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人生で初めて買ったDVDは、細田守監督作品、劇場版『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』 でした。

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(2001/01/21)
藤田淑子坂本千夏

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その細田守監督の最新作、映画『サマーウォーズ』は8月1日公開。
今はまだ7月。公開前。私は試写会にも行っていないので、まだ作品は見ていない。
見てないのに、いや見てないからこそできる『サマーウォーズ』のおはなし。



『サマーウォーズ』は、『ぼくらのウォーゲーム【リビルド】』?


ネットをながめていると、あちこちで、『サマーウォーズ』の試写会へ行ったというお話や感想が。うらやましい限り。

見に行った方の感想を読むと、映画の内容は『ぼくらのウォーゲーム』を再構築した、『ぼくらのウォーゲーム【リビルド】』のようです。同じことを、多くの皆さんが話しておられるので、恐らくそうなのでしょう。

これは予告編を見ても、ある程度は感じることはできますね。

■「サマーウォーズ」 劇場用予告


ああ、細田さんの集大成的なところもあって面白いなあ。『ぼくらのウォーゲーム』の田舎とネット描写、タイムサスペンス。『SUPERFLAT MONOGRAM』のアバター。夏と恋と高校生。

そうか。『ぼくらのウォーゲーム』が、サマーを冠につけて帰ってきたか。
人生で初めて買ったDVDが『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』である私としては、これは喜ぶべき情報だ。

しかし、これに対しては、当然のように別の反応も考えられる。

映画の公開後、
「なんだよ、サマーウォーズって、デジモンの焼き直しじゃないか」
という感想が出てきたりするかも知れない。

その反応は分かる。でも、そういう人はちょっと見ている範囲が狭すぎるんじゃないかな。
ここでは、『ぼくらのウォーゲーム』が再構築(リビルド)された意義を考えてみたい。

今ここで、細田守が選んだ映画


あえてはっきり言うけど、デジモンの映画なんて誰も見てない。
見ているのは、当時のターゲットである子供と、一部のアニメファンだけ。
だって「東映アニメフェア」で「デジモン」で「40分」の映画だもん。
当時、アニメが普通に好き、という私の周りの友人たちも見ていなかったが、それは当然だと思う。

だから、「あなた」がすでに『ウォーゲーム』を見ているかどうかは個人的な問題で、映画『サマーウォーズ』の成立にはあまり関係がない。

映画『ぼくらのウォーゲーム』は、誰にも見られていない。
そのあと「誰もが見る映画」になるはずだった細田版『ハウルの動く城』は幻になった。

そして、その後『時をかける少女(時かけ)』で再び高い評価を受けたことで実現したであろう、次の映画が、この『サマーウォーズ』。

『時かけ』を経て、次回作のチャンスを得た細田さんが選んだのが、ほかでもない『ぼくらのウォーゲーム【リビルド】』なのは圧倒的に正しいと思う。
今必要なのは、劇場版『デジモン』よりも(さらにいえば『時かけ』よりも)、広く、遠くまで届く『ぼくらのウォーゲーム』だ。
金曜ロードショーで放映できる『ぼくらのウォーゲーム』だ。

エヴァンゲリオンも今、再構築(リビルド)がされていて、それは細田さんとはまた意味合いが違うけれど、共通して言えることは、再構築は決して無意味じゃないということ。
時代や状況、選ばれた作品の枠組み、制作者当人、そして見ている人々も変化していくものだから。それをちゃんと把握して、行われた再構築は無駄にはならない。
出てくるキャラクターやストーリーラインは、ほぼ同じでも、物語の持つ意味を変えることはできる。
(自分でも『聖戦士ダンバイン』の記事を書いた時に、その片鱗だけでも体感したから、私はその価値を信じる)

だから、もし公開後に「サマーウォーズなんて、デジモンの焼き直しだ」という人がいたなら、その人にはこう言いたい。

「君のいうことは正しい。―――だが、なぜそれを喜ばないのか」

地上波でゴールデンタイムにリピート放送できる映画


デジモン映画のリビルドであることは、批判ポイントには全くならない。私は肯定する。

すばらしい作品であるにも関わらず、「デジモン」だからって、「東映アニメフェア」の1本である「40分」作品だからって、みんなが見ていなかった映画が、『時かけ』の監督最新作として、2時間の映画になって帰ってきたんだよ。カムバックサーモンだよ。喜ぶべきことじゃないのか。

『サマーウォーズ』はおそらく、『時をかける少女』のように地上波で放送するだろう。
うまくいけば夏の風物詩になってくれるかもしれない(なってほしい)。
友人はもちろん、家族や恋人や、デジモンを知らない世代の子供たちとも一緒に見ることができる。

『ぼくらのウォーゲーム』みたいな楽しい映画が、みんなで見れるような映画になって帰ってきた。
うまくいって夏の定番になれば、リピート放送されて、ずっとこの先も見れる。
これが喜びでなくて、なんなんだ。
自分が見たことがあるからといって批判する必要などない。

誤解の無いよう書くが、これは私が『ぼくらのウォーゲーム』が好きだから、もう1回それが見れてうれしい、という話ではない。それを喜ぶなら、DVDを繰り返し見ていればそれでよい。

私は『ぼくらのウォーゲーム』が、誰でも楽しめる普遍的な面白さを持っていることを知っている。
しかし『ぼくらのウォーゲーム』が、ある一部の層にしか届かない作品であることも知っている。

作品が持つ面白さと同時に、その限界を知っているからこそ、それが今『サマーウォーズ』という別の映画になって現れたこと、それに意義を感じる、という話だ。

これでやっと、作品が持つ普遍的な面白さと、作品が届く距離と範囲のギャップが解消され、ゴールデンタイムの地上波でリピート放送されるようなアニメ映画になっているかも知れない。

そして、それができているのは、現時点ではジブリ映画。つまり宮崎駿だけだ。

「宮崎駿の後継者」としての細田守


細田守を「宮崎駿の後継者」と呼ぶことに一面の真実があるのだとしたら、そこに期待を込めるのだとしたら、私はゴールデンタイムにTVで流せるオリジナルアニメ映画を作れるかも知れない、というところにこそあると思っている。作風だの演出だのではもちろんない。
(逆に個人的には、庵野秀明にはゴールデンタイムじゃない宮崎駿を担当してほしい)

だからこそ、『サマーウォーズ』を構成する要素として「家族」を入れてきたのには、私は方法論としては納得できる。実際どう表現されたのかは、見てみないと分からないが、結果はどうあれ、考え方、やり方自体は間違ってないと思う。
このあたりは、『ウォーゲーム』よりも、家族がいらない映画『時かけ』と対比させて考えた方が分かりやすいかも知れないね。

『サマーウォーズ』を見ていて、インターネットやSNS、アバターなどが分からない大人は、一緒に見ている子どもたちに聞こう。
田舎や花札のことが分からない子どもたちは、一緒に見ている大人に聞こう。(私も、子供のころ、花札は父や大人たちに教えてもらって遊んだ)
見ていて、分からないことが映画の中で全て解消される必要はない。
映画の外で(理想は家族のコミュニケーションで)、解消されることを促すようなつくりでも面白いんじゃないか。実際、どうなのかは見てないので分からないが。

あと映画に季節感を付与するのは、宮崎駿との違いとしては、いいやり方だと思います。
でも夏の映画はこれで2本になりましたね。
今度は年末にでも放映できるようなクリスマスや冬の映画でもつくるといいかもしれないね。



というわけで、まだ見てないからこそ、今のところ私にとっての『サマーウォーズ』の位置づけはこんな感じになります。CMの入りタイミングまで覚えるほどにリピートされる映画になっていたら一番うれしい。

ネットの描写はあくまでアバターを介した象徴的なものだから、すぐにダメになるようなものでもないでしょう。(実際、『ぼくらのウォーゲーム』も、Adobe Illustrator的なネット世界を選択しているおかげで、古びることを最小限に抑えていると思う)

しかしこれで実際見てどうなのかは神のみぞ知る、ですね。
すでに試写会に行った人から見ると、バカなことを言っているように見えるのかも知れない。
でも、ここまで希望と理想に満ち溢れたことは、公開前じゃないと言いづらいしね。

しかし、仮に『サマーウォーズ』の作品の出来がどうだったとしても、自分の書いたことは無価値ではないと信じていますし、考え自体は変わらないでしょう。

とにかく『サマーウォーズ』が楽しみ。
「夏」はすぐそこまで来ている。



8/19追記:『サマーウォーズ』見てきましたので、感想メモを書きました。

『サマーウォーズ』関連記事(四部作)

このブログの『サマーウォーズ』記事です。よろしかったらどうぞ。最初の記事はネタバレありません。

■見る前(上映前)のレビュー(この記事)
日本の夏。『サマーウォーズ』の夏。 < 『ぼくらのウォーゲーム』再構築(リビルド)の価値は >

■見た後のレビュー ※ネタバレあり
サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>

■特別編:ゴハン食べるの?食べないの?(フード理論) ※ネタバレあり
世界の危機には「家族で食事」を <『サマーウォーズ』 フィクションと現実で異なる「正しい行動」>

■完結編:『サマーウォーズ』のパッケージングと可能性の検討について ※ネタバレあり
10年前、世界を救ってくれた子供たちと、日常を守ってくれた大人たちへ<『ぼくらのウォーゲーム!』と『サマーウォーズ』>
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前回記事では、映画『タイタニック』をサンプルに「大きな物語」について考えてみました。
今回はさらに話題を広げて、「大きな物語」の有効活用を考えてみましょう。

■簡単なおさらい

・SFX特技監督として有名だったジェームズ・キャメロンが、こだわりのタイタニック号をより多くの人に見てもらうために「悲劇のラブロマンス」というベタな物語を使用した。

・ロボットアニメの監督として有名だった富野由悠季が、キャメロンの『タイタニック』に大きな衝撃を受けて、「ロボットアニメの富野」として、より「大きな物語」を作ることを目指した。

なぜ『タイタニック』は世界中の海を渡れたのか<富野由悠季と映画『タイタニック』にみる「大きな物語」>

※ここでの「大きな物語」とは「より多くの人で価値が共有できる物語」程度の意味です。限られた一部の人ではなく、みんなが親しみ楽しめるおはなし、のことです。



「大きな物語」利用のポイントと欠点


「大きな物語」を効果的に利用するには、いくつかのポイントがあると思われますので整理してみましょうか。

■前提条件
・見せたい世界やギミックなど、強力かつ魅力的な被写体があること。

『タイタニック』では、「タイタニック号」がそれにあたります。
『タイタニック』の「世界」はタイタニック号そのもので、魅力的なギミックもまたタイタニック号です。この映画はラブロマンス以外はタイタニックしか要素がないので、タイタニック様の思うがままです。世界が滅亡(沈没)するかどうかもタイタニック様のやる気次第です。すばらしい。
富野監督は「タイタニックは、要するにモビルスーツ(ロボット)だ」と言いましたが、「ガンダム」の場合ですと「モビルスーツとそのために用意された宇宙世紀」ということになりますね。
ここが作品で一番見せたい、こだわりたい部分になります。

■利用方法
・基本は「強力かつ魅力的な被写体」+「大きな物語」
・お話は誰もが共感でき、理解できるようなシンプルなものを。

見せたい被写体をより多くの人に見てもらうために、誰にでも分かるシンプルなストーリーを採用します。
作品の舞台が過去であろうと未来だろうと、人である限り共感できるような類型的な物語がふさわしい。

ただし、「大きな物語」は、ありがちな「陳腐な物語」だと批判される可能性があります。
場合によっては確かに有効かも知れないけれど、みんなで共有できる物語=陳腐なストーリーになりがちだという欠点は確かにあります。
『タイタニック』については、半分は誉め言葉のようなものですが、もう半分は批判されても仕方ないかも知れません。
最大公約数的なベタストーリーを選ぶのは、ベターではあっても、どうしてもベストでは無いかも知れません。

だからといって、ひねったストーリーにするのでは意味がありませんよね。
『タイタニック』タイプについては、最も見せたい被写体が先にあり、物語はあくまでそれを生かすために使います。被写体の部分はどれだけマニアックになってもいいですが、ストーリーがマニアックになるのでは、楽しめる人が限定されてしまい本末転倒です。

もちろんシンプルでも力強く誰でも楽しめる面白ストーリーがあれば言うことなしですが、そんなパワーのある脚本があるならば、それを最大限に生かすように、他の要素を揃えていったほうがいい映画になりそうです。

誰でも分かるストーリー構造のままで、何度も見たくなったりする奥が深い作品をつくる方法はないのでしょうか?

その方法の一つを、『タイタニック』がつくった観客動員記録を塗り替えて日本新記録をつくった映画、『千と千尋の神隠し』で考えてみましょう。



『千と千尋の神隠し』に見る「大きな物語」


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個人的には「『タイタニック』的なもの」を一番うまくやっている日本の作品は、宮崎駿『千と千尋の神隠し』ではないかと思っています。

『千と千尋の神隠し』でのタイタニック構造は、以下のようになります。

「魅力的な被写体」→「舞台となる湯屋"油屋"。不思議がいっぱいの世界」
「大きな物語」→「昔話のようなシンプルでどこかなつかしいお話」


初めて『千と千尋の神隠し』を見た時に驚いたのは、神話や民話・説話をほとんどそのまま形で入れていたことでした。話には聞いていたけれど、想像を大きく越えていました。
民話のエッセンスだとかメタファーだとか、そういうことではなく、民話の類型をほぼそのままの形で入れていることが非常に興味深かったです。
もちろん、さまざまな民話的なエピソードは巧みにパッチワークされていて宮崎駿独自の世界になっており、特定のお話にはなってはいないが、各パーツは非常に類型的。
さらに全体がいわゆる「行きて帰りし物語」という、非常にオーソドックスなお話になっている。
ジブリ映画を絵本化したものが出版されているが、この作品がもっとも自然に絵本化できているのではあるまいか。
(逆にジブリ絵本「もののけ姫」なんてどうしたんだろ。「エボシごぜんの、うでが ふきとびました」とか?)

『タイタニック』→『ターンAガンダム』→『千と千尋の神隠し』という時系列で体験して、「大きな物語」への回帰というような大きな流れを当時感じたのを今でも覚えています。

無数の解釈ができる物語は無敵


『千と千尋の神隠し』のお話は、お話はそれこそ小さな子供でも分かるほどにシンプル。構造しかない。
あらすじを書けと言われたら、ジブリ絵本そのままになると思う。それ以上のお話はない。
ところが、見る人が各エピソードにどういう意味を見出すかで大きく解釈が異なっていく。
ストーリーは1つで、無数の解釈ができる物語は無敵だな、とつくづく感じたのがこの作品です。

■皆さんに聞きました!『千と千尋』ってどんな話?
・「生きる力が退化した子供達がそれを取り戻す話だ」
・「両親のために遊郭で働くはめになる少女の物語」
・「環境破壊で傷ついた神様(自然)を少女が癒す物語だよ」
・「ちひろちゃんが、おとうさんとおかあさんをたすけるために、がんばるおはなし」


あらすじはかんたん。「では、なんの物語なのか?」という部分が、完全に受け手にゆだねられているので、どう受け取ろうが「解釈」というレイヤーで見るなら上の例も全て間違いとはいえない。どうとでも解釈できる設計だと思います。
『千と千尋の神隠し』の最終的なストーリーは、受け手の解釈をもってして完成する、と言ってもいいでしょう。

例えば、ファミリーで『千と千尋の神隠し』を見た場合はどうでしょう。
同じ映画を見て、同じおはなしを体験したのに、家族全員の感想が大きく違ってくるのではないでしょうか。
子供たちは主人公の少女に感情移入して冒険にドキドキして楽しかった、面白かったと笑う。
大人たちは、環境問題や、病める現代社会への問題提起、どこかなつかしい空間へのノスタルジー、子供へのありがたい説教などを感じとって、見てよかった。見せてよかったとなったりもするでしょう。
(お父さんはさらに、隠されたエロいメッセージを感じとっているかも知れない)

そういえば、湯屋=遊郭なので、「千」という源氏名をもらって風俗で働く話だよ、という指摘があります。
(私が見たのは町山智浩さんのこちらの記事。)
それに対して「そんな風に解釈するのはけしからん」という反応を見たことがあります。ネットで見たので性別は分かりませんが、子供を持つお母さんだったかも知れないですね。
町山さんの記事は、インテリや評論家が揃いも揃ってこれをスルーするのはおかしいんじゃないか?という指摘というか問題提起なので「こう見なければいけない」というような狭量なものではないと思います。
でも、その解釈をお母さん達に聞かせたときにおこる反応も分かる。
だから別に「湯屋=遊郭」と見なくていい。子供達にも温泉旅館でアルバイトするようなものだとして話せばいいし、それでも何の支障もなく楽しめる。親子で親子らしく解釈すればいい。
(そして、子供は何度目かの金曜ロードショーで「あ!そういうことかも…」と気づくのかも知れないが、その頃には親には言うまい。奥さん、あんたの子供は知らないうちに大人の階段登ってるよ!)

なぜ千尋の両親が豚になるのか


『千と千尋の神隠し』が意図的に無数の解釈を生むような作りをしているのは、物語冒頭で千尋の両親が豚に変わってしまうところにも見ることができます。
なぜ両親が豚にならないといけないのか、はっきりいって究極的には理由はないと思う。
ただし、意味はあり、解釈もまた無数にとれる。

映画としては、これにより、目的「両親を取り戻し、この異界から脱出する」がつくられたことになる。
だからもちろん意味はある。だが、そのためのシーンが、なぜ「ご飯を食べて豚になる」なのか。

「豚」になる解釈
・神様の食べ物を勝手に食べた罰だ
・勝手に人の物を食べてはいけませんという、ありがたい説教
・異界でうかつに物を口にすると帰れなくなるという、神話的な構造にもとづくもの
・豚は、いやしい現代日本人の象徴。飽食のシンボル。
・はいってきたにんげんをぶたにしてたべちゃう、わな?


といった感じに、色んな解釈ができますね。
浅い深いとか考え方の違いはあれど、解釈はどうとでも取れ、どれも間違いではないと思います。
と言いますか、映画的には「目的の発生」というところをちゃんと理解してもらえればよく、あとはどうでも好きにしてくれ、という作りにしていると思います。
宮崎駿の中で正解となる解釈があるかも知れませんが、その解釈しかしてほしくないのであれば、やりようはいくらでもあると思いますから。だから宮崎の意図とは関係なく、解釈は自由に任される。

ここで間違えてはいけないのは、子供は浅くしか受け取れないが、大人は深く作品を理解できたので、より楽しめた、ということではないということ。
スクリーンに映されたお話を体験し、楽しんだ、ということに関しては、大人も子供も全く平等。
単純きわまりない話として展開されるので、映画のお話としては、老若男女が同じように楽しむことができる。

ただし大人は、この単純きわまりない話に「勝手に」「自動的に」意味を見出す。
というより、あまりに神話的、寓話的なお話なので、どうしても、象徴や、意味や、役割を見出してしまう。

だから、おおいに自分の解釈を語り、他人の解釈を聞き、あーだこーだ言うのが正しい楽しみ方の作法と言ってもいいでしょう。
実際ネットでも大人たちが語るジブリ映画の感想は基本的に解釈論です。
たまに、トンデラハウスの大冒険的な(オブラートな表現)飛躍のある解釈をされる方もいるが、そういう人でもストーリーはちゃんと理解しているはずです。子供でも理解できるお話だから当然ですが。
あくまでも解釈のレイヤーで、トンデラハウス(オブラート)しているだけでね。

私は見てませんが『崖の上のポニョ』も見てきた人によって、感想が大きく違ってました。
私は自分が見ていないだけに、逆に皆さんのポニョ感想を楽しく読みましたが、この作品も『千と千尋』同様に相当な解釈遊びができる映画のようですね。同じ映画を見たとは思えないほどバラエティにあふれてました。
でもみんな同じ映画を見ているし、同じ月を見ている。
日本では月でウサギがモチつきをしていることになっているが、世界にはさまざまな解釈がある。だが、どれもそれぞれにとって正しいし、そこに月があることは変わらない。見ているのは同じ月だ。

『千と千尋の神隠し』に正しい解釈による見方、のようなものは多分無い。というかあってはいけない。あったとしてもあってはいけないことにしよう。
全ての人で共有できるような「大きな物語」を提供して、あとは受け手が勝手に「解釈」して完成する作品だから。

この仕組みは、本当にすばらしいですね。
老若男女が楽しめるから、ファミリーで見に行くことが出来るし、大人も子供のお付き合いだけでなく、大人らしい解釈で物語を読み取ることができる。
だから受け取り方を変えながら何度も見ることができるし、年齢を重ねても、その年に見合った見方へ変化しながら、いつまでも見ることができる。
複数回劇場に行くことが出来るし、見た人同士の会話も楽しい。金曜ロードショーで見るたびに少しずつ違う見方をしても面白い。それは国民的アニメになるよね。
シンプルな「大きな物語」を使って、それでも陳腐と言われないための有効な方法の一つなんだろうな、と思います。

余談:『イノセンス』それは、なに?


押井守の映画も、意味を読み取るのを楽しむ映画ですよね。
『イノセンス』なんかは、劇場で見た時にストーリー自体は単純すぎるぐらいに単純なことが面白かった。つまり映画のポイントはもうそこにはない。
(中島敦の『悟浄出世(わが西遊記)』を連想しましたよ。なぜか。)
ただ、理詰めの部分が大きいので、宮崎駿と比べて良くも悪くも「混沌」さが少なく、解釈の深度はあってもどうしても幅は狭く感じられます。

また、解釈をしない層に対してのサービスが悪すぎると思います。もちろんそこは意図して、客を選んでいるのでしょうけれど。それに関しては押井免疫の無い友人達と劇場で『イノセンス』を見たときに出てきた感想が面白かった。
友人A「なんかすごく単純で淡白というか面白みのない話だったなあ」
友人B「うーん、セリフばっかりで難しいなあ。色々深そうなんだけど俺にはわからん」
という感じの両極端なものだったのは興味深かった。友人達、あんた達はわるくない。わるくないよ!
友人B「あと、中盤の天丼(館への潜入)はくどくない?」
いやあ、あれはジョン・ウーの鳩みたいなもんなんで。どれが現実でどれが夢かなんて誰にも分かりはしないんです。
スクリーンに映る光もそれを見つめる俺達すらも全ては幻、胡蝶の夢なんです。
友人A「(苦笑して)それにしては全然覚めないよね、私らの夢。もうそろそろ覚めてもいいよね?」
…全く。

そういう意味では、次回作が「宮本武蔵」だと最初に聞いたときは面白いなあ、と思いました。
日本人なら誰でも知ってる人物だし、「バカボンド」などで若い人にも広く知られた人物ですから。
誰でも知ってるようなお話を押井守がやる、というのはいいなあ、と最初思ったのに、監督じゃなかったので、それが残念でしたけども。



新海誠さんの話ができなかったので、また次回へ。
また話は大きく変わるので、続きものというわけではありませんが。
前回記事、飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話> を多くの方に見ていただいたようで誠にありがとうございます。
ご訪問いただいた方、コメント、トラックバック、ブックマークしていただいた方、言及記事を書いていただいた方など皆様に感謝いたします。

身近な友人・知人向けに書いているようなブログなので、何気なくアクセス解析をのぞいた時は何事かと怯え、おしっこもれそうになりました。(我慢しました)
さらに、はてなからの訪問が多かったので見てみると、私の想像を絶するブックマーク数が!(ここで残念ながらもれました)
正直そこまでの内容の記事でもないなと自分でも思うので、時期も時期だし、皆様が何かを考えたり意見を述べるきっかけ作りぐらいにはなったのかな、と受け止めることにしました。

あとみんな宮崎駿と押井守好きすぎです。
どんだけ好きなんですか。(特にはてなの方)


調べてみると、囚人022さんにブックマークしていただいたのがきっかけになったようです。
囚人022さんのはてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/prisoner022/
囚人022さんには、この少し前の記事もブックマークしていただいたようでありがとうございます。以前からブログを拝見していましたので嬉しいです。

記事については、アクセスやブックマークに対して嬉しいというより、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちでいっぱいだったのですが、コメントやブックマークコメント、言及記事などを見ると、より深い情報や鋭いツッコミ、別視点、補足などがありとても刺激的でした。

ですので、私の記事だけでなく、ブクマコメや言及記事なども読んでいただき、丸ごと楽しんだり考えたりしていただくのが一番いいですね。
コメントやブクマコメに良いこと面白いことがいっぱい書いてあるので、それも読んでいただいて「なるほど!」「面白いな!」「いやいやこうも考えられないか?」「待てよ、そういえば…」「知っているのか雷電!」で全然いいと思います。

というわけで私の記事部分だけでなく、ぜひ記事コメント、ブックマークコメントや言及記事などもご覧下さい。

はてなブックマーク - 飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守 <リアリティコントロールの話>
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html
(とりあえずブックマーク数が圧倒的に多いはてなを。コメントと言及リンクがまとまっていて紹介しやすくていいですね)

最初は記事にいただいたコメントやブックマークコメントを受けて、色々お返事したりしようと思っていたのですが、量的に私の手に負えない感じなのと、色んな方が鋭い分析や示唆に富む発言をしてくださったりしてるので、あまり必要性を感じないと思っていますがどうでしょうか。
(いただいたコメントなどを見て、私自身が大体満足したからというのもあります)
なので、皆さんの刺激を受けて書きたいな、と改めて思ったことだけ書かせていただこうと思います。



■前回記事について

前半は、押井監督のリアリティをコントロールするという概念が面白いなあ、というメモ。
後半は、押井・宮崎両監督のキャラクターというか性質の違いを分かりやすく考えようとしたもの、という感じです。
個別の作品論や、作品全てを分析した総括というわけでもないので、そういうご期待に添えなくて申し訳ないです。

先日放送のNHK「崖の上のポニョ」密着番組を見たのですが、その中で宮崎監督が

「この映画見て、『波の上を走れるんじゃないか?』と子供が思ってくれたら、やったぜ、と思うね」

みたいなことを言ってましたね。
この発言などはまさしく、無茶をアニメーションの魅力で通す人ならではだと感じました。

押井監督の舞台もアニメですが、こういういかにもアニメらしい説得の仕方はしないです。
かといって「じゃあやっぱり押井監督はアニメじゃなくて実写やってればいいのに」というわけでも無い気がするんですよね。

アニメは言うなれば全て幻想で、背景からキャラから何から何まで全てをゼロから用意しなければ成り立たないのですが、逆に言えば用意したものには全て理由がある。必要なものと判断して選択したものだからです。
言わば画面にある要素は全て押井監督が選択したものであり、意図が反映されたもの。
その全ての要素をコントロールできるところが、アニメが押井監督に合っている、というか好みなんじゃないかな、と思うんですよね。
その結果、押井アニメは押井監督の意図やメッセージがすみずみまで盛り込まれていることになり、押井純度が限りなく高くなるのがたまらんのでしょうね。
実写は情報量が多すぎてコントロールしきれなかったり、その情報量がノイズになってしまうことさえありますから。(もちろんそれが魅力なんですけども)
押井実写映画を私はあまり見ないのですが、見てない「アヴァロン」なんかは実写をアニメ素材みたいにコントロールしようとした作品みたいなイメージがあるのですが、どうなんでしょう?

結局、宮崎、押井の両監督共に幻想であるアニメを作る以上は、いかにすばらしい嘘をつくか、という世界のお人だと思います。その意味では同じなんですよね。
いかにこの嘘に説得力を持たせて観客に見せるか、という所こそが大事なのであって、そのためのアプローチが違うからこそ対照的に見えて面白いんじゃないでしょうか。
宮崎世界がリアリティが低い、死なないとか、押井世界がリアリティ高い、死ぬ、ということではなく、見せたいモノのためにチョイスしている世界とやり方こそが面白いということですね。

宮崎駿

・すばらしいアニメーション(動き)で無茶に説得力を持たせる。そのクオリティは宮崎本人が担保する。
・このためキャラクターデザインを作品ごとに選ぶということはなく、どの作品も当然「宮崎キャラ」になる。
・「コナン」や「ラピュタ」でも人は死にますが、危機的状況で死んでしまう人々と生き残る主人公の差は(それは言ってしまえば配役の差なのですが)、画面上においては「主人公としての精神と行動」の結果である、というように見せている気がします。
・つまり前回記事でも言いましたが、少女を守ろうとする「意志の強さ」や「優しさ」、それを行動に移す「勇気」。それがある人間は死なない(死ぬべきじゃない)。ここが嘘部分。こういう人間はこうあって欲しいという嘘。
・そして、その嘘は宮崎のすばらしいアニメーションで説得される。「パズーえらい。すごい。がんばった。」すばらしい説得。喜んで説得されますよ私は。
・あと、ピンチを勇気をもってくぐり抜けようとする時、その行動は報われるという視聴者(子供たち)との見えない信頼があり、それを守っているイメージがあります。


押井守

・動きの説得力については、押井本人は担保できないし、しない。
・代わりに、脚本や絵コンテ、画面構成などのクオリティは担保する。
・キャラクターデザインも、作品ごとに表現したい世界を体現できるような説得力を持ったキャラクターを選択する。
・例えば、押井監督がパズーがピンチをくぐり抜ける場面を作るとして、その理由を「勇気と優しさに支えられた行動」のような精神的なものには決してしないだろうなあ(もっと色々理屈がつくはず)。
・街並みや銃器などのリアリティも、大きな嘘の説得力をもたせるために外堀を埋めているようなもんなんでしょうか(本人の趣味でもあるでしょうが)。
・別に押井監督に限らず、宮崎駿みたいな方法で動きの説得力を担保できない場合、それ以外の要素をきちんと固めて説得しようとするのが当たり前だし、それが冷静な判断な気がします。


私は「ポニョ」も「スカイ・クロラ」も見てませんし、作品ごとに色々例外もあると思いますが、両監督のキャラクター傾向として。
両監督ともやっぱり面白いですね。
個々の作品が、というか両監督が同じように好きです。

押井監督の制作スタンス辺りから、少し前に菅野よう子さんのインタビューで見かけた「富野監督は音楽も絵も信じてない」という話題につなげたりできないかな?と考えました。

菅野よう子:とにかく言葉がいっぱい、攻撃か弾幕のように出てくる方で(笑)、おまけに本人が音楽の力をまったく信じてない。多分、自分の言葉しか信じてない、全部台詞で言っちゃう。最初は「あ゛ぁ~! 」って感じでしたけど、「音楽も絵も信じてない人なんだ」って分かってからは大丈夫でした(笑)。


富野監督も押井監督と同じく、画や動きの説得力を本人が担保するわけではないので、やっぱり脚本(セリフ)や設定(世界観)、絵コンテなどを押さえることで自分の作品を作るタイプなんだろうと思います。
しかし押井監督以上に信用してないイメージがあるのは、元々の性質もあるでしょうが、虫プロの時代からありとあらゆる作品に参加してさまざまな体験をされていることが影響しているかも知れませんね。

視聴者に対して物語のクオリティを保証する方法として、自分がコントロールできる要素以外をあまり信用しない、という作り方を選んだ(選ばざるを得なかった)という部分があったのかも。
動画がひどいかも知れない、イメージに合う音楽がない、キャスティングに不安要素がある、安彦さんが倒れた、デザインや設定にノーを出された、などなど。
これまで体験した極限状況が、「信用しない(完全にコントロールしきれない要素には寄りかからない)」作品を生んでしまった一要素なのだとしたら、監督本人にとっても参加スタッフにとっても悲劇なのかも知れませんね。
でもそこで菅野さんみたいに監督に色んな意味で負けないような人が音楽の力を見せてくれれば、お互いのためにもそれでいいんでしょう。



■余談(富野由悠季の場合)について

富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。


上記について、何人かの方がコメントなどしてくださってましたが、前回記事はタイトル通り、宮崎押井の話題に絞ろうと思っていましたので、富野監督は最初からオチだけ担当していただこうと考えていました。
そのため、いくつかパターンは考えました。

絶体絶命
→女性が[かばう]コマンドで代わりに死んでくれる(ただし男性のみ有効)

絶体絶命
→そのとき、なんかが発動した。で、歴史が動いた!あとお腹の赤ちゃんも!

絶体絶命
→黙示録(皆殺しwith万有引力)


結局、2代目ロボ登場パターンを選びましたが、戦闘中に駆けつけるビルバインやZガンダム等が何とか該当するものの、(ご指摘のとおり)ピンチ脱出には直接関係ないパターンが多いですね。
この表現には「グレートマジンガー」登場が最もふさわしいというのはごもっともと思います。(特に劇場版「マジンガーZ対暗黒大将軍」)

「2代目ロボ」という言葉に集約させましたが、商品を次々に登場させないといけないさだめのTVアニメを色々工夫して作ってきたという意味だと思っていただければ。
スポンサーとの兼ね合いの中、ああいう作品を作る富野監督は(大変でしょうけども)とても素晴らしいと思っています。
イデオンのデザイン押し付けられて、105mの巨大遺跡にして乗り切ったのは本当にすごいですよね。

※トミノ愛について
用を足しに行くときに「どこへ行くの?」と問われて「トイレに行くと言っている」と答えるほどには富野監督、富野アニメ共に愛してますので、愛ゆえにオチに使わせていただいたことをご理解いただければ幸いです。
(「とってつけたオチ自体いらないだろ」とのご意見もあるかと思うのですが、何かオチが無いと不安で仕方ない悪い病気です)
富野アニメ記事はまた色々書いていきたいと思いますので、その際にまた考えたりすることにします。
高いビルから飛び降りたら、あなたは死にますか?
そりゃあ死にますよね。だってにんげんだもの(みつを)。


ではアニメやマンガの住人はどうでしょう?
現実と同じく死んでしまうお話もあれば、地面に人型に穴があいてギャグになって終わり、というのもありますね。
その違いって一体なんなの?

というようなお話。



こういった作品ごとに違うリアリティに対して、押井守は、
「作品のリアリティは、監督によってコントロールされるべきものだ」
とインタビューで話しておりました。
(出典はアニメスタイル2号の押井守インタビューですが、部屋のどこにあるのか見つからないので大意です)

ここでのリアリティとは、出てくるキャラクターや背景が写実的なのか、という画だけの問題でなく、演出などを含めた作品全体で表現されるリアリティをさします。
つまり高いビルから飛び降りたときに、キャラクターが死んでしまう作品なのか、ギャグで済む作品なのかは、監督がコントロールするものであるということですね。

押井守はインタビュー中で、自身が監督した「機動警察パトレイバー」を例に出していました。

例えば、2階からパトレイバーのキャラクターが飛び降りたとする。
その時に下に池があり水しぶきがあがるだけで<ケガをしない>のか。
それとも<ケガはするが次のシーンですっかり直る>のか。
それとも<現実どおりのケガをする>のか。

パトレイバーは展開されたメディアによってリアリティのレベルが微妙に違うものとしてコントロールされている、と。

ちなみにマンガとアニメのパトレイバーだと<ケガはするが次のシーンですっかり直る>ぐらいのリアリティかな?
<現実どおりのケガをする>のは、劇場版パトレイバーのリアリティになるでしょうか。
<ケガをしない>のは、パトレイバーのコメディ回でもありえますが、まあ、うる星やつらですかね。

つまり太田さんが同じように暴れても、アニメやマンガではケガをするぐらいで済む(でも次の回には治っている)けれど、劇場版では死んでしまうかもしれないわけですね。

■作品世界を体現するために選ばれるキャラクター

このインタビューで面白いなあ、と思ったのは、押井守にとって、まず作品で表現したいリアリティレベルの設定ありきで、キャラクターデザインの絵柄は、そのために選ばれるものだということです。

先のパトレイバーでいうなら、劇場版は明らかにアニメ版とは違うリアリティでリデザインされているし、映画「攻殻機動隊」では、主人公草薙素子を肉感的なリアリティのあるキャラクターデザインとし、原作士郎正宗のものから大きく変えました。
それは全て、作品で表現したいリアリティをキャラクターに体現してもらうため。
ビルから飛び降り、格闘し、大口径の銃をぶっ放すサイボーグ軍人女性の首が細いわけはない、肩が張っていないわけはない。
だから原作の士郎正宗がデザインした首の細い(いわゆる)マンガ的なキャラクターを使わなかった。
つまり、作品の方向性、必要なリアリティと密接な関係がある以上、キャラクターデザインは単純な絵の好み、良し悪しだけでは選べないということ。
こういう考えの元では、結果的にキャラクターデザインと作品世界のリアリティが一致し、「ずれ」は生じない。

そんな押井守監督作品では「うる星やつら」の諸星あたるも「攻殻機動隊」の草薙素子も、高い所から飛び降りても死なないキャラクターになっています。
しかし作品で設定されているリアリティが違うため、結果は同じでも理由は違う。
「うる星やつら」はそもそもキャラクターが死なない(ギャグで済む)リアリティレベルであるから。飛び降りても好きな子の名を叫べば夢から覚めて助かるような不思議SF世界といった方がいいでしょうか。
「攻殻機動隊」ではうる星と違い、キャラクターは死にます。トグサや荒巻ですら飛び降りたら死ぬでしょう。そんな世界で死なないために全身義体のサイボーグで、さらに頑強な肉体を持ったキャラクターにリデザインする必要があったわけです。
(無茶をするため道理を通すのが、リアリティの高い作品の制約であり、その言い訳の工夫こそが面白さとも言えるでしょうね)

制作側はまず表現したい世界ありき。そしてその世界の表現に適したキャラクターが選ばれる、という過程があるというのが面白いところです。
選ばれたキャラクターは作品世界を体現した存在ですので、デフォルメキャラ→ギャグ世界と、キャラクターを見ただけで世界を理解してもらえるようにしてるわけですね。
(この世界は物理法則や人体構造を無視してますよ、というメッセージですよね)
一方、視聴者は制作過程などすっ飛ばして作品をまず見ますから、リアルなキャラクターだからリアルな世界で、デフォルメキャラだからギャグ世界だと素直に感じるのですが、それはメッセージの受け取り方として間違ってないわけです。

ちなみに同インタビューでは、押井が、他のアニメ作品をさして、
「キャラクターと作品世界が一致していない作品が多すぎる」というようなことも言ってましたね。
具体的な作品名は一切あげていなかったけども、思い当たるフシは色々ある。
リアリティのないキャラクターでハードな生き死にバトルをしたり、萌え美少女たちがトラウマ博覧会して人生を語ったりするようなことを言ってるんじゃないかな。
私も未見のアニメ作品のキャラクターだけ見た後で、実際に作品を見て「え?中身はこんな話だったの?」と見かけとのギャップに驚いたことが何度もあったように思います。

さて、この「飛び降りてケガをするか、死ぬかどうか」というのは、あくまで「リアリティのコントロール」を説明するための例にすぎないのですが、この例を色々考えていくと面白いところにぶつかります。
なぜなら「飛び降りても絶対死なないアニメ」を作っている国民的アニメ監督がいるから。
もちろん宮崎さんちのハヤオ君のことです。

■飛び降りる宮崎駿

それは例えば宮崎アニメでよくあるこういうシーン。
高い塔やビルのてっぺんで、少年はとらわれの少女を助けるが敵に追い詰められる。逃げ場はない。
絶体絶命のピンチ。どうする?どうやってこの危機を乗り切る?

こんな時、宮崎アニメで少年はどうするか?………そう、正解は「勇気をもって飛び降りる」です。
少女をお姫様だっこして飛び降りる。飛び降り方は色々バリエーションあれど、とにかく飛び降りる。
少年は地面に着地し、体全体にしびれが走るが、両足をふんばり、少女と共に駆け出す。
まさに宮崎アニメだと毎度1回は必ずあるようなシーンですよね。特にコナン、カリ城、ラピュタが思い浮かびます。

でもこういった宮崎アニメの見せ場シーンも押井守に言わせるとこうなる。
「せっかく絶体絶命の危機のシーンを作ったのに、主人公の無茶で簡単に脱出されるんだったら脚本の意味が無いじゃないか」

↑これ、昔、何か古いアニメ評論の本で読んだ気がするのですが、手元にないので良く分かりません。(こういう場面でで「アニメであること」に逃げるからダメなんだ的なことも言ってたような気もします)

まあ、確かに飛び降りても大丈夫なようにあれこれ理屈をつけたり、夢世界にしたり、キャラクターすら変えた押井先生に対して、「我慢する」ですからねえ(笑)。

先ほどのリアリティコントロールの話と合わせて、2人の作家性の違いが見て取れて大変面白いですね。
私が感じるに、つまりこういうことじゃないかな。

宮崎駿

・絶体絶命のシーンをドキドキワクワクのダイナミックな動きで突破することこそアニメーションの楽しさと信じている。
・そうでなくて何がアニメーションなのか。飛び降りてケガをするキャラクターの物語は、リアルな肉体を持った実写でやればよい。
・無茶を通せば道理が引っ込むものだ。観客が「道理が引っ込んで当然」と思うほどの魅力的な動きを作ればよい。
・飛び降りた少年がケガするのはナンセンスで、ケガをするかどうかでなく、少女を守るために飛び降りる勇気があるか、少女の重さを歯を食いしばって耐えられるかどうか、そこが重要なところだ。それができる少年がケガするわけがない。


押井守

・絶対絶命のシーンは道理(脚本・構成レベル)でつくられる。ならばその解決も道理で行いたい。
・というか絶体絶命までの最悪のシナリオを登場人物たちが知恵を絞り、行動し、それを回避するような話が好き。(劇場版パト1なんか完全にそう)
・観客が危機回避を納得できるだけの理屈は必要なはずだ。そのためには、危機脱出のための伏線をはったり、駆け引きさせたり、言い訳をちゃんと作ろう。
・問題はその作品のリアリティレベルがどの程度か、ということだ。それに応じてシーンはつくられ、リアリティが守られる。
・最終的に飛び降りざるを得なくなったとしたら、飛び降りても助かる理屈を付けるし、その作品のリアリティレベルに応じてケガをさせるだろう。
・もしくは好きな子の名を叫べば夢から覚めればよい。夢の中ではリアリティは関係ないからどうとでもなる。
・夢から覚めた世界もまた夢の中でないとなぜ言い切れる?いや、まて。そもそもこの映画を見ている俺達の実存さえも疑わしい。いや、まて…(以下、永遠に続く)


乱暴にまとめれば「道理を壊して無茶を通す宮崎駿」「無茶をするため道理を通す押井守」といったところでしょうか。

この2人の違いは思想の違いもあるけれど、宮崎が絵を描くことができる監督であり、押井は絵を描くことができない監督であるという違いも大きく影響しているでしょうね。

宮崎駿の考え方こそアニメーションそのもの、とは言えると思います。ディズニーやトム&ジェリーなどにも通じる魅力ですね。
ただこれは宮崎駿本人が天才アニメーターであることで支えられている。ジブリ作品(紅の豚以降?)はしっかりした脚本がないそうで、脚本はアニメ作りながら作るし、アニメの都合でどんどん変えられていく。 (ジャッキー・チェンの映画の作り方と似ているなと思います)
究極的に言えば、自分だけでアニメが作れるから出来る方法です。

一方の押井守は絵が描けないので、当然絵は誰かに描いてもらうことになるわけです。
そうなると自分はそれを管理(コントロール)する側にならざるを得ない。
だから脚本、絵コンテ、画面構成を重視することになります。なぜなら、その部分さえしっかり握っていれば、誰が絵を描こうと、押井守の映画になるからです。
それらをさえてれば、自分の映画をれる=押井守。そうか、そこから来たネーミングか!(押井さんはキャラクターではありません)

私個人でいえば、絵心が無いことと、理詰めで理解しやすいことを考えると、押井守の考え方に感銘を覚えます。
(もちろん、宮崎駿「作品」は魅力的で大好きなのですが)

解決法の違いがそれぞれの監督の長所や魅力となっているので、どちらが正しいとかではなく、お互いが自分の信じる演出をするのが正しいのでしょうね。
それにしても対照的で面白いですね。

※余談
富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。
これじゃないですかね。やっぱり。スポンサーの枠組みの中で最大限の仕事をしてきた人としては。ピンチは新商品が登場するためにこそ存在する!

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