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『聖戦士ダンバイン』は、異世界バイストン・ウェルに召還された高校生ショウ・ザマが、オーラバトラー(ロボット)ダンバインに乗ってアタックしまくる、アイアム ウォーリアーなお話です。

前半のターニングポイントである第16話「東京上空」では、敵の女騎士ガラリアさんの乗るバストールと激しく戦う中、オーラロードが開かれて、地上(現実世界)へ出てしまいます。
そこまでは以前のエントリ「なぜショウ・ザマはバイストン・ウェルで眠ってしまったのか」でも紹介しましたが、今回の問題はその後です。

聖戦士ダンバイン 4聖戦士ダンバイン 4
(2006/08/25)
中原茂土井美加

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←ガラリアさんと乗機バストール



なぜガラリアはバイストン・ウェルに帰還できなかったのか?


両親と決別したショウは、敵であるガラリアと協力して、バイストン・ウェルに帰ろうとします。(第18話「閃光のガラリア」)
バイストン・ウェルをイメージし、強く帰りたいと願いながらオーラ力を高めて、オーラロードを開くのです。
それは寸前まで成功しました。
しかし、あと少しというところで、ガラリアがバストールごと爆散してしまいます。
パートナーを失ったことで、ショウもバイストン・ウェルに帰還することができませんでした。作戦は失敗したのです。

この失敗は、オーラの暴走、オーラ力の負荷にガラリア(とバストール)が耐え切れなかったため、となっていますが、オーラや精神がここまで影響する世界観で、物理現象的な表面の出来事だけが要因とは考えにくいと昔から思っています。
問題は、チャムが作戦実行前に言った「バイストン・ウェルに帰りたいと強く願うのよ!」というセリフ。
ガラリアは本当に(故郷である)バイストン・ウェルに帰りたかったんでしょうか。
ガラリアが閃光に消えたのは、彼女自身がバイストン・ウェルに帰りたいと、心の底から思っていなかったからじゃないのか。

そもそもオーラロードを通って異世界へ行けるかどうかについて、そこを通る人間のキャラクター(人格)が影響しているものなんでしょうか?

その話をするには、まずは主人公ショウ・ザマをはじめとして、地上(現実世界)からバイストン・ウェルに召還された人々のことを考えてみるのがいいですね。
なぜならガラリアさんのケースはきわめて例外であり、地上の人々がバイストン・ウェルからの召還に応じて、オーラロードを通るパターンが基本だからです。

そもそも、地球に何十億人といる人間の中から選ばれて、異世界バイストン・ウェルへ来てしまった人々とは、どのような人達なんでしょうか。
TVアニメ『聖戦士ダンバイン』に登場した"地上人(召還された人)"たちを見ながら、その傾向を探っていきましょう。
それでは、地上人の皆さんの劇的ビフォーアフターをご覧ください。

地上人 劇的ビフォーアフター


召還された地上人が元々どのような人で、召還されてからどう変わったのか。

■ショット・ウェポン
before(召還前)
天才なのにオーストラリアで苦渋の生活をしていた。奴隷のように肉体労働もしていた。天才なのに。
after(召還後)
思う存分才能を奮ってオーラーバトラーを開発。後半にはオーラバトラーの力を地上にも見せつける。

■ショウ・ザマ
before(召還前)
両親は仕事に夢中。いいとこのボンボンだが夢中になれるものがない。
after(召還後)
自分を必要としてくれる人達のために戦う。

■トッド
before(召還前)
マザコンアメリカ軍人。東部の落ちこぼれ。
after(召還後)
アメリカを手に入れてママと暮らす(夢だったけど)

■トカマク
before(召還前)
ソ連領(現在のウクライナ領)のハリコフに住む失業者だった。(wikipediaより。※初めて知った)
after(召還後)
"聖戦士"に再就職。すぐ死んだけど、失業者のままでは死ななかったよ!

■ジェリル
before(召還前)
崩壊した家庭に育ったロックシンガー。ダブリンの鼻つまみ者(本人談)
after(召還後)
新世紀のジャンヌ・ダルクとして活躍

■アレン
before(召還前)
冷戦下のアメリカ軍人
after(召還後)
コンピューターゲームでない本当の戦争ができたと喜ぶ

■フェイ・チェンカ
before(召還前)
売れない俳優
after(召還後)
売れない聖戦士。「俺はフェイ・チェンカなんだぜ?」知らんよ。でも売れない俳優では一生できないロボットに乗ったヒーロー役が出来て良かったね。


なんということでしょう。
あの角度がきつかったコクピットへの階段を巨獣の甲殻を利用したゆるやかなものにすることで、腰の悪いおばあちゃんも楽々オーラーバトラーの乗り降りができるようになったではありま……。

なんということでしょう。
皆さん、現実では何かと問題を抱えていたのですが、異世界に行ったことで、皆それなりに自己実現、問題解決ができているではありませんか。
聖戦士の召還は、決して呼ぶほうからの一方的なものではなく、呼ばれた側にもそれなりの利益が生まれるものだと考えてもいいかも知れません。
つまり異世界で活躍する素地がある=召還条件が揃っている人こそが、召還されやすいのではないか。

オーラロードを通る人によくある傾向
・現実世界では恵まれていない境遇の人が多い
・ストレスや鬱屈を溜め込んでいる
・何らかの技能、才能はあるが、それを現実で生かせていない
・妻帯者、恋人持ちで連れて来られた人がいない(小説「ガーゼィの翼」の主人公は恋人がいたけども)
・好戦的、または戦いを受け入れることができる人物が多い(平和主義者を召還しても意味が無い)
・生きづらい、または自分を認めないくそったれな世の中にあまり未練がない(誰も地上へ帰りたがらないし、浮上後も地上側へつかない)


傾向を見て分かるとおり、現状の生活(リアル)に満足している人、つまり最近で言ういわゆる"リア充"な人は、バイストン・ウェルには呼ばれていません。
例えば「仕事も慣れてきてやりがいを感じているし、趣味で出来た友達も多い。可愛い妻ともうまくいっている。何より最近子供が生まれて、毎日の生活が充実してます!(満面の笑顔)」
このような人はバイストン・ウェルには呼ばれません。「ここではないどこか」へ行く理由が全く無いからです。
聖戦士になりたい人は、決してこんな風になってはいけませんよ!

富野監督は「人は誰でもバイストン・ウェルに呼ばれる可能性がある」と言っていましたが、満足した人生を送っている人はごくまれで、全ての人間は何らかの不満やストレスを抱えながら生きているのですから、それは当然なのです。
もちろん(大変喜ばしいことに)私も立派な聖戦士候補です。呼ばれる資格があります。
しかし(大変残念なことに)私は召還されないだろうな、と思ってしまうのは、召還条件の一部しか満たしていない、と思うからです。
つまり、エネルギーがない。バイタリティがない。技能も才能もない。生まれたてのインパラのような草食動物である。などなど、実際に呼ばれるだけの"何か"が無いと思うからです。
やっぱり、召還に選ばれた人間は、それがプラスにしろマイナスにしろ、何らかの強いエネルギーを持っているんだろうな、と感じるのです。(そういうのもオーラ力の強さなのかな)
リアルが充実してないだけではダメ。やっぱり何かプラスアルファは要る。

バイストン・ウェルの人は、そういった現実に不満を持ち、鬱屈してエネルギーを溜め込んでいる人間を召還し、自己実現のステージ(場)を与えている。
その結果、地上人はいきいきと自己実現できてハッピー、バイストン・ウェル側も、技術やオーラ力の強い聖戦士が得られてハッピーのwin-win関係が生まれる。
地上人の召還には、根本的にそういうしくみがあるんじゃないかな。あった方が面白いな、ということです。
(※この辺り、小説には色々書いてあるんじゃないかなあ、と思うのですが、ガーゼィしか読んでないので分かりません。ここはあくまでTVアニメ版のみを材料に考えておきます)

聖戦士の召還は一方的かつ唐突なものですが、もしショウら地上人のもとに、バイストン・ウェルからの使者が現れて、
「あなたを聖戦士待遇でお迎えします。条件はこう、待遇はこう、お仕事はこう、あと基本的に地上へは戻れません。どうされますか?」
と、事前に丁寧な説明をされた上で、現実を選ぶか、異世界を選ぶかを迫られたら、どうなったでしょう?
私は、それでもほぼ全てが契約書にサインしたんじゃないかと考えます。面白くない現実を蹴って、本当の自分が生きる場所を求めたのではないかと。
そういう現実感の薄い危なっかしいところも共通の性質としてあるような気がします。神隠しに遭いやすい体質というか、現実にきっちり根をはっていないというか。

聖戦士たちは、現実(地上)を捨てるだけの理由がそれなりにあったからこそ、オーラロードを通って、全く別の世界へやってこれたのではないか、ということをちょっと覚えておいてください。

閃光の中でガラリアは何を思ったのか


ここで、ガラリアさんの話に戻りましょう。
ガラリアさんは、なぜ故郷であるバイストン・ウェルに帰れなかったのか。

それを知るには、ガラリアさんがどういう人なのかを知る必要があります。wikipediaの記述を引用してみます。

ガラリア・ニャムヒー
ドレイク配下の女騎士。裏切り者の娘として育ったため、人一倍名誉欲が強く、バーンをライバル視していた。


ガラリアさんは、敵前逃亡した父を持ち、それを理由に幼いころからいじめられたり冷たい仕打ちを受けたりしてきたようです。
その経緯もあって、ガラリアさん本人は女性ながら勇敢であり、名誉欲、功名心が強く、戦で大功をたてることを目指していますが、ライバルのバーンには与えられたオーラバトラーも自分には与えられず、悔しい思いをしていました。
そんなガラリアさんがついに待望である新型オーラバトラー、バストールを手に入れて、ショウを討とうとがんばっているところで、オーラロードが開いてしまいました。

地上に出たガラリアさんはそれでも執拗にショウを追うのですが、慣れない地上で自衛隊につきまとわれたり、食料がないので山へ行楽に来ていた老夫婦のお弁当を盗んで猟犬に追われたり、みじめな目にもあいます。
最終的には冒頭で述べたとおり、両親(地上)を捨てたショウと協力して、バイストン・ウェルへ帰還することになるのですが、これは寸前で失敗します。

ショウは生き残り、ガラリアだけが爆死した、この失敗について、wikipediaにはこう書かれています。

AB・バストールに乗ってショウと交戦した際、共に東京上空に出てしまう。ショウと協力してバイストン・ウェルに帰還しようとするが、自らのオーラ力がショウよりも弱かったために、オーラロードを抜ける寸前で爆死する。


実際フィルム上でも特別な描写がないので、単に「オーラ力がショウよりも弱かった」からで終わらせてもいいんですが、それではちょっと物語的に面白くないというか、豊かではないと思います。
前フリしまくった「オーラロードを通る人によくある傾向」を、ガラリアさんにも適用できないでしょうか。

ガラリアさんの場合、立場が逆になりますので異世界バイストン・ウェルこそが彼女の現実となります。

ガラリアさんの現実
・「敵前逃亡した騎士の娘」でずっといじめられてきた。
・バーンより自分が劣っているとは思わないのに、自分にはオーラバトラーが与えられない。
・「敵前逃亡した騎士の娘」というレッテルは一生消えないのか。
・自分が女だから、というのも理由の一つなのかも知れない。
・能力に自信はある。だが自分の責任とは関係のない理由で不遇だ。


これは完全に、ショウや召還された地上人の逆パターンといってよいと思います。
ショウ達の場合、地上ライフが充実していませんでしたが、ガラリアの場合、バイストン・ウェルライフが充実していません。

ガラリア「私はバーンにも負けていない!なのになぜ?"敵前逃亡した騎士の娘"なのは私の責任じゃない。一体どうすればいいというんだ!」
―――あなたは世界を革命するしかないでしょう。あなたが進むべき道は用意してあります。

ということで、ガラリアさんがバイストン・ウェルの誰よりも先駆けて世界を脱出する人間に選ばれたのにはそれなりの理由があるように思えます。
もちろん「東京上空」のシチュエーションはシリーズ構成上のもので、ガラリアさんのために用意されたものではありません。
ただ、ショウと共に地上へ出るパートナーとして、他の誰でもなくガラリアさんが選ばれたのは妥当に思える。そういう話です。

さて、行きはよいよい、帰りは怖い。問題はバイストン・ウェルへの帰還時です。
地上人のショウが、両親と決別して地上への未練を断ち、バイストン・ウェルでしか生きられないような立場になっていたのに対し、ガラリアさんは果たして本当に心の底の底から帰還することを望んでいたのでしょうか。
もちろんたった1人、地上にいても仕方ないんですよ。ですから帰ろうと思ったし、思ったからオーラロードは一時的には開いた。ではなぜそこまでいって通り抜けることができなかったのか。
本当に「オーラ力がショウよりも弱かった」だけなのか。

実際のところ、どうだったのかは良く分かりません。フィルム上でのセリフや描写でフォローされているわけではないので何ともいえないのです。

もし、ガラリアが死んだ理由にこういうバックグラウンドがあるのだとしたら、老夫婦のお弁当を強奪するシーンを、親切にお弁当分けてもらう優しい触れ合いのシーンとしたり、または、ガラリアの事を誰も知らない地上で「敵前逃亡した騎士の娘」から解放されたようなシーンがあると、オーラロードを開いた時にバイストン・ウェル帰還への「ブレーキ(余分なノイズ)」になって、爆散がよりせつなくなっていいかも知れません。
地上でふれた優しさ、開放感が、かえって帰還時にブレーキをかけてしまうなんて、という具合に。

さらに展開を大きくを変えるならば、地上でガラリア1人というのがあまりにきついので、これを変えましょう。地上人ゼット・ライトかなんかと一緒に地上に出て、ゼットの故郷へ一緒に行くかと言われて、心が動くけど騎士として踏みとどまって断る、みたいな回があっても面白いかも知れません。
「敵前逃亡した騎士の娘とは誰も知らない世界で、女として生きてもいいかも知れない………」いや、ダメだ。と振り切ってバストールへ乗り込むような(もちろん、これも「ブレーキ」になる)

こんなことやると完全にガラリア回にしかならないので、地上でのショウと両親のドラマがボケる。
でも結果的に見るならば、後半の回をいくつか削ってもいいから、こういうエピソードの話数を増やして欲しかったなあと思いますね。
(たぶん今なら出来るけど、ダンバイン当時ではダメだったんでしょうね。なんせ後半の単なる戦争ロボットアニメ展開こそ、軌道修正した結果なのだから)

残されたいくつかの問題


オーラロードを通ることについて、地上→バイストン・ウェル、バイストン・ウェル→地上の2つのパターンを材料に、ここまで書いてきましたけど、正直いうと、あんまりこの要素はTVアニメ『聖戦士ダンバイン』本編では色濃く出ていません。
それどころか、この考え方を軸にして見ていくと、いくつか引っかかる描写があるのです。

■ガラリア死後のショウの帰還
パートナーのガラリアが死んで、もうバイストン・ウェルに帰れないと絶望するショウなんですが、その次の回である第19話「聖戦士ショウ」で、あっさり帰還します。
これはショウというより、エレ・ハンムの霊力すごいね、という描写なんですが、尺の都合もあったのか、とにかくあっという間に帰還する。本当にお気軽に。スナック感覚で帰ります。ガラリアさんのことを考えると阿藤快みたいな気持ちになります。

■ショウの再浮上時の出現場所
2回目の浮上で、再び地上に出たショウが出現したのが、吉祥寺の実家だったのです。
マーベル、トッドなど初めて浮上した人達が自分の故郷に出現するのは分かるが、ショウは「東京上空」で出現時にすでに両親と決別をした身。
地上人はどうしてもなじみがある場所に出てしまうのだとするなら、せめて吉祥寺以外の日本のどこか、ということにした方が良かったのではないか。
その方が両親と決別し、地上に帰る家がない(もうショウにはバイストン・ウェルしかない)ことが良く演出できたように思います。
もちろん、ショウがああいうキャラクターで終わってしまっただけに、両親を捨てたくせに実家にまた舞い戻ってしまうような中途半端な主人公なのだからこれでいいのだ、とは言えてしまうのだけれど。
(でも、そういうショウが出来上がってしまったのは、こういう場面場面の積み重ねの結果だと思うんだけどね)

そして最大の問題があります。
勘のいい人ならすでにお気づきとは思いますが、「地上人 劇的ビフォーアフター」リストに名前が無い地上人がいます。私が意図的にはずしました。

もちろんそれは、セクシー眉毛のいい女、マーベル・フローズンです。

マーベルはなぜバイストン・ウェルに来たのか


マーベルだけは、私がここまで書いた地上人の召還条件にまるで一致しない。
彼女の人格に現実世界での歪みは感じ取れない。バイストン・ウェルに来る理由が分からないし、何のモチベーションで戦えばいいのか分からない。
マーベルを呼んだのが、どの勢力にも属していなかったフェラリオ、ナックル・ビーであったことも考慮に入れてもいいと思うけど、それでもどのみちナックル・ビーの召還に彼女が応えた理由が分からない。

浮上後に登場したマーベルの両親も娘を信じるいい親のようであったし、愛に飢えているようにも見えないし。あのまま現実に生きていっても、うまくやっていたタイプに見えるけどね。
いくつか想像で考えられないこともないけど、それこそ単なる憶測や妄想にしかならない。フィルム上の手がかりが無いと思う。
(もしマーベルが召還された状況や理由など詳細をご存知の方がいましたら、教えていただけるとありがたいです)

まあマーベルは『マトリックス』のトリニティみたいなもので、「ヒーローの導き手」だと思うので、その役割が強いんでしょうね。導き手が歪んでいてはいけないし。あとは、ショウよりかなり早くバイストン・ウェルに来ていることは何かのヒントになっているかも知れないね。マーベルは、ターンAのロラン・セアックと同じと思えばいい。

というわけで、長々と語りましたが、『聖戦士ダンバイン』全体を通してみると、この考え方はいくつか問題をはらんではいます。でも、地上人の召還条件とガラリアの爆散については、そういうことにした方が作品がより興味深いものになると思っているのですがどうでしょうか。

チャム・ファウがまだその辺りを飛んでいるのなら、つかまえて聞いてみたいところです。



関連リンク(過去記事)
『聖戦士ダンバイン』関連
なぜショウ・ザマはバイストン・ウェルで眠ってしまったのか <『聖戦士ダンバイン』に見る物語の始め方>
第一話でぐっすり眠ってしまった主人公とそれに引っ張られた物語のおはなし。
再びバイストン・ウェルへ 聖戦士ダンバイン』リビルド(再構築) 【問題提起編】
「ダンバイン」の物語を再構成。前編では、話の大枠と問題点を考えます。

バイストン・ウェル関連
身を捨ててこそ浮かぶキャラあれ < 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』で考えるキャラクターの生死>
※後半、ゲームアイデアの中でバイストン・ウェルネタ。


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いいたいことがいっぱいあったけど、もういい。
読めたからもういい。
読みたかっただけなんだ…。


解放王アルスラーンの十六翼将、ついに集結。

蛇王再臨 アルスラーン戦記13 (カッパ・ノベルス)蛇王再臨 アルスラーン戦記13 (カッパ・ノベルス)
(2008/10/07)
田中 芳樹

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『アルスラーン戦記』の最新巻「蛇王再臨」にて、最後の1人が決まり、やっとこさ16人が揃いました。
16人目は…発売間もないからネタバレしない方がいいのかな。
ここまでの流れでは、この人しか候補がいないという感じなので、ネタバレも何もないのだけれど。あのー、あれですよ。安西先生(SLAM DUNK)ですよ。
友達と一緒に十六翼将のオーディション受けに来て、友達は落ちて、自分は選ばれるという、シンデレラボウイです。

さて、この巻も色々と悲しい出来事や、たのし…悲しい出来事や、うれし…悲しい出来事などがあったのですが、その辺りはまあ実際に読んで体験していただくとしましょう。
こんな風に煽ると、読んでない方は「えー?どういう話になってるの?」と、心配でドキドキしているかも知れませんが、そんなあなたはすぐにお読みなさい。
「かなしい、たのしい、だいすき」となって、ドリームズ(妄想)が、カムトゥルーされることでしょう。

さて、それ以外の面白かったところを適当にいじっていこうかな。
(まあ、なんて富野アニメ以外のエントリは気楽なんでしょう。気楽に推敲なしに書きます)



十六翼将集結の儀式にて


まずは、十六翼将せいぞろい後の儀式。
宝剣ルクナバートに全員が、おさわりする。叛意があれば掌が焼きただれるそうな。

この儀式は、アルスラーンにつかえた閲歴の旧い順からおこなわれた。一日でも一刻でも、早い者からである。ダリューンに始まり、ナルサス、エラム、ファランギース、ギーヴ、アルフリード、キシュワード、ジャスワント、ザラーヴァント、イスファーン、トゥース、グラーゼ、メルレイン、ジムサ、クバード、最後に安西先生(※ネタバレなので伏せてます)。
掌が焼きただれたものは、ひとりもいなかった。


なるほど。
年齢は関係なく、業界に入ったのが一日でも早ければ「にいさん」と呼ぶわけだな。
子役の頃から活躍してるエラムは、グラーゼやクバードから「エラムにいさん」と呼ばれているわけだ。
吉本興業みたいでいいなあ。エラムにいさん。

皆殺しの富…田中芳樹


さて、十六翼将が揃いましたので、ここからは108星揃ったあとの水滸伝みたいになることは、作者自ら公言してるわけですが、私は田中芳樹のキャラ殺しは全くこたえないので、思う存分やっていただいて結構です。

キャラ殺しでも、死ぬことが物語構成の一部になっているものと、そうでないものがありますよね。
前者の分かりやすい例は、あだち充『タッチ』での「カッちゃんの死」でしょうか。
タッチは、カッちゃんの死がはじめから予定された、構成に組み込まれた物語。

田中芳樹作品を見てみると、『銀河英雄伝説』では、キルヒアイス、ヤン・ウェンリーがそう。
ロイエンタールも予定されていたと思うけど、彼の叛乱が実際に実行されなくても物語は成立できると思う。
でも、キルヒアイスとヤンは、死なないと『銀河英雄伝説』にならない。物語の中で死ぬことが、構成上の必然となっているキャラクターは予定通りに殺すしかない。

ファンは「死なないで!」「なんで殺したの!」と言うだろうけど、死なないと成立しないから仕方がない。最初から予定されていたことだから、ファンがどう騒ごうが死ぬ。
まあ、ファンに「死なないで!」と言わせた時点で作者の勝ちですよね。死が最も惜しまれるキャラを殺してるはずなんだから。

『銀河英雄伝説』では、他にもいっぱい、いいキャラクター達が死んでいくけど、これらはもう、展開と筆のノリ次第と言ったところで、死ぬほうが面白ければ死ねばいいし、生きてるほうが面白いなら生かせばいい、という所。
物語のメインフレームに影響しないのだから、面白さへどれだけ貢献できるか、感情レベルでの効果が高いか、など、最大限の効果が発揮されるかどうかにこだわって殺せばいい。
そうでなければ、意味も無く、もったいない殺し方をしたことになってしまうのだから。
そういう意味で、田中芳樹は死んでキャラクターの華を咲かせるのが好きな方だとは言えるでしょうね。

『アルスラーン戦記』では正直いうと、物語上死ななければならないキャラクターがいるように思えない。そんなキャラクターはもうすでに死んでるはずだと思う。
十六翼将と初期から言っていたので、仲間集めを楽しむ物語になっており、それまでは殺せなかった、ということもあるでしょう。そういう意味ではアルスラーン戦記は、タッチや銀英伝のように決定的な喪失を構成に組み入れてない物語と言えるでしょう。

私は水滸伝の108星が次々といなくなる終盤もキライではないので、せっかく集めた宝石が一瞬でバラバラに失われるというスピード感を伴った快感は味わえるかも知れない。
その十六翼将のうち、誰が死に誰が生き残るかは定かではないが、それが誰でも(面白ければ)良い、と考えているのはすでに述べた通り。

しかし、ただ1人だけ気になる人がいる。ナルサス。

ナルサスの死と引き換えにするもの


ナルサスに、死亡フラグが見え始めたのは前巻辺りからだが、今巻ではさらに死の気配がする。

ナルサスは他のキャラクターと少し違い、死は物語に大きな影響を与える気がする。
というか、物語の幕引きのために死ななければならない役割かも知れない。
(つまり「物語構成に組み込まれた死」を与えられる可能性がある)

この巻で、我らが国王アルスラーンは、生涯、結婚することも、子供をつくることもしない、という考えをもっていることが明かされる。

ナルサスは他の二名を見わたし、ゆっくりした口調で告げた。
「陛下は、いまこう考えておいでだ。『王位は血統によって決められるべきではない。だが自分に子ができれば、王位継承者として期待される。結局これまでとおなじことだ、それはいやだ』と」


王位を血統で継承しなくても、国の指導者は必要になる。
アルスラーンの希望に沿う形でそれを実現するにはどうすればいいのか。
と、考えると、議会制のようなものを導入するしかないような気がする。
もっと広く、奴隷解放からつながるものとして、民主主義的なシステムにするかも知れない。
民が選んだ者が指導者として国の代表になる、という私達も使っているしくみだ。

もともとナルサスは奴隷解放を早くに志した男。
アルスラーン本人の希望を受ける形で、王が結婚せず、子を作らなくても、次代へ国がまわるシステムを提案することになるかも知れない。

こういうシステムの変更は時代の要請に応えるもので、舞台となる国パルスは文明レベル的にもそれを受け入れる素地が十分とは思えない。もっといえば民主主義は個人の(言ってみれば)わがままを解決するために採用するものでもないと思うけど、異世界ファンタジーなのだし、思考実験としては面白いかも知れない。
普通ならこの文明レベルでは君主制で十分だと思うけど、その君主本人が「次の王となる自分の子をつくらない」と宣言するなんて、そんな王様はアルスラーンで無ければありえない。
そして、そう宣言しても普通は家臣達が、誰かを王にまつりあげて、これまでの支配体制を維持しようとするものだ。しかしナルサスがいる。
変わった考えを持つ王アルスラーンがいて、変わった考えを持つ家臣ナルサスがいる。
この条件が揃った場合、やってみても面白いかも知れない。

そしてナルサスが死ぬ理由もここにある。

これは田中芳樹の民主主義観ということになるのだが、銀河英雄伝説では、優れた専制君主国家と腐敗した民主主義が比較されている。
優れた君主の統治は、腐敗した民主主義よりすばらしいかも知れない。しかし名君もやがて死ぬ。しかしその子が同じように優れているとは限らない。無能なだけならまだいいが、残虐な人間かも知れない。しかしそれを止めるシステムがない。「良き政治」を優れた君主個人に依存してしまっている。
しかし民主主義というものは、悪い政治を止めることができるし、有能な個人に依存せず、みんなで相談して決めるシステム。いくら腐敗してもそこが民主主義が持つ希望だと。だからヤン・ウェンリーは帝国と戦った。

ここからいくと、ナルサスは死なないといけない。
正確に言うと、有能な個人である知力100のナルサスが死んでも、それなりに上手く社会が回っていく仕組みを、ナルサスは考えなければならない。
条件は、もちろん先ほど述べた「アルスラーンの子は王にならない」だ。
これらに対する答えとして、民主主義(より原始的で、理想優先な形式だと思うけど)というシステムを考え、提案するかも知れない。
そうなると、物語の役割的には死んでもいいことになる。生きていてもいいけど、死ぬと、その死後、上手く社会が回るかどうかの証明がしやすい。

そういう意味では、アルスラーン本人もそのシステムが形になれば死んでも(王を降りても)いいと言うことにもなる。
まあ実際のところ、仮にそうなったとしてもそこまで物語自体は進まず、セリフなどから後の世がこうなっていくんだろうなあ、と想像させる程度になるでしょう。こんな部分、大して魅力的でもないので戦いまくって本編を終わらせてくれればいい。そうでないといつまでたっても終わらないからそうしてくれないと困る。

小役人カーセムなんかは、初代議長かなんかになるために登場させたのかも知れないね。
いかにも田中芳樹的民主主義の中で、うまく立ち回りそうなキャラクターだし。
(で、そこからかなりの年月が立ち、アーレ・ハイネセンが宇宙へ旅立つと。)

以上の展開については単なる妄想ですが、アルスラーンの結婚問題を政治システムなどで解決するのは必要な気がします。
政治にも詳しくないし、興味もないので、あくまで田中芳樹民主主義として、物語の落としどころを考えてみただけです。推敲もしてないから怖いけど、それやると時間がかかるからやめました。ごめんなさい。
まあ、死んだり死なせたり、殺したり殺されたりするのを楽しめばそれでいいんですけどね。

とりあえず今やるべきことは、「パルス」という国名でCivilization(シヴィライゼーション)をやってみることでしょう。まず奴隷解放をめざして、その後はどうしようかな。



関連リンク(過去記事)
アルスラーン戦記関連
コードギアスを「銀河英雄伝説」「アルスラーン戦記」に重ねてみる
【アルスラーン蹴球戦記】チーム「アズライール(告死天使)」
「キャラクターの死」関連
身を捨ててこそ浮かぶキャラあれ < 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』で考えるキャラクターの生死>

『聖戦士ダンバイン』の本放送当時、私は小学生でしたが熱心に見ていました。
その証拠に、後年、大人になってから全話見直しましたが、かなりの部分を覚えていました。
当時、我が家にはビデオデッキすら無かったこと、放送時間が小学生の遊ぶ時間の真っ只中だったことを考えると、相当がんばって視聴したはずです。
ダンバインかどうかは忘れましたが、近所の広場で友達と野球か何かで遊んでいて、富野作品を見るために各自帰宅し、終わったら集合してまた野球。みたいな覚えはあります。
これをいわゆる"富野"による試合の一時中断と呼び(豪雨、雷雨と同じ扱い)、その後、エルガイムやZガンダムでも続いていくことになります。

この時には、すでに富野由悠季作品と自覚して見ていたはず。
世の中にまだこれほどファンタジーがあふれていなかったので、ダンバインは人生で初めて体験したハイファンタジーだったと言ってよいと思います。
また、ザンボットの最終回は見逃していたし、イデオン発動篇を見るのはもう少し後だと思うので、まともに見た初めての全滅最終回でした。
初めてのファンタジーかつ、富野全滅バージンを捧げた作品ということになります。
そういう意味では思い入れのある作品ですね。

ということで、今回は『聖戦士ダンバイン』で"物語の始め方"を考えてみましょう。



主人公ショウ・ザマが犯した過ち


大人になってからは、子供のころには知らなかった当時の監督インタビューなんかも読みましたが、リアルタイムに読めなかったのを後悔するぐらいの面白さ。
その中でも、圧倒的に面白かったのは以下の話。

※主人公ショウ・ザマについて

富野:作劇的なミスがショウ・ザマという人をあのように決めてしまった、というのも事実です。
編集:どのようなミスですか。
富野:簡単に言っちゃうと、こうです。第1話でショウが地上から降りて来た時に、圧倒的に過酷な状況であったならよかったんです。あの人、バイストン・ウェルで一晩寝たでしょう。あの間がショウ・ザマを自堕落にしたんです。降りて来た時に完全な戦闘空間にスポーッと入っていたら、弾んだね。
編集:あれは不思議な感覚でしたね。
富野:不思議だね。なぜ寝かせたのか、僕にも分からないんだよね。
それこそ敵味方を順々に見せていくというTVの作り方を投影させて、ショウにその中を上手くくぐり抜けていかせよう……という穏やかなルートを作った。個人でなく世界を上手く見せようという気分がここにも出てた。考えれば最悪の始まり方をしたんだよね。

「聖戦士ダンバイン大事典」インタビューより
(私は「富野語録」に再録されたものを読みました)


「ダンバインに乗る前に、ショウが一晩寝た」
この発言は本当に面白くて、個人的にはダンバインという作品のイメージは、これに集約していいのではとすら思っています。
大事なのは、これは単にキャラクターのお話(キャラクター論)では無いということです。第1話の重要性の話であり、シリーズ構成のお話であり、「ダンバイン」の作品全体を支配してしまう作品カラーの問題でもあります。
ここでは、キャラクター論の話は置いておいて、そちらの話をしていきましょう。

『聖戦士ダンバイン』第1話の流れ


第1話で「ショウが寝る」かどうかが、なぜそんなおおごとになってしまうのか?
まずは『ダンバイン』第1話の流れを大雑把にみてみましょう。

<第1話「聖戦士たち」>
(1)ショウの召還(地上→バイストン・ウェル)
冒頭で、バイクに乗っていたショウがいきなり異世界バイストン・ウェルに召還されます。ついたところはドレイク城。

(2)バイストン・ウェル(世界)の紹介
何がなんだか分からないショウに、バイストン・ウェルの説明が入ります。「聖戦士」として呼び出されたことも聞いて、何とか状況と自分の立場を把握。
(あくまで説明を受けたのであって、ショウ自身が体と頭で感じとったわけではないという所もポイントでしょうか)

(3)オーラバトラー(ロボット)の紹介
続いて、オーラバトラー工房を見学し、同じ地上人のショット・ウェポンから、ロボット(オーラバトラー)についての説明を聞きます。
その後、宴の余興で、バーンの乗るオーラバトラー「ドラムロ」のデモンストレーションを見て、動きや強さに驚きます。

実はここでニー・ギブンのゼラーナ隊が宴へ奇襲をかけてきますが、単なる顔見せですぐに撤退。何も起こりません。

その後のタイミングで、ショウはおやすみタイム。
これが作品を決定付ける重要なできごと。

(4)ダンバインへ搭乗(トカマク撃墜)
翌日、ショウ達は初めてダンバインに乗ります。再びニー・ギブンの襲撃。この戦いでいきなり、ショウと同時に呼ばれた地上人トカマクが戦死します。
童話の中のようなファンタジックな世界だが、戦って敗れれば現実として死ぬのだ、そういう世界へ連れて来られたのだ、という事が分かるシーン………とか何とかもっともらしい理屈は何でも言えますが、小学生の私らの間ですら、トカマクか、柿崎か、というぐらい、やられキャラの代名詞でしたよ、トカマク。ごっこ遊びのときに、なってはいけないキャラクターNo.1でした。
ショウは、ここでマーベル・フローズンと戦い、彼女に「ドレイクに手を貸すバカな男」と言われてしまいます。

ニーの最初の奇襲があまり生きてない印象とはいえ、第1話中に主役ロボットの初お披露目もしているし、そこで敵から自分のポジションが間違っていると指摘され、次回へつながる流れもきっちりあります。
では、何がいけないのでしょう?

ショウが寝たことによる影響


あれこれ考えるよりまず富野監督ご本人に聞いてみましょう。
同上のインタビューで、すでに話してくれていますので、いくつかピックアップ。

※前半はファンタジー+ロボットだが後半は完全にロボットものに方向転換したことを指摘されて

富野:転機というのは第1話のラッシュを見た瞬間です。

<中略>

観た時"ああ、あまりにも自分の作りたい物を作りすぎているな"と感じたんです。それは実際に商売として―――何だかんだ言っても5時半の時間枠にやる番組として正しいことなのか?とちょっとクエスチョンマークがついたんです。

<中略>

一般視聴者が興味が湧く展開になっているのかどうなのかっていう時に、とてもわかりづらい。その理由も分かっています。始まった当初からの作劇というものが、世界を描くことのみに興味を置いたシフトであったために、個人を描くことをしていないためです。
<中略>
バイストン・ウェルという世界を描きたかったし、それを俯瞰する作品にしたかった。そこでロボット物を利用させてもらおうと思った。とても明解な意図があった。ところがそれを実際にやってみたら"そら見ろ!"となったわけ。

<中略>

(バイストン・ウェルという)モチーフに対してのミスはしていません。ただTVという媒体でやることを間違った。口惜しいけどそれだけは認めざるを得ない。


これらは第1話を見直したとき、実際に私自身も感じたことでもあります。

「主役がショウ・ザマでなく、完全にバイストン・ウェル(背景世界)になっている」

バイストン・ウェルは、「陸と海の間」にある架空の異世界。
テレビアニメ『聖戦士ダンバイン』のほか、いくつもの小説の舞台となって、「バイストン・ウェルもの」として富野監督のライフワークにもなっています。
(どうでもいいけど、ショウ・ザマって、狭間で生きる―または翔ぶ?―から来た名前なんでしょうか?)

当時ファンタジーはまだ今ほど身近なものではありませんでした。視聴者(特に当時の私のような小学生)はファンタジーをよく知りません。
いきなり異世界バイストン・ウェルに連れて来られた主人公ショウと同じように、状況と、作品のコンセプト、カラーが良く分かりません。

そのため第1話で達成すべきミッションは2つありました。

(1)当時、身近でないファンタジーを(子供たちにも)分かりやすく紹介する。
(2)その上で「ファンタジーでロボットもの」をするためのオーラバトラーを紹介する。


これはなかなか大変なミッションです。
ダンバインは「ファンタジーなのに、ロボット(オーラバトラー)もの」というギャップが設定上の見せ場ですから、前提としてのベーシックなファンタジー物がまずあって、次にその世界でロボットが登場すると、サプライズがガシっと決まるわけです。
ところが前提となるファンタジーがまだ身近で無かったので、舞台であるファンタジー世界を紹介するところから始めないといけませんでした。

その結果『ダンバイン』第1話がどうなったかというと、富野監督自身が言うように、完全に世界説明が主役になってしまっています。
ショウはお客様扱いで、観光旅行か社会見学かという感じ。しまいには、オーラバトラーによる闘技場での怪獣退治ショーまでついてくる始末。
最後はドレイク城ホテルのふかふかのベッドでぐっすり眠って、バイストン・ウェル旅行の楽しい1日目は終わってしまいます。

1日目で観光と社会見学が終わったので、2日目は体験学習とまいりましょう。
ここでようやく実際にオーラバトラーに乗って大空に舞い上がるというオプショナルツアーに進めるわけです。
この段階で初めてハプニングが発生し、やっと物語が動き始めます。それがトカマクの戦死だったり、初戦闘でのマーベルとの接触であったりするわけですが、これはもう段取り通りのツアー(第1話)の最後の最後で起こったハプニングということになるわけです。

こうしてショウがお客様気分でバイストン・ウェルとオーラバトラーを体験するという始まり方は、第1話に限らずその後にも影響を与えています。

私個人の感想としても、導入部といえる第1話~4話あたりまではいいとして、5話以降の第1クールの話は、監督が言うように物語が弾んでないように感じます。
それでも私みたいな富野アニメ好きはどうとでも楽しめるからいいですよ。
でもね、初めて『ダンバイン』見る友人にビデオを貸したら、物の見事に第5話「キーン危うし」で視聴がストップしたんですよね。そうなった気持ちは分かるから「後で面白くなるから我慢して見ろ」とは私は言わなかった。アニメは我慢して見るようなものではないですし。
ただ、その代わりこう言いました。

「そこから第15話まで全部飛ばして、次は第16話を見てほしい。それでダメならもう見なくていいよ」

『聖戦士ダンバイン』第16話といえば、言わずと知れた「東京上空」です。

「東京上空」に見る物語の軌道修正


第16話「東京上空」は、ショウのダンバインとガラリアのバストールの戦闘中にオーラロードが開いてしまい、地上(東京)に出てしまう、というお話です。第16~18話で東京三部作ですね。
オーラバトラーが東京上空で戦ったり、ショウが両親と決別したり、地上人に追われたりと、後半の展開の前哨戦・前フリでもあり、ターニングポイントとなった重要な回です。

実は、このお話は当初3クールの頭(27話くらい)に予定されていたそうです。もし27話として放送されていたら、ダンバインの評価が今日より下がっていたことは間違いないでしょう。

前述のとおり、第1話の時点で富野監督は、この作品の危うさに気づき、最速で軌道修正しようとしました。
その時にすでに2クール分の物語が作業として動いているので、すぐには変えられなかったのですが、「東京上空」を改善できる最短の話数に持ってきました。それが16話です。
この逸話は、制作進行中での軌道修正の難しさを物語ってもいますが、恐らく厳しい状況下でのベストの選択だったのではないでしょうか。それぐらいすばらしい決断だと思います。

他にもさまざまな軌道修正やリカバリーの策がとられました。

・シーラ様は、男性の老人の予定だったが、美少女へ変更
・東京上空を早める→地上への浮上も早まる→舞台としてのバイストン・ウェルを捨てる(これはすごい)
・地上への浮上後は、完全にロボット物の展開に


これらはもちろん物語的な修正だけでなく、商品としての修正も多分に含まれます。
ビルバインが背中にキャノン背負って、メカメカしいのも、その一つかも知れません。

ショウが第1話で寝たことは、ショウ・ザマというキャラクターの形成上にも大きな影響を及ぼしました。
ですが、それ以上に『聖戦士ダンバイン』という作品自体が、重く背負うことになったのです。

これは第1話を、特に「世界や設定、動機の処理が大変なロボットアニメ」の第1話をどうするのか?という意味で非常に面白く、ためになるサンプルだと私は思います。

『ダンバイン』第1話のあるべき姿とは


では『ダンバイン』は、どのような第1話にすれば良かったのか。
それもまた、富野監督がインタビューですでに話しています(さすが、菅野よう子に「全部言う監督」と言われた人)。

富野:(ショウはバイストン・ウェルに召還されたときに)迫水真次郎のようにパッと降りて来た時に刀を掴んでいなけりゃいけなかった。
極端な言い方をすればダンバインに乗っていなけりゃならなかった。


迫水真次郎は「バイストン・ウェルもの」の小説の1つ。「リーンの翼」の主人公。
実は私は「リーンの翼」は読んでいません。(なぜか「ガーゼィの翼」は全部読みました)
ですが、富野監督が伝えたいことは分かるような気がします。

ショウは何がなんだか分からない状態だろうが、とにかくダンバインのコクピットに乗って、目の前の敵と戦わなければならなかった。
つまり、背景世界やロボットの説明を後回しにしても、まずドラマやアクションで主人公と観客をゆさぶって、作品にひきこむことを優先させなければならなかった、と私は理解しました。
説明してるヒマは無いから死にたくなければとにかく乗れ、とばかりに戦わせて、それが終わってひと息ついてから詳しい説明タイムとなるわけです。
これ、よく考えたらそもそも「ガンダム」のアムロがそうですよね。
(「リーンの翼」については、どなたか教えていただけるとありがたいです)

このタイプの第1話については、ハリウッドのアクション映画冒頭でのオープニングエピソードも参考になるように思います。
これを連続物の第1話と同じような役割ととらえると、まずオープニングで軽めのミッションをカッコいいアクションでこなしつつ、世界、キャラクターを何となくで紹介しています。
時間が2時間しかないので、丁寧に段取りを踏んで、というわけにもいきません。まず魅力的なアクションなどの見せ場で観客を作品世界にひきこむのが何より先決。詳しい説明はオープニングが終わって、ひと段落してからでも十分。という作りが多いですよね。
これらもいわば「いきなりコクピットに乗せられる」タイプ、いや全体の尺の長さを考えるとその極地といえるかも知れません。

ちなみにこのオープニングをするためには、映画冒頭でのアクション要員が必要になります。ですが、ヒーロー物第一作なんかですと、映画冒頭ではまだ主人公がヒーローなっていません。
そのため「ヒーローの導き手」が主人公の代わりにオープニングの主役を務めることになります。「マトリックス」のトリニティなんかもそうですし、先日見た「WANTED」でのアンジェリーナ・ジョリーもそうでしたね。
ヒーローになった主人公は、第二作目でやっとカッコよくオープニングに登場することができるのです。

このタイプの第1話にするのは、確かに方法のひとつでしょう。
少なくとも主役がバイストン・ウェルから、ショウ・ザマになることは間違いないでしょうし。

『ダンバイン』以降の富野作品第1話


しかし、TVシリーズをこれだけやっている富野監督を持ってしても、第1話というのは本当に難しいものなんですね。
いや、数多くやっているからこそ、違うことに色々挑戦したくなったりして、結果こうなるということかも知れません。

『ダンバイン』後の作品での第1話を見渡すと、やはり『Vガンダム』と『ターンAガンダム』が思い当たります。

『Vガンダム』の1話については、wikipediaでの記述を引用しましょう

もともとの構成ではVガンダムが初登場するのは第4話の予定であったが、第1話から主人公MSが登場しないことにスポンサーが難色を示したため、Vガンダム初登場を第1話として、第2話~第4話はそれ以前の話をシャクティが回想するという構成になった。


これは実際に当時、本放送見ていて多少混乱した覚えがあります。
第1話でいきなりガンダムに乗るのは、先の「いきなりコクピット」論や商業的な意味を踏まえても、悪くないはずなのですが、『Vガンダム』は無理がありすぎてさすがに苦しく、当時の制作上の混乱が垣間見えます。

『Vガンダム』で叶わなかった"第1話でロボットに乗らないガンダム"というのは、その後の『ターンAガンダム』で実現します。

『ターンA』第1話では、背景世界とキャラクターの紹介に1話分をまるまる費やしました。
第1話は、月から主人公ロランが地球にやってきて、親切な人たちに拾われて成長しながら、地球での生活を楽しむ様子が描かれます。
2話目が実質的な第1話。初めて敵が登場し、主役ロボのターンAが初めて登場し、それに主人公ロランが乗って、初戦闘をします。

ロランは、ターンAに乗るまでに一晩眠るどころか、劇中で2年も地球で過ごしてしまいました。いっぱい寝すぎですね。
フィルム上の時間を見ても、1話分以上、ガンダムに乗っていません。

『ターンA』はこれまでのガンダムの延長上で考える世界では無いため、全く新しい舞台が用意されました。第1話では、『ダンバイン』と同じく、その新しい世界とキャラクターを伝えることを優先させてしまっていて、敵やロボット、戦闘が後回しになってしまっていますね。
でも『ダンバイン』と違って、何度見直しても、これでいい、いやこうでないと、と思うんですよね。

その理由は色々あるのですが、『ターンA』が世界紹介パートを第1話、ロボットアニメパートを第2話として回を分けたことは大きいのではと思います。
その結果、1話ではたっぷりと世界名作劇場が楽しめたし、2話では1話分かけて紹介した世界にメガ粒子砲と複葉機が舞う戦闘のサプライズを楽しめました。
世界名作劇場の空にメガ粒子砲の光が走るのを見て、2話目で初めて「面白い!」と思わず声が出たのを覚えています。
確かにそういう意味では真に「面白い」と初めて唸ったのは第2話なのですが、これは1話があってのこと。いきなり2話の内容をやっていたら「面白い!」と声にまで出さなかったでしょう。
連続物のTVシリーズゆえの楽しさだったように感じますね。
(『ターンA』についてはたっぷりやりたいので、ここはこのぐらいにしときます)

今の富野監督なら、ゆったりバイストン・ウェルをやってもいいんじゃないかな。
『ターンA』『キングゲイナー』までいった富野監督ならそれが出来るんですよね。
(OVA「リーンの翼」は未見ですが、OVAでは全体の尺の制約があるので、こういう方式ではできないでしょう)
その時に『ダンバイン』第1話のリベンジをして欲しいなあ。
もちろん「いきなりコクピット」の第1話ではなく、バイストン・ウェルを楽しそうに描いて、ロボットに乗らない第1話としてのリベンジ。
バイストン・ウェルに住んでみたいな、と思える第1話を。

「英雄生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」(柴錬ハムレット)

柴錬先生、全くもって仰る通りです。物語の中でキャラクターの生死をどうするか、それが問題なのです。
ニンテンドーDS『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』をきっかけに、プレイヤーが登場人物の生死について悩んで楽しめるゲームについて考えてみましょう。
ゲームが題材ですが、物語をどうゲームで表現すると面白いかな、というお話なので「物語」が好きな方なら、興味を持ってもらえるかも知れません。



ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣
(2008/08/07)
Nintendo DS

商品詳細を見る

ニンテンドーDS『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』のTVCMを見て、久しぶりにプレイしたくなりました。ゲームの質はすでに証明済みで問題ないし、二画面の利点を生かしたDS版はさぞプレイしやすくなって楽しかろうて、とネットで調べてみると面白い記事が見つかりました。
スマブラの桜井さんが、エムブレムのプロデューサーの方にインタビュー(というか対談ですね)した記事。全体通して面白い記事ですが、私個人が特に興味深かったのは以下のところ。

桜井: ちょっと気になっていたことがあって・・・。
本作の序章で、マルスの城が敵軍に強襲された時。
マルスが落ち延びるために、誰かひとりを囮(おとり)として出さないといけなくなりますよね。
ユニットの1人を選んで、マルスの扮装をさせて、敵の関心がそのニセモノに向かっている間に、マルスを逃がしちゃおうと。
で、あそこで囮になった人は、やっぱり二度と戻ってこないんですか?
成広: (申し訳なさそうに)・・・戻ってこないですね。
桜井: (すごく残念そうに)・・・そうですか。
(中略)
成広: 誰を出しました?
桜井: 自分は何も迷わずにジェイガンを・・・。
成広: ええっ、そうしましたか!
桜井: おいおいご老体にはマルスの変装はムリだろ!と思いつつ(笑)。
でも、なぜかまんまと敵はだまされるという。

Touch-DS.jp - 桜井政博さんが訊く 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』


物語のはじまりで、主人公マルス王子を逃がすために、仲間の1人を囮役として選択できるらしい。しかも選んだ仲間は二度と戻らず、ゲームでは使うことができないらしい。

これは面白い!
なんという項羽と劉邦展開!(劉邦が身代わりを立てて脱出したのを連想しました)
ごく普通のゲームであれば、死ぬ役割だけのキャラクターを用意し、それが死ぬ所までを自動的なイベントとして処理するところでしょうか。しかしDS版エムブレムではゲームが始まったそばから必ず死ぬと決まっている囮役に誰を選ぶかをプレイヤー自身に決めさせている。
ファイアーエムブレムは真のエンディングのために、犠牲者ゼロでのクリアーを目指すようなゲームですが、その手始めにプレイヤーの責任で犠牲者を1人出し、それを背負わせるということか?
自動イベントでなく、プレイヤーの選択で1人のキャラに死んでもらい、主人公にその責任を背負わす。そして、以後の戦いでマルス王子(主人公=プレイヤー)は、誰も犠牲にすることなく戦い抜く決意をするわけか。
犠牲者ゼロといういわば極めてゲーム的なクリアーの正当性に物語的にもプレイ的にも補強をかけたような形なのかな?上手いなあ。

実は私は以前、ファイアーエムブレムに触れた記事を書いたことがありました。

例えば「ファイアーエムブレム」というゲームは、いっぱいキャラクターが出てくる、シミュレーションRPGですが、こいつがどえらいシミュレーションで、全員を生かしたままクリアーしないと真のエンディングを迎えられない。
これはとても歯ごたえのあることで、ゲーム的には極めて正しい。
しかし実は、それを達成するために、成長をほとんどしない老将ジェイガン(=ゲーム的に使えないキャラ)は、1度も戦場に出ることなくクリアーを迎える、といったような状況が発生する。母ちゃん達には内緒だけど!


マルス王子の守役である老将ジェイガンは、ゲーム的には役に立たないキャラクターですが、物語的には十分に使い道のあるキャラクター。
ただ単純に「お話」として見るなら、ジェイガンはマルスを守って華々しく散るような見せ場を作って「死んだ方が映えるキャラ」なんですよね。その方が盛り上がって面白い。でも真のエンディングを目指して無駄なくリスクなくプレイしようとすると、ゲーム的には役に立たないジェイガンを使わないことになってしまう。

その結果、プレイヤーが犠牲者ゼロのクリアーを目指すことで、ゲーム的にはジェイガンの命は助かるが、物語的にいえばジェイガン(というキャラ)が死んでしまう(分かりやすい例としてジェイガンを使ったが、多くの「予備」キャラクターを揃えているファイアーエムブレムでは「誰か」がそうなってしまう可能性が高い)。
ファイアーエムブレムはもちろん名作なのですが、犠牲者ナシのエンディングを迎えるために、ジェイガンに代表される多くのキャラクターは倉庫で眠ることになる。そういう意味では、誰も死んでない真のエンディングはもっとも多くのキャラクターが「死んでいる」エンディングとも言える。

お笑い芸人は何もやらずに画面に映らないぐらいなら、熱湯をかぶったり落とし穴に落ちたりバンジージャンプしたりひどい目にあっても自分の見せ場を作った方がいい、という心意気で生きていると思いますが、全く触ってもらえないゲームのキャラクターもそういう心境なのかも知れません。

もちろんファイアーエムブレムが間違っているわけでも、真のエンディングを目指すプレイヤーが間違っているわけでもない。エムブレムに限らず、ゲームでは構造上、キャラクター(の物語)が死んでしまうことがどうしても多いのでもったいないな、何とかできないかな、と昔から思っていたわけです。

そこで、この『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』ですよ。
桜井さんはマルスの囮役にジェイガンを選択して、ジェイガンはその期待に応えて立派に務めを果たし、戦死したようです。これは本当に素晴らしいイベントですね。
プレイヤーの多くは、この後のプレイで最も使わないであろう「いらない子」を選ぶのでしょうが、そういう「いらない子」に物語的な見せ場を用意できるのイベントでもあるのですから。
私ももしプレイすることがあれば、囮役にジェイガンを選ぶでしょう!やっとジェイガンにふさわしい場面(それが最期ですが)を作ってあげられる!
本当の事言うと、前半戦の山場あたりでの若い戦士達が集合した後、時代の移り変わりと世代交代を象徴させるポイントで死なせてやりたいけど、他にこういう場面も無いでしょうしね。



で、これをきっかけに、1つ、ゲームのアイデアを考えました。
実は昔考えたネタでイマイチ分かりづらいなあ、と思っていましたが、このエムブレムのイベントをヒントにすると、すっきり整理できる気がしましたので。

ポイントは以下の点。
・ゲームという媒体を上手く利用して、物語を面白く表現すること。
・そのためにはゲームシステムと物語が、がっちりリンクしているゲームを。
・プレイ的に不利な行動することなく、キャラクター性を発揮させたい。


※ちなみに単なる1アイデアなので、基本的にオモシロおかしくなるように、分かりやすくてインパクトのあるように書きますので、その辺りご注意とご了承ください。

【ゲーム名】 108人勇者大行進(仮)


■ゲームジャンル:

シミュレーションRPG

ジャンルは物語が表現しやすいゲームなら何でもいいと思うのですが、エムブレムからの流れでシミュレーションRPGにとりあえずしときましょう。

■設定(どんなお話?):

ここもエムブレムの流れで、ファンタジー的なお話ということにしておきましょう。
現実から離れたほうが無茶も効きやすいですし。

星に導かれて集まった運命の108人の英雄達が主役。
彼ら108人の仲間達は、帝国軍(とか魔王軍とかお好みで)と、長く激しい戦いを繰り広げる。
 

みたいな感じにとりあえずしておきましょう。
108人という数に理由はありません。ただ主人公達が「とても多い」という例えです。幻想水滸伝の「水滸伝」の意味と同じ。

■概要(どんなゲーム?):

ゲーム開始時に、味方が11人どころか108人いる!
108人パーティ。108人の仲間をつれて戦うゲームです。
いきなり108人いるので、ゲーム中、味方は1人も増えません。
スタート時の人数がMAXです。

普通にシミュレーションRPGとして進んでいくが、戦況がピンチの時など、プレイヤーの任意で108人の仲間の中から「犠牲キャラ」を選ぶことができます。

選ばれた「犠牲キャラ」は、命の炎を燃やして、さまざまな力を発揮し、味方を救い、そして犠牲となって死んでいきます。
「犠牲キャラ」が死の間際に見せるパワーは、敵の大軍をやっつけたり、とんでもない一撃を放ったり、主人公をかばったり、超絶的なもの
です。

108人いる味方はこうして、強大な力を放ちながら次々と散っていき、人数はどんどん減っていきます。果たして、ラスボス(最終面)に辿り着くまでに何人のキャラクターが生き残っているでしょうか?

さあ!諸君!!殺したり殺されたり 死んだり死なせたりしよう!

というゲームです。

「仲間の死」を強力な魔法のように使って、攻略していくゲームになります。
シューティングゲームの「ボム」と思ってもらうと分かりやすいかも知れない。
大事なものだが、ここぞという時にプレイヤーの判断で爆発させる「ボム」。
難敵をやっつけるのに使ったり、生き残るために緊急回避として使ったりする「ボム」。
限りあるため使いたくないが、適時にそれを使っていくことがゲームデザインに組み込まれている要素。ただしこのゲームでは「ボム」と違い「仲間」は死ねば復活しませんし、増えることもありません。

この「仲間の死」システムを分かりやすくするために仮に「サクリファイス(仲間の犠牲)」システムとでもしておきましょう。

■「サクリファイス(仲間の犠牲)」システム:

「仲間の死」は、基本的にプレイヤーが任意のタイミングで自由に発動できるようにしましょう。

仲間を死なせることで、ゲーム的、物語的には以下の効果があります。

<ゲーム的な効果>
通常のプレイでは得られない強大な効果がある。例えば、以下のような感じ。

・複数の敵を撃破(攻撃対象の増加)
・強力な一撃が撃てる(ダメージ量の増加)
・主人公や味方をかばってくれる(ピッコロさん)
・死ぬとアイテムを残す(形見を残す、獣の槍の材料になる)
・奇跡を起こして○ターンの停戦
・死ぬと別のキャラクターがパワーアップする(師匠が死んで弟子が、親が死んで子がパワーアップなど)
・不治の病。効果として全能力値がアップする。しかし何面か先で必ず死ぬ(トキ、三杉くん)
・裏切り。仲間が裏切り敵対する。しかし、のちのち目が覚めてアイテムや人質や秘密を持って帰ってくる(が、その過程で死ぬ)

MP108を持っており、消費MP1で強力な魔法が使えるが、ゲームを通じて回復はできない有限のリソース、と考えてくれてもいい。キャラクターは死ねば復活はしないので、「死の効果」と「キャラクターの戦略価値」を考えて「効果」が上回るようなら、使っていく(死なせていく)。

<物語的な効果>
このゲームでは基本ストーリーは存在するが、109人もいる各キャラクターの掘り下げは全く行わないようにします。ただし、

「サクリファイス」システムを使ってキャラクターが死ぬ時、そのキャラのドラマイベントが展開される。これは回想シーンや走馬灯のようなものと思ってもらってもいい。例えば、こんな感じか。
・乱暴なやつだが、実は動物が好きでやさしいやつだった。
・せこいやつだと思っていたが、実は故郷の母に仕送りをしていた。
・昔はかなりのワルだったが、ある出会いで改心し、その人に応えるためにがんばっていた。
・冷たいやつに見えるが、実は盲目の妹がおり、妹にはとても優しい。
・戦災孤児。生き別れた父を探して旅をしてきた(実は108人の中にいたりする)

などなど。ここは考えられる限りのいろんなパターンを出すところです。

物語的には、プレイヤーが好きな時に好きなキャラの掘り下げイベントを見られる効果があるということです。そのキャラのイベントを見る=死ぬ、ですけども。

108人を殺せば、108人分のイベント、ストーリーが体験できます。
50人殺せば、50人分のイベントだけ体験したことになります(その代わり58人の仲間の命は守り抜きました)。
単純に言えば、ゲームが下手な人ほど「サクリファイス」に頼って、多くの仲間を犠牲にし、代わりに多くのイベントを見ることになるかも知れません。逆にゲームが上手い人は犠牲が少なくて済み、代わりにイベントの体験は少なくなっているかも知れません。
私はゲームが得意ではないので、上手にプレイしないとイベントが見られない、ということが無いのはちょっといいかもと思いました。

<「サクリファイス」システムまとめ>

・プレイヤーが任意で自由に仲間の死を選択できる。
・効果は「強力な魔法」+「キャラの掘り下げイベント」
・効果とキャラクターの命のトレードオフ。
・仲間は108人の有限のリソース。
・死んだキャラは生き返らないので、誰をどこで死なせるかが駆け引き


■難易度:

こういうゲームなので、味方を犠牲にしないとやっていけないような難易度にする必要がありますね。常にどの面でも厳しい局面にあり、誰を犠牲に選ぶかを考えなくてはいけないレベル。
もう仲間が死んでいくことは前提で、回数制限のある魔法のように、いつ、どこで、何を(誰を)使用する(死んでもらう)かを考えるゲーム。

■エンディング:

こういうゲームですので、犠牲者ナシクリアーだと真のエンディング。ということは全くありません。遠慮なく仲間を死なせていきましょう。
ゲームの性質的にエンディングでなく、その過程に価値があることになるでしょうし。

■ゲームのまとめ:

このゲームは始まった時に全ての仲間が揃っています。
スタート時にキャラに思い入れはあまり無いですから、外見(好み)や能力値(データ)などを見て、「いらない子」から順番にどんどん捨てていくことになります。
そういう意味では(ゲームに限らず)どんな作品でも心の中でやっている「キャラ選別」をするゲームです。好みの子だけ残して、あとは捨てていきましょう。
このゲームでも当然、使わないキャラと使うキャラに分かれるのですが、使わないキャラクターがいるぐらいなら、それを死なせることで、ゲームルール的にも物語的にも最大の効果を発揮させ、見せ場を作って退場させる。いっそ、それをメインのシステムに据えて、いつ誰をどのように死なせれば、ゲーム的に有利か、お話が盛り上がるか、考えながらプレイするのが楽しいんじゃないか、ゲームで物語を楽しむ1つの方法なんじゃないかという考えです。

そうやってゲームを進めていくとキャラクターラインナップ的な意味での「精鋭」が集まっていきますが、このゲームはそこからが勝負です。捨てたくないキャラクターも戦況次第では死なせていくことになります。
最終面に生き残ったメンバーは、過酷な予選を突破して決勝まで残った、本当にどうしても守りたかったメンバーと言えるでしょう。

このゲームでの真の物語とは、メインストーリーでも無ければ、各キャラクターの死に際のドラマイベントでもありません。
プレイヤーがどうやってキャラクターを死なせてきたか、誰を守ったか、という道のりこそが最も重要なストーリーになるはずです。
108人を死なせてしまってたった一人になる物語もいいし、絶対守りたい15人を守り抜いた物語もいい、死ぬ思いして108人全員を守り抜こうとするのもいい物語です。
ゲームでのプレイヤーの行動(過程)が、そのまま物語になる、というものが最もゲームの物語として好きな形ですので、それが実現できるゲームがいいですね。
ゲームの後、友達と何人死なせたのか、誰を残したのか、話が盛り上がるようになれば一番いいんじゃないかと思います。



あとは、このゲームについての雑多なメモです。

主人公と仲間の関係


このゲームだと主人公が仲間に死を命じることになるので、主人公と仲間の関係がどうなっているのかは、ゲームルールを物語として納得してもらう上で重要です。
ファイアーエムブレムのように、王子とその家臣の関係にして、さらに古代、中世的な価値観で主君に滅私奉公してもらうというのが基本線でしょうか。

主人公を魔王側(敵軍)にして、恐怖で支配している魔王の死の命令を、魔物の配下がこなす、または狂信的に応える(ヴァニラ・アイスのように)のも一つの手ですが、キャラの掘り下げなどドラマ面で考えるとつらい。

いっそ特定の主人公を無しにするのも考えました。または主人公は一応いるが、主人公すら「サクリファイス」で死なせることができる(その後は108人の中で二代目主人公が継ぐ)。
しかし命令系統もなく、毎回「俺が俺が」「どうぞどうぞ」のダチョウ倶楽部的立候補でどんどん死んでいくのもなあ、と思いますし、できればちゃんとプレイヤーに「死の命令」の責任を背負ってもらう方がいいと思います。

こうやってあーでもないこーでもないと考えていると、
「いっそ主人公に『死の命令』すらできる魔法とか特殊能力とかがあることにしたらどうだろうって、それはコードギアス!」
と、ルルーシュのギアス能力に至ってしまう。
コードギアスまじハンパない。まじリスペクト。いや本当にすごいねコードギアス。このゲームをそのままの設定でできるわ。

仲間を殺す抵抗感


このゲームのことを友人と話したら
「仲間を殺すことに抵抗があるなあ」とのこと。これはごもっともの反応。

しかし、それこそルルーシュのように仲間の死を自分で背負っていくのを楽しむゲームなので、どんどん死なせていってくれないと醍醐味が味わえない。
そのため軽く、つまりスナック感覚で仲間を死なせることが出来るように、色々工夫が必要のはず。

・仲間の人数が108人
→仲間が20人なら精神的に犠牲を出しにくい。108人でなくてもいいがとにかく多く。お試し感覚で死なせられるほど多く。

・仲間が最初から全員揃っている
→仲間集めはこのゲームの本質じゃないからやってられない。集める過程で思い入れが出来て殺せなくなる。洗い立てのまっさらな白いシャツの状態で108人に会い、死なせていって欲しい(徐々に赤シャツになります)。

・死なせやすいキャラがいる
→死なせる抵抗感が低いキャラをたくさん作る。余命いくばくもない老人、単なるおっさん、酒バクチのクズ野郎、ロボット(人造人間か)など。スナック感覚でつまんでもらえるようにいかにも練習台のようなキャラを色々つくりましょう。
(でも、クズ野郎が死ぬ時に、ちょっといい話エピソードを見せられたりするんだろうなあ)

・死ぬことが前提のゲーム難易度
→ゲームの難易度的に、強力な魔法(サクリファイス)が無いとクリアーできないようにする必要がある。もう死なせれば死なせるほどゲームが楽になるよ、という感じに。

あとは練習用サクリファイスイベント(「この扉は内側からしか閉めれない」など、死なすしかねーだろ的なベタ犠牲のオンパレード)とかかな。

それでも仲間を殺す抵抗感


こういったスナック感覚で仲間を死なせる工夫も友人に話してみたが、
「実際にゲームが無いからなんともいえないけど、やっぱり自分の責任で死なせてしまうのってなんかいやじゃない?行方不明とかじゃダメなの?」とのこと。
ゲームなんだからただのデータなんだし、殺せばいいじゃんというプレイヤーばかりじゃないよね。これもごもっとも。

まあ「仲間を死なせる」というのは、「キャラクターの死」というコンセプトでつくったゲームアイデアでしか無いので、厳密に言うと同じ状態が作れれば死ななくていい。
別に私も殺したがりでも、キャラなんかみんな死ねばいい、と思っているわけでもないし。例えばこんな感じでどうか。

「聖戦士ダンバイン」のバイストン・ウェルみたいに、現実世界から異世界に召還される話にしようか。
108人の大量召還。同じ学校の生徒100人とかでもいいかも知れないね。
で、異世界の人々に「聖戦士」扱いされて、戦争に参加することになってしまう。
もちろん現実に帰りたいが、話を聞くと帰れる方法はただ一つ。
それは「英雄的な行動をとって死ぬこと」のみ。ただ死んだり、自殺するのではダメらしい(死ねない、ということにしようか)。
仲間を救ったり、敵の大将の首を獲ったり、聖戦士らしく異世界に貢献して死ぬことで、初めてこの世界での役割を果たしたことになり、現実世界に帰ることができる。
もう少し幅を広く取って「他人のために命を投げられるか」ぐらいにしてもいいかな。
やむをえず高校生たちは、いやいやながら英雄として死ぬことを目標に戦うのであった。

これなら「死ぬけど、死なない」パターンなので、むしろ死なせるのは、早く現実世界に帰らせてあげることになって恩情になるかもね。
それに108人みんなは「英雄的な死(→現実世界に帰る)」を希望しているので、「サクリファイス」は彼ら自身が望んでいることでもある。立候補ものに近い。
ゲームプレイヤーとしての主人公は、異世界側の指導者かな?(ダンバインでいうとシーラ様になるかな)

これも1つのパターンだけど、要は実際に殺さなくても同じような状況は作れるので、配慮が必要ならそれなりに工夫すればいいと思います。
ただアイデアレベルだと、伝えたいことの分かりやすさが必要なので「仲間を死なせる」と内臓むきだしの表現にしています。

他にも細かいのが色々ありますが、また機会(という名のやる気)があれば。



このゲームで仲間を殺すのは、お話上は敵軍ですが、実質プレイヤー自身です。ゲーム(作者)側の強制ではありません。死の責任は、プレイヤーが担います。
普通のゲームと違い、これはゲームシステムに組み込まれた肯定される行動なので、何も悪くありませんし、不利になりません(むしろ有利になります)。
誇りを持って「サクリファイス」で仲間を死なせて、その死を自分で背負っていくことを楽しみましょう。

ゲームに限らず、マンガや映画やアニメでも、キャラクターの生死に関しては「殺せ!」「殺すな!」など色々な意見があります。では受け手側がキャラクターの死を決めてはどうでしょう?
ゲームはそれが比較的しやすいメディアだと思います。
そういう意味でこのゲームでは、極めて作者的な振る舞いが必要になるでしょうね。

まさに英雄生きるべきか、死ぬべきか、
―――いや英雄生かすべきか、死なすべきか。それが問題だ。

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