バトル(スポーツ)物の作品には、特に長編連載になれば、さまざまなキャラクターが登場します。
その多彩なキャラクターが織りなす数々の名勝負が、こうしたジャンルの魅力となるわけですが、とりわけ私は、登場人物間のパワーバランスや、高位キャラクターの「格」を落とさない表現について強い関心があります。

その物語世界で誰が強いのか?
誰かと誰かを比べたときに、どちらが上なのか?
勝敗が発生したときに、その理由をどう表現するのか?

こうした処理が巧みな作品が、個人的には好みです。

具体的な一例を出した方が、分かりやすいですね。

例えば「誰かと誰かを比べた時にどちらが上か?」「高位キャラクターの強さ(格)とは?」という意味で、私が聞いたことがあるのは、バスケットマンガの金字塔『スラムダンク』のこんな話。

海南大附属の王者・牧紳一は本当にすごいのか問題


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「作中随一の実力者であるはずの海南大附属の牧が、あまり強そうに見えない気がする」


牧 紳一(まき しんいち)は、17年連続インターハイ出場の王者、海南大附属高校の主将にして「神奈川No.1プレイヤー」。
作中では、特に一学年下の仙道が自分と同じ位置に登ってきているのを実感するシーンが印象的ですが、「打倒海南」「打倒牧」の面々の躍進に驚く場面も確かに多かったとは思います。


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これは、驚いてやんなっちゃった方の牧。

……ですから、「あまり凄そうに見えない」という気持ちは分からないではありません。
しかし牧紳一というキャラクターは、スラムダンク世界での実力を測る物差し(基準値)になっているのだろうと思います。

物差しと言っても、牧さん自身も日々精進してるわけで、静止した物差しではありません。
それでも牧に対してどこまでのプレイができるか。そして牧による人物の評価が、スラムダンク世界でのプレイヤー格付けになっていますし、それが「全国」への基準として機能しているはずです。

その前提で作中では、仙道や湘北の面々など、牧が同格または実力者であることを認めるプレイヤーが次々に登場していきます。
読者に対して、陵南や湘北もまた「全国」レベルの資格を持っていることに説得力をもたらしているのは、牧紳一の存在あってこそではないでしょうか。

あくまで牧にどこまで近づいたか、であって、限りなく距離をゼロに詰めたキャラクターはいても、結局、神奈川において、牧と海南を超えることはできていません。越えられたらそもそも基準の役割を果たせなくなります。
躍進するライバル達を抑え、無敗で全国行きを決めた牧と海南大附属は、神奈川の王者として結果を出していますし、だからこそ、キャラクターの格は保たれたまま、牧基準による評価も信用できるものとなっていると思います。

『スラムダンク』は、キャラクター間のパワーバランスや、高位キャラクターの「格」を落とさない表現について、複雑かつ巧みであると、個人的には評価しています。

この「作品内での物差し(基準)となるキャラクター」ですが、牧のように最大のライバルが担当するパターンの他には、主人公自身が担当するパターンも存在します。
その代表として、同じジャンプのスポーツマンガ『キャプテン翼』を見てみましょう。

『キャプテン翼』における1v1のタイマン勝負構造


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サッカーマンガの金字塔『キャプテン翼』。
ここでは最初の連載シリーズである『キャプテン翼』全37巻を対象にします。
いわゆる無印の『キャプ翼』です(なぜ無印に絞るのかは各自お察し下さい)。

この作品において、物差し(基準)キャラクターは、基本的には主人公である大空翼が担っています。

ですから強敵と戦う際には、まずは翼くんが1vs1の勝負を挑んで、あっさりと止められる。またはあっさりと抜かれる、といったような場面が多かったりします。

石崎「なにィ! 翼があっさり抜かれた!?」的なシーンですね。
基準である翼くんのプレーが通用しないことで、対戦するライバルキャラの実力を表現する手法です。

翼くんは攻撃的なポジションであり、守備の選手ではないので、サッカー的にはあっさり抜かれても別に何の不思議もないし、問題もありませんよね。
それでも作中で、衝撃を持って描かれるのは、これが現実のスポーツでのポジションや駆け引きの問題ではなく、マンガとしてのキャラクターの「格」勝負の描写だからです。

つまり、戦争のはじめにお互いの軍から代表を出して一騎打ちを行い、戦の勝敗を占うようなもの。

その文脈で見たとき、『キャプテン翼』はもちろんサッカーマンガなのですが、戦いの構造そのものは、伝統的な番長マンガや、ジャンプでいえば車田正美的なバトルマンガの系譜に近いと言えると思います。

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現実のサッカー場(ピッチ)は、本来はタテ・ヨコのある平面と高さが存在する立体的なフィールドですが、『キャプテン翼』のピッチはどちらかといえば、それを再現するよりも直線(リニア)として表現する方向に整理されていると考えます。

つまり、マンガと相性の良い、前後の関係が重要な直線的なフィールド。
進んでいくと敵が現れ、それを倒さないと基本的にはその後ろには行けない。
(迂回するには、当然複数人の協力が必要になる)

連載スタートは『翼』より後ですが、車田正美『聖闘士星矢』の十二宮突破をイメージしてもらうと分かりやすいでしょうか。

さらにいえばこれは、チーム競技でありながら、構造的に1vs1の連続によって展開する為に、マンガというメディアと大変相性が良いスポーツ「野球」の対決構造に近いと言えます。
(ということは同時に、野球マンガとバトルマンガは構造的に近いわけですが)



また、直線的なフィールドで勝負が発生し、それによりラインが上げ下げされる、と考えれば、実際のスポーツでいえば(ルールをあまり知らないが)「アメリカンフットボール」が近いのかも知れませんね。




ただし、そこで重要視されるのは、サッカーの技術や駆け引きというより、それらも含めたキャラクターの「格」そのもの。

作品の基準(物差し)キャラクターである翼は、味方チーム(南葛、全日本)の最強のエースカードでもあります。
その翼があっさり抜かれるような相手であれば、味方は同じように1vs1を挑んでいては誰も勝てない、ということになります。

全日本ディフェンス陣としては、松山、石崎、次藤、早田の4枚スタック(4枚重ね)で必殺シュートをブロックする他ありません。
通常のサッカーではありえないプレーですが、キャラクター格の勝負と考えれば、4枚スタックで少しでも期待値を上げるのは正しいプレーと言えます。

また、球技ではボールのあるところが視点として中心になります。
野球マンガが常にボールを手に持つピッチャーを中心にせざるを得ないことを考えれば、サッカーはボールの移動によって、視点を自由に変更できるバトルマンガともいえます。
中盤の攻防、サイドの攻防、ペナルティエリア内の攻防など、瞬間的なボール移動で戦場を自由に設定可能です。(野球は打球の発生により、視点を守備側、走塁側へスイッチできますが、サッカーほどの自由度はありません)

『キャプテン翼』は確かに現実のサッカーのような、スポーツマンガではありません。
反則になるプレイや物理法則を無視したプレイなど、荒唐無稽なプレイのオンパレードです。
そして今語ったように、そうした表面上のことだけでなく、構造の上でもむしろケンカや野球マンガに近いわけです。

正直、サッカーというスポーツへの理解度が格段に深まった現在から見れば、誰が見てもおかしい、という場面も多いでしょう。

ですが連載開始は、日本のワールドカップ出場どころかプロリーグさえない1981年。
現在とは比べ物にならないほど日本全体のサッカー知識もない時代に、しかも作者の高橋陽一先生は自身にサッカープレイヤーとしての経験もない状態で、サッカーをマンガとしてどう表現するか、かなり苦心したのではと想像します。

その結果、リニア(直線)を意識したフィールドとキャラクター格をぶつけ合うバトルという、ジャンプマンガらしいケンカ(バトル)構造や、同じスポーツの中でも野球マンガに近い構造を導入したのは、やはり偉大な発明だったと思います。

そのあたりを踏まえずに、現実のサッカー観からだけツッコミを入れるのはナンセンスかな、と個人的には思っています。(終始それで終わられても何一つ面白みがないので)

『キャプテン翼』での格の保ち方。強くありたければ試合に出るな


ちなみに、翼くんは主人公でありながら物差しキャラとしても使われるので、どうしても相手の力量を見せるための引き立て役にも良くなっています。いきなりあっさり抜かれたり、止められたり。

それでも主人公としての格が何とか保たれるのは、あきらめずに挑んで結局最後には翼くんが勝つからでしょう。
その為に、翼くんにはとにかくあきらめずにサッカーを楽しむメンタリティ(サッカー狂)と、相手の技を吸収(コピー)して、最後には相手を越えていく、というプレー特性が与えられています。
主人公として、そのキャラクター設定と最終的な勝利が約束されていなければ、普通は「格」は下がるはずです。

「強敵と手当たり次第に戦った上で格を保つ」というのは、それぐらい難しく、翼くんぐらいしかできない芸当ですが、「格」を高く保つためには他の方法もあります。
例えば、翼とは逆に「可能な限り勝負をしない」というのもその方法のひとつです。
この方法を実践しているキャラクターは『キャプテン翼』にもいます。誰でしょう?

……そう、それは全日本ジュニア見上監督の「源三を使います」でおなじみ、SGGK若林源三です。

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『キャプテン翼』(無印)全37巻では、若林がゴールキーパーとして、まともに描かれる形で出場した試合は、修哲対抗戦、小学校決勝、ユース決勝のわずかに3試合のみです。37巻で3試合。それでSGGK(スーパーグレートゴールキーパー)の称号を得ています。

ケガでお休みの若林君の代わりに、皆さん大好き森崎君がゴールマウスを守ることになるわけですが、彼がたくさんゴールを決められてしまうことで、翼がそれ以上の点を取らないと勝てない、というのが試合展開の基本になりました。

つまりかなり初期から、試合展開をロースコアでなくハイスコアゲームにするという方針が決まっていたのであろうと推測されます。
実際に現実のサッカーを見ていると、0-0スコアレスドローでも面白い試合というものはありますが、派手な点の取り合いを選んだのは、当時の判断として正しいと思います。
若林が守れば、どうしても味方の失点が少なくなり、それと同時に翼の得点も少なくなるわけですから。

だから、森崎をキーパーにしておいて、次々と出てくるライバルが多彩な技でゴールを決める。森崎くん一歩も動けない。インディアン嘘つかない。
そして翼がそれ以上の数のゴールを決めて勝つ、という派手な試合をつくることができたわけですね。
Jリーグもなく世界のサッカーも身近でなかった当時としては、やはり少年ジャンプ連載マンガとして正しい選択だと思います。

若林はいわば派手なゲーム展開に邪魔であるがゆえに極端に温存されたわけですが、そのことが彼自身のキャラクターの格を保つことにもつながりました。

いずれの決勝戦も、両チームとも名キーパーを置いた(キャプ翼的には)ロースコアゲームになりましたが、若林の格を下げていないのがここで効いており、両チームともに「いかにして難攻不落なキーパーからゴールを奪うか」というテーマの良い試合になっています。

『キャプテン翼』についてはまだまだ色々書くことがあるのですが、無印以後、わー、という展開になっていくので、ひとまず今宵はここまでに致しとうございます。



『機動戦士ガンダム』(ファースト)における絶妙なパワーバランス


『キャプテン翼』の話が予想以上に膨らんだので、これで終わってもいいんですが、本ブログのメインコンテンツは「富野アニメ」なので、それを期待したお客様向けのお話もしておきましょう。
本当はいつかしっかりと独立した記事でやるつもりでしたが、短めのテスト版のつもりで。

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『機動戦士ガンダム』いわゆるファーストガンダムもまた、全編を通してのパワーバランスの取り方が見事な作品です。

この作品での物差し(基準)キャラクターはご存知、「シャア大佐 ご覧のとおり 変態だ」の句で有名なジオン軍のエース赤い彗星のシャア
ただロボットアニメですので、キャラクターだけではなく、搭乗するモビルスーツと合わせた状態(ユニット)でバランスを見ていくことになります。

物語初期 最強パイロットvs最強モビルスーツ


最初は皆さんご存知、【シャア+ザク】 vs 【アムロ+ガンダム】 の構図で始まります。



これは、最強パイロット(シャア)とザクの組み合わせに対して、素人パイロット(アムロ)+最強モビルスーツ(ガンダム)でバランスを取った形です。

連邦のモビルスーツは化物か、でおなじみのRX-78 ガンダムは、戦艦並のビームライフルを持った最強のモビルスーツです。
ザクなど直撃すればひとたまりもありませんが、当たらなければどうということはない。蝶のように舞い、蜂のように刺す、ルンバを踊れルンバを、ということで、赤い彗星シャアにその攻撃は当たりません(部下のザクには当たります)。

一方、シャアザクからの蜂のような攻撃も受けても、ガンダムは平気です。
ガンダムは、ちょっとやそっとで傷つかないスーパーロボットですから。

敵味方通じてずば抜けたシャアの手練ぶりと、そのシャアでも直撃すれば終わりの攻撃力と、シャアでも落としきれない防御力を持つガンダムの化物ぶりが共に強調される構図になっています。

この「アムロの攻撃はシャアに当たらない。シャアの攻撃は当たっても致命傷にならない」
という初期状態を良く覚えておいて下さい。

この時点でただの素人であるアムロが死なずに済んでいるのは、完全にガンダムの機体性能のおかげですが、ここから徐々にアムロ自身がパイロットとして成長していきます。

物語前半 シャアお休み期間のアムロの成長


アムロが徐々にガンダムに慣れていく中で、シャアは左遷され、ガンダムの前から姿を消してしまいます。
変わって登場してくるのが、ランバ・ラルや黒い三連星など新たな敵。

アムロの成長で、 【アムロ+ガンダム】 のユニットは総合力を増していきますが、ジオン軍が次々と新型のモビルスーツを導入することで、戦闘バランスが調整されています。

【ランバ・ラル+グフ】のユニット。ザクとは違う新型。



【黒い三連星+ドム】のユニット。新型に加え、レツゴー三匹のコンビネーション。
「ガイアでーす」「マッシュでーす」「……ミデア春夫でございます」←オルテガハンマーという伝統芸。



いずれも手練のパイロットに加え、新型のモビルスーツに、アムロは苦戦を余儀なくされます。
つまり「アムロのパイロットとしての成長」に対しての「より強力な新型モビルスーツ」。
この2つが大きく変化するメインのパラメータ。

ただランバ・ラルが言うように、彼と戦った時点ではまだガンダムの機体性能で勝っていた部分も大きかったのでしょう。
実際、ガンダムの機体の方にも、化物的なスペックの他に、成長型コンピュータだのサポートメカだのありますが、成長も運用もアムロによるものですし、不自然なほどの急成長を遂げる主人公ですから、大きな変動はアムロ自身によるもの、と言っていいでしょう。

次々現れる新型モビルスーツに苦戦しながら対応していく(対応できてしまう)アムロ。
これにより、いつも画面にはハラハラ・ドキドキの熱戦が繰り広げられたわけです。

シャアの左遷とその復活は、物語全体のパワーバランス調整として意図されたものではありませんが、結果的にこれはシャアにとっては幸いしたと思われます。

アムロの快進撃に対して必然的に求められる負け役、つまりガイアの言う所の踏み台の役割を他に任せることができた為です。
もしもお休みなしの出ずっぱりであれば、出撃しては不利になって撤退するという、『Zガンダム』におけるジェリドのようなキャラクターにも成りかねません。

自分に得がないならいっそ戦わない(出演しない)方が良い。
これはつまりSGGK若林君と同じキャラクター格の維持テクニック。
ここで出演がなかったことは、シャアにとって幸運であったといえるでしょう。

物語中盤 復活のシャアと互角の戦い


シャアはジャブロー攻防戦にて、再びアムロの前に姿を現します。

アムロもかなり成長をしています。当然、シャアザクではバランスが取れません。
ジャブロー基地潜入の為もあって、シャア専用ズゴックに乗っての登場です。

シルエット的にスマートとはいえないデザインの水陸両用モビルスーツですが、早速すばやい動きからのジムへの一撃で、他と違うことを見せつけます。アムロは確信します。シャアが、赤い彗星が帰ってきたと。
このシーンは、パイロットであるシャアと共に、ズゴックというモビルスーツが最高に格好良いものとして高められた瞬間です(特にTV版)。

このジャブローでの 【アムロ+ガンダム】 vs 【シャア+ズゴック】 あたりの戦いが、ユニットとして、シャアとアムロの強さの均衡が取れている時期ではないかと、個人的には思います。

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最終的に損傷を受けてシャアのズゴックは撤退しますが、戦闘の内容自体は一進一退、双方お見事といえるものになっているのではないでしょうか。

問題は、シャアとアムロがこの時点で互角だとしても、物語はまだまだ中盤であることです。
中盤にして、すでにアムロはシャアに追いついてしまいました。さらにここからバランスはアムロ側に傾いていきます。

物語後半 ニュータイプを止められるのはニュータイプ


再度、宇宙に上がって後半戦へ。
アムロはさらに熟練し、ニュータイプへの覚醒が進みます。

【アムロ+ガンダム】 vs 【シャア+ゲルググ】 あたりになってくると、シャアは乗機のレベルをゲルググにまで上げていますが、それでもアムロの方が優勢をとってしまう、という状態に突入してしまいます。



あの赤い彗星が新型機ゲルググに乗ってすら、ガンダムを止められない。
いや、ガンダムの機体は基本的には変わっていないわけですから、止められないのはアムロなのです。

ただこれは恐らく構成どおりの展開で、要するに目覚めたニュータイプを止めるには、同じくニュータイプが必要だ、という展開に移行していきます。

この段階でのシャアは、シャリア・ブル、ララァなどニュータイプと比較される対象となっています。
赤い彗星として、この物語の基準であり物差しであったシャア・アズナブルの前に、「ニュータイプ」というこれまでになかった存在が登場し、これまでとは全く違う、新しい価値基準が提示されていく。

ニュータイプに勝てるのはニュータイプだけ。縮退炉に勝てるのも縮退炉だけ。
そこには赤い彗星のこれまでの輝かしい経歴も無意味なのです。
ほんの少し前まで軍と縁のなかったララァに「大佐、どいてください、邪魔です」と言われる展開など、誰が想像したでしょう。

一方、そのニュータイプであるアムロはさらに成長を続けます。
ついには彼の成長にガンダムの機体性能がついていけなくなり、マグネットコーティングを施して、ようやくアムロに適応できるようになります。物語前半と違い、完全にアムロがガンダムを従える形になっており、主従が逆転しています。

戦いの構図は、 【アムロ+ガンダム】 vs 【ララァ+エルメス】 に変わり、ここでシャアが割って入ったことで、宇宙世紀最大の悲劇が生まれます。

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序盤を見ていた頃には想像すらしていなかった。
アムロとララァの戦いの蚊帳の外に置かれ、小さな嫉妬から介入するも、ララァが生命を賭してかばわなければ簡単に死んでいた存在。
物語のはじめに強さの基準にもなったキャラクターが、まさかそんな存在になるなんて。
でも強さの基準だったからこそ、シャアをこの状態に落とす必要はあったといえましょう。
それは最終決戦において明らかになります。

物語最終局面 一撃死ビームが当たらない


そして迎えた最終局面。

シャアは未完成で未テストながらも強力なモビルスーツ、ジオングを手に入れます。
これにて戦いは最終構図、 【アムロ+ガンダム】 vs 【シャア+ジオング】 となります。



シャアは乗機をさらにグレードアップさせ、オールレンジ攻撃とガンダムと言えど直撃させれば一撃で葬れるほど強力なビームを手に入れました。
物語初期においてシャアザクでどれだけ直撃させても、ガンダムを落としきれなかったことを考えれば、ジオン(シャア)側のパラメータ変動値である「モビルスーツ性能と攻撃力」がいかに増大したのか分かりますね。

と・こ・ろ・が。
シャアが直撃でガンダム倒せるビームを手に入れた時には、アムロにはその攻撃自体が全く当たらなくなっているのでした。
ガンダム側の変動パラメータである「アムロのパイロット能力」は、ニュータイプとしての覚醒も加えて、こちらもとんでもないことになっており、オールレンジ攻撃だろうが、強力なビームだろうが、滅多なことでは当たりません。

つまり、攻撃力のインフレに対して、回避力の上昇でバランスが調整されていることで、最後までどうなるか分からない戦闘バランスが維持されています。

そしてガンダムvsジオングの戦闘結果は、皆さんご存知のとおり。
ジオングが強力なビームで、ガンダムの頭部、片腕の破壊には成功したものの、撃墜には至らず。
ガンダムはオールレンジ攻撃をくぐり抜け、ジオングを撃墜しています。

ジオングヘッドでかろうじて脱出したものの、無人オートのガンダムにラストシューティングを食らうので、ジオングはパイロット・アムロとモビルスーツ・ガンダム、それぞれに1度ずつ合計2度撃破されたと言ってもいいかも知れません。

余談 第42話ラストのナレーションについて


さて、ここから意図的に少し脱線しますが、この最終決戦に関しては、第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」ラストで、シャアの心情を説明するナレーションが入るのが印象的です。

ナレーション(永井一郎さん)「シャアは激しい焦りを感じ始めていた。ニュータイプ用に開発されたこのジオングのパワーを最大限に発揮できぬ自分に。あのガンダムのパイロットは今確実に自分を追い込んでいる」


最終決戦の主人公とライバルとの戦闘中に、ライバル側が押されて激しい焦りを感じている、とナレーション說明するなど、普通のアニメであればありえません。
しかも次回である最終回を見て分かるとおり、ここからシャアが逆転するわけではなく、ナレーション通りにジオングを最大限生かせないシャアは、アムロに追い込まれて、そのまま撃墜されています。

つまりシャアは、ロボットバトルにおけるラスボスでありながら、「弱者」として、ナレーションで心情を吐露されているわけです。なぜこのような事をするのか。

個人的に考えるに、これは要するにシャアが「人間」であるという說明(表明)であろうと思っています。
弱くて、焦ってしまって、どうしよう?このままだとやられちゃうよ!と考える、ごく普通の人間の心理です。これには、私たちも自然に共感できるはずです。

では「人間」シャアは、何と戦ってこんなに不安がっているのか。追い詰められているのか。
それはもちろん恐ろしく強い「ニュータイプ」アムロです。物語の主人公です。

しかし、ナレーションが心情を語り、心を寄せる対象は主人公アムロではなく、シャア・アズナブル。
この場面において、私たち視聴者も「人間」シャアをより身近な存在として感じ、「ニュータイプ」アムロとはそれより距離を感じているのではないでしょうか。
なぜなら、見ている私たちもシャアと同じ「人間」にすぎないのだから。

ガンダムに乗ってシャアを追い詰めていくアムロは完全に「ニュータイプ」であり、普通の人間の世界というよりニュータイプの世界、いわばララァの領域により近いところにいる。

この後アムロは、ガンダムという機体を失って、シャアにザビ家打倒の目的をスイッチし、ホワイトベースクルーの「脱出」をサポートし、己自身の「脱出」を探る中で、アムロは「人間」に近づいていく。ララァの所へ行くことをやめ、ホワイトベースの仲間達の元へ戻ることを決意する。

最終話のサブタイトル「脱出」は、アムロが人であらざる領域、ララァの住まうところから脱出し、「人間」の世界へ帰還する、という意味にも考えられるのかも知れない。
宇宙要塞ア・バオア・クーという胎内の中で、甘美なララァの母性に閉じ込められるよりも、辛いことが待っていようと外の世界へ飛び出した方がいい。幸せなことに自分を呼んでくれる仲間もいる。

それは胎内からの脱出であり、これまでの自分の死と再生であり、アムロにとっての新たなバースデー(誕生日)でもある。
この時、コアファイターの風防を鉄板で覆い、外の世界が見えない状態になっていたのも象徴的だ。
(ちなみに、シャアは『逆襲のシャア』においてサザビーの脱出コクピットでこれと同じ状態を体験する)

これを踏まえると、シャアの焦りを語るあのナレーションは、「人間」vs「ニュータイプ」の構図をはっきりさせ、かつ視聴者の心情をむしろシャアに寄せ、アムロとの距離を感じさせるような効果があったのではないか。

だからこそ次回最終話「脱出」で、アムロが(私たちと同じ)人間の世界に帰ってきてくれたことを、その選択をしてくれたことを、より感動的なものにするのではないだろうか。

なので、色々問題があったとしても、やはり劇場版よりTV版が私のベースであり、いちばん好きなのです。

まとめ 全編に渡るバランス調整と新しい価値観の提示


さて、意図的とはいえ思い切り脱線しましたので、話を戻しましょう。

『機動戦士ガンダム』全体の戦闘バランスを見てきたわけですが、アムロの成長曲線に合わせた、新型モビルスーツの登場によって、最後までゲームバランスが調節されていたのがお分かり頂けたのではないかと思います。
ポイントはどちらかが完全有利というわけではなく、常に緊張感とワクワク感のある戦闘バランスをキープすること。

『機動戦士ガンダム』の場合は、さらに「ニュータイプ」という概念によって、これまでの価値観を崩しており、つい先日まで戦いに縁のなかった少女が、赤い彗星を邪魔な足手まとい扱いするようなパラダイムシフトが発生しています。

その中でニュータイプとして強すぎる力を持つアムロは戦場では無敵でも、一個人としては先鋭、孤立化していく。
覚醒していくにつれ、従来のロボットアニメで発生するようなピンチをくぐり抜けてしまうアムロ。

例えばマ・クベとのテキサスコロニーでの攻防。
マ・クベは周到な罠を仕掛けて、ガンダムを攻撃し、また誘導しますが、消耗こそするものの致命的なダメージを負うことなく、マ・クベのギャンの前に立っています。(この時点でマ・クベの敗北確定)

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従来のロボットアニメであれば、マ・クベのやり方は十分知的でいやらしく、主人公のピンチとして成立するものでしょう。
実際、物語前半にはマ・クベの策によって、ホワイトベースは大ダメージを受けています。
ですが、テキサスコロニーの頃には『機動戦士ガンダム』の物語はすでに変わっていました。
マ・クベの作戦を、アムロはただただ小賢しいものとしてしか感じなかった。
これはある種の象徴的なものだと考えても良いと思います。

とはいえ、ニュータイプは神様ではありませんので、アムロにピンチが訪れていないわけではありません。
例えば、物語終盤におけるアムロ最大のピンチは、ララァに「なぜあなたはこうも戦えるの?あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」と言われた時でしょう。
アムロの存在と、そしてこれまでの戦いを根本から揺るがす攻撃です。
戦場で敵なしのアムロは、これに対して「だ、だから、どうだって言うんだ?」としか反論できませんでした……。

ここまで書いた『機動戦士ガンダム』の戦闘バランスについては、アムロの成長曲線や、ジオンモビルスーツのグレードアップ、パイロット+MS=ユニットの戦闘指数なんかをビジュアル化して、分かりやすくすれば、独立した記事として面白いものになると思っています。
(いつか、時が熟したら……人の革新を私は待つ)





ということで、ガンダムの話になると色々脱線するおかげで、何の話か分からないような感じになってしまいましたが、バトル(スポーツ)物におけるパワーバランスと、キャラクターが持つ「格」のコントロールのお話でした。

安易な方法として、高位とされるキャラクターをボコボコに負かせば、ぽっと出のキャラクターでも「強い」という表現には一応なります。しかし単純にそれをやるのは下策中の下策であり、上手な創作者ほどそれをもっと巧みに、誰の「格」も落とさないような形で表現できます。
そういう方が私は好みですね。

このテーマは色々切り口が考えられますので、また機会があれば書いてみたいと思います。

また、すでに書いた過去の記事で、このテーマにつながるものもあります。

例えば『逆襲のシャア』における、νガンダムとサザビーの死闘について。誰もが名勝負と認める戦いですが、結果はアムロの圧勝です。シャアの格を出来るだけ落とさずにその結果にするためにはどういう工夫が必要でしょうか?

サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

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もうひとつ。『キャプテン翼』のバトル構造が、1vs1を基本としたものであり、格闘(ケンカ)ものや、野球に構造が近い、という話をしましたが、その中で野球というスポーツが持つ物語上での機能を検討した記事。

スポーツが生み出す「筋書きのあるドラマ」<「野球」と「サッカー」、物語機能の比較メモ>

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あとは……くっ! ガッツが たりない。

私が一番好きなキャプ翼ゲーム技は、岬のムーンサルトパスカットです。
それではまたお会いしましょう。

「永遠のフォウ」は耐えられるが、「ロザミアの中で」は耐えられない。


これは私が『機動戦士Zガンダム』を見て以来、長年思っていることであり、ブログやTwitterなどでも何度か書いていることでもあります。

「永遠のフォウ」とは、『機動戦士Zガンダム』第36話のサブタイトル。
この回で、ティターンズの強化人間であるフォウ・ムラサメという少女が、敵である主人公カミーユ・ビダンをかばって戦死します。
これ以前のニューホンコン編においてカミーユとフォウは出会い、彼にとって特別な女の子となりました。
彼に与えた影響の大きさを考えるならば、この作品のメインヒロインと言っても過言ではないでしょう。

もう一方の「ロザミアの中で」も、同じく第48話のサブタイトル。
この回では、ティターンズの強化人間であるロザミア・バダムという少女が、命を落とします。
ただし、フォウとは違い、カミーユ自身の手によってそれはなされます。




今回は、フォウ・ムラサメとロザミア・バダム、2人の強化人間と、カミーユとの関係を追いながら、なぜ「ロザミアの中で」が私にとって耐え難いものなのかをお伝えしたいと思います。




フォウ・ムラサメとは何だったのか


今回の主役はロザミア・バダムですが、ロザミアの事を語るには、フォウの事も語る必要があります。

フォウ・ムラサメについては以前、記事を書きました。

シンデレラ・カミーユは、地球で過去と対峙する<『機動戦士Zガンダム』挿入歌「銀色ドレス」とフォウ・ムラサメとの出会い>

この記事から、ロザミアを語る上での前提として要点だけを取り出して、かんたんにまとめておきましょう。(詳細を知りたい場合は、記事本文をご確認ください)

  • 『機動戦士Zガンダム』第11~20話「地球編」で、カミーユは様々な「過去」との対峙を迫られる。
  • ニューホンコンで出会ったフォウ・ムラサメもその一人。彼女は「過去に生きる少女」である。
  • 未来に生きようとするカミーユと、過去に生きるフォウの心は哀しくすれちがう。
  • 最終的にカミーユはそのフォウによって、自分の名前(過去の自分)を肯定する事ができた。
  • カミーユを宇宙に送り出し、フォウの役割は終わる。(一度目の死)
  • キリマンジャロでのフォウ再登場はまさに殺すためだけのもの。(二度目の死)
  • その死により、カミーユにとって過去でも未来でもなく「永遠のフォウ」という存在になってしまう。

ニューホンコンでのフォウとの別れは、場面としてはせつないものですが、カミーユに与えた影響としてはあくまでポジティブなもの。
少女からの承認を通して、地球編ラスボスである自分の過去(名前)を肯定できるようになっています。
第1話においてジェリドの一言で見境なくキレるカミーユとは、もうこの時点で決別していると言っていいでしょう。

しかしキリマンジャロでの出会いと別れは違います。
カミーユが受けたのは哀しみと絶望だけ。そしてその絶望は、フォウによってのみもたらされたわけではないのです。

「永遠のフォウ」という儀式


「永遠のフォウ」は、一度死んだフォウ・ムラサメをわざわざ再登場させて、もう一度殺すという、何かの儀式のような回です。
新訳こと劇場版『Zガンダム』で丸々カットできるぐらいに物語的には大して意味がないパートです。
フォウの役割はニューホンコンで終わっており、そこでの死別で何も問題はありません。劇場版もそう処理しています。

ただフォウ再登場に物語的な意味はないが、まさに儀式という意味だけはあったような気がしています。
なぜなら、TV版『Zガンダム』でカミーユが最終的に迎える過酷な運命――その運命に向かう不可逆の分岐点が、この「永遠のフォウ」であると思うからです。

これを確認するためにキリマンジャロ編がどのような回か思い出してみましょう。

フォウを再登場させ、再度殺すのをある種の「儀式」であると表現しましたが、この儀式の立会人が、クワトロ・バジーナ(シャア)とアムロ・レイであったことが重要です。

「軍に利用されたニュータイプ少女」を救おうとするカミーユに対して、この2人の大人は何もしてやることが出来ません。

以前より何度か書いていますが、富野ガンダムにおいて、巨大モビルアーマーは不安定な少女たちが籠城する心の城。
四方八方に乱れ飛ぶ拡散メガ粒子砲の光は、少女たちが泣き叫ぶ涙です。
さらに強化が進められたフォウは幻の過去を求め、地上から、サイコガンダムから離れることができない。

結局、この回のコメディリリーフでしかなかったジェリドが、それが周到な前フリであったかのように冗談にならない攻撃を放ち、それをフォウのサイコガンダムが(なぜか)頭部でかばうことによって、カミーユはフォウを永遠に喪いました。
経験としては、かばわれることでララァを喪ったシャアに近い状況でしょうか。

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フォウの亡骸を抱いて泣くカミーユを見ながら、直接の先輩とも言える2人の大人は

アムロ「人は、同じ過ちを繰り返す……。全く!」
シャア「同じか……」


などと、神妙な顔でもっともらしい事を言っているだけ。

この悲劇の立会人に、わざわざシャアとアムロが選ばれたのは、彼らがかつて「軍に利用されたニュータイプ少女」を巡って「過ち」を経験した当事者だからでしょう。

自分たちが死ぬ瞬間まで後悔し続けるその「過ち」の経験者であるにも関わらず、彼らはカミーユに大人の顔して「深入りはよせ」などと言うばかりで、結局、過去の自分達(カミーユとフォウ)を救うことができず、「同じ過ち」を再生産してしまいました。

ちなみにシャアとアムロは、この時代のさらに後、『逆襲のシャア』におけるクェス・パラヤのケースで、さらにニュータイプ少女をみすみす死なせているので、本当に「同じ過ち」を何度も繰り返しています。なんどめだナウシカ。

「永遠のフォウ」は、先に述べたように物語的な意味はほぼありません。
しかし、フォウを永遠に喪ったというだけでなく、アムロとシャアが立会い、さらにそれに対して無力で、「過ち」の再生産を繰り返した(彼らもそれを認めている)というのが象徴的で、これこそがひとつの絶望の儀式であろうと思います。

カミーユはフォウの亡骸を抱いたまま動かない。キリマンジャロ基地の爆発が始まる。

クワトロ「カミーユ。かわいそうだが、君はまだ死ねない身体だ」


と、クワトロとアムロは、カミーユを抱えて戦場を後にする。
結果論に過ぎないが、「かわいそうだが、君はまだ死ねない」というのは、カミーユにとって本当に残酷なセリフだと思う。

ちなみにカミーユがキリマンジャロに降り立ったのは、クワトロの百式が敵の攻撃により予定外に大気圏に落ち始めたのを救出した為で、これも結果から見れば、クワトロの命を救って、代わりにフォウを喪ったとも言えるでしょう。
そんな男が、偽名に偽名を重ねて、本来背負うべき役割から今も逃げ続けている。

この回は、カミーユとクワトロの以下のやりとりで幕を閉じます。

カミーユ「僕はもう、あなたのことをクワトロ大尉とは呼びませんよ。あなたはシャア・アズナブルに戻らなくてはいけないんです」
クワトロ「そうだな、カミーユ」



ロザミア・バダムという妹


フォウを喪ったあと、再度宇宙に上がったカミーユの前に、ロザミア・バダムが現れます。
前半にも登場していますが、フォウと同じ強化人間として、カミーユを兄と思い込むよう洗脳されての再登場。
本記事のメインですし、ちょっと以前書いたロザミアの紹介をリライトして掲載しておきましょう。

地球連邦軍のオーガスタ研究所で調整を受けた強化人間。精神調整と共に体も強化されている。一年戦争時のコロニー落としが精神に大きな傷を残しており、ティターンズはそこを利用しエゥーゴを敵と思わせるようローレン・ナカモトに精神操作させた。(Wikipedia:ロザミア・バダム


ロザミアは17歳という設定だそうだ。カミーユと同年齢ということになるだろうか。
私はイメージでなんとなく24歳ぐらいだと思っていた。劇中でカミーユの妹にしては老け顔だ、姉に見える、といった感じのやりとりがあったせいかも知れない。

明らかに20歳すぎである女性が、記憶操作によって年下のカミーユを「お兄ちゃん」と呼ばされる、という方が、いとしさとせつなさとグロテスクさとが高まって良いと思うので、今後も私の中では24歳ぐらいのイメージにしておこうと思う。

このあとさらに記憶を操られ、カミーユでなくティターンズパイロットのゲーツ・キャパを兄と思い込まされるので、いわば三段階で精神が変質させられたキャラクターと言えるだろう。

兄役のゲーツ・キャパを演じるのが矢尾一樹というところが味わい深い。
後番組である『機動戦士ガンダムZZ』において、彼はジュドー・アーシタという宇宙世紀最強の兄を演じることになる。

話をロザミアに戻す。
ロザミアは「突然現れた押しかけ美人妹(血縁なし)」という、とんでもないキャラクターでカミーユに接近します。
しかし、「そんな都合のいい人間がこの世にいるわけないだろ。いるとすれば軍に記憶操作された強化人間であり、スパイだ」というのが、富野アニメ的な世界観でございます。

とはいえ、オタク的な願望をハードな設定で皮肉っているわけではなく、結局の所どう理由をつけても、都合よく悲劇の少女を消費してしまうことについての言い訳であり、少女の本意でなく、背後に悪い大人(作品の中にも、作品の外=制作者にも)がいるせいだと、少女の罪を免責するための仕組みであったろうと私は思っています。
大人としての狡さと誠実さと。

そのあたりの事は「洗脳少女」という切り口で過去に記事を書いていますので、興味があればご覧下さい。

だから少女は、毎度コントロールされる。<富野アニメ 洗脳少女の系譜>

でも、この翌年に「押しかけ妹(血縁なし)」を本多知恵子声でやるのが、さらにえげつない。


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ロザミア=記憶を手に入れたフォウ


フォウ・ムラサメは過去の記憶に囚われ、カミーユの「宇宙へ行って、エゥーゴの技術で記憶を取り戻そう」という誘いも拒絶し、地上から、サイコガンダムから離れられずに、宇宙に上がることのないまま生を終えました。

一方ロザミアは、家族に関する偽の記憶を植え付けられ、さらにはカミーユを兄と思い込ませることによって、宇宙へ上がり、カミーユとの再会を果たしています。

そう考えればロザミアは、「記憶を手に入れて宇宙に上がったフォウ」といえるのかも知れません。
もちろん、その記憶はティターンズが人工的に植え付けたものに過ぎないのですが。

ただ「宇宙へ行って、エゥーゴの技術で記憶を取り戻そう」と主張していたカミーユだって、そこに何の保証もあったわけではありません。事実アーガマでは、ロザミアを精密検査しても強化人間であることが分かった程度で、特に何も対策が打てていません。

例えば、カミーユがフォウを救出し、宇宙へ連れ出したとする。そこでエゥーゴの医療スタッフや研究者に「無い記憶を取り戻すことは出来ない。精神を安定させるために、ニセの記憶を植え付けるしか手はない」などと言われたとしたら、どうするだろう?
それは、悪意と善意、異なるベースとは言え、本質的にティターンズがロザミアにした事と何が異なるだろうか。

これはあくまで意地悪な仮定に過ぎないが、ロザミアが、フォウ・ムラサメのありえた可能性のひとつである事は確かでしょう。

第47話「宇宙の渦」での体験


ロザミアは精神不安定の中で、結局アーガマを去り、第48話「ロザミアの中で」で、敵として再びカミーユの前に現れます。

その前にまず抑えておくべきは、前回が第47話「宇宙の渦」であることです。
この回では、ハマーンのキュベレイとカミーユのZガンダムは、戦闘中に精神が共鳴して、深いレベルでつながります。
ララァとアムロの再現のようなシーンですが、ニュータイプであるハマーン本人が、カミーユを拒絶してすることで終わります。

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カミーユ「僕は、チャンスがあったのにハマーンを殺せませんでした」
クワトロ「気にするな。それは私の役目だったのだろう」


カミーユはこの体験を通して、つながった相手であるハマーンを殺せなかった事を悔み、それをクワトロが適当な事を言ってなだめて、「宇宙の渦」の回は終了します。

適当な事というか、クワトロの責任という意味では真理ではあるのですが。
根本的にクワトロいやシャアの責任である、という記事を以前書きましたので、興味のある方はどうぞ。(こうして見ると、ちゃんと要所の記事は書いてるんだな。えらい)

僕達は分かり合えないから、それを分かり合う。<『機動戦士ガンダム』シャアとハマーンのニュータイプ因果論>

ニュータイプ同士に精神の深いところでつながる能力があったとしても、それと分かり合えるかどうかは全くの別。
それでは、ニュータイプが持つ力とは、ニュータイプに出来ることとは一体なんなのか。

それを抱えたままカミーユは第48話「ロザミアの中で」を迎えます。

ロザミアの中でカミーユが見たもの


第48話の冒頭で、カミーユはブライト、クワトロとこのような会話を交わします。

カミーユ「もし、このままアクシズがグラナダに落ちたら、僕の責任です。僕がハマーンを殺せなかったから」
クワトロ「ハマーンが死んでもアクシズは落ちていた。気にするな。キュベレイを動けないようにしただけでも、カミーユは十分やった」
カミーユ「でも、モビルスーツは直せます。ハマーンは、倒せば……直せないんだ」
ブライト「カミーユ、いつからそんな苦労性になった?」
カミーユ「苦労してますからね」
ブライト「アクシズの方は任せておけ。カミーユは少し休んでいろ。いつモビルスーツ戦になるかもしれないんだからな」
カミーユ「はい」
クワトロ「カミーユ・ビダンか……。いい方向に変わっているようだが……」


未だにハマーンを殺せなかったことを悔やむカミーユ。
一度は精神がつながった相手とは思えない、いや、つながったからこそなのか。拒絶され、ハマーンの本性を見たからこそ、死ぬべきであり、殺すべきである、と考えているのか。それにしても――。

前回ラストの後悔をさらに引きずっているこのカミーユを見て「いい方向に変わっている」と考えるクワトロは、色んな意味でどうかしていると思うが、カミーユを誘い、戦場に出し、さまざまなものを背負わせた張本人のセリフにはふさわしいかも知れない。

ファ「少しは休んでいなくっちゃ。カミーユ。ね、戦争が終わったらまた前みたいに学校へ行ってケンカして、昔みたいになるわよね?」
カミーユ「ファ……」
ファ「ね? カミーユ」
カミーユ「元通りにはならないさ。オレは自分の役目がわかってきたから」


このカミーユの台詞は、結末への予兆という意味で有名なもの。
カミーユが考える「自分の役目」というのが明らかになるのが、前回「宇宙の渦」であり、今回の「ロザミアの中で」になる。

フォウと同じくサイコガンダム(Mk-II)で出撃するロザミア。
精神を安定させる為に、ティターンズのパイロット、ゲーツ・キャパを兄として信じ込まされたが、アーガマに接近したことで再び不安定になり、さらにシロッコのモビルスーツ隊の強襲に、ゲーツが対応するために、ロザミアとの交信ができなくなる。

一方のカミーユは接近する敵の気配に、フォウ・ムラサメを感じ、Zガンダムで出撃する。

この回では、カミーユが何度もロザミアをフォウと見間違える描写がされる。
フォウの幻影を見るだけでなく、フォウの幻聴も聞く。

フォウ「やっと会えたね、カミーユ。もう、離れないから」


カミーユが逃げ込んだコロニーの中で、ファに銃を突きつけるロザミア(カミーユはフォウの幻を見る)。

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ファはロザミアの家族の記憶が偽物だと告げる。違う、お兄ちゃんがいる、とそれに反論するロザミア。
そこへカミーユが声をかける。

ロザミア「家族はいた。父と母と、お兄ちゃんと……」
ファ「そのあなたの記憶は偽物なのよ」
ロザミア「違う、あたしにはお兄ちゃんがいる!」
カミーユ「ロザミィ、一緒にボートで遊んだこと、覚えていないのか?」
ロザミア「お前はお兄ちゃんとは違う。あたしはロザミアだ。ロザミィじゃない」


直後、頭の痛みを訴えたロザミアは、泣きながら「お兄ちゃん!」と、兄を求め飛び出していく。
走り去るロザミアにフォウの姿を見て、思わず「フォウ」と呼びかけてしまうカミーユ。

このシーン。いつもなら兄として呼びかけるカミーユに、ロザミアなら一瞬でも応えるところを、一切の迷いなく「お前は兄ではない」と瞬時に切り捨てている。

この回のサブタイトル「ロザミアの中で」とは、要するにカミーユが「ロザミアの中で」フォウを見た、フォウを感じた、という意味になるだろう。前述したように、そのような描写はしつこいほどされている。

しかしそれはロザミアから見れば、カミーユは自分を見ていない、という事を意味する。
そんな存在は「お兄ちゃん」ではありえない。

ロザミアの事を「記憶を手に入れたフォウ」と表現したが、そういう存在だからこそカミーユはロザミアにフォウを重ねて、今度こそは少女を救おうとしただろう。「人は過ちを繰り返す」だけではないはずだ。

だが、それゆえにカミーユが見ているのはフォウ(の幻影)であり、ロザミアではない。
皮肉なことにそれがカミーユに、ロザミアの兄の資格を失わせた。
目の前にカミーユがいるのにも関わらず、お兄ちゃんはどこ?と兄を探しさまようロザミィ。

この時の兄を求めるロザミアの悲痛な声を、ゲーツ・キャパはしっかり受け取っている。
同じく偽物の兄ながら、ゲーツ・キャパは最後までロザミアを気にはしている。
しかし、シロッコのモビルスーツ部隊の迎撃という上官バスクの命令を優先し、ロザミアの所には全く来てくれない。

この回でロザミアは、2人の兄の両方から自分の事を見てはもらえなかった。

主人公にできることがない。ただひとつの事をのぞいて


最終局面。サイコガンダムに乗り込んだロザミアは、メガ粒子砲を乱射しながら兄を求めてさまよう。
撒き散らされるメガ粒子の光は、ロザミアの涙だ。大号泣と言っていい。

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発狂状態のサイコガンダムが、アーガマに迫る。

カミーユ「誰でもいい!止めてくれ!」


カミーユが叫ぶ。これは誰あろう、ガンダムに乗るニュータイプの主人公の叫びだ。

だが思い出して欲しい。キリマンジャロにおいて「過ち」界のパイオニア、「過ち」パイセンこと、シャアとアムロの2人が揃っていても
少女一人を何ともできなかったのに、誰にも止められるわけがない。
そしてもちろん、ロザミアに兄として映らなくなったカミーユ自身にも止められるわけがない。

カミーユ「ロザミィ、か、かわいそうだが、ちょ、直撃させる!」


「かわいそうだが直撃させる」以外に、ロザミィにしてやれることが何もない。この絶望。

本当に?本当に何もないのか?何もない。何もないことはアムロとシャアが証明し、さらに言い訳のように説明した。人の愚かな過ちはただ繰り返されるのだと。
カミーユにとっても救うべき少女の悲劇が、フォウに続き、ロザミアと繰り返されたことになる。

かくしてロザミィめがけ、救いの矢は放たれる。

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ロザミアの求める「早く」と、フォウの求める「早く」


射撃の直前。カミーユの目の前に、ロザミアとフォウのイメージが描写される。
この記事を書くにあたり、「ロザミアの中で」を見直したときに、この場面での2人の台詞の違いに改めて気づいた。

ロザミア「(早く来て、お兄ちゃん!)」
フォウ「(早く!)」
カミーユ「フォウが……」
フォウ「(早く、カミーユ!)」


ロザミアが「早く」と言っているのは、どこにもいない兄に対して、私の元に早く来てと言っている。
フォウも同じく「早く」と言っている。しかし、フォウの言う「早く」は、明らかにロザミアが希望している「早く」とは違う。
またカミーユが反応しているのも、フォウの言葉であり、その直後に引き金が引かれている。

サイコガンダムの頭部を直撃も、キリマンジャロのフォウと全く同じ結末であり、これはカミーユ自身の手による三度目のフォウ・ムラサメ殺しといえるでしょう。

救うべき少女を自らの手で葬ってしまうというのは、ララァに対するアムロの体験であり、キリマンジャロのかばわれて喪うというシャアの体験と合わせて、これで両方の体験をコンプリートしたことになる。アムロとシャアが一生背負ったものを両方……。

さらにそれでありながら、最後の最後にロザミアにこう言わせる。

ロザミア「見つけた!お兄ちゃん!」



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ロザミアが最後に見つけたお兄ちゃん。だがお兄ちゃんには誰が見えていたのだろうか。
フォウの導きで彼女の幻影を葬り去った瞬間、ロザミィのお兄ちゃんにまた戻ったのかも知れない。
いや。そもそも見つけるも何も、お兄ちゃん自体が偽記憶で存在などしていない。
お互いが幻を見ていたようなものにすぎない。

それでもロザミアは、最後にお兄ちゃんを見つけた。

劇場版の為に取り除かれたものはなにか


以前から「永遠のフォウ」は大丈夫だが「ロザミアの中で」は耐えられない、と何度も言っているのはこのあたりによります。
それを伝えるため、今回は長々と說明してまいりました。お付き合い頂き、ありがとうございました。

この回は、アーガマに戻った後の以下のようなやりとりで締めくくられます。

ファ「ロザミアさんには言い過ぎたのかしら。あの人には罪がないのにね」
カミーユ「ファは、何も間違ったことなんて言っちゃいないさ。ニュータイプも強化人間も、結局何もできないのさ。そう言ったのはファだろ?」
ファ「でも……」
カミーユ「できることと言ったら、人殺しだけみたいだな」
ファ「カミーユ……」(ファ、去る)
クワトロ「あまり気にするな」
カミーユ「気にしてなんていませんよ。気にしてたら、ニュータイプなんてやってられないでしょ?」(笑顔)


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クワトロ大尉、カミーユは良い方向へ変わっているんでしたよね。良かったですね。


この状態でカミーユは、ラスト2話の最終決戦、「生命散って」「宇宙を駆ける」へ進みます。
「永遠のフォウ」「ロザミアの中で」を踏まえたTV版の結末は、必然のものといえるでしょう。

劇場版『Zガンダム』においては、カミーユはTV版と違った結末を迎えましたが、個人的には『ブレンパワード』『∀ガンダム』『キングゲイナー』と作品を追っていれば、結末が変わること自体は理解できるものでした。
この三作を見ている人にとっては、『Zガンダム』に対するスタンスの変化も分かるし、ラストの変更も正直、想定の範囲内でしかありませんからね。

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だからこそ私は当時、そもそも劇場版『Zガンダム』三部作を作る必要がないのでは、と否定的に考えていました。
(ガンダム以外の新作を求めていた私にとっては、劇場版制作の発表は絶望に近かった)

しかし『Zガンダム』だからこそ、新訳劇場版を見たという人も多くいたでしょうから、『Zガンダム』の形を借りなければ、より広く、また分かりやすく変化を伝えることができなかったとも言えるのだと思います。

そう考えれば、映画制作前から予測可能だったラストの変化に注目するよりも、変化するラストのために取り除かれたものは何か、を考える方が面白く、意義があるのではないでしょうか。

「永遠のフォウ」と「ロザミアの中で」は、劇場版『Zガンダム』からカットされたエピソードです。

キリマンジャロでのフォウの二度目の死は、カットも当然と思うほど物語的には意味がないものですが、TV版においては儀式としての意味はあり、それはロザミアへの直撃、すなわちフォウ三度目の死の儀式につながっています。

「永遠のフォウ」をカットして「ロザミアの中で」だけを残すことは出来ないし、もちろんその逆も出来ません。カットするなら、全てカットするしかありません。

それに前述したように、「永遠のフォウ」がTV版カミーユの運命の分岐点なのであれば、尺の問題以前に、「永遠のフォウ」&「ロザミアの中で」を収録しては、どう再編集しても劇場版のようなラストを迎えることはできないでしょう。

だから劇場版でのカットは妥当です。
繰り返し述べているように、大きなストーリーラインとしての意義は薄いのも確かです。
しかし、TV版の結末を迎えたカミーユを理解するためには、極めて重要な要素だろうと思います。




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「シャアって、ニュータイプなの?」

その何気ない質問を受けたのは、以前、友人と雑談していたときのこと。
確か友人が当時やっていた『ガンダム』のパチンコかパチスロかの話を聞いていて、シャアが登場(活躍?)するという流れからの質問だった気がする。要は、シャアって強いけどニュータイプなの?という。


友人は、ガンダムシリーズに全く詳しくない。
基本的に『機動戦士ガンダム』(ファースト)しか見ていないはずだし、それすら全話見ているかどうか。

彼が『Zガンダム』以降も見ていれば、「シャアか。そうだなあ……なりそこない王子かな」「だよねー」ぐらいで、笑いながら軽く終われるかもしれない。
(と、いうよりファーストより先を見ていれば、この質問をすること自体無いかもしれないが)

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しかし『ガンダム』に詳しくないからこそ発せられた、「シャアって、ニュータイプなの?」という素朴な疑問に、私はどう答えようかと、ちょっと考えてしまいました。

「なぜ迷う? 考えるまでもなく答えは明らかでしょう?」……と、そう思いますか?

では、あなたなら、『ガンダム』をよく知らない人に対して、この質問にどう答えますか?

「シャアはニュータイプか?」その時の答え


では、質問されたその場その時の私はどう答えたか。
少し考えた上で、ファースト最終話でアムロがシャアに対して言った台詞を思い出しました。

アムロ「貴様だってニュータイプだろうに!」


ほら。ニュータイプ界のパイオニアかつレジェンドであるアムロが、シャアをニュータイプと認めてるよ。
大御所ニュータイプ亭アムロ師匠が認めるんだから、シャアも上方ニュータイプ大賞新人賞ぐらいの資格はきっとあるんだよ。
と、とにかくニュータイプ御本人が「こいつはわしと同じニュータイプや」ゆうとるんですよ。

そんな感じで適当なことを言うと、友人も笑いながら納得し、何とかその場は済ませたのでした。

はたしてシャアをニュータイプだと判定できる場面はあったのか?


しかし、後になって一人考えてみると、友人は納得しても、私自身がいまいちスッキリしない。

アムロがファースト最終話の段階で、シャアのことを「貴様だってニュータイプだろうに!」と断言できる根拠となる描写が、果たしてされていただろうか?

ここでのポイントは、われわれ視聴者に対して、シャアがニュータイプと分かるような場面があったかどうかではありません。
アムロの視点で見た場合、シャアがニュータイプだと確信できるような場面があったかどうかです。

問題は「貴様だってニュータイプだろうに!」と叫んだアムロの、シャアという人物に対する認識です。

いつ、どこで、どのような場面で、アムロはシャアのことをニュータイプだと認識したのでしょうか?

最近とみに衰えを感じる記憶を少し辿ってみるが、いざ「アムロ視点」となると、決定的な場面がパッと思い浮かびませんでした。(皆さんは思い浮かぶでしょうか?)

どうやらこれは、ちゃんと調べながら考えてみた方が良さそうですね。
幸い、あやふやな私の記憶をサポートする強い味方、Amazonプライムビデオに最近追加された『機動戦士ガンダム』全43話が視聴可能です。



ではこのプライムビデオを活用しつつ、アムロによるシャアのニュータイプ判定を確認してみましょう。




疑問点と目的、進め方などのまとめ


まず今回の疑問点と、調査の進め方などを、ここでまとめておきましょう。

<疑問点>
『機動戦士ガンダム』において、アムロ・レイが、シャア・アズナブルのことを、「ニュータイプ」だと認識したのは、いつ、どこの場面が根拠になっているのか

<対象となる作品>
TVシリーズ『機動戦士ガンダム』全43話。 

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※劇場版については基本的に対象外だが一応チェックはしておくつもり。
※小説版や富野監督の発言なども対象外なので、基本的には考慮に入れない。
※『Zガンダム』など後の作品については、考える上での参考にはするが、当然根拠にはならない。

<ポイント>
視聴者が、シャアをニュータイプだと気づいたタイミングではありません。
主人公アムロ・レイの視点で考えたとき、本編中にアムロが「シャア=ニュータイプ」を確信する場面はどこなのか?が大事なポイント。

<調査の進め方>
全話見て確認する時間もありませんし、そもそもニュータイプという要素が登場するのは中盤以降です。
ここは思い切って、ラストから遡る方法をとってみましょう。
ニュータイプ判定が提示された、最終話「脱出」でのアムロの台詞「貴様だってニュータイプだろうに!」をスタートとして、そこから場面を遡りつつ、シャアに対するアムロの認識を追ってみます。
かなり変則的ですが、最初の描写を頭から探すより、確実で効率はいいはずです(とにかく楽がしたい)。

以上になります。早速、スタート地点となる最初の場面から考えてみましょう。




最終話「脱出」 : フェンシング対決


ラストからの遡り方式なので、最初はいきなり最終話。
アムロがシャアを、自分やララァと同じニュータイプだと叫んだ場面からスタートです。

場面としては、ア・バオア・クー内部での生身でのフェンシングシーン。
少し、前後のやりとりを引用してみましょう。

シャア「わかるか?ここに誘い込んだ訳を」
アムロ「ニュータイプでも体を使うことは普通の人と同じだと思ったからだ」
シャア「そう、体を使う技はニュータイプといえども訓練をしなければ」
アムロ「そんな理屈」
セイラ「やめなさいアムロ、やめなさい兄さん」
セイラ「二人が戦うことなんてないのよ、戦争だからって二人が戦うことは」
シャア「ヤアッ」
アムロ「チィッ」 
セイラ「あっ、あれ」
アムロ「い、今、ララァが言った。ニュータイプはこ、殺しあう道具ではないって」
シャア「戦場では強力な武器になる。やむを得んことだ」
アムロ「貴様だってニュータイプだろうに」

第43話「脱出」より


フェンシングで両者が激突し、いわゆる「ヘルメットがなければ即死だった」シーンが発生します。
ここでアムロは、ララァの声を聴き、彼女が言ったことを口にします。

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アムロ「い、今、ララァが言った。ニュータイプはこ、殺しあう道具ではないって」


一方のシャアはこれに対して

シャア「戦場では強力な武器になる。やむを得んことだ」


こう答えるのですが、アムロがララァのメッセージを口に出してしまっている以上、シャアはアムロの台詞に対して反論しただけなのかも知れません。

アムロはこれまでの数あるニュータイプ描写に加え、「光る宇宙」での体験や、この場面での映像描写から言っても、実際にララァの声を聞いたのでしょう。
でもシャアは? 彼には何か聞こえたのでしょうか? 本当にアムロと同じ体験をしたのでしょうか?

単純に描写だけを見れば、「聞こえた」「聞こえてない」どちらともとれると思います。

ただ、シャアの台詞の中身を考えると、ララァの声が聞こえていたとした場合、その彼女からのメッセージに対して本当に「戦場では強力な武器になる。やむを得んことだ」とドライに答えるでしょうか。

シャアは、のちの作品『逆襲のシャア』で消滅間際に至るまで、ララァを失ったことを後悔し続けることになる男です。
アムロ曰く真の発言者はララァですが、シャアの発言はあくまでアムロに対して、ドライに見せつつ自己正当化して、必然だったのだと自分自身を誤魔化しているようにも見えます。

実際のところ『逆襲のシャア』でも、未だにララァの幻影に悩まされるアムロに対し、シャアのララァ関連の場面は、彼自身の回想(ララァの死)と、おなじみギュネイの台詞「大佐のララァ・スンって寝言を聞いた女は、かなりいるんだ」で分かるとおり、寝言です。

しかも、アムロが寝ているときに実際にララァの幻影に出会う場面がきちんと用意されているのに対し、劇中でシャアの前にララァが現れてくれる描写そのものはありません。
この差は当然、意図的でしょう。

このフェンシングの場面に限らず、シャア・アズナブルがララァの声を聞いたり、姿を見たりするシーンは実際には描かれず、シャアにとってはララァは喪ったままの存在になっています。

主人公だけが死んだヒロインを見ることができ、一方ライバルはヒロインを見ることができないわけです。
ということは、これすなわち……


14年後の宇宙でまた出会えると信じて。最高の……こんなのが最高の思い出でたまるかよ!しぇからしか!

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ということで、大佐も夢でララァを見てるだけの人生では満足できなくなって、ララァのコスプいや、小惑星のひとつやふたつ、落とすようになるわけです。


まさに夢見る大佐じゃいられない。セブン(相川七瀬)もそう歌っています。
相変わらずの脱線により、こんなペースではいつまでたっても終われないので、決定的な根拠となる場面を求めて、もう少し遡ることにしましょう。

第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」&最終話「脱出」 : ガンダムvsジオング


場面は遡り、ア・バオア・クー周囲でのガンダムvsジオングの最終決戦。

この戦闘シーンでアムロがシャアに対して、ピースなニュータイプのバイブスをポジティブに感じたかどうか考えてみましょう。

キシリアはニュータイプの可能性があるものを乗せるしかないと、シャアにジオングを預けていました。
「学徒兵乗せるよりはマシ」という、赤い彗星の名にふさわしい極めて高い評価といえましょう。

また「足? あげなん飾りたい。なくてよかよ」と、きついジオン訛りで、率直にジオングの説明をしてくれたジオン兵(技術士官?)も、これまた率直に「大佐んニュータイプ能力は未知数たい」とポテンシャルに太鼓判を押しています。

ですから、ニュータイプの研究機関(フラナガン機関)をもつジオン内の評価としても、「ニュータイプの可能性はあるが未知数」というものだったんでしょう。その辺りがはっきりしないのは、フラナガン機関のテストや検査をちゃんと受けてないんでしょうか、この人。

もちろんアムロは、そんなジオン内での評価など知る由もありません。
ただ、ジオングの有線ハンドビームは、以前戦ったブラウ・ブロのオールレンジ攻撃と同じものです。

ブラウ・ブロのパイロットは「シャリア・ブル 攻撃効かず ブラウ・ブロ 荒くれKNIGHT 首くくるとは」(在原業平)の歌でおなじみ、木星帰りの枕詞シャリア・ブル大尉。ちなみに首はブラウ・ブロのメガ粒子砲塔の有線でくくります。荒くれKNIGHTは他に思いつかなかったので(正直)。

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シャリア・ブルのことを「普通の敵とは違う」と感じたアムロであれば、同じように有線ハンドビームでオールレンジ攻撃を仕掛けてくるシャアを「普通とは違う=ニュータイプ」と感じた、という可能性もあるでしょう。

ちなみにアムロがニュータイプのバイブスをポジティブに感じたシャリア・ブルは、シャアとララァに面会した際、こんなことを言っています。

シャリア「大佐、この少女、ああいや、ララァ少尉から何かを感じます。そう、力のようなものを」
シャア「で、大尉は私から何を感じるのだね?」
シャリア「いや、わたくしは大佐のようなお方は好きです。お心は大きくお持ちいただけるとジオンの為に素晴らしいことだと思われますな」
シャア「よい忠告として受け取っておこう。私はまた友人が増えたようだ。よろしく頼む、大尉」

第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」より


恐らくニュータイプ・ララァの存在を強調するためだと思われますが、ララァとシャアに対する感じ方に差をつけています。
少なくとも、シャリアが「同じぐらいのニュータイプ2人と出会った」という場面にはしていませんね。

シャア「で、大尉は私から何を感じるのだね?」
シャリア「……かなりの歪んだ変態性とコンプレックスの総合商社ぶりを感じますが……ここで、申し上げた方がよろしいので?」
シャア「はははは。大尉はガルマ大佐がなぜ戦死されたかご存知か?」
シャリア「大佐のような方にはお心は大きくお持ちいただけるとジオン・ダイクンの名誉と、私の命の為に素晴らしいことだと思われますな」
シャア「よい忠告として受け取っておこう。私はまた友人が増えたようだ。よろしく頼む、大尉」


これはともかく、戦闘を通してシャアをニュータイプと確信する、というのは可能性としてありそうです。

それも前半での単に手強いエースパイロット「赤い彗星シャア」というより、ジオングのように「サイコミュ」を搭載し、ニュータイプにしか出来ないオールレンジ攻撃をこなすまでに至ったシャアに対してなら、単に手強さだけでなく証拠も揃っています。
(まあ、シャアはジオングの性能を完全に引き出せたわけではないようですが)

0079_ziong.jpg

そう仮定するのであれば、ジオング戦以前の戦闘シーンでは、仮にアムロがシャアをニュータイプかも?と感じていても、「サイコミュ兵器」みたいな決定的な要素がないような気はしますね。

そもそも前半はただのエースパイロットでしたし、後半はアムロがニュータイプの覚醒によってシャアより優位に立つ上に、ララァの登場により、アムロとララァ2人のニュータイプに割り込む普通の人、として対比されることが多かったですから。

とはいえ、このジオング戦も可能性のひとつだというだけで、決定的な証拠があるわけではありません。
さらにもう少し遡りましょう。

第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」 : ガンダムvsジオング遭遇


戦闘が発生する少し前、ジオングとガンダムが遭遇するまでの流れは以下のようになっています。
ポイントになる台詞を抜き出してみました。

(1)ジオングで発進して、アムロを探すシャア
シャア「しかし、奴(アムロ)はどこにいるのだ?」
シャア「ん?あれか。モビルスーツ隊」
シャア「……奴め」

(2)ジオングを意図的に無視するアムロ
アムロ「大物だ。シャアか?」
アムロ「うしろから?なんだ?チッ」
アムロ「シャア以上のニュータイプみたいだ、しかし」
アムロ「しかし、今はア・バオア・クーに取りつくのが先だ」
アムロ「本当の敵はあの中にいる、シャアじゃない」

(3)ガンダムを補足するジオング
アムロ「取りついた。ん?」
アムロ「シャアか。こちらを見つけたな」
シャア「見えるぞ、私にも敵が見える」


この場面については、ハリーラットさん(@harry_rat)からお借りした、分かりやすい画像もあります。 ※クリックで元サイズ画像が開きます

0079_vol43.png


この一連の流れにおいて、まず重要なのは、この台詞。

アムロ「シャア以上のニュータイプみたいだ」


これは、暴れまわるジオングのプレッシャーを感じて、これはシャア以上のニュータイプが乗っているに違いない、とアムロが誤認をした、ということになるでしょう。

アムロによる貴重な、シャアとニュータイプを関連付ける台詞なんですが、結構微妙な台詞でもあります。

  • 一応、この段階でシャアのことを「ニュータイプ」的なものと認識していたことになる。
  • しかし、ジオングに乗ってがんばっているシャアを「シャア以上のニュータイプ」と誤認するほど、アムロのシャアに対する評価はそもそも低かったらしい。
  • 少なくとも、自分やララァと同格のニュータイプだとは全く思っていなかったようだ。

ジオング以前のシャアは、アムロにとってどういう意味での「ニュータイプ」だったんでしょうか?

これについて重要なのは『機動戦士ガンダム』では、ニュータイプ能力の発露に関しては、ある/ない、の二択ではなく、かなり幅のあるグラデーションになっていることです。

ホワイトベースクルーも、ミライやセイラなど、アムロほどではないですが、ニュータイプ度が比較的高い人もいれば、ブライトやカイのように低めの人たちもいます。しかし、ホワイトベースクルーは激戦とアムロの影響もあるのか、最後にアムロを迎えるランチの上にニュータイプ度がまったくゼロの人はいないように見えますね。

0079_lunch.jpg

「異能力者と一般人」のように能力階層がはっきりと分かれているのではなく、誰にでもニュータイプ的な素養自体はあり、グラデーションとしてのニュータイプが感じ取れるように演出されているところが『機動戦士ガンダム』のすばらしいところでもあります。

それを踏まえるとシャアのニュータイプ度も、アムロ・ララァを頂点とした相対的なグラデーションの幅の中で表現されるものに過ぎないわけです。

ミライやセイラにニュータイプの素養があることは、ファーストを見た人なら誰もが感じることですが、かといって彼女らを「まぎれもなくニュータイプです!」と断言するのも「ニュータイプではない!」と断固否定するのも、グラデーション化されている事を考えると違いますよね。0か1かではないので。

同じようなことが恐らくシャアにも言えて、ニュータイプの素養は当然あり、アムロは対峙することも多かっただけに「ちょっと違う」と感じていたようですが、自分やララァと同種(同レベル)のニュータイプとまでは思っていなかったようです。

覚醒したアムロ「他の敵はその回で惨殺できるけど、シャアは腕1本ぐらいで毎回生き延びてるみたいだから、多少違うね」


こわ! 白い悪魔こわ! ※アムロはこんな恐ろしいコメントしてません

逆に言えば、「シャア以上のニュータイプが乗っている」と誤認させるほど、ジオングではシャアはがんばっていたことになります。

ただ、それでもジオングの性能は完全に引き出せませんでしたし、オールレンジ攻撃もアムロに攻略されました。
胸部のコクピットをピンポイントで射撃され、頭部コクピットに移動していなければ即死でした。
「シャア以上のニュータイプ」との見積もりのジオングにも、アムロの圧勝と言っていいと思います。
(フェンシングといい、ジオング胸部への射撃といい、アムロが完全に殺す気まんまんなのが良い)

いやいや。ア・バオア・クーの激戦の中で、シャアはニュータイプらしく、アムロのガンダムの姿を発見しているじゃないか。と、思ったお友達もいるかも知れませんね。

アムロ「シャアか。こちらを見つけたな」
シャア「見えるぞ、私にも敵が見える」


確かに、あの中でガンダムを発見できたのは、シャアのニュータイプ能力によるものかも知れません。

しかし、ララァに戦う目的もないと言われたアムロは、彼女との出会いと別れを経て「戦争終結のためにザビ家の頭領を打ち取るしかない」という高みまで意識がいっており、だからこそジオングを発見しても無視していたわけです。

それに対しシャアは、ララァを喪ったことからアムロに私怨を抱き、当初の目的であったザビ家暗殺やニュータイプの未来や可能性を信じることも止め、ひどく視野の狭いアムロ絶対殺すマンになってしまいました。

このようなシャアは当然アムロに勝てるわけがないですし、このような視野の狭い「アムロ絶対殺すセンサー」が発動したからといって、シャアのニュータイプとしての価値が上がるわけでもないと思います。(むしろ逆ですね)

このアムロとシャアの比較に関しては、以前記事を書きましたので、宜しければご覧ください。

ガンダム0083とガンダム0079の比較
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-26.html

しかし、そうなると、どこからが一定レベル以上の覚醒したニュータイプなんだ。定義をくれ。
中心気圧と最大風速がどれだけ必要なんだ? 参加標準記録でどれだけのタイムを出せばいいんだ?

と、なりそうですが、これは恐らく能力値80以上は軍師になれる、みたいな数値的な定義の問題ではなく、物語上の役割の問題であるはずです。

ファーストにおけるシャアは、アムロとララァの関係に嫉妬して、人類史上初の出来事を永久に壊してしまうという役割なので、ジオングに乗れようが、アムロを発見できようが、ただそれだけの存在ということになると思います。

ということで、アムロがシャアをニュータイプだと認識している台詞は見つかりました。
ただ、その評価はかなり低く、少なくとも戦場において同レベルの存在とは思っていなかったようです。

とはいえ、この時点でニュータイプとしての評価があるということは、さらにこれ以前に、そのきっかけがあったということです。さらに遡ってみましょう。

第41話「光る宇宙」 : ララァとの交感シーン


さらに遡って、宇宙世紀のピカチュウこと「光る宇宙」へ。

ここでは、アムロとララァのニュータイプ同士の深い交感シーンがありますが、前述のようにシャアは蚊帳の外に置かれる関係上、むしろニュータイプの2人(アムロ&ララァ)と、それに嫉妬する1人の男(シャア)として対比をされていました。

よって、アムロとシャアの間にニュータイプ同士のあれこれはありませんが、アムロとララァが深くつながった際に、ララァの思念を通じて彼女を理解すると同時にシャアを理解した、という可能性を考えることはできます。

0079_lalah.jpg

ララァを通じた間接的な理解ということになりますが、確かにありえる話です。

実際、この第41話「光る宇宙」以降に、アムロがシャアという人物を理解しているとしか思えない台詞が出てきます。

アムロ「しかし、今はア・バオア・クーに取りつくのが先だ」
アムロ「本当の敵はあの中にいる、シャアじゃない」


ここでの「本当の敵」とは、当然ザビ家ということになります。
ザビ家が事実上の独裁体制をしいていることは、アムロだって以前から知っているわけですが、だからといってザビ家を倒す、という目的意識で戦ったことは別に無かったでしょう。

しかし土壇場のア・バオア・クーに来て、ニュータイプではあるものの一兵士であるアムロが、いち早く戦争を終結させるにはザビ家の頭領を討つしかない、という意識で戦闘に参加するわけです。
と同時に、ジオンそのものやシャア個人は「本当の敵」ではないということを悟っているのだと思います。

それはララァを通じてシャアを理解したことで成し得たものではないでしょうか。

そして、アムロの台詞はそれを裏付けるように進みます。

アムロ「シャアだってわかっているはずだ。本当の倒すべき相手がザビ家だということを。それを邪魔するなど」
アムロ「……今の僕になら本当の敵を倒せるかもしれないはずだ」
アムロ「ザビ家の頭領がわかるんだ」

シャア「その力、ララァが与えくれたかもしれんのだ、ありがたく思うのだな」


アムロは、シャアが本来戦うべき相手がザビ家であったこと、そして現在その目的を見失っていることまで理解している。
そして、今の自分になら「本当の敵=ザビ家」を倒せるかも知れないと感じている。

やはり「光る宇宙」こそが、アムロがララァから与えてもらった贈り物ではないのか。
ララァの思念からシャアを通して、ファーストの物語の根幹を成す「世界の大枠」を掴んだ。そこにはシャア自身がニュータイプであるという「ララァの認識」も含まれるのだろう。

そのアムロに対してシャアは、その理解と力は、ララァが君に与えてくれたもの(in 光る宇宙)だと言う。
つまり、シャア自身の台詞からも、ララァからアムロに与えられたものが存在することが説明されている。

ララァがアムロにくれたもの 時の狭間のラビリンス
ララァがアムロにくれたもの 夢にまで見た淡い夢
ララァがアムロにくれたもの 人の未来と可能性
ララァがアムロにくれたもの 全てを分かり合える人
ララァがアムロにくれたもの シャア・アズナブルのプロフィール
ララァがアムロにくれたもの 本当に倒すべきザビ家
ララァがアムロにくれたもの 取り返しのつかない涙
ララァがアムロにくれたもの いつでも会いにいける場所

大好きだったけど 彼氏がいたなんて
大好きだったけど 最後のプレゼント
bye bye my sweet darlin'
戦い終わらせるわ


後でまとめますが、もちろんララァを通して、が全てではなく、これまでの積み重ねがあった上の「光る宇宙」です。とはいえ、大きなポイントであったことは事実でしょうね。

ここで調査をやめてもいいのですが、念のため、もう少しだけ遡って、ポイントとなる回だけチェックしましょうか。

バックトゥザ一年戦争あとすこし



モグタン「ここは宇宙世紀0079年のロンドンだよ!」



一体何ごとかと ヒヤヒヤドキッチョしたが、なつかしい。あ、ケロンパじゃなくて二代目おねえさん。
そしてこんなことばっかりやってるから、この記事はちっとも終わらない。

第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」はすでに確認したので、さらに ヒヤヒヤドキッチョ(「遡る」の意)して、簡単にチェックだけしておきましょう。

第37話「テキサスの攻防」&「第38話「再会、シャアとセイラ」のテキサスコロニー編

ララァとアムロが反応しあい、お互いの名前をニュータイプ力(ちから)でお互いの脳内への送信に成功します。グラハム・ベル以来の快挙ですね。ララァのこれまでのキャラクターとは違った特異さがさらに際立つパートです。
シャアのニュータイプ度が分かるところは特になかったと思います。
しいて言うならここかな。ララァがアムロの存在を感じるシーン。

ララァ「あたしと同じ人がいるのかしら?」
シャア「ララァ、今なんと言った?」
ララァ「フフフ、大佐があたしの心を触った感じなんです」
シャア「私が? ララァ、冗談はやめにしてくれないか」


ララァにとって、アムロとシャアの「心に触った感じ」が似ている、と。ですがもちろん、アムロにとっての「シャア=ニュータイプ」の手掛かりとなるシーンではありません。

第34話「宿命の出会い」

サイド6でアムロとララァが初めて対面する回。
この回では、偶然の雨宿りから、アムロとララァの運命的な出会いを描いており、ララァが特別なキャラクターだということも画面からびんびん伝わります。

雨が止んだ後の帰り道。車がぬかるみにはハマって立ち往生するアムロ。そこを通りかかった1台の車。

0079_hentai.jpg

アムロ「すいません。あ、あの、お名前は?」
シャア「シャア・アズナブル。ご覧の通り変態だ」


という伝説の名シーンが登場します。
あんな格好の真っ赤な仮面の男が車から降りてきたら、事案発生です。即通報です。防犯ブザーです。
正しいやりとりは、前後を含めて以下のとおり。

車を停めて姿を現すシャア

アムロ『シャア』 ※心の声
シャア「すまんな、君。なにぶんにも運転手が未熟なものでね」
アムロ「い、いえ」
ララァ「ごめんなさい、よけられると思ったんだけど」
アムロ「あっ」
シャア「車で引かないと無理だな」
アムロ「え?」
シャア「君は?」
アムロ「ア、アムロ、アムロ・レイです」
シャア「アムロ?不思議と知っているような名前だな」
アムロ『そ、そう、知っている。僕はあなたを知っている』
アムロ「お、お手伝いします」
シャア「構わんよ、すんだ」
アムロ「すいません。あ、あの、お名前は?」
シャア「シャア・アズナブル。ご覧の通り軍人だ」
アムロ『シャア』
シャア「ララァ、車を動かしてくれ。静かにだぞ」
ララァ「はい、大佐」
アムロ『あれがシャアか。シャア、アズナブルといったな』
シャア「ゆっくりだよ、いいな?ララァ」
シャア「どうした?下がれアムロ君」
アムロ『始めて会った人だというのになぜシャアだってわかったんだ?それにあの子、ララァといったな?』


アムロは初めて会った男を「シャア」だと確信しています。これはニュータイプ的な直感と思っていいようですね。(赤い彗星はド変態コスプレ仮面との事前情報を入手していない限り)

一方のシャアは「聞いたことあるような名前だな」程度で、アムロのように「宿敵」であることを見抜いてはいません。

「不思議と知っているような名前だな」ぐらいの台詞は、ニュータイプや『ガンダム』も関係ない一般的なフィクションでも、何らかの演出上のサービスや意味ありげな一言として使われてるような台詞なので、シャアの勘の良さの証明にはならないでしょうね。

そもそも物語開始当初から戦ってきたライバルの最初の出会いであるにも関わらず、このように互いの理解に格差もあって、不思議少女ナイルなエルメスことララァとの出会いの方が衝撃である、という描き方がされています。

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やはりシャアは、この時点ではニュータイプ(ララァ)のプロデューサー的存在ではあっても、本人のニュータイプ能力については前景化されていません。
むしろこの後、あの赤い彗星がつい先日実戦デビューした少女に「邪魔です」と言われる、というような形で、「ニュータイプ」の特殊性を強調させるための対比役にさせられているほどです。

これ以前に遡っても、アムロとシャアがモビルスーツで直接相まみえるのはジャブローまで遡ってしまいますし、その少し前までいけば第26話「復活のシャア」で久しぶりに再登場した回。その前はランバ・ラルの前まで遡る……。
もうこれ以上は必要なさそうですね。遡り調査はここまでとして、まとめに移りましょう。




調査まとめ : アムロはシャアをいつニュータイプと判定したか


今回の目的はTV版『機動戦士ガンダム』において、「アムロ・レイが、シャア・アズナブルをニュータイプであると確信した根拠を見つける」というものでした。

結論から申し上げると、「決定的な描写は存在しない」ということが分かりました。

調査前の「特にそのシーンが思い当たらない」という記憶が実は正しかったことになりますね。
ただ、あやふやな記憶ではなく、調査の上できちんと「存在しない」ことを確かめることには、それなりに意味はあります。ありますよね? ねえ、あるって言って!

決定的な描写はありませんでしたが、アムロが最終的にシャアのことを「貴様だってニュータイプだろうに!」とは言っているわけですから、その台詞に至った流れを可能性から複合的に考えることはできます。
というか、決定的な証拠がない以上、可能性の中から落とし所を探るしかないでしょう。

ではここまでに得られた情報と考察を整理してみます。

<シャアを「ニュータイプ」であると認識した時期について>

第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」以前ということは判明

※第42話、ジオング遭遇時のアムロの台詞「シャア以上のニュータイプみたいだ」より

<全体的な傾向と流れ>

シャリア・ブル、ララァと続けてニュータイプが登場する時期には、むしろシャアは普通の人側として対比されるキャラクターになっています。
エースである赤い彗星を、軍に入ったばかりのララァがその戦果を凌駕し、邪魔に思い、心配するように。
ララァの死後、ニュータイプ用モビルスーツであるジオングをぶっつけ本番で動かせた事、そのジオングに遭遇したアムロの「シャア以上のニュータイプみたいだ」の台詞によって、視聴者も「シャアもやっぱり(アムロやララァに劣るが)ニュータイプなんだな」と理解する流れ。

<アムロがシャアを「ニュータイプ」であると考えた要因(可能性)>

いくつかあるので、箇条書きにしてみました。

(1)ニュータイプの自分と互角に渡り合って死なないエースパイロットだから(生存バイアスかも)

(2)サイコミュ搭載のジオングでのオールレンジ攻撃(ブラウ・ブロと同じ「普通でない」攻撃)

(3)ララァとの精神交感時に、彼女を通してシャアのことも理解した(ニュータイプであることも)

(4)上記も含めた上での、アムロのシャアに対する、ある種の買いかぶり。


ひとつの大きな理由は、シャアとの戦闘を通じて、アムロが相手のことを「ニュータイプでは?」との認識を深めていったという要素。
より正確には、アムロ自身も後半ニュータイプへと急成長していくので、最終話まで生き延びて、自分と戦えるようなシャアのことを、自分と同種であると認識していった、という感じでしょうか。
これは連続アニメであるTV版だからこその積み重ねが、可能性としての説得力を生んでいます。

ふたつめのオールレンジ攻撃については、ジオング遭遇時にすでにシャアがニュータイプとの発言がありますので、ジオングとの対戦で、シャアに対するニュータイプ度の見積もりが上がったという感じでしょうか。

もうひとつ大きな要素が、みっつめ「光る宇宙」でのララァとの精神交感シーン。
これにより、ララァを通じてですが、シャアという人物のことも理解したのではないか?という可能性。
実際に、アムロはこれで知ったとしか思えないことを、これ以降しゃべっていますので、シャアのニュータイプ要素に関しても十分にありえるとは思います。

また違った角度として、よっつめ。
アムロのシャアに対するある種の買いかぶりと見ることもできるでしょう。
いくつか、最終話のやりとりを抜粋してみましょう。

シャア「今、君のようなニュータイプは危険すぎる。私は君を殺す」

アムロ「本当の敵はザビ家ではないのか?」
シャア「私にとっては違うな」

アムロ「い、今、ララァが言った。ニュータイプはこ、殺しあう道具ではないって」
シャア「戦場では強力な武器になる。やむを得んことだ」
アムロ「貴様だってニュータイプだろうに!」


シャアはその言葉とは裏腹に、ララァの死を「やむを得なかった」とは全く思っていないし、アムロを殺したい理由は「今、君のようなニュータイプが危険すぎるから」では無い。ララァを死なせた自分への苛立ちとアムロへの怒りと嫉妬の私怨を、仮面で取り繕っているに過ぎない。

アムロは、ララァとの経験があるからこそ、同じニュータイプであると認めたシャアと自分がこれ以上殺し合うことに意味を見出せないし、同じ目的であるザビ家を倒して、こんな戦争は早く終わらせるべきでは?と思っている。

ところが同時にララァの「ニュータイプは殺し合う道具ではない」という声を聞いた(はずとアムロは思っている)シャアが、この期に及んでごまかしのふざけた台詞を吐くので、ほとんど売り言葉に買い言葉のように、ついカッとなって叫んだ言葉が「貴様だってニュータイプだろうに!」だと思われる。(これが14年ほどワインのように熟成されると「情けないやつ!」になる)

しかしそれはシャアに対するアムロの買いかぶりであって、ララァを失うという共通体験は、アムロにとっては結果的に戦う意味と守るべきものを自覚させるものとなったが、シャアにとっては「アムロ絶対殺すマン」への変身トリガーでしかなかった。シャアに発現したニュータイプ能力も結局アムロ=ガンダムの撃墜のためだけに使用されてしまっている。

アムロのシャア・アズナブルへの高すぎる見積もり評価は、他ならぬシャア自身の言動によって覆され、間違いであることが証明されていく。

シャア=ニュータイプ認識のトリック


さて、このような可能性要素のミックスによって、アムロはシャアをニュータイプと認識していたのだ、ということになるのでしょうが、はっきりいって、ここにはある種のトリックが存在すると思う。

前述のように、シャアはララァ達ニュータイプとむしろ対比されていたのに、彼女らがいなくなったために、急にニュータイプ(の可能性)として扱われる。しかしララァの死で決定的な体験をしたのはアムロであって、シャアではないから覚醒の契機にはなっていないし、実際にそういう描写もない。

しかし実際に、テストもしていないジオングで戦えてしまう。
そんなシャアを、アムロは以前からニュータイプと認識していたという事になっており、特に驚きもしない。
今回調べたように、アムロがシャアから直接ニュータイプを感じ取るような描写や演出は特にされていないにも関わらず。

きちんと見ていくと色々と不自然かつ釈然としない点があります。
しかし、普通に見ていてそうは思わないのは、もう富野由悠季にだまされ……トリックにかけられているという他はないような気がする。

浜田「うーん、見事なトリックだ。どうしてわかった?」
東野「もし、僕がトリックだったらどうします? トリックの身になって考えてみてください。謎は深まるばかりです」




トリックの身になって考えてみると、まずキシリアの立ち回りが大変上手い。
シャリアもララァも死んだ状況では、ニュータイプの可能性が少しでもあるものをジオングに乗せてガンダムにぶつけるしかないと主張するのは彼女だ。確かに名のあるパイロットは全員死んでしまって、選択の余地なくシャアしかいない。

とはいえ「乗れるニュータイプもいないのに、サイコミュ搭載モビルスーツ作ってたんですか?」と言いかけようとした頃に、キシリアが「総帥がニュータイプにもっと早くお気付きであればな」と、先ほど眉間を撃ちぬかれて反論不能になった甘い兄上に全責任を負わす盤石の立ち回り。

結果、ニュータイプとしては可能性程度のシャアが、テストもしてないジオングにぶっつけ本番で搭乗して、最終的にガンダムと相打ちにまで持ち込むという、冷静に考えると奇跡としか思えない戦果を上げることになりました。
明日の朝刊一面は「赤い彗星ジオングで大金星!キシリア采配ズバリ!」で決まりです。

でも、画面を見てる限り、この辺りの不自然さはあまり感じません。
もうなるべくして、物語が収束していったという感じで、私も今回検証するまで、あまり疑問に思っていませんでした。

恐らく本来は、もう少し丁寧に、段階を踏んで、ニュータイプというものをアムロと視聴者、ついでにシャアにも体験させ、理解させていく予定だったのかも知れません。シャリア・ブルとララァだけでなく、例えばその後にもう何人かサンプルとなるニュータイプのキャラクターを追加したりして――――本来?

つまり『機動戦士ガンダム』が全43話でなく、「幻の全52話構想」であれば、もしかするとニュータイプとしてのシャア・アズナブルの描かれ方は、あやふやで唐突なものではなく、もう少し自然だったのかも知れませんね。

これはニュータイプ・シャアの表現についての「例えば」であって、『機動戦士ガンダム』が全52話であれば良かったという話ではありません。
全43話の現状でも、こうして検証しない限りは違和感なく、自然に受け入れてしまうような構成・演出がされていることはすでに語ったとおりです。

結局のところ、ニュータイプとしてのシャアとはどういう存在なのか


さて、今回はアムロの視点で「シャアをニュータイプだと認識したのはどのタイミングか?」を調べてながら考えてきました。

実は決定的な描写が存在しない事が判明しながらも、富野監督にだまさ……巧みな構成により、そのことをあまり感じさせない流れになっていることも分かりました。

ただ、はっきり言いまして、これ自体は『機動戦士ガンダム』の小ネタやトリビア程度にすぎません。

しかし、シャアのニュータイプとしての立ち位置や根拠が実はあやふやであったという事実は、『機動戦士ガンダム』TV放送時のニュータイプ、そしてアムロとシャアを考える上で、重要なポイントを教えてくれているとも考えます。

そのポイントは2つ。

(1)シャアはアムロを、アムロはシャアを、お互いをニュータイプだと認めるようになったが、この2人の間にはいわゆるニュータイプ的な精神交感がない(直結による相互理解ではない)

(2)シャアは、ララァと深くつながったアムロと違い、ニュータイプとして「決定的な体験」をしていない(生涯できなかった)


シャアは、ごく短期間のうちに、素人同然から自分を凌駕するまでに不自然に急成長したアムロ・レイを、連邦が実戦投入してきたニュータイプであると確信しています。

実際に初期からアムロと戦ってきたシャアだからこそ納得感もありますが、いわゆるニュータイプ的なセンサー(直感)による判断ではありません。アムロの存在はニュータイプとでも定義しないと考えづらい、という仮定が確信に深まっていった感じでしょうか。

一方のアムロ側。今回の調査としては、シャアと長らく対峙してきた経験の上で、「光る宇宙」でのララァを通してシャアを理解した、という面が大きいのではないかと思われます。

これにはニュータイプ能力が使用されていますが、ララァというフィルターを通して間接的に理解をしています。ですから「ララァが認識しているシャア大佐」とも言えるので、もしかすると実像とはズレがあるのかも知れません。

ただ 「貴様がララァを戦いに引き込んだ」と、シャア相手になじれるほど、ララァとシャアの関係性とその主体がどちらにあるのかも理解しているところを見れば、やはりアムロ側の方が深い理解をしているんだろうな、という気はします。
いずれにせよ、アムロからシャアへの一方通行的な理解であって、相互理解では全くありません。

つまりこの二人は相互不理解、ディスコミュニケーションの中でお互いが「相手はニュータイプである」ということを理解した、ということになります。

同じ結論に辿り着いたにも関わらず、ララァの一件による互いの立場のため、ニュータイプ的に交わり、分かり合えることはありません。実際に光の中に消えていくその瞬間までその日は来ませんでした。
(それでもアムロにとってシャアが、シャアにとってアムロは、ある意味で最大の理解者だったのですが)

『機動戦士ガンダム』のニュータイプといえば、アムロとララァの時を超越した深い交感シーンをイメージすることが多いですよね。
人は変わっていける。人は分かり合える。人はいつか時間さえ支配することができる。

しかしその裏では、互いの立場を超えてこの戦争で何をすべきなのか。違う出発点から、全43話をかけて同じ結論に辿り着いたのに、結局最後まで殺し合いしか出来なかった二人のニュータイプがいました。

0079_vsziong.jpg

『機動戦士ガンダム』はコミュニケーションの可能性の物語であると同時に、ディスコミュニケーションの現実と限界の物語でもあったわけです。
そのドラマを演じるキャストは全員ニュータイプであり、いわゆるオールドタイプとニュータイプの断絶の話ではありません。理解し合うのもニュータイプ。相互不理解もニュータイプ。

つまり「ニュータイプ」という新しい存在を描きながらも、まぎれもなく「人間」そのものを題材として描いているわけです。
それが『機動戦士ガンダム』。のちにファーストガンダムと呼ばれる作品での、ニュータイプのお話であると私は思っています。

情報ネットワークに覆われた現代社会を予見したわけでもないし、家族的なものを超越する擬似家族的な共同体への希望として示されたわけでもないんじゃないかな。

なりそこない王子のあせり


そして、ファースト以降の作品を見る限り、スペースノイドを導くジオン・ダイクンの遺児シャア・アズナブルが、「ニュータイプとして決定的な体験をし損ねた」ことはかなり大きな影響を与えています。

ハマーン、カミーユ、ナナイ、クェス……特にハマーンとカミーユの時に顕著ですが、才能ある若いニュータイプを前面に押し出してプロデューサーのような位置に自分を置きたがるのは、役割から逃げたがる性格と共に、自分が「ニュータイプとして決定的な体験をしていない」ことも影響しているはずです。

しかし『Zガンダム』では、カミーユ以前にプロデュース失敗したニュータイプであるハマーン・カーンの逆襲にあいますし、プロデューサーとしては、シャアよりやり手でより狡猾なシロッコが登場します。
「戦後世界を支配するのは女だと思っている」といいながら、その女性を支配する事で世界をコントロールしようとするシロッコですが、「女」を「ニュータイプ」と入れ替えれば、実は「これからはニュータイプの時代だ」などと言っているシャアとそう大差はなく、彼に対する皮肉としても機能するキャラクターだと思います。

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シャアが自分自身を「ニュータイプ」として、ジオンの遺児として先頭に立ち、道化を演じることに割り切れないのは、父性から逃げるその性格もさることながら、やはり「ニュータイプとして決定的な体験をしていない」ことも大きいのではないでしょうか。

だからこそシャアは、アムロ・レイにこだわり続けます。
後に「母になってくれるかも知れなかった女性」と語るララァと、時の向こう側、ある種の「彼岸」に立ったのはアムロ・レイだけ。
しかし、自分を導いてほしかったララァはもういない。
殺してやりたいが、「ニュータイプ」として人々を導く資格があるのは、シャア視点だとララァと交わったアムロ・レイしかいない。

しかし当のアムロは宇宙に出たがらなかったり、ニュータイプと関わりになるのにも消極的です。
挙句の果てに、愚民どもにその才能を利用され、「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない」 などとのたまう。

つまり「結論を急ぎすぎるな」と。それがララァと共に彼岸を見たアムロの結論です。
(逆に言えば、その体験をしてさえこの結論は、人類の歩みに魔法のような奇跡など無いという諦念でもあるでしょう)

だがシャアは、その景色を見ていない。体験していない。
それなのに、ジオン・ダイクンの遺児というだけで、スペースノイドを導く道化をやらされている。
だから彼は、『逆襲のシャア』において、アムロに「ならば、今すぐ愚民共すべてに叡智をさずけてみせろ!」と無理難題を言います。

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新大阪のマクドナルドで「ポテトS大盛りと水。はよせいや。しばくぞ」と注文する大阪人のような「いらち(せっかち)」さです。
なぜここまで性急なのか。なぜ次の世代に任せたり、未来を信じられないのか。

それは彼自身こそがアムロに、「今すぐ叡智を授けて欲しい」側の人間だからでしょう。
全人類にと言っていますが、この世で最もそれを欲しているのは誰あろう、シャア・アズナブル本人だろうと思います。

アムロの「結論を急ぐな」(未来に託せ)では、何より自分自身が救われない。
だから待てない。だから「ポテトS大盛りと叡智!はよせいや!しばくぞ!」と、今すぐ寄越せの無茶を言いながら、結局のところアムロに救済をすがっている。
ニュータイプとしての自分を産んでくれる母たるララァがいない以上、もうアムロしかいない。

そんな「結論を急ぐな」のアムロと、「今すぐ救え!」のシャアの二人が、目の前にいる少女(クェス・パラヤ)すら救済できずに、お互いに責任をなすりつけあいながら、光の中に消えていく。

それが『逆襲のシャア』の結末であり、『機動戦士ガンダム』で、お互いをニュータイプであると認識した二人の結末になりました。




あとがきや余談など


今回は、友人の「シャアって、ニュータイプなの?」という素朴な疑問をきっかけに、最終回からの遡りというかなりずぼらな調査を行いました。

今回の記事のベースはTwitterに連投していたツイートがベースになっております。
リアクションも色々頂き、参考になる情報も提供して頂きました。可能な限り盛り込んだつもりです。
Twitterにて、ご協力を頂いた皆様、ありがとうございました。

記事を読まれた方で、私がもし重要なポイントになるようなものを見逃していたら、ぜひ教えてください。
「あ、それありましたね。なるほどなー。失敗したなー」と返させて頂きます。(記事を修正しろ)

正直、劇場版には一応チェックだけ入れておくつもりでしたが、結局全部チェックしきれてません。
対象範囲はTV版だけにして良かったと思いました。

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ちなみに、この記事全体で、シャア・アズナブルという人物の事をボロクソに言っているように見えるかも知れませんが、シャアの事は最も愛すべきキャラクターだと思っておりますので、誤解とご心配なきよう。(ボロクソ言っているのは事実です)

シャアもアムロもひとつの記事では語りつくせないので、このブログではさまざまな角度から記事を書いております。
今回の視点設定だと記事内容もこうなった、というだけに過ぎませんので、ご理解ください。

もしご興味がありましたら、当ブログの富野作品関連記事の一覧から面白そうなのをお読み頂けると嬉しく思います。

【目次】富野由悠季ロボットアニメ 記事インデックス
http://highlandview.blog17.fc2.com/blog-entry-171.html

ここから余談になりますが、シャアが明確にニュータイプ的なセンサーを使用するのは、ファーストの続編『機動戦士Zガンダム』第1話「黒いガンダム」ではないか、という気がします。
(「アムロ絶対殺すマン」センサーは、ア・バオア・クーでも使っていますが)

クワトロ「この感触……アムロ・レイ……ララァ・スンか……!?」


主人公カミーユに対して、グラサンノースリーブが、アムロやララァの感触と同じようなものを感じているという台詞です。
これをそのまま受け取れば、アムロはともかく、あの時点でのララァに対してもニュータイプ的な感触を同じように感じていたということになりますが、まあファースト以降のことは、後付け補強的に結構何でもできてしまいますからね。(だから、記事本編でも参考資料にはしませんでした)

ちなみに賢明な読者諸氏なら、上記を踏まえて、「ララァとニュータイプ的に精神接触できていたなら、なぜアムロみたいな事ができなかったの?」という疑問も浮かぶのはないかと思います。

これについては過去記事でも触れたことがありますが、私は「シャアが、ニュータイプ同士の関係になる前に男女関係になってしまうから」ではないかと思っています。

0079_manandwoman.jpg

ニュータイプ同士の関係を結ぶ前に、ニュータイプ少女と男女の関係になってしまうんですね。シャアは。
で、自分は役割を押し付けられるのが死ぬほど嫌いなくせに、パートナーには男女を前提とした関係と役割を押し付ける。
恐らくこれでは「男と女」の関係にしかならず、ニュータイプ少女は基本的に愛するシャアのために戦い、命をかけようとするでしょう。ララァ、ハマーン、ナナイあたりは、一時的にせよこのような関係になっていたのではと思われます。

ちなみにこれは『∀ガンダム』においてハリー・オードが、彼に好意を持つキエル・ハイムに対して「貧しい愛」であるとして、きっぱりと否定した関係性です。
仮面をつけた男の「貧しい愛」を、はるかな未来、同じく仮面の男が否定する。
これもまた、全肯定&全否定の『∀ガンダム』という作品に含まれる重要な要素のひとつだと思います。

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このようなシャアですから、『Zガンダム』においてカミーユ・ビダンがもしその名の通り少女であったなら、確実に寝ていると思います。
男同士であることで、シャアとカミーユの関係は「貧しい愛」による破綻は免れましたが、役割からとことん逃げるシャアはカミーユの兄とも父ともならず、結局カミーユはあちら側へ行ってしまいました。(彼を助けたのはシャアのシャドウでもあるジュドー・アーシタ)

同じようにシャアは、『逆襲のシャア』のときに、女カミーユことクェス・パラヤが父親を求めていることに気づかないまま、みすみす死なせてしまいました。人は同じ過ちを繰り返す。

劇中でシャアとクェスの間には肉体関係は無いはずです。
ですが、もしクェスと過ごす時間がもっと長くなれば、シャアは恐らく自分と彼女の関係性をはっきりさせるために、男女の関係になるでしょう。その片鱗は本編にも出ています。

クェス「あたし、ララァの身代わりなんですか?」
シャア「クェス。誰に聞いた?いや、なんでそんな事が気になる?」
クェス「あたしは大佐を愛してるんですよ」
シャア「困ったな」
クェス「なぜ?あたしは大佐の為なら死ぬことだってできるわ」
シャア「わかった。私はララァとナナイを忘れる」
クェス「……なら、あたしはαで大佐を守ってあげるわ、シャア」


はい。見事な「貧しい愛」のパターンのひとつですね。
あとは肉体関係を持ってしまえば、関係はさらにはっきりし、シャアは男性として女性を利用する側に立てるでしょう。
もちろんララァやナナイのことも忘れませんので、ここでクェスに語っていることは全て嘘です。
(そして、ニュータイプではあるが未熟な少女クェスに、その本心を見せない程度のことはできる)

これを見る限り、シャア・アズナブルが彼が望むところへたどり着く可能性はやはり無いように思えます。
『逆襲のシャア』の中で、本人も少しは自覚があるようですが、多分ちゃんと分かってない。

シャア『ジオン独立戦争の渦中、私が目をかけていたパイロット、ララァ・スンは、敵対するアムロの中に求めていたやさしさを見つけた。あれがニュータイプ同士の共感だろうとはわかる』


やはりシャアは、人間界に転生させて、人生をやり直させるしかないんじゃないかなと思いますね。
昔、一度使ったネタですが、やはりこれでしょう。

火の鳥「お前は生まれ変わって、革命家となり、インテリの世直しをするのです」
シャア「え、またですか!?」
火の鳥「その次もです」
シャア「えー!」


ですから、私は正直『ガイア・ギア』読んでいませんけど、アムロではなくシャアのメモリー・クローンである「アフランシ・シャア」というキャラクターが存在する事は、とても納得できます。
それは『逆襲のシャア』ラストで、受精卵(サザビーの脱出カプセル)に戻ったシャアには、人生やり直す必要があるからだと思うんですよね。それは義務でもあり、罰でもあり、多分チャンス(恩情)でもある。

ただし、アムロの方は転生どころか思念体にすらならないと思うけどね。


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おまけ(今回の歌ネタ)


今回はなぜか歌ネタが多かったのですが、文中に入れるとさすがに邪魔だと思いましたので、末尾おまけとして、元ネタ動画を集めておきます。(ネタの時点で邪魔とか言わない)







書いてる本人が途中で「こんな長いの誰が読むの?しかもおふざけだらけで…」と思った記事を最後まで読んで頂いて、本当にありがとう。
よく考えたら、毎回どの記事もそうなので、懲りずにまた書くと思います。ではまたお会いしましょう。
それは昔。私がまだ「お兄さん」で通用するほどの昔。
確か正月で、祖父の家に親類が集まって食事をしたあと、私は居間で何人かとTVを見ていた。

そこへ、親戚の幼児(当時2~3歳ぐらいか?)がトコトコ歩いてきて、あぐらを組んで座っていた私のひざにちょこんと座って、私の体にもたれかかり、一緒にTVを見始めた。私は驚いた。なぜか。

関係が日常的で、深ければわかります。
でもこれまで、せいぜい盆と正月に何度か遊んであげた程度の、覚えているかどうかも怪しいレベル。
そんな人間の膝に、こうも屈託なく座り、全幅の信頼を寄せるように体を預けられるものかと、幼い頃から人見知りで警戒心の強い子供だった私は少し驚いた記憶があります。

もちろん子供が飽きて、どこかへ行くまでの間、私はおとなしく座っていました。

チンピラ主人公のズボンの端


『グランド・セフト・オート(GTA)』という超人気ゲームシリーズがありますね。
アメリカの架空都市を舞台に、車を盗んでイカした(イカれた?)チンピライフを満喫する自由度の高いゲームです。


私は『GTA3』を途中までプレイしたことがあるだけですが、このゲームをプレイして何より感動したのは、オープンワールド(箱庭世界)のつくりこまれた架空都市が、反社会的な存在であるチンピラ(犯罪者)に与えられていたことです。
現代社会的なゲーム舞台で心から自由に遊ぶには、反社会的な存在になるしかない。

ゲーム上、自動車泥棒や暴行・殺人がシステムとして用意されているからそれをするのではない。
自分(プレイヤー)がどうしようもないクズだからこそ、それをするのだ。楽しむのだ。
少なくとも私には、そういうゲームでした。

こうした『GTA』的なゲームで、「チンピラ主人公のズボンの端を、いつの間にか見知らぬ幼児が握っている」というシチュエーションはどうでしょう? その姿をちょっとイメージして欲しい。
主人公が歩くと、幼児もそのまま拙い歩き方でついてくる。
止まれば、幼児も止まる。

このようなギミックを追加するだけで、ゲーム内容が変化したりはしないだろうか。

もちろん暴力的なプレイに何も制限はしない。
だが、幼児が巻き込まれた場合、たやすく死んでしまい、二度と主人公のズボンの端は握らないだろう。

ちなみに、Twitterで(間接的に)頂いた反応によると、GTA+幼児は『BioShock(バイオショック)』というゲームで、似たようなシチュエーションは体験できるらしいです。



私はこのゲームを全く知らないので、少し検索してみたのだけど、プレイヤーの選択で「助けるか」「能力強化の犠牲にするか」を選べる、リトルシスターというキャラクターがそれにあたるのだろうか?

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病弱な妹の薬代を稼ぐ兄


考え方的には、先程の幼児とむしろ逆になるけれど、「GTA的主人公に盲目で病弱な妹を追加する」というのは、どうだろう。

妹には日々の生活費と莫大な手術費用が必要になる。
兄は反社会的な活動でそのお金を稼ごうとする。それが最も手っ取り早く合理的だ(おまけに楽しい)。
だからゲームプレイ内容は、通常の『GTA』と全く変わらない。
いや、むしろ積極的に犯罪や殺人などをすればするほど、それだけ妹の為になるはず。

いつもの自由な行動(犯罪や暴力)の結果、「盲目の妹」の命が助かっている、という要素だけがゲームに追加され、制限は何もない。

もちろん盲目の妹は、兄の仕事を知らず、自分の為に無茶をしているのではないかと、いつも主人公を心配している。

AI王様と私


いくつか思わせぶりなイメージを書いてきましたが、ここまでのあれこれを踏まえて、もう少し具体的な妄想ゲームを考えてみましょうか。

もちろん、ゲームを実際に作るでもなく、リアルにゲームを設計するわけでもなく、面白おかしくコンセプトだけを提示して、ゲームを考えるふりをしながら「物語」について考える、という、このブログで何度もやってるいつもどおりのアレです。
単なる妄想にすぎないので、ここからは読者諸氏の豊かなイメージ力(ちから)に頼ることになります(それもいつもどおり)。

さて、どんなゲームか。

実は、『ターミネーター2』的な「暴力装置とその主人のコンビ」という構造のゲームで、面白いことができないかな、と以前から考えていました。

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ただ、プレイヤーが担当するのは、暴力をコントロールする側(主人)の想定で考えていました。
でも、ゲームにおけるプレイヤーという存在は、むしろターミネーターに近いのではないのか。

プレイヤーは暴力を担当するキャラクターとして、コンピューター(AI)の主人とペアを組む。
その方が、構造的にも、内容的にも興味深いものになるかも知れない。

プレイヤーは暴力の象徴的なキャラクターになります。
ターミネーターのような存在でもいいし、サムライや騎士でも、魔法使いや超能力者でも何でもいい。
キャラクターとして大事なことは以下の3つ。
  • 比類なき戦闘力をもっていること(暴力装置)
  • ある目的のために、仕えるべき「王(主人)」をもっていること
  • 暴力は「王」の許可を得ることで初めて使用できること
※「王」というのは地位や役職ではなく、概念的なキーワードだと思ってください。

ゲームでは、プレイヤーは自分が仕えるべき主人となる「王」(AIキャラクター)を、用意された何人かの中から選択できるとよいですね。

それぞれの「王」はそれぞれ自分の目的を持ち、暴力装置である主人公(=プレイヤー)を、どのような目的で、どのように使うか、という利用目的、倫理基準、判断基準などが異なります。

ある「王」は復讐のために。別の「王」は逃避行のために。また別の「王」は何かを手に入れるために。
個人として達成したい目的を持っており、そのために主人公(=プレイヤー)の力を必要とします。

主人公(=プレイヤー)の暴力(戦闘能力)は、何段階かのレベルに分けて制限がかけられており、その制限が解除できるのは、自らが仕える「王」のみ。
「王」が制限を解除することで、圧倒的な暴力をゲーム内で振るうことが出来ます。

要するに「三蔵法師(王)に対する孫悟空(暴力装置)」、「水戸のご老公(王)に対する助さん(暴力装置)」をするゲームといえば、分かりやすいでしょうか。

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ご老公が「懲らしめてやりなさい」と言った時だけ、助さんの暴力は解放され、「それぐらいでよいでしょう」と言った時点で、暴力はまた制限される。そういうゲームです。

暴力の使用はプレイヤーではなく、仕える「王」に委ねられますが、暴力が制限される方向だけで不自由になるとは限りません。

仕える「王」によって、暴力の使用基準は異なりますので、「ちょっと、足になる自動車を調達してこい」「この村を住民ごと焼き払え」などという倫理基準でプレイヤーを使おうとする「王」もいるはずです。

場合によってはプレイヤーが望まぬ状況で暴力を振るうことを命じられる可能性もあるでしょう。
それでも基本的には暴力装置に徹して、忠実な「王」の剣となり、「王」の目的を達成することがプレイヤーの役割になります。

『Fate』シリーズでの「サーヴァント(英霊)」側をプレイするゲーム、とも言えるかもしれないですね。

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ここまでの基本ルールまとめ


ここまでいかがでしょうか。
所詮、妄想にすぎないので、コンセプトだけ把握して頂ければ大丈夫ですが、ここまでの基本ルールを簡単にまとめておきます。
  • 主人公(=プレイヤー)は、自分が仕える「王」(AIキャラ)を決め、その従者となる。
  • 「王」はそれぞれ背景も個性も異なるが、目的のために主人公を利用するという点では同じ。
  • 主人公の戦闘能力は「王」に捧げたもの。勝手に暴力をふるうことはできない。
  • 主人公の戦闘能力にはリミッターが設定されており、これを解除できるのは「王」のみ。
  • 「従者」として、「王」の目的をサポートし、それを達成することでゲームクリアとなる。

では、この「王(主人)と暴力装置(従者)」コンビによる、ゲーム全体のプレイイメージを考えてみましょうか。

多分、このゲームを考える上でもっとも分かりやすく、相性も良さそうな物語は「復讐劇」ではないかと思われます。
以後は、「復讐劇」をサンプルとして話を進めましょう。

復讐するは我でなし。王の望みなり。


このゲームの場合、「復讐」はプレイヤーの目的ではなく、プレイヤーの主人たる「王」の目的です。
両親の仇、恋人や子供の仇、同胞の仇、何かは知りませんが、あなたの主人は「復讐」を望んでいます。

主犯を含めた、n人の仇が「復讐」のターゲット。
それを共に旅しながら追い、主人を守りながら、ターゲット全員をひとりずつ殺していくのがこのゲームでのプレイヤーの役割です。

こういう設定では、復讐すべきターゲットにも、それぞれ人間模様があり、複雑な事情があり、というのがセオリーなので、標的を追う中で、主人と従者(プレイヤー)は、ターゲットの個人的な背景を深く知ることになるでしょう。

命を狙われていることに気づいたターゲットが、あわてて雇った何十人もの用心棒。
「王」によってリミッターを解除された主人公が、圧倒的な暴力でそれを粉砕していく。

そして、追い詰めたターゲットをどう「処理」するのか。

このゲームでは、主人の命令(制限解除)なしでは、プレイヤーは暴力を振るうことが出来ないので、ターゲットの背景を知った上で、主人が下した判断に従うことになるでしょう。

あなたが仕えることを決めた「王」は、ターゲットを殺すのか。見逃すのか。

この生殺与奪の権利を、プレイヤー(人間)ではなく、パートナーである主人(AIキャラ)に完全に預けてしまうという点がちょっと面白いかな、と思っています。AIの言うとおりにターゲットの命を奪う人間。

あくまでも構造上の面白さなので、コンピューターゲームとして実際にあったとして単純にどうだろう?とは思いますが。

復讐劇にスポットを当てれば、これは『無限の住人』で少女・凜(主人)に雇われた用心棒・万次(暴力装置)をプレイするゲームでもあります。



万次は凛の仇である逸刀流には何の恨みも因縁もありません。
実行者こそ万次ですが、凛の殺意が逸刀流を殺すのです。

その万次の視点と役割で物語に関わる、というのをちょっとやってみたい気がします。

よその世界の他人事を救う英雄


そもそも、ゲーム世界での魔王の危機も、銀河系の危機も、個人的な復讐も、現実世界からコントローラーを通じて介入するプレイヤーにとっては、はっきりいって、よその世界の他人事なわけです。
プレイヤーは究極的にいえば、このゲーム世界の誰にも義理もなければ、恨みも利害関係もない。

でもだからこそ、その世界の論理に縛られず、憎しみの連鎖にも囚われず、綺麗事の理想を押し通したり、メタ的な視点で解決法を探すことも出来る。

今回のゲームでは、復讐に燃える主人(AIキャラ)こそが、真にこの世界で生きるキャラクター。
それに仕える従者(プレイヤー)は、誰にも恨みもなければ、義理も利害関係もない……でも殺そうぜ!

他人事気分で関わりながら、圧倒的な暴力で、よその世界を決定的に変えていく。
それこそゲームにおけるプレイヤーなのだから。

AI人格いじりによる不確定の未来


さて前述したように、プレイヤーに、目の前の標的を殺すかどうかの権利はありません。

ですから、どうしようもないクズに対して「見逃せ」と命じられるかも知れないし、改心して真面目に暮らし女房子供もいる人間を「殺せ」と命じられるかも知れない。

全ては仕えた「王」の選択次第。

なのですが、AIキャラクターが登場するゲームなら、プレイヤーが干渉することでAI人格に影響を与えて変化させていくのも、ひとつの重要な楽しみ。

旅の中で、状況によっては「王」はプレイヤーに相談をしてくることもあるでしょう。
どう返答するかはプレイヤーの自由で、暴力とその支配について、諭すことも誘惑することもできるはずです。

コミュニケーションとプレイヤーの行動、そして行動の結果として、復讐の中で「王」が実際する体験。
それが、AIキャラである「王」の人格に影響を与えながら、ゲームは進行していきます。

ですからゲームシナリオ上、ターゲットの誰を殺して、誰を助けるか、というのは当然確定していません。
そのときの主人のAI人格と感情的なブレによって、プレイごとに選択は異なっており、恐らくプレイヤーも完全にコントロールすることはできないのではないでしょうか。できないといいですね。

用意された「命令違反」


あと必要そうなギミックは、「従者による命令違反」を可能にしておくことでしょうか。
主人公の暴力は「王」によって管理されているわけですが、何かのデメリット(ペナルティ)と引き換えに、自らの意思で暴力をふるえるようなゲームシステムを組み込んでおくべきでしょう。

例えば、これにより、「王」が「見逃せ」と判断したターゲットを、「御身を守るために仕方なく」殺すことができたりする。
これは「王」の命に逆らった命令違反になるので、2人の関係に大きな影響を与えるかも知れない。

他にも、「王」がさらわれ、リミッター解除をしてもらえない状態で、救いにいくためにやむなく暴力を解禁したり。
「王」がかわいがっていた野良犬に協力をお願いして、おいしい串焼きをゲハハとつくったり……いや、これはやりすぎだな。

プレイヤーにとって、暴力を管理されるストレスを解消する手段であると同時に、シナリオ上の自由度を得るためにもぜひとも必要なシステムだと思います。

はたして、「王」と「従者」の復讐の旅の結末はいかに。


『ヴィンランド・サガ』的な要素もありますね。多分。

擬人化されたゲームシステム


以上で、大体このネタで考えていたアイデアは出しきりました。

このゲーム、再三書いているようにコンセプトだけのものなので、実際にゲームにしたさいにどうなのか?どうするのか?という事はあまり具体的には考えていません。
最初に書いたとおり、ゲームを考えるふりをしながら「物語」について考える、というのが最大の目的であるように思います。

もしゲームが実在していたら、ストレスが溜まりそうな気もしますが、例えば用意したシナリオで物語を誘導するタイプのゲームでは、そもそもプレイヤーの暴力はゲーム側にきっちり管理されているわけです。
ここはイベントシーンだから人は殺せない。ここはバトルステージがだから殺せる。それが終わるとイベントだから殺せない……といった具合に。

もっといえば、シューティングゲームや格闘ゲームでさえ、暴力をふるうためのルールやタイミングは、ゲーム進行によってきちんと管理されている、とも言えないこともない。

であれば、今回のネタに出てくる「王」とは、プレイヤーの暴力を管理するゲーム側のシステムが擬人化され、人格を持ったキャラクターのように考えることもできるかも知れません。

ある場面では「誰も殺さず、情報を集めろ」と、シナリオ進行させる。
ある場面では「50人敵がいるぞ。全員やっつけろ」と、ステージミッションを設定して戦わせる。
ある場面では「仇だが、この男は見逃すことにする……」と、ゲームの不確定要素として変化を与える。

一種のゲームマスターであり、審判であり、出演俳優であり、すばらしいゲーム体験を共につくるための正にパートナーでもあるわけです。

あとがき・まとめ


ゲーム世界ではプレイヤーこそが圧倒的な暴力を持ちますが、それをメタ的なゲーム進行(システム)ではなく、もっと自然な形でコントロールできないだろうか、というのが、アイデアの発端だったと思います。

それでこんな不自由な制限があって、普通のゲームでは当然のように与えられる「暴力をばらまき、誰を殺すのかの自由」がないゲームを考えてみました。

恐らく擬人化したことでストレスは増大するとは思うのですが、その代わり、我慢に我慢を重ねたあげく、「存分に暴れ回れ!」と、主人から全てのリミッターを解除されて振るう暴力の嵐は、いつでも撃てる銃とはまた別の意味での気持ちよさを与えてくれるのではないかという気はします。


ああ。そういえば、『BLEACH』では、死神が現世に来る際に霊力を封印されるため、「限定解除」を行うことで本来の戦闘能力を発揮できるというシステムがありましたね。

暴力リミッターの解除という意味では、ああいう感じに近いかも知れません。

今回、意図的に映画やマンガなど、さまざまな作品を持ち出しましたが、感情や選択を司るイデオロギー型のキャラクターと、破壊と問題解決を司る暴力型のキャラクターの組み合わせによる、バディ関係というのはよく使われるパターンです。

その関係をゲームで再現しつつ、プレイヤー側に暴力型主人公をやらせてみてはどうか?というのが、今回のネタの肝ですね。

妄想なので私が考えるのはあくまでコンセプトアイデアだけなのですが、このコンセプトを元に色々考えてみるのは面白そうです。何かよいアイデアが浮かべばまた何か書きますし、これを読んだ方で何かアイデアや情報などがあれば教えて頂ければ幸いです。(これと同じ体験ができるゲームがあるなら、プレイした方が早くて楽なのでやってみたい)

それではまた、次回お会いしましょう。(特にオチフレーズ思いつかず)
この世に生を受けて以来、富野アニメで産湯をつかい、アニメーションを見続けること幾星霜。

老いさらばえた現在ではさすがに視聴本数はかなり抑えているけれど、それでもハードディスクレコーダーに録画されてる作品の視聴が追いつかない。
それらは再生ボタンが押されないまま、地表の空気に触れることなく眠り続ける化石のように、クールごとに地層として折り重なっていく。

ということで、地層と化した録画を消化すべく、先日『この素晴らしい世界に祝福を!』全話を見ました。


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2016年1月~3月放送の作品なので、地層としてはかなり新しい。
もちろんもっと下の地層に、カンブリア、オルドビス、シルル、デボン紀などの「HDの中の古生代」と呼ばれる録画もあるのですが、この作品を見るのを決めた理由は、1クール全10話しかなかったこと。
見やすい。

小説原作の作品ですが、私は小説はまったく読んでいません。
いわゆる異世界転生(転移?)もので、かなりキャラクター力(ちから)で押し切るファンタジーRPGコメディといったところでしょうか。楽しく見ました。面白かったです。

視聴前に作品の傾向から「異世界RPG」に介入するようなメタ視点は想定していたのですが、その世界でのオンラインゲーム的なゲームルールが、想定以上に物語内できっちりと大事な役割を果たす作品でした。

一癖も二癖もあるキャラクターが最大の魅力の作品だと思いますが、けしてそのためにゲームシステム(ルール)をないがしろにはしていませんでした。むしろキャラクターの特徴をシステム(ルール)の枠内でキレイに説明できるはずです。

呼べば答える腐れ縁 ただれた仲間だ 人畜無害の人材


『この素晴らしい世界に祝福を!(このすば)』の世界では、主人公を始めとした冒険者たちは、戦闘やクエストで得た経験値を元に、任意でスキルポイントを割り振って、冒険に役立つさまざまな技能を覚えることが出来ます。ゲームそのままですね。

もしこの世界へ私が転生するとしたら、どのスキルにポイントを使うのか相当悩むことになるでしょう。
異世界とはいえゲームではなく、そこで本当に生きていかねばならない現実でもありますからね。

さてその一方、主人公パーティは全員頭のネジがおかしいキャラクターたちばかり。
まずはそのイカれた仲間たちを紹介しよう。

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エントリーNo.1
スキルポイントを爆裂魔法にしか割り振ってない魔術師

・最強の爆裂魔法(ティルトウェイトやイオナズン的な)を覚えているが、それしか使えない。
・その爆裂魔法も消費魔力の関係で1日1回しか使えない。
・魔法を使うと、あとは倒れるのみ。(誰かが回収し、背負って帰る必要あり)
・「爆裂魔法しか愛せない」「一日一爆裂」

エントリーNo.2
防御・挑発系スキルのみに割り振り、攻撃が当たらないドM女騎士

・前衛として、敵の攻撃を一手に引き受けるが、それを喜びとする真性のマゾヒスト。
・攻撃は当たらないし、両手剣修練スキルを覚えるつもりもない。
・非常にタフで、ルックスも良いが、己の性癖のためにのみスキルポイントを使っている。
・「モンスターと必死に戦うも力及ばず敗北し、陵辱の限りを尽くされたい」

エントリーNo.3
女神であり僧侶系呪文のマスターでありながら残念知性のプリースト

・正真正銘の女神であるが、お調子者で考えなし。打たれ弱くて泣き虫なかまってちゃん。
・女神ゆえに冒険者としてはすでにカンストしており、低い知力や幸運は上昇する余地はない。
・必要スキルポイントが高いが冒険に直接役には立たない宴会芸スキルを全習得。
・「駄女神」「元なんたら」「狂犬女神」「なんちゃって女神」

頭のネジの緩み具合という意味では、いずれ劣らぬ猛者(もさ)揃い。
だが、彼女らがキャラクターとしてそう見えてしまう理由のひとつとして、冒険者として常軌を逸しているほどにスキルポイントの割り振りが極端であることがあるでしょう。
いわゆる(スキルポイント)を「○○に全振り」キャラばかりということですね。

説明のできる「頭のおかしさ」


彼女らは、単にコメディのできる「頭のネジがおかしいキャラクター」として登場した、ということではありません。
彼女らの「頭のおかしさ」は、作品世界の中でちゃんと筋が通った「頭のおかしさ」だからです。

先ほど、私ならその世界での人生を生きるためのスキル習得に大いに悩むだろう、と書きましたが、おそらくそれが冒険者として普通の考え方だと思います。

それが例えゲーム的な世界であっても、普通はそこで優位に立ち振る舞うことが出来るように、より有益なスキルにポイントを割り振って、キャラクター(自分自身)を成長させていくはずです。

そうしたゲーム攻略的な効率と効果を重視した冒険者像を、標準(常識)として置いた上で、常識はずれの彼女たちがいる。
すなわち。

彼女らはスキルポイントを自分の趣味や性癖に全振りしてしまうような人物

ゲームなら酔狂で済むが、それで本当に生きていかねばならない

冒険者としては、常軌を逸している

頭がおかしい


このような構造となっており、ゲームルール(システム)に則った「頭のおかしさ」になっています。

逆の言い方をすれば、彼女らと直接会って話をしなくても、ステータスや習得スキルが記載された冒険者カード(キャラクターシート)を見るだけで、彼女らの「頭のおかしさ」は説明ができるはずです。
非常に理に適った、スマートな「頭のおかしさ」といえますね。

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※「頭がおかしい」という言葉をこうも集中的に書いたのは初めてのことであり、少し読み返すだけで段々と私自身の「頭のおかしさ」に疑いを持ってしまうが、まだ何とか正常を保っていると思いたいので、文を先に進めることにします。

ポイント全振りキャラクター達が起こす局所的な奇跡


ここまで紹介したように、主人公パーティは極端なステータスと全振りスキルを持った非常に普通の冒険のしづらい(=コメディにしかならない)集団となっています。

コメディ製造機と化した彼らが巻き起こすドタバタが、この作品のメインの楽しさといえるでしょう。

ただ、ここでポイントとなるのは、趣味&性癖の全振りスキルは全く使えないわけではなく、極めて限定的な使い方ですが、時と場合によっては平均的にスキルを上げてる冒険者より、よほど強力な力を発揮するということです。

スキルが偏っているだけで、ポイントは振られているのです。いや、偏っているからこそ特定の領域では通常の冒険者を遥かに凌駕します。コメディするだけの弱者ではありません。

それでも、ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ!という扱いが難しい極端なステータス&スキルではあるのですが、これを主人公カズマ作戦立案のもと、メンバーたちが上手く連携することで、絶大な効果を発揮する(ことがある。気がする。ごくまれに)。

人口に膾炙したゲーム的な異世界を舞台にした上で、その世界のルール(システム)に則った、極端なコメディ用のキャラクターメイキングをした愉快な(イカレた)メンバーでパーティを組ませる。
普段は無能または迷惑な存在だけれど、ある限定された状況下で協力しあうことによって、その極端なステータスやスキルがプラスに活きる、という設定は上手いし、とても使いでがあると思う。

もちろんその上で、魅力的なキャラクター表現すなわちキャラクター力(ちから)に尽きる作品だとは思うけれど。

原作小説を読んだことはないけれど、作者の方はかなりクレバーに世界やキャラクターを設定し、使いやすい物語構造を組んでいるのではと感じます。

私は、物語の基本構造や型みたいなところへの興味が大きいので、この作品は魅力的で優秀なテンプレート(褒め言葉)だと評価したいと思います。


この物語構造に、どんなストーリーが乗る(展開される)のかというのはまた別の話です。

世間的には、このストーリー部分で評価の大部分が決められることが多いような気がしますが、私は基本設定(物語の型)だけで充分フィクションとしてすばらしい、と評価してしまいますね。

「設定はいいけど、話が……」ではなくて、「設定がいいので、その時点でフィクションとして優秀」という評価の仕方です。ストーリーの問題はまた別。

自分でも極端だという自覚はありますが、面白い物語の型、優れた物語構造、基本設定に興味の軸足を置くのは、私がフィクションに接する上での基本方針です。
ポイント全振り、とまでは行かないまでも、偏ったポイントの振り方をしてるとは自分でも思います。

例外的なチートキャラクター『あくあっ女神様っ』


ここまで本作品におけるシステムで説明できるキャラクターの「頭のおかしさ」を紹介しました。
ですが、ひとりだけルールやシステムを逸脱した、規格外のキャラクターが存在します。

それはもちろん、人あらぬ身である女神アクア様でございます。

なぜ女神が、異世界の冒険に付き合ってくれるのか、についてはWikipedia:このすばの記述を引用しましょう。

不慮の事故で命を落とした高校生の佐藤和真は、天界で女神アクアに異世界への転移を持ちかけられる。アクアは「異世界には望むものを1つだけ持っていける」と異世界転移の特典を持ち出しながら勧誘するが、アクアの態度があまりにも和真を味噌っかすに馬鹿にしていたために和真は激怒し、アクアを「異世界に持っていく"もの"」として指定する。


女神に何が望みか?と訊かれたときに、女神本人を希望するという、要するに『ああっ女神さまっ』みたいなものです。


もちろん、『このすば』は、汚い螢一と汚いベルダンディーのマリアージュなんですけどね。

ともかく女神アクアは、神すなわちゴッドであるゆえに、冒険者としてはスタート時に成長の余地なくカンスト(レベル99みたいなものか)。
プリースト系の呪文はもちろん、有り余るスキルポイントで近接スキルや宴会芸まで身につける余裕ぶり。
彼女が本気を出せば、魔王も何とかなるのではと思わせるチートキャラクター。

実際にアニメ本編でも主人公カズマが死んだ際に、複数回死んでいるためもう甦れないという世界のルールを、後輩女神を恫喝することによって、ねじ曲げました。

この女神アクアが仲間にいることで、いざというときに世界のルールをねじ曲げた解決策すら物語展開として選択できます。
非常に便利なキャラクターですが、神様だけあって、あまりにも強力すぎるといえます。
プリーストとして、サポート側にまわらせているとはいえ、それでも恐ろしく強い。

強すぎるキャラクターは通常、ストーリーを進めるにあたって邪魔に(都合が悪い)なってしまうことも多く、いっそ退場させるか、さもなくば力が思うように振るえないよう強力な枷でもつけないと、レギュラーキャラとしては使いづらい。

例えば簡単に思いつくのは「神の力が封印された、または制限された」あたりでしょうか。
普段は本来の力の何分の一しか出せず、卍解もできないことにして、ここぞという場面で制限が解除されることにする。
システマチックで分かりやすく、オンラインRPG的なこの世界にも合っているような気がします。

ですがこの作品において、女神アクアには何の制限もかかっておらず、神のごとき能力をそのまま使うことが出来ます。
しかし、ある制約により、女神の力はデウス・エクス・マキナとはなっていません。

では『このすば』における女神の制約とはなにか。

それは、女神アクアがバ……いや頭のネジが少々お緩みになっていることに他なりません。
つまり、もう成長する余地のない、悲しいほど低い知力ステータス。
それに加えて怠惰で脳天気で、ちやほやされて甘やかされたい、お調子者の泣き虫のかまってちゃん。
結局、先に説明した「イカれ気分のロックロール頭」であることに、すべては集約されるわけです。
ほかに、なんにもいらないね。作者はしたたかだね。

恐ろしく強大な力。それを使えば絶対的な神にも悪魔にもなれる。
だがゆるい頭ではどちらにもなれず、考え無しで力を使って莫大な借金をこさえるぐらいが関の山。

『このすば』は、この世界のシステム(ルール)にきちんと則ったコメディパーティのお話です。
にも関わらず、そのシステムを壊せるぐらいのチートキャラ、女神アクアにはなんの制限も課さず、ただただ彼女の残念なパーソナリティだけでバランスを取っているのが面白いと感じました。
核兵器の発射リモコンをネコに預けているようなものというか。

「力を制限された女神」と「何も制限されていないがとにかく駄女神」というのは、物語に与えることができる力の大きさはは似ているかも知れませんが、キャラクターとしては全く似て非なるものです。
このあたりのコントロールとキャラクターの立て方が興味深いですね。





実はTwitterで雪駄さん(@H926)さんの億泰ツイートを見て、この一連の『このすば』話は思いついたのでした。

大きなる力には大いなる制限がともなう。
ただし、その制限は分かりやすく目に見えるものとは限らない。

『このすば』はアニメ二期決定しているということで、あの素晴らしい異世界をもう一度(あのすば)。ということになったようです。期待しましょう。よりひどい内容を。




あとがき および今後の予定など


以上で本文は終わっていますので、以下はあとがきというか雑文です。

久しぶりの記事どうしようかな、ということで、Twitterからゲーム関係のツイートを拾い集め、それで1つ記事をつくろうかなと考えたんですが、やってみると小ネタばかりですが数がそこそこありましたので、ひとつずつ短めのテキストを書くことにしました。
実際やってみると、内容は何も増えてないのに、テキスト分量だけ3倍ぐらいになっています。

増えたのは、『このすば』を知らない人たち向けへの丁寧な紹介部分だったりするので、ツイートより濃度が3倍ぐらい薄まったとも言えるんですよね。
だから私はいつもツイートベースに記事書くときは、見かけのテキスト分量ではなく、内容的にも価値が増えるようにしてるんですが、今回は意図的にやめました。なぜって? とりあえず早く更新だけしておきたかったので。
私はサボってるだけで、ブログ更新を意図的に休止してるわけではありませんからね。
そう思われても仕方ない更新間隔ですけどね。

とりあえずしばらくは、拾い集めたゲーム系ツイートで、短めテキスト、短い更新間隔でなんとかしたいと思っています。
『パトレイバー』のシリーズ記事もそういって始めたんですよね……。あれの続きも書きます。
もちろん、当ブログのメインコンテンツともいえる富野アニメの記事もネタがないわけじゃないから何か書きます。

荒木哲郎監督の『甲鉄城のカバネリ』は、録画してあるけど全く見ていません。
こうして録画地層は、三畳、ジュラ紀、白亜紀と積み重なっていく……。



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