります。

そのどちらに対しても九太が用いたのは、素直にマネをする、ということです。
これは『悟浄歎異』で、悟空が八戒に説いた変化の術の極意であり、恐らくこれが、九太の最大の武器でしょう。

ただ勉強をしていく中で私が気になったのは、九太が「これでオレも普通になれるかな」みたいなことを言うところ。
ここでいう「普通」というのは、恐らく人間としてのごく「普通」の生活だということですよね。
人間世界で、学生として勉強して、大学に進学して、就職して、といったような、皆と同じような「普通」の人間としての生き方。
これが九太の学習動機のひとつであるようです。

大学進学を勧める楓からすると、バケモノを実際に見たのはラストだけなので、九太を少し変わった子だとは思っているでしょうが、詳しい背景は分かっていないでしょう。
ですから、特殊な背景を持つ九太を「普通(マジョリティ)」に誘っている、という意識は特に無いでしょう。
若木が水を吸い込むように学力を伸ばしていく彼を見て、素直に進学を勧めただけのはずです。

ただ、九太がこの時点で「普通」というものを気にしていることが、私は少し気になります。
この話には、実父との再会もからんできますので、この先の展開を見ながら、また考えてみましょう。

再会、父よ ~思い出のオムレツを添えて~


楓と区役所で住民票を調べるうちに、実の父親の住所を知り、九太は父親との再会を果たします。
実父は、蓮をずっと探しながら、ひとりで暮らしてきたようで、再会時、18歳となった我が子を商店街で抱きしめます。

実父の印象としては、私には彼が「子を失くしたお母さん」のように見えました。子を求める寂しい母。
母の象徴だったハム入りオムレツを再現して食べさせようとするところも印象的で、お父さんだけど、これ実質、お母さんじゃない?と思いました。もちろん本当に女性なわけではなく、そういう印象を受けるようなパパとして設計されている、ということです。
昭和的で極めて粗雑な熊徹との対比で、こういう父親にしたのだとは思うのですが……。

実父はオムレツの材料を買ってますが、実際に焼けるかどうかは分からない。
単に家族3人の思い出として再現したいだけかも知れず、がんばるけど上手く焼けないかも知れない。

バケモノ世界で炊事洗濯などを全てこなした九太の方が、料理が上手くて思わず手が出て、器用に料理をする九太を見て、父は息子の成長を感じる。

一方の九太も、生卵は食べれるようになったけど、現実世界には思い出のオムレツの味を共有している唯一の人がいて、自分のためにそれを作ろうとしてくれた。そこに家族のつながりや、実の父という実感を感じたり……。

みたいなところまで見せてくれたら良かったかも知れないですね。
ただ時間の関係などが大きいはずですが、オムレツを実際に焼く機会はなし。
「父」であるという感触を、強く感じさせてくれる場面は特にありませんでした。

ですから、人間界の実父VSバケモノ界の養父、のような父性VS父性の対立はありません。
2人の父というより、一人はお母さん(みたいなお父さん)で、あれからずっと子供を探し続けてました。

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例えば……再婚、父よ ~思い出のオムレツは消えて~


個人的には、実父にはすでに再婚した家族がいて、子供もいて、オムレツを食べながら幸せに暮らしている、ぐらいでも面白かったのかも、とは考えます。
実父はもちろん、再婚した家族と一緒に暮らそうと、優しく九太を誘ってくれます。
義母もいい人です。オムライスが得意なのよ。よかったら食べて、と微笑みます。

しかし九太は、父さん、俺はもう18歳にもなって字も読めないバケモノの子なんだよ……と、渋天街に逃げ帰って、卵かけご飯を無言でかっこむ、(で、それ見て、怪訝な顔をする熊徹)みたいなのも悪くないかなあと。

もしくは、現実世界とバケモノ世界とで時間の流れが違うことにしてみるとか。
バケモノ世界で8年暮らすうちに、現実世界で倍の16年が経過していた。
渋谷で赤ん坊の楓と出会ったことにして、16年経過して17歳。
若い子はいいけれど、実父は九太が想像するより倍、老けていた。
「このまま、渋天街にとどまると、楓や父さんと同じ時間を過ごせなくなる……」
と、九太は実父と暮らすことを考え始める。みたいな感じにもできるかも知れない。

実父の父親像について


恐らく、「再婚もせず、子供をずっと探し続ける父」という、免罪されたキレイな父親像を選んだと思うのですが、父が再婚でもして、九太が俺はバケモノの子だから一緒に暮らせない!みたいなコンプレックスを持ってくれたら、猛勉強して、現実世界にも馴染んで、普通の息子にならなくっちゃ!みたいな動機がすごく分かりやすくなるようが気がします。

しかし実際のところ「免罪された父(実質、お母さん)」を選んで、主人公に多大な負荷をかけることもしていないので、九太の「普通」になりたいという想いは、外部要因ではなく、彼の中から自発的に生まれたものということになるしかない気がしますね。

ということは、バケモノ世界とバケモノに囲まれて暮らすのは、九太にとっては「普通」ではない(異常な)状態という認識であり、人間世界で普通になりたいと、渋谷に出て、楓と出会って勉強を始めてから思い始めたということなんでしょうか。

九太いや蓮にとっての「普通」とは、母がいて父がいて、学校行って友達と暮らして……という、ごく当たり前の生活?
でも、それはもはや失われて帰ってこない。かといって母の親族から「普通」をあてがわれることにも、九太は全力で拒否した。
大人にあてがわれる「普通」よりは、異常なバケモノの世界でもたくましく生きる方を選ぶ子供、だから渋天街でも生きていけたと思うんですが……あれ?

受け入れてくれたバケモノ世界。養父・熊徹や、千秋坊など周りの世話を焼いてくれる大人たち、次郎丸など種族を越えた友人などがいても、それはどこまでいっても「異常」でしかなく、やっぱり「普通」であることを求めるの?

ということは、渋天街はあくまで一時的な通過儀礼的な空間ということになるのだろうか。
これについては、ラストにも関係しますので、また後で考えてみましょう。

人の子にのみ宿るという、「心の闇」とは


その後、熊徹に受験勉強がバレてしまい、人間世界への進学を反対され、渋天街を飛び出した九太。
実父の元へ行くが、「一緒に暮らそう」という父に、ささいなことからイラ立ち、これも拒絶して、父の前から去る。
九太の心は揺れ、自分の心の中にある闇を知るが、楓によって落ち着きを取り戻す(三蔵法師方式)。

バケモノの世界では、人間を渋天街に住まわせると、いつしか心に「闇」を宿し、大変なことを引き起こすという言い伝えがあるそうな。のちに楓も語るように、あらゆる人間に「心の闇」は存在するが、それは心ゆえに基本的に見えるものではない。
人間がバケモノ世界で暮らすことによって、「心の闇」が具現化するのだろうか?

しかしこの映画で最初に兆候が見られたのは、九太が孤児となった初期の渋谷。
この時はバケモノ世界とまだ関わりがないはずだけど……まあ子供たちにも分かりやすく「心の闇」を見える化したもの、ということかな。

人間をバケモノ世界に住まわせると心に闇を宿し、というのは別にバケモノ界が原因になっているわけではなく、そもそも人間は精神的に弱い生き物でトラブルメーカーだ、という、バケモノ界での人間に対する評価・認識ぐらいに考えておけばいいだろうか。

その後、九太には、2人の父と上手くいかなかった際と、熊徹があんなことになった時に、闇は再び現れた。
人間だけが持つという心の闇は、この作品の結末において、重要な役割を果たします。

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非常に分かりやすい設定なのですが、この「心の闇」は人間にのみ存在し、バケモノにはないシステムということになっています。

しかし映画を見る限り、バケモノは人間と同じく、悪いやつも良いやつもおり、欲望も隠し事もある。精神性として人間と特に違ったところは見られない。
バケモノは半神のようなもので、人間より上位種族のように優れており、「心の闇」のような弱さとは無縁なのだろうか。そうかも知れないが、映画ではバケモノと人間の決定的な違いが私には見えない。
もう少し、違う世界の、違う生き物っぽさが出ていてもいいのかも知れない。

例えば、バケモノは基本的に死なないけれど、人間はあっという間に死ぬ。だから死ぬ前に何かしたい、こうなりたいという欲望はバケモノの比ではない。それがエネルギーとなって前へ進む力を生むが、その急いた心はマイナスにもなる……とか。

人とバケモノは生き物として何か決定的に違うのだ、という所が、設定面でも演出面でも、もっとあってもよかったのかも知れない。外見上のケモノの顔だけでなく。

そういう設定があれば、現代の渋谷と重なる渋天街が、なぜ未だにカンフー映画の舞台のような古めいた世界であり、一方の渋谷がビルが立ち並び発展しているのか、という世界の違いの説明に使えるかも。
また、九太が人間の子供の身でありながら、わずか8年あまりでバケモノ世界の武術をおさめることが出来た背景(言い訳)にも使えるかも知れないですね。

人間の「心の闇」という表現は、割とよくあるものですが、それが具現化する本作の「心の闇システム」は、物語を落とすために導入されたギミックだな、という印象を私はどうしても強く感じてしまいました。
物語的な取り回しの良さだけでなく、バケモノと人との違いを表現するものとして、もう少し突っ込んでみても良いのかも知れません。

映画のための犠牲となった白クジラ


さて、この作品には「心の闇」問題から、バケモノ世界で禁忌といわれる、渋天街で暮らしてしまっている人の子が2人います。

ひとりはもちろん、主人公・九太。
そしてもうひとりは、熊徹のライバル猪王山の長男・一郎彦。

一郎彦は、赤ん坊のころ、渋谷で捨て子になっている所を猪王山に拾われて、バケモノ世界にやってきました。
ですから、人間界の記憶も知識も、自分自身が人間であるという自覚もありません。
父・猪王山のような立派なバケモノになることを夢見ており、父もいずれそうなれるよと、息子に話してきました。
しかし、人間の彼は当然、父のような「立派なバケモノ」になれるわけもない。
成長した彼が自分が人間であることに気づき、それをコンプレックスだと悩み始めたとき、心の闇は大きくなっていきました。

終盤は、この一郎彦が起こした暴走を、九太たちが止める、という展開になっています。
映画のラスボスとして、倒すべき敵となった彼の役回りは相当にかわいそうなものになっています。
一郎彦の終盤のアクションを中心に簡単にまとめてみましょうか。
  • 熊徹が猪王山との勝負に勝った直後、逆上して、背後から念力で熊徹に剣を突き刺す
  • 心の闇が暴走した一郎彦はそのまま失踪する
  • 九太は一郎彦を「もうひとりの自分」といい、彼を止めるために、重体の熊徹を千秋坊たちに託す
  • 渋谷で楓に会い、自分の覚悟を話す九太の前に、一郎彦が現れる
  • 一郎彦は九太の持っていた本『白鯨』をチラッと拾い見て、巨大な白クジラに変身する
  • 一郎彦(クジラ)により、渋谷は爆発炎上、大混乱に陥る(しかし死者ゼロ)
  • 追い詰められた九太と楓だが、熊徹の助けにより、九太は一郎彦の闇を断つことに成功する
  • 一郎彦は大暴れした一連の記憶を失くし、バケモノ世界で目を覚ます

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一郎彦の「心の闇」の根幹にあるのは、自分が人間であり、父・猪王山の期待に応えるような立派なバケモノにはなれない、ということです。

その意味では、親の期待に応えて自分を抑圧し、優等生をやっている楓と似たようなものです。
前述したように、その楓とは、親族にもらわれていった「もうひとりの蓮」です。
そして劇中で九太が言うように、一郎彦とはバケモノを親として育った「もうひとりの蓮」です。

さらに楓が語っていたように『白鯨』のクジラは、もしかしたら自分自身かも……ということなので、「もうひとりの蓮」こと一郎彦は、白クジラに変化します。

よって、蓮=楓=一郎彦=白クジラ というラインが成立するわけです。

これが、白クジラになった一郎彦に対して、楓が呼びかけた言葉につながっていきます。
あれは「いきなりしゃしゃり出て、何説教してるの?」というわけではなく、このラインを前提にすれば、「もうひとりの蓮」に、そして自分自身に語りかけているものと同じだと分かります。
みな似たようなもので、似たような闇を抱えながら生きている、あなたも私も、というわけですから。

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ただ一郎彦に関していえば、父・猪王山が人間であることを隠して育てた上、思春期に自分のアイデンティティに疑問を持つようになっても誤魔化すような子育てが原因として、あまりにも責任の所在がはっきりしすぎています。

猪王山の教育方針と、何でもお見通しのはずの津川雅彦(宗師)の無介入が招いた人災に近く、一郎彦自身に「心の闇」の責任がほとんど無いケースなのではないかと思ってしまいました。

基本的にはラストで渋谷が派手に大変なことになって、九太と熊徹が協力体制を取るためのキャラクターであろうと思います。

ですから赤ん坊の時にバケモノ世界に拾われていったのに、9歳でバケモノ世界に行った九太でも読めない「鯨」を、本をちらっと見ただけで理解し、白いクジラに化ける器用なマネについても、ツッコミを入れるのは野暮で、むしろ彼の「俺はお前で、お前は俺なんだよ」という献身を褒めてあげた方がいいでしょう。

「心の闇」についても、九太は一郎彦の心の闇を取り込んで、そのまま刀で自分の胸を刺し貫くことで問題を解決しようとしました。
そんな技いつ覚えたの?とか、他人の「心の闇」を取り込むことが解決になるの?などの疑問はありますが、これらはその直後に誤った解決法であると否定されますので、特に気にしなくても良いと思います。

もちろん直後の解決法も、刀で闇を切り払うものであり、とりあえず白鯨が消滅するので映画的には何も問題のない解決ですが、一郎彦視点で見た場合、根本的な問題は解決していないことに気がつきます。

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全てが終わったあと、一郎彦がバケモノ世界で目覚めたとき、周りには心配した家族が疲れ果て眠りこけていました。

猪王山は子育てに失敗しましたが、人間でも息子を愛しているのに変わりはなく、母も弟も同じなのです。
気がつくと、一郎彦の指には赤いリボンが結ばれています。九太の心の暴走を押しとどめた楓のおまじない(三蔵法師の輪っか)が、ここで継承されています。

一郎彦は自分が行った行為の記憶を全て忘れ、また渋谷の混乱でも死者がゼロという処理を行いました。
これは正気を取り戻した一郎彦が罪人としての重荷を背負わないようにするための配慮と思われます。
ただその結果、一郎彦視点でみると「何もしてない」ことになりました。本人の記憶的にはそうです。
しかし本人に覚えはなくとも、映画の終盤を盛り上げるための存在として、彼は充分に働きました。
無罪放免はそのせめてもの慰労が込められているかも知れません。

彼の根本的な問題「父のような立派なバケモノになる」は解決していません(元々解決できない)。
家族は夜通し心配していた。でも何も解決はしていない。父は自分に真実を言わなかったし、自分には父のようなキバは生えない。 記憶が飛んでいるので、鬱屈したところから一郎彦は前には進めていません。

ですから猪王山が猛省して、息子に真実を語り、それでも彼を愛し、後継者としても認めていることを告げる必要があります。
そして一郎彦が、父と同じ姿になることが子の成長では無いと悟り、自分が人間であることを受け入れることが出来れば、初めて一郎彦側の「心の闇」問題が解決できるのだと思います。
この映画でそこまで描かれることはありませんでしたが、その日が来ることを祈りましょう。
(しかし、その為に家族は「一郎彦暴走」の事実を封印するという、別の嘘をつき続ける必要があるような気がしますが)

ネモ船長「猪王山が嫡男、一郎彦、君は人間だ」
一郎彦「それでは、私のやっていたことはすべて……」
ネモ船長「幻だったのだよ。君の記憶は消し、渋谷の死者も出ない。この映画は熊徹と九太のものだ」
一郎彦「そうか……さらばだ」


どうしても私は映画の落とし所のために、九太&熊徹親子に奉仕した感を受けてしまうので、かわいそうな一郎彦にはひどく同情的になってしまうのでした。

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熊徹の選択と、親子物の落とし方について


一郎彦の活躍により生じた、九太のピンチを解決するため、重体の熊徹が選んだ方法が「付喪神として刀にその身を変える」でした。
熊徹の化身であるこの刀は、九太の胸に吸い込まれていきます。熊徹と一体となり、彼の炎をまとった刀で、九太は一郎彦の闇を粉砕することができました。

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「付喪神」については、オチから逆算でつけたような千秋坊の台詞が前半に確かひとつ。
「心の剣」については、前半の修行時に、熊徹が剣術を教える際に、基本概念のような形で説明に使っています。

熊徹にはある(感じることが出来る)が、九太には無いものとなっていましたが、九太は長年修行して武術をおさめたように見えても、基本にして極意といった感じの「心の剣」は未だに無かったんですね。
あれだけ毎日親子、師弟として修行の日々を過ごしても心の剣は九太に生まれなかった?
人間にはそもそも無理なんでしょうか。

育ての親・熊徹が、息子・九太の「心の剣」になるシーンは感動的ではあったものの、人間の「心の闇」は、8年程度の親子暮らし程度ではどうにもならず、身を捨てるレベルの献身的な愛でもしないと穴が埋まらない、ということになるのでしょうか。
(そう考えると今後の一郎彦は大丈夫なんだろうか……。九太ですらここまで必要だったのに)

熊徹は天涯孤独の身だったと思いますが「心の剣」を持っていたようなので、別に親や師から継承するものでもないようです。
人間にはないけど、バケモノには元々あるものなんでしょうか。
もしくはバケモノ一般の話ではなく、熊徹のモチーフのひとつである孫悟空を思えば、親の腹から生まれる人とは違い、天と地を父母として生まれた孫悟空のような存在には元々備わっているようなものなのかも知れません。

いや……私は意地悪な書き方をしていますね。
映画的にはこのシーンは絶対に必要です。
細かな理屈抜きにしても、ビジュアルで分かりやすく、熊徹と九太が一体化して、アクションで問題を解決しています。何も問題ありません。

私が「モヤモヤ」するのは、心の剣がどうこうではなくて、恐らくこの映画自体の「落とし方」の問題だと思います。
この作品では「父子」関係というものを、どう考えるの?ということになるでしょう。

熊徹と九太は、なぜケンカせず、一体化してしまうのか


父と子の関係を描いたこの作品を、どう決着させるのか。どう落とすのか。

現実世界の実父とバケモノ世界の養父、といった状況的は、別に問題解決するようなことは何もありません。
九太は、現実世界とバケモノ世界を自由に行き来できるわけですから、実父に進学のために戸籍を預けて、あとは2つの世界を行ったり来たり、自由によろしく生きていくことは可能です。
一郎彦が大事件を起こさなければ、日常系バケモノ物語『ケモ街diary』で終われます。

唯一の問題は、進学するための参考書を熊徹に見つかり、口論となったことです。
九太的には、高校まで親子で夢中になってた野球をやめて、都会の大学へ行きたがる年齢になった、みたいなものですね。

でも熊徹は、ひと昔、ふた昔前のステレオタイプのような頑固おやじ。つまり熊 一徹(声:加藤精三)なので人間世界への進学には、ちゃぶ台をひっくり返す勢いで反対します。
もちろんそこには、知らぬ前に九太と実父のつながりがあることを知ったショック(嫉妬)も含まれるでしょう。

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熊 一徹は冗談としても、古めかしい父親像で描かれた熊徹は、親として、そして師として息子を育て上げたあとは、偉大な敵として息子の前に立ちふさがるしかないのではないか。
そして父は越えるべき敵として、最終的に子供に敗れることで、親子関係は決着する。

落とし所、どうしよう?と考えたときの、ひとつのオーソドックスなパターンがこの「親子げんか」だと思うんですよね。

見事、父を乗り越えて人間世界へ去ってしまった九太。
そのあと、寂しくひとりで生活する熊徹を、多々良や千秋坊が慰める。
そこへ、ひとりの迷い込んだ小さな男の子が。聞けば、身寄りもなく、行くあてもないという。
多々良や千秋坊が見つめ合ってにやり。
熊徹が嬉しそうに問う「坊主! お前、齢はいくつだ!」<バケモノの子・完>

みたいな可能性も考えられるとは思います。ひとつの典型的なパターンとして。
熊徹を古い頑固親父のように描いているだけにね。

この「親子げんか」パターンは制作時に話には出て、検討されたかも知れませんが、採用はされていません。
代わりに「子育てに失敗した親子」との対決パターンが選ばれ、父・熊徹が猪王山に勝ち、子・九太が一郎彦に勝つ、という展開になっています。

なぜ「親子げんか」パターンのように、子供が親を越えて、親離れをするというポイントを作らなかったのか。私はこの作品でここが、いちばん考えてみるのに面白いポイントだと思っています。

最後まで保護・被保護の関係の2人


付喪神になる直前の熊徹の、大きくなったといっても子供は子供。今でも親の助けがいるのだ、という台詞通り、最後まで熊徹は九太を保護するものとして終わりました。
しかも、子供の中の「心の剣」になって一体化し、一生見守り続けるという展開で。

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殴り合って子供に負けたら、親としての役割がなくなってしまう、というわけでは当然ありませんよね。
親子関係が、保護と被保護の関係しかないと考えるなら終わりでしょうが、子供の成長によって関係が変化するだけで、一生続いていくのが親子関係というものでしょう。

でも、父と子の戦いによる親離れ、子離れのようなオーソドックスな展開ではなく、むしろ父と子が一体化する展開が選ばれています。
自分が消えることで、九太は実父の元へ返してあげるけれど、その息子の心の中に自分を永遠に刻み付けておく、という形で。

しかも熊徹はバケモノ10万を統べるリーダーに決まった瞬間に、それを全部捨てて、息子の為に身を投げ出すんですよね。
もちろん「パパはそんな地位(宗師)より息子の方が大事なのだ」ということなのだと思いますが、親子とバケモノ10万のリーダーとしての責任、どちらを選ぶかなどの葛藤は逡巡すらなく、殴り合いの結果だけで決めるリーダー選出法は問題あるんじゃないのかな?と思えてなりませんでした。

いずれにしろオーソドックスな「親子げんか」を通した親離れ・子離れは、定型的過ぎるし、今作が描きたいものではないのだろう、と察しますが、そのパターンを避けるにしては、あまりにも熊徹が古めかしい昭和の頑固親父のように設計されていることが気になりました。

正直ここは、細田監督ご自身の親としての意識が、だだ漏れなんじゃないかな、とも感じるのですが……。
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見た時も、お子様に絵本を読んであげたり、かわいい盛りという感じでしたし、かなり親側目線での都合のよさというものを、私は感じてしまいました。

私は自分自身が人の親ではなく、子を持った経験がないため、イマイチこの親子関係の処理の仕方が掴めないのかも知れません。

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実際に、Twitterやブログで親交のある坂井哲也(@sakaitetsu)さんと、この父子問題についてお聞きしたところ、「親にはすごく都合のいい展開なんですけどね」と前置きした上で、同じ「親」として監督の気持ちは分かる、と仰っていました。


未だに誰かの親でなく、子の立場にしかなったことない私には、そうなんだろうなと理屈は分かっても、感情的には正直よく分からないとしかいえないですね。今の私には。

ですから「親」ではない立場で、あれこれ好みと理屈を書き連ねてきましたが、この落とし方が親となった細田監督の表現したかったことなら、それは私がどうこう言うことではないのかも知れません。

ただ『バケモノの子』を考えるのであれば、やはり最も面白いポイントはここだと思います。

物語の終わりと「普通」の描き方


一郎彦の白クジラは、九太と熊徹の初めての共同作業、炎の刀の乱舞により退治され、渋谷における、のちに「刀乱舞る -とらぶる- ダークネス」事件と呼ばれる全てのトラブルが解決しました。


九太は人間界に戻り、実父と共に暮らすことになりました。
もう心の闇がうずくことはありません。心の中には、熊徹が黙って見守っているくれるのですから。
<バケモノの子・完>

と、正真正銘、物語の終わりとなります。

九太は、人間界に戻り、実の親と暮らし、大学へ進学するでしょう。
彼が望んだ「普通」になることができたのかも知れません。

ただ私は、前述したように、この状態を「普通」というのに抵抗があって。
蓮が、自分は母親がいないけれど、父親は人間界にひとり、バケモノ世界にひとり……いや、千秋坊や多々良も入れたら3人、合わせて父親4人かな、という自分の境遇こそを自分の「普通」と受け入れて生きていくような形の方が現代的だと思うし、個人的にも好みです。

人間とバケモノの差異も、父親だけが複数人いるような環境も、フラットに捉えるような形ですね。

「この映画は、父親が多すぎる!」と言ったような意見も目にした覚えがありますが、それは元々この映画が意識的に描いているところだと思うので、批判されるべきポイントではありません。

母1人、父1人という「普通」の親子の形だけでなく、複数人の父がいてもいいし、共同体全体で子供を育ててもいい。
実際に、蓮は、バケモノ世界という共同体の中で、複数人の父や、祖父(宗師)によって、育てられた子供です。

ですから、蓮の環境は「異常」であり、いつかは「普通」になる方が望ましい、という描き方はしない方が良いと私は考えるのですが、前述したように、肝心の蓮本人が「これで普通になれるかな」と願望を口にしますし、映画は人間世界に戻って終わります。

バケモノ世界はあくまでも一時的な雨宿りであって、通過儀礼的な仮の宿であり、仮の親だと考えることもできますが、9歳から17歳までの8年間は子供時代として大事な期間すべてと言って良く、大人になるための一時的な儀式空間というよりは、がっつり子供時代を過ごした生活空間になっているかと思われます。

映画を見る限りでは、共同体や複数の父のようなモチーフが出ていながら、なぜか「普通」への回帰を目指すのが私にはちょっと分からないところです。せっかくなのですから、「普通」の解釈は広げてみても良かったのではないでしょうか。

「バケモノ」とバケモノの街「渋天街」の弱さ


共同体での子供の育成、という面で言えば、現実世界の渋谷にバケモノが出てきている機会が、(ラストを除いて)映画には2回あります。

ひとつは、猪王山による赤子(一郎彦)を拾うところ。
もうひとつは、熊徹が九太をスカウトするところ。

いずれも、子供を渋天街に連れていく場面しかありません。
(逆に言えば、バケモノが渋谷になぜ出てくるのかの説明が一切ない。まるで子供を拾いに来たようだ。)

それを利用して、いっそのこと、渋谷の家出少年少女や捨てられた赤子など、行き場のない子供をバケモノ街に連れていくという機能が、渋天街にあっても面白いのかも知れない。
渋谷の監視カメラも、バケモノがハッキングして、そういう孤児が出ていないかどうか監視をしている、とか。

昔からそうしてきて、みなしごの子供を拾って、渋天街という共同体で育ててきた。
もちろん、働かざるもの食うべからずなので、『千と千尋の神隠し』のように働かされたりもしたけど、疑似的な家族(里親)と共同生活をして、心の闇が晴れたら、また人間界に戻っていく、とか。 (逆に、子供の「心の闇」を晴らす役割を持たせる)

青少年保護&更生施設としての、渋天街側のメリットは、労働力……としては大したことないでしょうが、例えばバケモノ世界で子供というものは貴重で「子育て」をやってみたい夫婦は、人間の子供を育てたがっている、とか。
また、子供からもたらされる人間界の遊びや流行などが、そういった方面では停滞しているバケモノ世界の刺激になる、とか。
本格的に『千と千尋の神隠し』になってしまう恐れもありますけどね。

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ただ、人間拾ってきちゃダメルールが、実際の渋天街にはあるんですよね……。
(それなのに次期リーダー候補が2人とも、子供拾って来てるんですけどね)

それは「心の闇」システムで落とすためだけのルールにすぎないので、それよりは渋谷の裏側にある異世界という世界観をもっと膨らます方向の方が良いのではと考えます。

なぜなら正直、渋天街が渋谷の裏側にある意味があまりなく、「バケモノだらけの渋谷」というビジュアルイメージと、人間界と異世界の行き来を瞬間的に行える、というメリット以上のものをあまり私は感じなかったからです。

熊徹は古めかしいステレオタイプの親父と言いましたが、蓮がもらわれていく先が、ビートたけしの父親のような下町のペンキ職人であっても、基本的には成立するのではないかと考えます。
武術によるアクションシーンが必要なら、鹿児島の剣道おじさんとか、東北の柔道おじさんにもらわれていく話でも、大体は再現できます。
なんなら、実写版として役所広司さんに、おじさん役をやってもらっても構いません。ヒゲ生やしてもらって。
もちろんその場合「心の闇」もそれを塞ぐ「心の剣」も、あれほど分かりやすくビジュアル化はされませんけどね。

先にバケモノの精神性が人間と決定的に違う描写が無いと書きましたが、渋天街と合わせて、異世界とその住人を描く、という点ではかなり弱いと思います。

異世界もバケモノも、それを描くことが主目的では無いのだから、という意見もあるかも知れませんが、それでもバケモノと渋天街が必要だったのは、鹿児島の剣道おじさんを動物置き換えした方がキャッチーだからでしょうか。ビジュアル的な引きと場面転換の利便性で選ばれた世界なのでしょうか。

「渋天街」と「バケモノ」が必要であるという、その選択自体はとても正しいとは思います。だけど……。

その意味では前作『おおかみこどもの雨と雪』における、「おおかみ」の方がきちんと人間と異質なものととして描かれていたと思います。

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「バケモノ」と「渋天街」については結局、映画の道具立て以上になれていないように感じて、個人的には非常にもったいないのではないかと思っています。魅力的な要素はたくさんあるのですけどね。

まとめ・あとがき


長々とここまで、あることないこと書いてまいりましたが、お別れのときが近づいたようです。

あーだこーだ、めんどくさい事が色々書いてあるので、気の短い方は「そんなに文句があるなら、見るなよ!」と怒られそうですが、映画自体は非常に楽しんで見ましたよ。皮肉でも何でもなく心から。

映画見てるときは楽しまないと何のために見てるか分からないですから、素直に楽しむに決まってるじゃないですか。

映画を見終わった後、映画を見ていないときでも楽しめるのが、あれこれ映画について考えることです。
例えば、電車に揺られているとき、お風呂に入っているときに、あれはどういう意味なんだろう? あそこは別の処理をしても面白いかも? 私は何を面白いと感じるのだろう? というようなことを考えるのは楽しいものです。
こういう習慣を持たない方はもしかすると、映画を見ることの楽しむことと、批判は両立しないと勘違いをされるかも知れません。

安心して下さい。楽しんでますよ! (2015年後半に何が流行っていたかを後世に残す努力)

前書きにも書いたように、とにかく明るい私は、作品に嘆きをぶつけるというより、宿題をもらったような気持ちで、自分が物語をどういうスタンスを取るかを確認するために、考えて、記事にまとめています。

その私からすると映画『バケモノの子』は、興収50億円突破も納得のエンタテイメント作品です。
映画としての格は、『おおかみこどもの雨と雪』の方が上だと思いますが、『バケモノの子』の方が老若男女、より多くの人が楽しめる作品であったことは興収とみなさんの反応が証明しています。
(なので、説明過多問題などは、あえて触れないことにしました)

個人的には、昔妄想していた「子連れ西遊記」「子育て西遊記」を、スクリーンで見せてもらって大感謝です。

物語としては、父子関係の落とし方をどうすべきか、という所で面白いポイントがありました。
子供の「心の中」でいつまでも生きる、というのは「父親」であれば、共感できるのだろうと思いますが、作品内における「普通」に対する処理については個人的には不満が残りました。

蓮が、バケモノだろうと、何人の父がいようと、それを自分の「普通」として、生きていくような展開が私の好みでした。

ただ、それをするには最後だけでなく、全体を変える必要があるでしょう。
ここに限らず、無駄な場面などなく、ひとつの画面にきっちりと「意味」が詰まっている作品ですので、何かを変えるとなると、全体に手を入れる必要があります。ここの場面抜いて、代わりにこの場面を入れたらOKという単純なものではありませんから。

こんなバカみたいな長文を書く過程で、すばらしく上手い処理をしているところ、面白いと感じるポイント、そして細田監督と自分との、あるテーマにおける考え方の違いなどがはっきりして、個人的には非常にすっきりしました。満足です。

こうして「モヤモヤ」の入道雲は晴れましたが、ふと気がついてあたりを見回すと、その頃にはすっかり秋の空になっていたのでした。(おしまい)




夏映画の感想を秋になって公開した理由


こんな時期外れに『バケモノの子』の感想記事をアップしたのには理由があります。

この作品についてはTwitterでのツイート感想だけで終わらせようと思っていたのですが、ブログやTwitterで親交のある坂井哲也さん(@sakaitetsu)とのやりとりが刺激になって、ブログで記事をまとめておこうと思い直しました。

その際の坂井さんとのやりとりは、以下のTogetterにまとめて頂きました。

『バケモノの子』で描かれている父子像から得られるのは、感動かモヤモヤか笑いか。
http://togetter.com/li/888520

そして、坂井さんご自身もブログで『バケモノの子』感想記事をアップしていらっしゃいます。

好感持てる作品だけれど、古臭いオヤジ像にどこまでついていけるか。『バケモノの子』感想・レビュー
http://tominotoka.blog.so-net.ne.jp/2015-10-18

さらに、もともとこの作品のことをTwitterで話し合っていたpsb1981(@takepon1979)さんも、記事をアップされました。

そして父になる 〜バケモノの子〜
http://tentative-psb1981.hatenablog.com/entry/2015/10/31/163722

私が前編の記事タイトルの元ネタにつかったのが、『海街diary』。そしてpsb1981さんが、『そして父になる』。
偶然にも両者とも、是枝裕和監督作品からの引用というのが、ちょっと面白いですね。


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