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師走のある日、Twitterにて『機動戦士ガンダムZZ』についてのやりとりを見かけました。
いくつかの話題が展開されていましたが、その中で「ハマーン・カーンの始末」についても議論されており、これに触発された私は、昔考えていたことを連投でツイートしました。

内容は「ハマーン・カーンの救済」について。
『ZZ』最終回で死んだハマーンを、何とかもう少し救うことができないだろうか、という検討です。

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この記事は、その時のツイートをベースに加筆・修正をしたものになります。
なお、今年も結局数本しか記事書いておらず、それゆえの「師走の悪あがき」でもあることは否定できないところです。



そもそもハマーン・カーンとはどういうキャラクターなのか


以前の『ZZ』記事の際に書いていますが、ハマーンというのはかなり空虚で脆弱なキャラクターです。

ハマーンはシャア・アズナブルの存在を大前提にしたキャラクターで、実際、ハマーンの行動原理は「シャア無き欠損をどうするか」というものに尽きます。
シャアが出演をドタキャンした『ZZ』においても「シャアがいないハマーン」というキャラクターになっていて、結局のところ、シャアの存在をキャラクター成立の前提としていることに変わりはありません。

だからといって、ハマーンはつまらない、という単純なことにはなりません。

私は「ハマーン様!」と呼んで慕うようなネオ・ジオン兵士のような気持ちは一切ありませんが、それでもやはり彼女は面白いキャラクターだと思います。

ここは、kaito2198さん(TOMINOSUKI / 富野愛好病)のすばらしい言を借りましょう。

ハマーンのこういった空虚は富野の意図上の産物だ。
所詮「その程度でしかない女」であること。
その空虚な中身と高い地位のアンバランスさが持ち味のキャラだ。
これがハマーンというキャラのすべてだ。


これ以上簡潔かつ明快にハマーンを説明する言葉を私は知りません。
(実を言うと自分で表現しようと挑戦したのですが、冗長になるばかりでしたので素直に言葉を借ります)

ハマーン救済の方向性


そんなハマーンにとって、『機動戦士ガンダムZZ』というTVシリーズ自体が、1年をかけた救済と鎮魂の物語と言えるかも知れません。

ハマーンがもう少し個として独立したキャラクター像をもつチャンスでもありましたが、その方向においてはあまり上手くいっていると言えないと思います。
もちろんハマーンのシャドウであるプル&プルツーという形でのキャラクター展開は行っていて、これは私も好きなのですが、それもあってかハマーン本人の出番も少ないですしね。

こうした想いもあって昔、ハマーンをもう少し救済できないかな、と検討してみたことがあります。
ここでの救済とは「ハマーンを生存させること」ではなく、あくまでキャラクターとしての救済です。
ハマーンの生死は問題ではありません。

では、どうすればいいのか?
方法はいくつか考えられると思います。

例えば、ハマーンの過去を描く方法はどうでしょう。
キャラクターとして唯一の拠り所とも言うべき、アクシズでのシャアとの出会いと別れのようなものを回想などを交えながら、過去を描いてハマーンのキャラを掘り下げる。
一体、過去にハマーンとシャアの間に何があったのか?ハマーンはなぜあのような女性になったのか?彼女の裏側にある深い悲しみとは?

面白そうですか?
私はこの方法、完全な悪手だと思います。選ぶべきではないですね。

あえて描かれないことで存在しているキャラクターを台無しにする行為でしかありません。
過去のトラウマを明かして内面を加えても、単にどうしようもなくつまらないキャラクターになるだけでしょう。

ここから個人的な余談になりますが、私は、トラウマ(問題)を持つ女の子が色々出てきて、男の子がそれを順番にカウンセリングしていくようなアニメが好みではありません。
女の子がたくさん出てくるようなゲーム原作のアニメとかですと、昨今の話数(クール)の短さも相まって、どうしてもそうなりがちですね。
ゲームについては、その方面をプレイしないので深くは分かりませんが、ひとつの最適化されたシステムだと思います。ゲームシステムとして効率的で使いやすい良い仕組みだと思いますから、問題とは別に思いません。

ただアニメとして物語を見る立場のとき、例えば何らかのトラウマが出てくるとしても、過去のトラウマを掘り起こしてキャラクターを形作るより、今、目の前でトラウマが生まれ、キャラクターと人間関係が変容してしまうタイプの作品が私は好きです。
主人公たちが各自の考えのもと動き、最善を目指したにも関わらず、運命の歯車によってドラマが生まれる。その瞬間が見たい。立ち会いたい。

私のこの嗜好のルーツは、恐らく幼少期から見ている富野アニメにありそうな気がしています。
誰も望んでいなくても戦争は始まってしまうし、人も死んで憎しみの連鎖も止まらない。
良かれと思って白旗降っても「一人残らず殲滅する」ことになってしまうし、バーン・バニングスも最初から「過去」を持つ黒騎士の姿では登場しない。彼は物語を通じて堕ちていき、黒騎士に「なる」のだ。(そして親切なタンカーに拾われるのだ。そのタンカーは撃沈するのだ)

もちろんこうしたドラマ展開は、当時の玩具主体による長い放送期間に支えられていたでしょう。
1年間の時間があり、売るべきロボットがあり、そして語るべきドラマ(内容)がないというフォーマットだったからこそ、富野由悠季は不足部分であるドラマを提供(好き放題)できた、とはいえます。

こう考えると子供時代の、特に『ザブングル』から『ガンダムZZ』までの期間の富野アニメは、NHK大河ドラマのような形で私は受け取っていたと思えます。
1年間かけてドラマを見て「来年の大河はなにやるの?」と期待する感覚。つまり来年も放送するのは当たり前。今度はどんな作品なんだろう?と楽しみにできる土曜夕方5時半。

ちなみに私が初めて自発的に1年間視聴したNHK大河ドラマは『独眼竜政宗』。
この『独眼竜政宗(87年スタート)』が、土曜5時半枠、最後の作品『ガンダムZZ(86年スタート)』の翌年のドラマだったことが印象的です。
つまり私は、最初の記憶が長浜ロマンロボシリーズで、次に富野大河ロボアニメ見て、そして『ガンダムZZ』のあとNHK大河ドラマへ行ったんだろうと思います。

あと『独眼竜政宗』での伊達政宗の少年期が、

・幼少時に大病を患い隻眼になるが、母に疎まれる。
・和議を申し出た敵に、犬いや父を拉致され、人質の父もろとも全員射殺する。
・母は政宗より弟をかわいがり、政宗に毒入り膳を食わせ毒殺をはかる
・何とか命を取り留めた政宗は、母が愛する弟を斬殺する。


といったレッツパーリィ(壮絶)な親子関係だったんですが、「カプセルの中で輝宗無残」「親が子供に毒を食わすのか!」みたいな感じで何年も富野アニメを見てきた子供にとっては、むしろ親しみやすかったという。

ハマーン・カーンを救う法


ああ、壮大に脱線した。ハマーンと政宗は全然関係ないし、νガンダムは伊達じゃない。
……そうだよね。νガンダムは伊達じゃないよね。νは上杉謙信かな?で、サザビーが山県昌景。
伊達は普通に考えればベルガ・ギロス(ザビーネ乗機)でいいんだけど、ここはクロスボーン・ガンダムX2でどうか。十字架背負って、勝新秀吉(百式)の待つ小田原へ行く仕様。

いや大河ガンダム戦国伝もどうでもいいので、いい加減ハマーンの話に戻しましょう。

ハマーンの救済については色んな方法が考えられるのですが、個人的に好みなのが、ジュドーの妹リィナを使う方法です。グレミー・トトによってネオ・ジオンに拉致られた少女リィナをハマーンとがっつり関わらせます。

STEP1 ハマーンとリィナを近づけてみよう


リィナをハマーンと関わらせるためには、設定にひと工夫必要になります。
例えばミネバ・ザビのご学友か遊び友達、またはハマーンの侍女見習いみたいなことにして、常にそばにいて、ハマーンを見られる身分にするのがよいでしょうか。

ハマーンからすると、リィナはグレミーから送られたスパイにも思えるでしょうが、政治的なパワーバランスとか逆利用の可能性からも、あえてリィナを排除せずに、ミネバや自分の側に置く、という感じに。
もちろん、あのジュドー・アーシタの妹というのも(表には出さないけれど)あるかもね。

これによりハマーンを見つめる客観カメラがひとつ置かれます。
つまりこれは「私はいつもひとりだ」のハマーンを、第三者(リィナ)の目で立体的にしてみようという試みです。

シャアが出ていき、シングルマザーとして独裁状態のネオ・ジオンでは、みなハマーン様万歳で彼女に依存し、頼りきり。他に関わりがあるといってもグレミーのような若造の政敵ぐらいで、いずれにしろジオン内部の人間だけ。

外部からさらわれてきたリィナは、ジオンと全く無関係の異物であり、ゆえに彼女はジオンとハマーンの観察者たり得ます。なんだかんだ言うとりますが、つまりは単純にリィナによる「ハマーン・カーン観察日記」が面白いかなと思うわけです。

ちなみに『ZZ』本編にはハマーンを外から見る視点がないせいか、終盤(スタンパ・ハロイ回)において、サラサ・ムーンを登場させて、無理やりハマーンの理解者であるような発言をさせたりしています。

サラサ「この様な場所を与えられたのも、光のお導きかも知れません」
ラサラ「姉はあなたを救いたいと考えているのです」
ハマーン(変装)「ご親切なことね。どうやって助けて頂けるのかしら」
サラサ「心の中に隠していらっしゃる物があります。それを光の下にさらすのです」
サラサ「自分を誤魔化していては、いつまでたっても光を見る事は出来ませんよ」

ジュドー「あんたの妹が死んだんだぞ。これもハマーンという女のせいだ」
サラサ「そうです。ハマーンは危険です。でも、とても悲しい女性です」
ジュドー「ハマーンは冷たい宇宙に追われたから、地球圏の人々を呪ってきたんだ」
サラサ「だから、悲しいのです。彼女は。ですから……」


歓楽コロニー・タイガーバウムを舞台にした第40話「タイガーバウムの夢」と第41話「ラサラの命」は、スタンパ・ハロイのエロオヤジっぷりや、富野アニメ定番の女装、コロニー内でのズゴックvsアッガイなど、コメディ回だと認識されがちです。

確かに見た目は完全にコメディ回ですが、役割としてはハマーンとジュドーの最後の生身での接触回であり、前述したようにこれまで第三者から語られることがなかったハマーンがサラサによって見定められる回でもあり、わりと重要なことをしています。

あくまで推測にすぎませんが、ジュドー一行、ハマーン、サラサを一箇所に集めるシナリオの必然がまずあり、それは結局、敵味方+第三者の女性陣が一同に会すことになりますから、美女収集家のコロニー所有者スタンパ・ハロイが用意されたのではないかと思います。

とはいえ正直なところ、サラサによるハマーン語りは唐突感と違和感たっぷりです。
サラサは他にも「ジュドーをこれまでハマーンの悪意から守ってきたのは私達の波動のおかげ!」と言っている宗教団体教祖ですので、霊的な能力というか巫女属性というか不思議な洞察力あるよね?ね!ね!といった無理やり納得してね感満載でした。

要は第三者のポジションからハマーンを見て、コメントするようなキャラクターが用意されていないんですよね。
だから終盤でみんながもう忘れかけてたようなサラサに役が回って来たのでしょうけど、それぐらいなら中盤からリィナにやらせた方がいいんじゃないかというのが、私の考えです。

STEP2 アクシズの少女リィナ


リィナをハマーンに近い所に置いたとすると、リィナはハマーンの無理してるところや孤独なところ、醜い部分やドス黒い部分もいっぱい見ることになるでしょう。見届ける人が必要です。全部見ましょう。

リィナは普通の少女として、ミネバやハマーンに何らかの好影響を与える一方、恐らく「リィナの血」で見せたようなノブレスオブリージュでハマーンと意見対立したりするでしょう。
ネオ・ジオンにおいて、ハマーンに口答えをして、口喧嘩してくれるのは、恐らく異物であるリィナだけ。
ここはほとんど世界名作劇場というか、フランクフルトのハイジでもいいかも。
ハイジ=リィナ、クララ=ミネバ、ロッテンマイヤー=ハマーン。

ハマーンに対して、外部刺激のジュドー、内部刺激のリィナのアーシタ兄妹という感じでしょうか。
内部というかハマーンの隣にいるのは、男性ではなく同性のリィナの方がいいと考えます。

ちなみにこういうリィナであった場合、一般的に嫌われがちなビーチャとモンドはネオジオンに打算で寝返ったあと、リィナを守るためにあえて留まったり、もしくは両勢力を行ったり来たりしたり、効果的なキャラクターになり得ると思います。(ネェル・アーガマの艦長になるよりも)
『∀ガンダム』のブルーノとヤコップ。または『人形劇三国志』の紳々、竜々ですね。

STEP3 ジュドーvsリィナの宇宙兄妹対決


さて、物語の転換点として、ジュドーがリィナ奪還を掲げてネオ・ジオンと戦う一方、ここいらでリィナはミネバとハマーンを知ることで、彼女らをサポートする役割につくといいなと思います。
ネオ・ジオンのというよりミネバとハマーンへの個人的なサポートになるでしょうか。
それは兄ジュドーにとって、最愛の妹が敵の味方をしているように見えるかも知れません。

リィナは兄ジュドーが与えたくて与えられなかった高等教育やレディとしての教育を、グレミーにさらわれてきたことでネオ・ジオンで受けます。
教育を受けて、ハマーンとミネバを隣で見たリィナは、妹奪還のためだけに近視眼で戦うジュドーよりマクロ的な視点で、兄の前に立ちふさがってもいいかな、と思います。
これはリィナの自立による兄離れでもあるし、兄へ妹離れを突きつけることにもなりますね。

兄の救出を待つだけの動機設定用キャラではなく、自らポジションを決めて動けるような自立性を手に入れ、状況次第で兄とも対立できるようなキャラクターへ変化するわけです。
これを実現するのが「兄ジュドーの望みであった教育の賜物」というのが皮肉になってよいかな、と思います。

「お兄ちゃん、私のために戦争するのも、ハマーンを倒せば戦争が終わるというのも両方間違ってるよ」

で、最終的には、ハマーンがシャアの気配(強いお兄ちゃん)を感じてこだわりまくったジュドーを、彼の最愛の妹が劇中で捨てたらいいと思うんですよね。
兄に依存せず、対等な自立した個人の立場で、兄と対話して、協力して、少しマシな戦争をするよう努力する。

それをハマーンにすぐ近くで見せる。
ハマーンを見てきたリィナが、最後にハマーンに見せる側にまわる。

STEP4 リィナとハマーンの類似と救済


リィナ・アーシタは、もちろん本編でこのような重要な立ち回りをするキャラクターではありません。
ここまでのことをするなら、キャラクター自体にかなり手を入れる必要があるでしょう。
なぜならリィナもまた、ジュドーの存在なしには成り立たない空虚で脆弱なキャラクターだからです。

物語前半は、敵にさらわれることでジュドーが戦争に参加する動機づくりをさせられました。
物語中盤で死んだことにされ、ジュドーはリィナ救出ではなく自分の意思で以降の戦争に参加することになります。
最終回で「死んだような気がしたがそんなことはなかったぜ!」が発動し、感動の再会をしましたが、最終的な生死は問題ではありません。
要するにジュドーに動機の再設定をさせた以上、死んだままにしておいて構わない、存在理由がなくなるようなキャラクターなのですから。

シャアに存在理由の多くを寄りかかるハマーンと、その意味で変わりはありません。
ハマーンにとってのシャア。リィナにとってのジュドー。共に男性に存在理由を依存しています。

そんなリィナが、キャラクターとしてジュドーから自立して兄と対等な関係になれたら、そしてハマーンにそれを間近で見せることができれば、あとはハマーンの生死がどうなろうと、どうでもいいはずです。

私は、ハマーン自体を大きく変更させる必要は無いと考えています。ハマーンはハマーンのままでいい。
かといってハマーンを変えない以上、ジュドーとくっつけることもしません(シャアからジュドーへ依存対象が変わるだけなので)。
ただ、リィナが兄から自立して、キャラクターを獲得していくのを見てくれさえすればそれでいい。

以上が私の考える「ハマーンの救済」です。

富野アニメ感想戦


長々と(幾度も脱線しながら)語ってきましたが、念のため申しますと、これは「『ZZ』はこういうストーリーだったら良かったのになあ」という話ではありません。
『ZZ』が問題や歪みを抱える物語であることは確かですが、作品批判でもありません。

あくまで『機動戦士ガンダムZZ』という作品が存在する上で考える、可能性の検討に過ぎません。
将棋の対局後に行われる感想戦のようなものです。対局内容について、可能性を検討したり、最善手を探したりするアレです。
例え何か良い手を思いついたとしても、それで行われた対局が何一つ変わるわけでもないし、勝敗も覆らない。
では感想戦に意味がないかといえば、そうではなく、客観的に過去の対局を見つめ、来たるべき未来の対局のために行われるはずです。

もちろん私は棋士ではなく、TV越しにNHKの将棋中継を眺める趣味の将棋好きに過ぎませんけどね。
なので、そう、単なる趣味ですね。(このブログを古くから読んでいる方は、私がアニメ感想戦を多くやっていることもご存知であろうかと思います)

後続作品による問題の解消


Twitterでは『新約Zガンダム』のように『ZZリメイク』の話題も出ましたが、その後の富野作品では過去作品の問題点が解消されたり、描き方が変化したりもしています。
感想戦は未来のためにあります。過去は踏まえた上で、リソースは未来の新作に投入すべきです。
それで充分、問題や歪みのある過去作品も活かされていると言えると思います。

Twitterでは、またこのような言及も頂きました。


「拠り所にしていた男性から卒業する」というのはとても良い表現だなあ、と思います。
ハマーンはシャアを支配したいという願望に支配されてましたからね。この支配からの卒業。

また富野監督作品ではありませんが、『キングゲイナー』に参加した大河内一楼さんの脚本による『コードギアス』では、物語の土壇場で兄ルルーシュの前に立ち塞がるのが、彼が守ろうとしていた妹ナナリーという形で、本稿で書いた兄妹対決をより極端に(センセーショナルに)描いています。

ルルーシュとジュドーは、妹をキレイなままにしておくために手を汚す兄、という意味で似ているところもあり、色々と比較しても面白いでしょう。
古典的な表現でいえば両者とも「病弱な妹のために、盗みをやった金で薬とパンを買う兄」です。

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それでは最後に、本稿に関連して、ぜひご紹介したいリンク先をいくつか。

ガンダムZZ覚え書き。
http://togetter.com/li/594369

そもそもこの記事を書くきっかけとなったTwitterでのZZ話をされていた、あでのい(@adenoi_today)さんが、関連ツイートをまとめてくださいました。私が読んでいたのは一部分に過ぎなかったので、大感謝しながら読みました。ありがとうございます。
あでのいさん中心に多くの方の参加によりバラエティ豊かな内容ですので、ぜひご覧ください。

「故郷がない」富野由悠季は、しかし故郷探しの旅を描き続けるのだった。
http://tominotoka.blog.so-net.ne.jp/2013-04-04

富野とかBLOGサイト2の坂井哲也 さんの記事。Twitterで見かけた『ZZ』話において紹介もされていましたが、『ZZ』のというより、富野由悠季の創作について本質に迫る記事です。
なぜスペースをラナウェイしたり、エクソダスするかい?しないといけないのか、それがきっと分かります。

ハマーン・カーンというキャラとZZという作品のこと
http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-1182.html

「このマンガがすごい! 2014」にも寄稿された(読みました!)TOMINOSUKI / 富野愛好病のkaito2198さんの記事。この記事だけでハマーンの本質については説明されていると思います。
「ハマーン様!」と慕うファンも、1回この記事読んだ上で「ハマーン様!」と慕い直すといいんじゃないでしょうか。
この記事から見れば、私の『ZZ』感想戦による「ハマーンの救済」は、蛇足でしかないと思っています。
まあ、性分なんで仕方ないね。でも、こういう物語やキャラへの未練は、みっともないけどこれはこれで必要だと思っていたりもします。

僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-206.html

最後は手前味噌ですが、以前書いたハマーンがらみの記事を。
『ZZ』最終回でジュドーは木星へ旅立ちますが、そのパートナーがなぜルー・ルカなのか、という点に関して疑問を持つ方がいらっしゃったら、ご覧になってみてください。ルー・ルカに一定の妥当性はあります。

それにしても『ZZ』の記事をこういくつも書くことになるとは、自分でも思わなかった。
『ダンバイン』もそうですが、問題や歪みをもった物語である方が、意欲を掻き立てるということはあるでしょうね。
問題点も含めて作品を愛しているのは間違いない。ただ、年に何度かしか愛を囁かないだけなんだ。

みなさんも『機動戦士ガンダムZZ』見て、自分なりに感想戦やってみたら、きっと楽しいと思うよ。
じゃあ、またね!(製作・著作 NHK教育テレビ的な終了)

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「英雄生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」(柴錬ハムレット)

柴錬先生、全くもって仰る通りです。物語の中でキャラクターの生死をどうするか、それが問題なのです。
ニンテンドーDS『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』をきっかけに、プレイヤーが登場人物の生死について悩んで楽しめるゲームについて考えてみましょう。
ゲームが題材ですが、物語をどうゲームで表現すると面白いかな、というお話なので「物語」が好きな方なら、興味を持ってもらえるかも知れません。



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ニンテンドーDS『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』のTVCMを見て、久しぶりにプレイしたくなりました。ゲームの質はすでに証明済みで問題ないし、二画面の利点を生かしたDS版はさぞプレイしやすくなって楽しかろうて、とネットで調べてみると面白い記事が見つかりました。
スマブラの桜井さんが、エムブレムのプロデューサーの方にインタビュー(というか対談ですね)した記事。全体通して面白い記事ですが、私個人が特に興味深かったのは以下のところ。

桜井: ちょっと気になっていたことがあって・・・。
本作の序章で、マルスの城が敵軍に強襲された時。
マルスが落ち延びるために、誰かひとりを囮(おとり)として出さないといけなくなりますよね。
ユニットの1人を選んで、マルスの扮装をさせて、敵の関心がそのニセモノに向かっている間に、マルスを逃がしちゃおうと。
で、あそこで囮になった人は、やっぱり二度と戻ってこないんですか?
成広: (申し訳なさそうに)・・・戻ってこないですね。
桜井: (すごく残念そうに)・・・そうですか。
(中略)
成広: 誰を出しました?
桜井: 自分は何も迷わずにジェイガンを・・・。
成広: ええっ、そうしましたか!
桜井: おいおいご老体にはマルスの変装はムリだろ!と思いつつ(笑)。
でも、なぜかまんまと敵はだまされるという。

Touch-DS.jp - 桜井政博さんが訊く 『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』


物語のはじまりで、主人公マルス王子を逃がすために、仲間の1人を囮役として選択できるらしい。しかも選んだ仲間は二度と戻らず、ゲームでは使うことができないらしい。

これは面白い!
なんという項羽と劉邦展開!(劉邦が身代わりを立てて脱出したのを連想しました)
ごく普通のゲームであれば、死ぬ役割だけのキャラクターを用意し、それが死ぬ所までを自動的なイベントとして処理するところでしょうか。しかしDS版エムブレムではゲームが始まったそばから必ず死ぬと決まっている囮役に誰を選ぶかをプレイヤー自身に決めさせている。
ファイアーエムブレムは真のエンディングのために、犠牲者ゼロでのクリアーを目指すようなゲームですが、その手始めにプレイヤーの責任で犠牲者を1人出し、それを背負わせるということか?
自動イベントでなく、プレイヤーの選択で1人のキャラに死んでもらい、主人公にその責任を背負わす。そして、以後の戦いでマルス王子(主人公=プレイヤー)は、誰も犠牲にすることなく戦い抜く決意をするわけか。
犠牲者ゼロといういわば極めてゲーム的なクリアーの正当性に物語的にもプレイ的にも補強をかけたような形なのかな?上手いなあ。

実は私は以前、ファイアーエムブレムに触れた記事を書いたことがありました。

例えば「ファイアーエムブレム」というゲームは、いっぱいキャラクターが出てくる、シミュレーションRPGですが、こいつがどえらいシミュレーションで、全員を生かしたままクリアーしないと真のエンディングを迎えられない。
これはとても歯ごたえのあることで、ゲーム的には極めて正しい。
しかし実は、それを達成するために、成長をほとんどしない老将ジェイガン(=ゲーム的に使えないキャラ)は、1度も戦場に出ることなくクリアーを迎える、といったような状況が発生する。母ちゃん達には内緒だけど!


マルス王子の守役である老将ジェイガンは、ゲーム的には役に立たないキャラクターですが、物語的には十分に使い道のあるキャラクター。
ただ単純に「お話」として見るなら、ジェイガンはマルスを守って華々しく散るような見せ場を作って「死んだ方が映えるキャラ」なんですよね。その方が盛り上がって面白い。でも真のエンディングを目指して無駄なくリスクなくプレイしようとすると、ゲーム的には役に立たないジェイガンを使わないことになってしまう。

その結果、プレイヤーが犠牲者ゼロのクリアーを目指すことで、ゲーム的にはジェイガンの命は助かるが、物語的にいえばジェイガン(というキャラ)が死んでしまう(分かりやすい例としてジェイガンを使ったが、多くの「予備」キャラクターを揃えているファイアーエムブレムでは「誰か」がそうなってしまう可能性が高い)。
ファイアーエムブレムはもちろん名作なのですが、犠牲者ナシのエンディングを迎えるために、ジェイガンに代表される多くのキャラクターは倉庫で眠ることになる。そういう意味では、誰も死んでない真のエンディングはもっとも多くのキャラクターが「死んでいる」エンディングとも言える。

お笑い芸人は何もやらずに画面に映らないぐらいなら、熱湯をかぶったり落とし穴に落ちたりバンジージャンプしたりひどい目にあっても自分の見せ場を作った方がいい、という心意気で生きていると思いますが、全く触ってもらえないゲームのキャラクターもそういう心境なのかも知れません。

もちろんファイアーエムブレムが間違っているわけでも、真のエンディングを目指すプレイヤーが間違っているわけでもない。エムブレムに限らず、ゲームでは構造上、キャラクター(の物語)が死んでしまうことがどうしても多いのでもったいないな、何とかできないかな、と昔から思っていたわけです。

そこで、この『ファイアーエムブレム 新・暗黒竜と光の剣』ですよ。
桜井さんはマルスの囮役にジェイガンを選択して、ジェイガンはその期待に応えて立派に務めを果たし、戦死したようです。これは本当に素晴らしいイベントですね。
プレイヤーの多くは、この後のプレイで最も使わないであろう「いらない子」を選ぶのでしょうが、そういう「いらない子」に物語的な見せ場を用意できるのイベントでもあるのですから。
私ももしプレイすることがあれば、囮役にジェイガンを選ぶでしょう!やっとジェイガンにふさわしい場面(それが最期ですが)を作ってあげられる!
本当の事言うと、前半戦の山場あたりでの若い戦士達が集合した後、時代の移り変わりと世代交代を象徴させるポイントで死なせてやりたいけど、他にこういう場面も無いでしょうしね。



で、これをきっかけに、1つ、ゲームのアイデアを考えました。
実は昔考えたネタでイマイチ分かりづらいなあ、と思っていましたが、このエムブレムのイベントをヒントにすると、すっきり整理できる気がしましたので。

ポイントは以下の点。
・ゲームという媒体を上手く利用して、物語を面白く表現すること。
・そのためにはゲームシステムと物語が、がっちりリンクしているゲームを。
・プレイ的に不利な行動することなく、キャラクター性を発揮させたい。


※ちなみに単なる1アイデアなので、基本的にオモシロおかしくなるように、分かりやすくてインパクトのあるように書きますので、その辺りご注意とご了承ください。

【ゲーム名】 108人勇者大行進(仮)


■ゲームジャンル:

シミュレーションRPG

ジャンルは物語が表現しやすいゲームなら何でもいいと思うのですが、エムブレムからの流れでシミュレーションRPGにとりあえずしときましょう。

■設定(どんなお話?):

ここもエムブレムの流れで、ファンタジー的なお話ということにしておきましょう。
現実から離れたほうが無茶も効きやすいですし。

星に導かれて集まった運命の108人の英雄達が主役。
彼ら108人の仲間達は、帝国軍(とか魔王軍とかお好みで)と、長く激しい戦いを繰り広げる。
 

みたいな感じにとりあえずしておきましょう。
108人という数に理由はありません。ただ主人公達が「とても多い」という例えです。幻想水滸伝の「水滸伝」の意味と同じ。

■概要(どんなゲーム?):

ゲーム開始時に、味方が11人どころか108人いる!
108人パーティ。108人の仲間をつれて戦うゲームです。
いきなり108人いるので、ゲーム中、味方は1人も増えません。
スタート時の人数がMAXです。

普通にシミュレーションRPGとして進んでいくが、戦況がピンチの時など、プレイヤーの任意で108人の仲間の中から「犠牲キャラ」を選ぶことができます。

選ばれた「犠牲キャラ」は、命の炎を燃やして、さまざまな力を発揮し、味方を救い、そして犠牲となって死んでいきます。
「犠牲キャラ」が死の間際に見せるパワーは、敵の大軍をやっつけたり、とんでもない一撃を放ったり、主人公をかばったり、超絶的なもの
です。

108人いる味方はこうして、強大な力を放ちながら次々と散っていき、人数はどんどん減っていきます。果たして、ラスボス(最終面)に辿り着くまでに何人のキャラクターが生き残っているでしょうか?

さあ!諸君!!殺したり殺されたり 死んだり死なせたりしよう!

というゲームです。

「仲間の死」を強力な魔法のように使って、攻略していくゲームになります。
シューティングゲームの「ボム」と思ってもらうと分かりやすいかも知れない。
大事なものだが、ここぞという時にプレイヤーの判断で爆発させる「ボム」。
難敵をやっつけるのに使ったり、生き残るために緊急回避として使ったりする「ボム」。
限りあるため使いたくないが、適時にそれを使っていくことがゲームデザインに組み込まれている要素。ただしこのゲームでは「ボム」と違い「仲間」は死ねば復活しませんし、増えることもありません。

この「仲間の死」システムを分かりやすくするために仮に「サクリファイス(仲間の犠牲)」システムとでもしておきましょう。

■「サクリファイス(仲間の犠牲)」システム:

「仲間の死」は、基本的にプレイヤーが任意のタイミングで自由に発動できるようにしましょう。

仲間を死なせることで、ゲーム的、物語的には以下の効果があります。

<ゲーム的な効果>
通常のプレイでは得られない強大な効果がある。例えば、以下のような感じ。

・複数の敵を撃破(攻撃対象の増加)
・強力な一撃が撃てる(ダメージ量の増加)
・主人公や味方をかばってくれる(ピッコロさん)
・死ぬとアイテムを残す(形見を残す、獣の槍の材料になる)
・奇跡を起こして○ターンの停戦
・死ぬと別のキャラクターがパワーアップする(師匠が死んで弟子が、親が死んで子がパワーアップなど)
・不治の病。効果として全能力値がアップする。しかし何面か先で必ず死ぬ(トキ、三杉くん)
・裏切り。仲間が裏切り敵対する。しかし、のちのち目が覚めてアイテムや人質や秘密を持って帰ってくる(が、その過程で死ぬ)

MP108を持っており、消費MP1で強力な魔法が使えるが、ゲームを通じて回復はできない有限のリソース、と考えてくれてもいい。キャラクターは死ねば復活はしないので、「死の効果」と「キャラクターの戦略価値」を考えて「効果」が上回るようなら、使っていく(死なせていく)。

<物語的な効果>
このゲームでは基本ストーリーは存在するが、109人もいる各キャラクターの掘り下げは全く行わないようにします。ただし、

「サクリファイス」システムを使ってキャラクターが死ぬ時、そのキャラのドラマイベントが展開される。これは回想シーンや走馬灯のようなものと思ってもらってもいい。例えば、こんな感じか。
・乱暴なやつだが、実は動物が好きでやさしいやつだった。
・せこいやつだと思っていたが、実は故郷の母に仕送りをしていた。
・昔はかなりのワルだったが、ある出会いで改心し、その人に応えるためにがんばっていた。
・冷たいやつに見えるが、実は盲目の妹がおり、妹にはとても優しい。
・戦災孤児。生き別れた父を探して旅をしてきた(実は108人の中にいたりする)

などなど。ここは考えられる限りのいろんなパターンを出すところです。

物語的には、プレイヤーが好きな時に好きなキャラの掘り下げイベントを見られる効果があるということです。そのキャラのイベントを見る=死ぬ、ですけども。

108人を殺せば、108人分のイベント、ストーリーが体験できます。
50人殺せば、50人分のイベントだけ体験したことになります(その代わり58人の仲間の命は守り抜きました)。
単純に言えば、ゲームが下手な人ほど「サクリファイス」に頼って、多くの仲間を犠牲にし、代わりに多くのイベントを見ることになるかも知れません。逆にゲームが上手い人は犠牲が少なくて済み、代わりにイベントの体験は少なくなっているかも知れません。
私はゲームが得意ではないので、上手にプレイしないとイベントが見られない、ということが無いのはちょっといいかもと思いました。

<「サクリファイス」システムまとめ>

・プレイヤーが任意で自由に仲間の死を選択できる。
・効果は「強力な魔法」+「キャラの掘り下げイベント」
・効果とキャラクターの命のトレードオフ。
・仲間は108人の有限のリソース。
・死んだキャラは生き返らないので、誰をどこで死なせるかが駆け引き


■難易度:

こういうゲームなので、味方を犠牲にしないとやっていけないような難易度にする必要がありますね。常にどの面でも厳しい局面にあり、誰を犠牲に選ぶかを考えなくてはいけないレベル。
もう仲間が死んでいくことは前提で、回数制限のある魔法のように、いつ、どこで、何を(誰を)使用する(死んでもらう)かを考えるゲーム。

■エンディング:

こういうゲームですので、犠牲者ナシクリアーだと真のエンディング。ということは全くありません。遠慮なく仲間を死なせていきましょう。
ゲームの性質的にエンディングでなく、その過程に価値があることになるでしょうし。

■ゲームのまとめ:

このゲームは始まった時に全ての仲間が揃っています。
スタート時にキャラに思い入れはあまり無いですから、外見(好み)や能力値(データ)などを見て、「いらない子」から順番にどんどん捨てていくことになります。
そういう意味では(ゲームに限らず)どんな作品でも心の中でやっている「キャラ選別」をするゲームです。好みの子だけ残して、あとは捨てていきましょう。
このゲームでも当然、使わないキャラと使うキャラに分かれるのですが、使わないキャラクターがいるぐらいなら、それを死なせることで、ゲームルール的にも物語的にも最大の効果を発揮させ、見せ場を作って退場させる。いっそ、それをメインのシステムに据えて、いつ誰をどのように死なせれば、ゲーム的に有利か、お話が盛り上がるか、考えながらプレイするのが楽しいんじゃないか、ゲームで物語を楽しむ1つの方法なんじゃないかという考えです。

そうやってゲームを進めていくとキャラクターラインナップ的な意味での「精鋭」が集まっていきますが、このゲームはそこからが勝負です。捨てたくないキャラクターも戦況次第では死なせていくことになります。
最終面に生き残ったメンバーは、過酷な予選を突破して決勝まで残った、本当にどうしても守りたかったメンバーと言えるでしょう。

このゲームでの真の物語とは、メインストーリーでも無ければ、各キャラクターの死に際のドラマイベントでもありません。
プレイヤーがどうやってキャラクターを死なせてきたか、誰を守ったか、という道のりこそが最も重要なストーリーになるはずです。
108人を死なせてしまってたった一人になる物語もいいし、絶対守りたい15人を守り抜いた物語もいい、死ぬ思いして108人全員を守り抜こうとするのもいい物語です。
ゲームでのプレイヤーの行動(過程)が、そのまま物語になる、というものが最もゲームの物語として好きな形ですので、それが実現できるゲームがいいですね。
ゲームの後、友達と何人死なせたのか、誰を残したのか、話が盛り上がるようになれば一番いいんじゃないかと思います。



あとは、このゲームについての雑多なメモです。

主人公と仲間の関係


このゲームだと主人公が仲間に死を命じることになるので、主人公と仲間の関係がどうなっているのかは、ゲームルールを物語として納得してもらう上で重要です。
ファイアーエムブレムのように、王子とその家臣の関係にして、さらに古代、中世的な価値観で主君に滅私奉公してもらうというのが基本線でしょうか。

主人公を魔王側(敵軍)にして、恐怖で支配している魔王の死の命令を、魔物の配下がこなす、または狂信的に応える(ヴァニラ・アイスのように)のも一つの手ですが、キャラの掘り下げなどドラマ面で考えるとつらい。

いっそ特定の主人公を無しにするのも考えました。または主人公は一応いるが、主人公すら「サクリファイス」で死なせることができる(その後は108人の中で二代目主人公が継ぐ)。
しかし命令系統もなく、毎回「俺が俺が」「どうぞどうぞ」のダチョウ倶楽部的立候補でどんどん死んでいくのもなあ、と思いますし、できればちゃんとプレイヤーに「死の命令」の責任を背負ってもらう方がいいと思います。

こうやってあーでもないこーでもないと考えていると、
「いっそ主人公に『死の命令』すらできる魔法とか特殊能力とかがあることにしたらどうだろうって、それはコードギアス!」
と、ルルーシュのギアス能力に至ってしまう。
コードギアスまじハンパない。まじリスペクト。いや本当にすごいねコードギアス。このゲームをそのままの設定でできるわ。

仲間を殺す抵抗感


このゲームのことを友人と話したら
「仲間を殺すことに抵抗があるなあ」とのこと。これはごもっともの反応。

しかし、それこそルルーシュのように仲間の死を自分で背負っていくのを楽しむゲームなので、どんどん死なせていってくれないと醍醐味が味わえない。
そのため軽く、つまりスナック感覚で仲間を死なせることが出来るように、色々工夫が必要のはず。

・仲間の人数が108人
→仲間が20人なら精神的に犠牲を出しにくい。108人でなくてもいいがとにかく多く。お試し感覚で死なせられるほど多く。

・仲間が最初から全員揃っている
→仲間集めはこのゲームの本質じゃないからやってられない。集める過程で思い入れが出来て殺せなくなる。洗い立てのまっさらな白いシャツの状態で108人に会い、死なせていって欲しい(徐々に赤シャツになります)。

・死なせやすいキャラがいる
→死なせる抵抗感が低いキャラをたくさん作る。余命いくばくもない老人、単なるおっさん、酒バクチのクズ野郎、ロボット(人造人間か)など。スナック感覚でつまんでもらえるようにいかにも練習台のようなキャラを色々つくりましょう。
(でも、クズ野郎が死ぬ時に、ちょっといい話エピソードを見せられたりするんだろうなあ)

・死ぬことが前提のゲーム難易度
→ゲームの難易度的に、強力な魔法(サクリファイス)が無いとクリアーできないようにする必要がある。もう死なせれば死なせるほどゲームが楽になるよ、という感じに。

あとは練習用サクリファイスイベント(「この扉は内側からしか閉めれない」など、死なすしかねーだろ的なベタ犠牲のオンパレード)とかかな。

それでも仲間を殺す抵抗感


こういったスナック感覚で仲間を死なせる工夫も友人に話してみたが、
「実際にゲームが無いからなんともいえないけど、やっぱり自分の責任で死なせてしまうのってなんかいやじゃない?行方不明とかじゃダメなの?」とのこと。
ゲームなんだからただのデータなんだし、殺せばいいじゃんというプレイヤーばかりじゃないよね。これもごもっとも。

まあ「仲間を死なせる」というのは、「キャラクターの死」というコンセプトでつくったゲームアイデアでしか無いので、厳密に言うと同じ状態が作れれば死ななくていい。
別に私も殺したがりでも、キャラなんかみんな死ねばいい、と思っているわけでもないし。例えばこんな感じでどうか。

「聖戦士ダンバイン」のバイストン・ウェルみたいに、現実世界から異世界に召還される話にしようか。
108人の大量召還。同じ学校の生徒100人とかでもいいかも知れないね。
で、異世界の人々に「聖戦士」扱いされて、戦争に参加することになってしまう。
もちろん現実に帰りたいが、話を聞くと帰れる方法はただ一つ。
それは「英雄的な行動をとって死ぬこと」のみ。ただ死んだり、自殺するのではダメらしい(死ねない、ということにしようか)。
仲間を救ったり、敵の大将の首を獲ったり、聖戦士らしく異世界に貢献して死ぬことで、初めてこの世界での役割を果たしたことになり、現実世界に帰ることができる。
もう少し幅を広く取って「他人のために命を投げられるか」ぐらいにしてもいいかな。
やむをえず高校生たちは、いやいやながら英雄として死ぬことを目標に戦うのであった。

これなら「死ぬけど、死なない」パターンなので、むしろ死なせるのは、早く現実世界に帰らせてあげることになって恩情になるかもね。
それに108人みんなは「英雄的な死(→現実世界に帰る)」を希望しているので、「サクリファイス」は彼ら自身が望んでいることでもある。立候補ものに近い。
ゲームプレイヤーとしての主人公は、異世界側の指導者かな?(ダンバインでいうとシーラ様になるかな)

これも1つのパターンだけど、要は実際に殺さなくても同じような状況は作れるので、配慮が必要ならそれなりに工夫すればいいと思います。
ただアイデアレベルだと、伝えたいことの分かりやすさが必要なので「仲間を死なせる」と内臓むきだしの表現にしています。

他にも細かいのが色々ありますが、また機会(という名のやる気)があれば。



このゲームで仲間を殺すのは、お話上は敵軍ですが、実質プレイヤー自身です。ゲーム(作者)側の強制ではありません。死の責任は、プレイヤーが担います。
普通のゲームと違い、これはゲームシステムに組み込まれた肯定される行動なので、何も悪くありませんし、不利になりません(むしろ有利になります)。
誇りを持って「サクリファイス」で仲間を死なせて、その死を自分で背負っていくことを楽しみましょう。

ゲームに限らず、マンガや映画やアニメでも、キャラクターの生死に関しては「殺せ!」「殺すな!」など色々な意見があります。では受け手側がキャラクターの死を決めてはどうでしょう?
ゲームはそれが比較的しやすいメディアだと思います。
そういう意味でこのゲームでは、極めて作者的な振る舞いが必要になるでしょうね。

まさに英雄生きるべきか、死ぬべきか、
―――いや英雄生かすべきか、死なすべきか。それが問題だ。
シリーズでお送りする「もったいない作品」第4弾。
コードギアスの時に言いましたが、快楽原則に忠実なコードギアスを見ているとガンダムWの事を考えずにはいられない。
ガンダムWは本当にもったいない作品なんですよ。

■ガンダムWの面白さともったいなさ

ガンダムW放送当時、雑誌に掲載されていた読者投稿欄で「話は難しくて分からないけど、デュオが出てるのでがんばって見てます」という、中学生ぐらいの女の子の投稿が非常に印象的でいまだに覚えています。
この女の子は何も悪くない。話が分からないのは女の子だからでも、年齢が低いからでもなく、作っている方がおかしいから。
当時、これを見て、ガンダムWは本当に誰も幸せにしていないんだな、と思ったのを覚えています。

でもガンダムWは、1話・2話は素晴らしく面白かったんですよ。
特に、リリーナから渡された誕生日パーティの招待状をヒイロが本人の目の前で破り「…お前を殺す」のセリフで終わる第1話のつかみっぷりは尋常ではない。
「それが後にあんなことになるとは、その時の俺達には知るよしもなく…」
(高嶋政伸 THE HOTEL第1話「ただいま、ガンダムパイロット様ご宿泊中!」より)

■G5を結成せよ!

じゃあどうすれば良かったのか。
キャラクターとガンダムは魅力的だから、最大限にそれを生かす物語にするべきでしょう。
すばらしい導入である1話、2話を生かすなら、いっそ堂々と学園ガンダムをやって欲しかった。
しかも少女主人公の、少女マンガ学園ガンダムをです。

そもそも1話は、少女(リリーナ)が謎の転校生と出会うボーイ・ミーツ・ガールで、ヒイロをミステリアスにする関係上、視点は常にリリーナ側という少女マンガフォーマットなんですよね。

・少女は少年と運命(ショッキング)の出会いをする。
・「私はリリーナ・ドーリアン。あなたは?」彼はすでに去り、名前を聞きそびれる。
・ところが、その少年が学園に転校してくる。「アイツはあのときの…」
・少年はスポーツ万能、クールでミステリアス。たちまち女の子の話題に。
・少女は、気になるアイツに自分の誕生日パーティの招待状を渡す。
・少年は招待状を目の前で破り捨てる。「え?なに?」理解できない少女。
・次回へひっぱる、キメのひと言「お前を殺す」
つづく。

完璧。すばらしい。
クールでミステリアスな美少年で、かつヒロインにだけなぜか冷たく、ヒロインには理解不能の行動を取る。少女マンガの王子役のパターンの1つとしては完璧じゃないないですか。

これをこのまま生かしましょう。

主人公は女の子側にしてしまい、ガンダムパイロット達5人全員が、普通の学生のフリをして学園に通いつつ、指令があればガンダムを駆り、テロ活動を行うという話にしましょう。
さらにガンダムパイロットの美少年5人は学園で「G5」と呼ばれるようにする。
要するに「花より男子」。「花よりガンダム」いや「ガンダムより男子」か?
F4をG5にするってわけです。Eんじゃないでしょうか。Fの次はGなんだから。

主人公の女の子は、G5のメンバーがガンダムパイロットであるという秘密をひょんなことから知ってしまい「お前を殺す」と言われるが、結局、唯一の協力者となり、学園での生活をサポートしたり、正体隠しに奔走したりする、とかでしょうか。
主人公の兄で、ガンダムパイロットを探すために教師として学園に潜入した敵にゼクス。主人公は兄からもG5の正体を隠すことになる。
さらに敵か味方か、謎の、というか謎しかない変態理事長トレーズが謎の発言で謎をふりまく。
で、主人公の女の子のあたたかさが、テロリストだったG5の少年達の心を次第に溶かしていき、彼らは人間性を取り戻していく、というのが主軸。
あとは学園祭だの運動会だの期末テストだの修学旅行などの学園行事をこなしつつ、それにからめながら、ガンダムバトルをやっていけばいいんじゃないでしょうか。
正体を隠したり、学園で動くのに権力があると便利などの理由で、生徒会を手に入れるのも定番でいいですね。

主人公の女の子はガンダムとそのパイロットを知っているが、彼女自身は戦わないし、学生であることもやめないようにする。
あくまでG5にとって、学園(日常)の帰ってくる場所として存在し続ける。最後まで。

そんな学園ガンダムにすれば良かったんだよね。みんな、とは言わないが多分大勢が幸せになれる。

それなのにガンダムWは、こういった可能性を全て捨て、ヒイロは数話で学園を去り、ヒロインも続いて去る。
「完全平和主義」とか訳の分からないキーワードが出てきて、キチガイ同士の戦争が延々と続く。
Wikipedia見たら「シリーズ構成はアニメおたくや雑誌編集者などが絶対についてこれないホン(脚本)が目指されている」と書いてあって呆れた。
参考:新機動戦記ガンダムW 作品解説(Wikipedia)

それで誰が幸せになったんでしょうか。監督は途中で事実上降板したそうですが、こんなキチガイ戦争アニメを延々と作っていたらそりゃおかしくなるよ。

■学園ロボットものの可能性

こういう学園ガンダムを考えるとね、コードギアスはこれを実現してることに気づくわけですよ。
以前書いたように、学園(日常)とバトル(非日常)をいかに一つの作品に盛り込むか、というのが面白要素を足し算する際の最大のポイントと思うのですが「コードギアス」は、学園とロボットバトルの二面。学生と戦士の二面。しかもそれをバレないように隠さなくてはいけないサスペンス。
学園(日常)とバトル(非日常)を両立させようと、どちらも捨てず、貪欲に詰め込んでいる。
コードギアスは快楽原則に忠実に、学園(日常)とバトル(非日常)を両立しようとがんばった。

ガンダムWは、学園(日常)とバトル(非日常)を両方できる可能性がありながら、それを捨てた。ガンダムWはそんなもったいない作品。というのが私の評価です。

私は友人に面白いもの薦める時に面白いとこしか紹介しません。全部見ることは美徳でも何でもないです。面白いとこだけ見たり、読んだりすればいいんです。
だからガンダムWを見ていない人には1、2話をぜひ見るようおすすめします。3話以降は見なくていいです。
その証拠に第2話「死神と呼ばれたガンダム」で、死神デュオが親切にこう言っています。
「死ぬぜ死ぬぜ。俺を見た奴はみーんな死んじまうぜ!」
彼の忠告にしたがって、3話以降を見なければ、皆さん死ななくて済むというわけです。
「人を操る力を手に入れた天才少年」を考えるとき「コードギアス」と「DEATH NOTE」はすぐ関連が思いつきますね。
その「DEATH NOTE」の主人公夜神月は最終的に無残に死んだ。
では「コードギアス」のルルーシュはどうなるのか。

ルルーシュは幸せにはなれないし、幸せになる必要も無いと考えます。それはなぜか。

■パンを盗む少年の話

「コードギアス」は反逆の少年ルルーシュのピカレスクロマン(悪漢小説)と銘打たれている。
ルルーシュは善人ではない。目的のために手段を選ばない。手段の中にはいわゆる「悪い」とされる手段も含まれる。
目的は母の死の真相を究明し、皇帝(帝国)に復讐することと、妹(ナナリー)が幸せに暮らす世界をつくること。
だが、その目的を追えば追うほど彼自身は幸せから遠ざかっていく。もちろん彼もそれは自覚している。(だからこそスザクにナナリーを託したかったのだけれど、ユーフェミアの存在がそれを許さなかった)
この辺りはもう、本当に古典的な「病気の家族のために泥棒をする子供」の物語ですよね。
病気の親や貧しい兄弟のためにパンを盗み「兄ちゃんこれどうしたの?」「働いて買ったんだよ。いいから食べな」という少年。
本人もパンを盗むのは悪いことと分かっている。しかし家族のためだ。俺が悪いんじゃない。世の中(世界)が悪いんだ、というよくある話。
こうして少年の事情を知っている我々視聴者としては、悪いことをしている少年をかげながら応援するわけだが、それは同情からだけではない。

■ルルーシュが反逆するもの

「コードギアス」はお上品でない。
これはルルーシュが悪人だとか死体や血が出てくるとか直接的な描写の意味ではない。
虐げられたイレブン(日本人)の救世主たるルルーシュがブリタニア(征服者=アメリカ)、2期では恐らく中国にもギャフンと言わせるのを痛快と感じて溜飲を下げるアニメという意味でだ。
意図的にナショナリズムを煽って満足させる仕組みにしているよね。
これはガンダムSEEDと同じプロデューサーの影響が大きいと聞いた。お上品とはお世辞にも言えず好きではないが、一般大衆に受ける要素を全て盛り込むというコンセプトは徹底しているし、舞台を架空の異世界の小国にして日本をイメージさせる程度では済ませない所は覚悟がきっちりしている(お下品だけど)。
水戸黄門や遠山の金さんをみんなが喜ぶのは、大衆が憎むものを「物語の中で」痛快にやっつけてくれるからだ。
もちろんあくまで「物語の中(虚構)」で。これは物語が本来持つ健全なシステムといってもいいでしょう。昔からある古典的な物語の仕組みのひとつだ。

だから「コードギアスR2」のこの先のシナリオは知らないが、現実世界のことを考えると残念ながら「コードギアス内の中国」はルルーシュに痛い目に合わされるだろう。
逆に言えば、悪人ルルーシュは帝国(=アメリカ)や中国に屈せず抵抗するからこそ、日本人(イレブン及び我々視聴者)の支持を受けることができているとも言える。

それにしても反逆者のリーダーを日本人にしてない所など、用意周到ですさまじいね。
帝国や中国をひどい目にあわすのはあくまでブリタニア人のルルーシュ。
(逆にスザクを帝国側の日本人キャラクターとして配置している)

ちなみにこのルルーシュとスザクの対比に目をつけて、ルルーシュとスザクを田中芳樹「銀河英雄伝説」と「アルスラーン戦記」に例えた記事を書きました。
重ねやすいと感じたのは、田中芳樹作品には明確な人物の対比があって物語構造が分かりやすいからでしょうか。

■まとめ ルルーシュは幸せになれない

「コードギアス」はその一話の情報量やそのスピードなど、いかにも今を代表するアニメーションだと思う。
放送後、1週間かけてネット上で消費するのに耐えうるべく設計されている(「ガンダム00」はこれが足りないと思う)のが現代的だ。

しかし物語の構造自体は、人間の感情に訴えるに有効とされるポイントを集めに集めた極めて古典的な物語だ。
もちろんほめ言葉であり、視聴者が望むものを惜しみなく投入する大衆娯楽としての「コードギアス」はすばらしい、というのが私の評価です。
(この「全部入り」には、CLAMPも貢献してると思うのだが、脱線するのでここでは触れない)

ここで冒頭の問いに戻りましょう。
「コードギアス」のルルーシュは最終的にどうなるのか。幸せにはなれないし、幸せになる必要も無い。それはなぜか。

それは―――ここまで読んでいただいた方にはお分かりかも知れませんが、ルルーシュの破滅、それもまた我々が見たいと望むものだからです。

ルルーシュは、この後もなんだかんだありながらも痛快ガンガン行進曲を奏でつつ、愉快ツーカイな活躍をすることでしょう。
でも目的に近づけば近づくほど、彼はどんどん不幸になっていき、最後には破滅し、大事なものを失うに違いありません。
「悪いことをした登場人物は作中でそれなりの代償を支払う」というのは物語が持つ基本的なルールであり、健全なシステムでもあります。
(Vガンダムのカテジナ・ルースを見よ。そしてなぜVガンダムが唯一、名作物風の終わり方をしなければならなかったかを)
「間違った手段で達成された目的」には、それなりの対価を支払う必要があるのです。ルルーシュとて例外ではありません。
それは、全ての人が(恐らくルルーシュファンの人でさえ)、見ながらに予感していることではないでしょうか。
「こんなことを続けていては、最後はとんでもないことになってしまうに違いない」

私は、ルルーシュが成功への階段を登るのと同時に、破滅へのカウントダウンが刻まれていくのを毎週楽しみにしています。
なぜなら、ルルーシュが手を血に染めてまでつくった世界が崩壊する悲劇を見るのは、視聴者とっては喜びでもあるからです。
視聴者が望むものを必ず見せてくれる全部入りの「コードギアス」が、これだけを我々に見せてくれない、ということがあるでしょうか?
「コードギアス」のルルーシュとスザクの対比は、この作品の中心部分だが、この2人の対立は田中芳樹「銀河英雄伝説」「アルスラーン戦記」に例えると分かりやすいんじゃないだろうか。

そう思いついたので、ちょっと遊びで重ねてみましょう。

※記事の性質上、「コードギアス」と「銀河英雄伝説」のネタバレが含まれます。ご注意を。
誤ってネタバレを知ってしまった場合は「全力で忘れろ!」



■ギアス英雄伝説(「銀河英雄伝説」の場合)

ルルーシュ=ラインハルト
(1)主人公。容姿端麗、頭脳明晰。
(2)戦略の天才
(3)目的のためには手段を選ばない
(4)妹(姉)の幸せを願い、果たそうとするがやり方を間違えている。


スザク=ヤン+キルヒアイス
(1)主人公の親友(キルヒアイス)にしてライバル(ヤン)
(2)戦術レベルの天才(ヤン)
(3)目的は大事だが、それに至る正しいプロセスを重視する(ヤン、キルヒアイス)
(4)主人公の妹(姉)の恋愛対象者となるがそれに応えることはない(キルヒアイス)


(1)~(4)がそれぞれ対応する。

(1)スザクはルルーシュの親友ポジションで、ヤンだけでなくキルヒアイスの要素を持つ。

(2)ルルーシュは大きな作戦レベルでは常に勝利を収めているのだが、その計算を一騎で乱すのは戦闘の天才スザク。あくまで戦闘レベルではあるが、戦闘の天才ゆえにルルーシュの戦術を無効化できる。
またスザクがルルーシュの妨害者にしか見えないのは、常にルルーシュの戦略、戦術の中でしか戦っていないからでもある。土俵はルルーシュが用意したもの、でも、その土俵の中で一番強いのはスザク。
ちなみにルルーシュが仕掛ける戦略ゲーム、戦術ゲームの面白さは脚本の大河内さん(キングゲイナー)によるところが大きいでしょう。どこかのインタビューで見ましたがボードゲームなどのヘビーゲーマーだったそうです。

(3)目的のためには手段を選ばないのは銀英伝のラインハルトも同じ。そのためにかげがえの無い親友を失ったのも同じか。失い方が違いますが。
スザクは口ではルルーシュを批判してますが、父親を殺してまでして戦争を回避したり、イレブンの分際で帝国中枢にもぐりこもうとしたり、目的のために手段を選ばない人でもあるんだよね。
だからもっと出世と保身にガツガツするスザクが本当は見たかった。目的のためには簡単に死ねないはずなのに、1期で簡単に死刑を受け入れるような描写はちょっと拍子抜けしました。
(この辺りがルルーシュのミラーにしすぎて、スザク本来のキャラクターが生かされていない感じがするところ)

(4)ルルーシュもラインハルトも妹(姉)のためにと思ってがんばってるんだけど、根本的にやり方を間違えているから、やればやるほど自分も妹(姉)も幸せになれない。
ラインハルトなんか銀河全てを手に入れたのに、本当に大事なものは全て手に入らなかった。いや本当に大事なものの代替品として銀河で埋めようと思ったけど、銀河ですら埋まらなかった。

ルルーシュ=ラインハルト
(5)体力がない。


というのもあるかも。



■ルルーシュ乱戦記(「アルスラーン戦記」の場合)

同じく田中芳樹「アルスラーン戦記」にも重ねてみたパターン。

ルルーシュ=ヒルメス
(1)廃皇子
(2)復讐を誓って闇をゆくもの
(3)王国の外側からの改革者


スザク=アルスラーン
(1)庶民から騎士(王)へ (スザクは首相の息子だけど帝国としては庶民)
(2)正しい道を求めて光をゆくもの
(3)王国の内側からの改革者


コードギアスはヒルメスを主人公にした「ヒルメス戦記」ですよね。
スザクのポジションは正確に言えば、ダリューンあたりで、ユーフェミア(ナナリー)がアルスラーンになるのでしょうが、ここでは、スザクとルルーシュの対比ということでひとまずこうしておきます。

銀英伝では、ヤンとラインハルトという異なる陣営に魅力的なキャラクターを創りましたが、アルスラーン戦記では、この対比構造は圧倒的に弱い。
ヒルメスの人物がアルスラーンより何枚か落ちる上、連戦連敗、配下も次々と死に、流浪の人生という大変不遇なキャラクターとなっています。
(もうザッハーク戦の最後の最後あたりでアルスラーンと共闘するぐらいしか、使い道が無さそうな気がします)

田中芳樹が造詣が深い中国の歴史を見てみても、外側から軍事の力で国を変えるパターンと、内側から政治の力で国を変えるパターンがある。
アルスラーンのようにお飾りのように幼少で皇帝になるパターンだと、本当の力を隠しつつ、皇后や宦官や外戚の勢力を少しずつ剥ぎ取ったりして、自分の地位を確立するパターン。
でも、これを何も知らない外側から見ると(ネコかぶって)弱々しいアルスラーンにはパルスは任せていられるか、となってヒルメスが軍事力で王位を獲る大義名分になるんですよね。

そんな「自分が見たかったアルスラーン」というのは昔考えたことがあります。

(1)ヒルメスとアルスラーンが外と内、全く別のアプローチで王位レースをする。
(2)アルスラーン側には軍師ナルサス、ヒルメス側にもナルサスの親友の軍師をつけて軍師同士のレースにもする(管仲と鮑叔にする)
(3)最終的にはヒルメスが王位レースに負ける。
(4)ヒルメスは、ただの傀儡と思っていたアルスラーンが王の器であることを認め、パルスを去る。
(5)ヒルメス一行は、自分の居場所を求めて旅立つ。(どこかに国をつくるのか、どこかの国に仕えるのか)

あとはアンドラゴラスを、アルスラーンに最も都合のいい形で退場させたのが、あまりに都合良すぎて引っかかっているので、アンドラゴラスをヒルメスが直接対決で討つという見せ場を作る。
その上でアルスラーンが国王になったあとは、前国王殺しの男という大義名分でヒルメスを討ち、国外に追放するというのでどうか。
アルスラーンが絶対できないアンドラゴラス殺しを引き受けた上に、その汚名を持ってパルスから去ることが、ヒルメスにできる唯一のパルスへの愛だった的な。

ヒルメスがカッコ良すぎる気もするのですが、いや!そういう、双方すばらしい!という展開が見たいんですよね。
本編を読んでいるとまあ、ヒルメスがあわれであわれで。もうあわれさを楽しんでいくしかないキャラクターになっているのはせつないんですよね。

思い切り脱線しましたが、このようにヒルメスはルルーシュのように主役にはとてもなれないので、基本設定ぐらいしか重ならないんですが、ルルーシュを見てると、むしろアルスラーン戦記はヒルメスをもっと大事にした方が面白かったのに、というお話。



田中芳樹作品に重ねてみたのは、単に認知度が高くて例えとして通じやすいというのもありますが、実際コードギアス見てるときに銀英伝やアルスラーンを連想したからでもあります。
歴史からネタを引っ張っている田中芳樹作品は、設定がオーソドックスかつ明確な人物や思想の対比があって物語構造が分かりやすいので、重ねやすいんでしょうね。

構造的に重ねたらどうなるかな?という例えゲームなので、コードギアスが田中芳樹作品に似てるとか、影響されてるとかではもちろんありませんので一応、誤解無きよう。
アルスラーン戦記のところで書いたとおり、ストーリー自体はルルーシュ(ヒルメス)側を主人公に据えたコードギアスの方が好みですしね。

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