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生きているからつらいんだ!生きているから!
キ・テ・イ・ル、といえば現在、大人気放送中のアニメーション作品『キルラキル』。
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私も毎週を楽しんでいるわけですが、特に好きなシーンはこれですかね。

とある病院の病室で、ベッドに横たわる少年と付き添いの母。

まさお「……ママ、どうせ僕、死ぬんだろ?」
母「怒りますよ、そんなこと言ってると!そう今日はね、グランドチャンピオンさんがお見舞いに来てくれるのよ」

そこへSPを伴って、ツカツカと病室に入ってくるひとりの少女。

少女「いやー、まさお君、神衣着用者、鬼龍院 皐月だよ」
まさお「あなたがグランドチャンピオン?」
少女「グラ……神衣着用者、鬼龍院 皐月だよ」
まさお「神衣って、極制服よりすごいの?」
皐月「ははははは。極制服よりすごいかだって?」
皐月「極制服は少しの努力で誰でも着られるんだよ。神衣というのはね、一つ星を着てー、二つ星を着てー、三つ星を着てー、天下に乳房を晒しても恥ずかしくない人間だけが着れるんだよ」

まさお「僕もいつか神衣が着れるかな?」
皐月「着、続ければね」

サラサラと色紙を書く鬼龍院 皐月。

皐月「着られる前に、着ろ」
皐月「人間はね、着る人間と着られる人間の2種類に分かれるんだよ。君には『着られたい男No.1』になって欲しいな」

書いた色紙を少年に渡す鬼龍院 皐月。

皐月「じゃあ鬼龍院 皐月は行くからね」

病室を出て行く鬼龍院 皐月。廊下から聴こえる声がだんだん小さくなっていく。

皐月「右足着てー、左足着てー、右手着てー、左手着てー、股間着てー、着続けるんだよ……」


こんなシーンなかったって?そんな瑣末なことにこだわっていたら大きなことは成し遂げられません。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんやですよ。そら陳勝・呉広も乱起こすわ。

さて『キルラキル』本編については、今はただ楽しむことにして、今回は背景でにぎやかしを務めるモブキャラクター(群衆)のおはなし。

『キルラキル』本能字学園のモブたち


『キルラキル』に登場するモブ、その中でも特に物語の舞台となる本能字学園の一般生徒たち。
彼らは名もなく、個別認識もできず、背景として後ろをにぎやかす存在に過ぎません。

でも私はなぜか『キルラキル』のモブたちに懐かしさを覚えます。
彼らは自分たちがモブであることを自覚しながら、主人公たちが繰り広げるドラマをいちばん近くて面白いポジション(視聴者よりもエロい角度、とも言えるかも知れないが)で見ようとしている。
要するに物語の本筋とほぼ無関係に、モブが欲望を持っており、貪欲に行動しているんですよね。
もちろん、モブがそんなことをしたところでストーリーへの影響は全くないのだけれど、だからこそ好き放題やっているともいえる。

そんな『キルラキル』のモブ見て、個人的な懐かしさを覚えるのはなぜなのか?
それは、私の思春期に大きな影響を与えたマンガ『宇宙英雄物語』のモブたちを連想するからです。

『宇宙英雄物語』私立恒星高校のモブたち


『宇宙英雄物語』は、『キャプテン・フューチャー』をはじめとしてSFのオマージュ、パロディ盛りだくさんのスペースオペラ。

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モブが印象的だったのは特に物語前半、私立恒星高校を舞台としたドタバタコメディのころ。
『キルラキル』での本能字学園の生徒と同じく、恒星高の一般生徒たちがモブを務めます。
彼らは主人公たちのドラマや戦いを、まるで祭りや芝居でも見物するように楽しんでいて、私は当時、主人公ではなく、このモブたちに感情移入し憧れを抱いていた。

Wikipediaの『宇宙英雄物語』ページ内「恒星高校」の項目が、モブたちをよく紹介していたので、これを引用してみましょう。

私立恒星高校(しりつこうせいこうこう)

グリフィス財団旗下の私立学校法人。十字や咲美達の通う高校で物語前半の舞台。住所は東京都中野区茅古町1-1-1。グラウンドに星詠み号が封印されている。ロジャーが創立した、海外に三つの分校を持ち大学並の施設を所持する。
全校生徒、全教員がハイテンションでお祭り好き。騒動があれば報道部や映画研究会が駆けつけ、話が脱線すると演劇部が盛り上げ、面白いという理由で十字に付きまとい、女生徒たちは「物語はヒロインを交えて盛り上がるべき」としてヒロインの座を射止めるべく十字にアプローチをかけ、更に戦闘時にはサバイバル研究会が戦術を担当する。


彼らは物語をいちばん近くて面白い位置で見ることについて貪欲だ。必要とあれば(あくまでモブとしてだが)介入も辞さない。
引用内にもあるように、主人公たちが本筋から脱線しそうになったら演劇部女子が軌道修正したりしていたが、あれも物語進行上の要請というより、観客(モブ)としてより面白いものを見るためだったように私は感じていた。

つまり物語への奉仕というより、あくまでモブたちが面白がるための欲望ベースによる介入。
結果、彼らは物語をいちばん近くて面白い位置で見ていたと思う。読者である私よりも。

だから私は当時、モブになりたかった。より正確に言えば、モブの位置で物語を眺めて、背景で物語に参加したかった。時には爆発に巻き込まれて吹っ飛ぶ危険性があるにしても。
『お笑いウルトラクイズ』のにぎやかし参加芸人みたいなものかも知れない。決してメインにはなれなくても、米軍バズーカが飛んでくる○か☓の前にはいたいし、宴会場でのプロレスコーナーでダブル猪木が降臨するのを目の当たりにはしたい。

人によってはモブでもいいから入りたい学校が、例えば「友引高校」だったり「蓬莱学園」だったり「麻帆良学園」だったりするかも知れません。この辺りは、世代だったり好みだったりするでしょうね。

余談ですが、マンガ雑誌購読歴として思春期にコミックコンプ(『宇宙英雄物語』連載誌)を買うルートに入ったことがのちの自分の方向性を決定的にしたと、今から考えると思います。
これは冗談ではなく、そこのセーブポイントからやり直して、他の雑誌を買ってたりすれば、また違う人生があったはず。それが良いか悪いかは別として。

ジェラシーが止まらない。


『キルラキル』の本能字学園は、モブ生徒になるにしても過酷すぎる環境ではありますが、それでもモブたちは、主人公たちが進めている本筋のドラマとは全然関係なく、モブとしての欲望や面白さを自分勝手に追求しているところが良いですね。

物語に奉仕する気が全然ない結果、エロスの塊のようなモブも多くて、好印象を抱かない方もいるかも知れません。実際『キルラキル』モブに対して否定的な発言もネットでは見受けられたましたが、画面を見てる視聴者より、画面内の名もないモブの方が絶対楽しんでるはずなんです。むしろそこに嫉妬すべき。

少なくとも私は嫉妬を感じますね。やつらが私より楽しんでいるさまを見て感じるのは嫌悪感ではなく嫉妬。ジェラシックパーク開園です。

『あしたのジョー』のホセ戦でドヤ街の子供たちが試合を見に来ることができなかったように、『キルラキル』も今後の展開によっては、のんきなモブなど出る余地も無い展開になるかも知れません。個人的には学園と生徒モブたちに何らかの出番があればな、とは思いますが。

純粋に作業コスト的な意味でもモブ大活躍が無くなるかも知れないけれど、できれば背景で爆発に巻き込まれて彼方へ吹っ飛んで欲しいと願ってやまない今日この頃です。

呼びかけよう名前を すばらしい名前を


『宇宙英雄物語』のモブといえば、もうひとつ大好きな場面がありました。
主人公に「吉田」と名前を呼ばれた友人役のモブキャラが「そうか、俺、吉田かぁ」と感動するシーン。
名もない彼はこれにより「吉田」というキャラクターなったわけです。

私たちは全員が、一人ずつひとつのビュリホーネーム(ゴダイゴ)を持っているわけですが、物語世界のキャラクターは必要でなければ名前が与えられない。
しかし主人公が「吉田」と、名前を呼んだ瞬間に、そのキャラクターは「吉田」であることが確定します。まさに、名前それは燃える生命(いのち)。

私の大好きなマンガ家のひとりである那州雪絵は昔、キャラクターを命名する時に「そのキャラクターが他の誰かに名前を呼ばれる(イメージ)からつけることがある」みたいなことを言っていました。
創作手法としてなるほどな、と思った覚えがありますが、これも誰かに名前を呼ばれることで、名前持ちの個別キャラクターとして確定されるパターンと考えることもできますね。

量子将棋のプレイヤーではないですが、主人公が行動することによって物語世界が確定していく。
モブキャラに名前を付けて呼んだことで「名前付き脇役」として確定されましたが、さらに「お前確か野球部だったよな?」と言えば、彼はその瞬間、野球が得意となるでしょう。
「お前んち、ラーメン屋だよな?食べに行こうぜ」と言えば、ラーメン屋の実家と店主である両親が生成されるはずです。

で、この「主人公が物語世界を生成する」というネタを考えていくと、これが結局『涼宮ハルヒの憂鬱』なんだということに気づき、基本構造の優秀さを改めて思い知ったりするのでした。

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『彼氏彼女の事情』のモノクロモブ


アニメのモブ全体を俯瞰して語れるわけではないので、あくまで個人的に印象に残っているモブが出てくる作品をいくつか。
贅沢で上手なジブリのモブとかではなく、むしろ演出処理上の理由で(あえて)いびつな処理をしているようなものの方が印象に残りますね。

『彼氏彼女の事情』がアニメになったときには、教室内のクラスメイト(モブ)がモノクロ処理されていたのが印象に残っています。手元に映像がないのでまさに記憶の印象だけなのですが。

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モノクロモブは、純粋に省力化だったり、このアニメのテーマのひとつである、コミックっぽさを表現する手法のひとつだったりするのでしょうが、何より恋愛が大きなウェイトを占める作品として効果的だったように思えます。

つまり少女マンガ世界では「わたし」と「あなた」は華やかに色づき、それ以外はグレースケールでいいんだな、と、背景に溶けこむモノクロモブ学生だった私は感心したりしました。

他の作品、特に少女マンガ原作の作品では他にも同手法がありそうですが、私はそれらの作品をあまり見ておらず、『彼氏彼女の事情』も正直、庵野監督&ガイナックスだから見たというぐらいなので、どれくらい普遍的な処理なのかは分からないですが。あくまで自分にとって印象的だったのが、カレカノだったということですね。

『輪るピングドラム』のピクトグラムモブ


『輪るピングドラム』ではメインキャラクター達以外のモブたちが、ピクトグラムの域まで抽象化されていました。

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シーンの都合上、人間の姿でなければならない場合は、ちゃんと人間のキャラクターにしていましたので、あくまで演出上の処理としての記号、ですね。

これを見た時に思い出したのは、学生時代の友人でした。
彼は一緒に街を歩いているときなどに「今、通り過ぎた女の子、かわいかったな!」みたいなことをよく言っていました。
下手すると一瞬で通り過ぎる車の中の女の子にまでチェックを入れていたりして、全然、他人の顔を見ておらず、覚えてもいない私は「よく見てるなそんなとこまで」と、ある種、感心していたのでした。

彼が周囲をそこまで見ていられるのは、もちろん単に「女の子だいすき!」ということもあるだろうけど、通り過ぎる他人と自分の人生が無関係だと思っていないんだな、と私は感じました。
行き交う人々は赤の他人に過ぎませんが、例えば、女の子に話しかければ一緒にお茶に行けるかも知れないし、居酒屋でとなりのサラリーマンと意気投合するかも知れないし、路地のネコと一緒に散歩するかも知れない。

私はそういう世界認識ができない人間なので、行き交う人々の顔は目に映っていると思うけれど、自分に全く関係がないものとして脳が処理をせず、何も覚えていない。
極端にいえば『輪るピングドラム』のピクトグラムモブのような処理を脳内でしている。すれちがう人の存在自体は認識していて避けて歩くけれども、顔がない。

もちろん雑踏で全ての人を個別認識するような人はおらず、みんな適度に解像度を落としていると思うけど、それこそ程度問題で、自分は抽象化がひどいな、と感じた。
少なくとも社交的だったこの友人は、自分のように知り合い以外を全てをピクトグラムにはしていなかったのだろうと思う。

『輪るピングドラム』は物語上選ばれた演出なので何も問題はありませんが、私のこれは自分が無意識に選択した世界の見え方で、閉鎖性や非社交的なところがよく出ていると思う。今は多少解像度が上がったかな?

そんな記憶もあって、この作品のピクトグラムモブが、とても印象に残ったのかも知れないですね。
せっかく記号化されているのですから、物語を進行するメインキャラクターたちに集中すればいいものを、なぜかピクトグラムのモブに関心が向いてしまうという。

みな自分自身の物語の主役である一方、誰かにとっては単なる背景のモブであったりします。
フィクションのモブが何らかの意図を持って演出されているのと同じように、あなたの世界の見え方も脳内が演出処理した結果なのかも知れません。
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番組表を眺めていたら『僕は友達が少ない』というアニメを見つけました。
新番組のようです。タイトルぐらいは聞いたことがある気がしますが、私の中のゴーストが囁いたので第1話を視聴してみることにしました。

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主人公は転校生の友達がいない男の子のようですが、第1話目にして同じく友達のいない美少女たちと出会い、つるみ、口ゲンカしたりするものの客観的に見て、すでに友達のようにキャッキャしていたので、ファンタジーだなー、メルヘンだなー、ポエムだなーと、私の中の山城新伍(ゴースト)が囁きました。

ライトノベル原作だそうなので、巻を重ねていろんなキャラが増えていくのでしょうから、『僕は友達が少ない』のはきっと最初だけなんでしょうね。
「少ない」は看板に偽りありなので、タイトルを『僕は友達がチョメチョメ』に変更した方がいいと、私の中の新伍十番勝負が申しております。

美少女のうちひとり(もちろん友達が少ない)が、「エア友達」という存在しない仮想の友人と会話をしているのが印象的でした。

ということで今回は「友達がいない」というテーマでお送り致しますが、「ほんとは全然関係ない」ものもある上に、「書きたいから書くだけ」という、スプライトクールを飲んだ清春さんみたいな記事になっております。





自殺する前に1回だけ電話するとして、誰に電話する?


私自身も『僕は友達が少ない』の主人公のように転校経験がありますし、友達が少なく、また「友達が少ない」という属性でつながっている友人もいます。
(お互いに求めるものが違うので、2人で親友になれば解決じゃん、にはならない。世の中そんなに甘くない)

その友人とは同じ「友達が少ない」芸人として、「友達が少ないあるある」や「自殺する前に1回だけ電話するとして、誰に電話する?(家族以外で)」などのテーマトークでキャッキャいっております。

みなさんは自殺する直前に、友人に1回だけ電話するとして、誰に電話しますか?
友達が多い人なら「最後のお別れを言う一番大切な友人は誰にしたらいいだろう?」「もしかしたら自殺を止めてくれるような影響力がある友人は誰だろう?」ということでおおいに盛り上がる話題だと思います。

我々の業界では「そもそも電話する相手がいるのか?誰の電話番号を知っているのか?」「電話をかける友人がいたとして、電話に出てくれるのか?」という次元を検討する真剣10代しゃべり場と化します。
「電話したけど出てくれなくて留守電になり、メッセージ吹き込みがまだ途中なのに電話が切れ、さらに絶望を深めながら自殺」を回避することができるのかどうかを熱く語り合うのです。

まあ、少ないながらも深い付き合いのできる友人をつくることはできているのですが、「友達になれそうだな」と思った人と実際に友達になったのが2年後とか普通にあります。
そんな私から見ると『僕は友達が少ない』の主人公たちは、第1話であれだけできれば十分に友達づくりの才能があるといっていいと思う。
もう何も心配する必要がないので、2話以降を視聴するモチベーションが今のところ見つからない。
むしろ彼らには私を心配して欲しい。

それは、君じゃない。君の、せいじゃない。


そういえば『輪るピングドラム』ED曲の曲名を今まで「DEAD FUTURE」だと勘違いしていた。
つい先日、正しくは「DEAR FUTURE」だと初めて知りました。

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coaltar of the deepers、Ringo Deathstarr 他

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作品がもつ死の未来(運命)を改変するようなイメージあたりから来た勘違いなんだろうけど、調子に乗って「DEAD FUTUREいいよねー。ねー?」とか言ってたら、私の未来の方が死んでいたところだった。
だがよく考えれば、言う相手となる友人がいないから、その心配はまったくの杞憂と気づきました。
友人がいないと余計な恥をかく必要がないという、おすすめのライフハックを現在実践中です。

OPより好き。

リッツパーティ!レッツパーリィ!


子供の頃、いつかかなえたい夢の一つがリッツパーティでした。

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キャビアやスモークサーモンをオンザリッツしたカナッペとお酒で楽しいパーティ……をするはずが未だに実現していません。
いや、あの、キャビアやサーモンは大人だし手に入れようと思えばがんばればなんとかなるのです。
まさか「気の合う仲間」のメンバー数がこんなに足らないとは思わなかった。そっちかー、そっちかー的な。
もちろんリッツパーリィできるような部屋にも住んでないので、仲間もねえ、スペースねえ、車もそれほど走ってねえという状態ではあるんですけど。

あと「子供の頃は立食パーティを、リッツ食パーティだと思い込んでいた」という新設定を今思いつきましたので、今後は記憶を改ざんしてネタとして語っていきたいと思います。

『BLOOD-C』の奇々怪界


『BLOOD-C』は主人公の価値観が人間と違いすぎて、クラスメイトがもっとドン引きするエピソードがもっと欲しいな、と中盤頃に思っていました。

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(2011/09/28)
水樹奈々、藤原啓治 他

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朗らかに即興で歌いながら日本刀で刺しまくり、大量の返り血浴びまくって血まみれになったメガネの左右のレンズを、両手の指でワイパーのように拭きながら「メガネくもっちゃった」と円鏡師匠のように笑ってほしい。
(円鏡師匠が分からない方は、キーワード「メガネクリンビュー」と共に検索してください)

そんなことを言っていたら、そのあと虐殺ハイスクール ロックンロール(登校編)がスタート。
主人公小夜の敵である「古きもの(化物)」が学校に登校して、みんな死んだし、弁当も持ったし。
可愛いあの娘は、くるくるパーマに、長めの臓物引きずって。といった有様。

そこから恒例である小夜の堪忍袋の緒が切れて、今度は化物側が虐殺されるわけですが、そのときにはドン引きして欲しかったクラスメイトはみんな死んじゃってました。アハッ♪(Theかぼちゃワイン) The虐殺!
それまでの展開に疑問があっただけに、ビバリーヒルズ殺戮白書回は授業中の校庭に野良犬が入ってきたぐらいにテンションが上がりました。(もう褒めているのだか何なんだか分からない)

『BLOOD-C』は視聴ストレスを存分に溜めておいて、後半のターニングポイントで一気に開放するという構成になっていますが、普通は「早く何か起これよ、誰か死ねよ」と思う前に「何か起こるフリはあるけど、特に何も起こらないから見るのやめよう」にしかならないんじゃないかと思いますね。
(だってCLAMP学園探偵団先生を知っているのなら、第1話を見た時点で、喫茶店のやさしそうなお兄さんがドス黒い人間だと思わないわけがないですよ)
拘束されて強制的に見ているならともかく、TVアニメを全話見なければならない義務は誰にもないですから。

個人的には、後半までは各話ごとに(全く別のベクトルで)満足させておいて、全く逆の方向でターニングポイントを迎える方が良かったのではと考えます。
例えば、ターニングポイントまでは、主人公小夜に好意をもつ委員長のメガネ君視点で物語を進めるとか。
日本刀を持った美少女と出会うボーイ・ミーツ・ガール話、つまり『灼眼のサヤ』として進めておいた上で、最終的に小夜視点になってマスカレード(仮面舞踏会)だったと分かり、最終的にサバイバルダンス~no no cry more~という展開になるわけです。

要するに視聴者が楽しむ(興味を持つ)ためのフックといいうかレイヤーが少ないつくりなんですよね。(もちろんシリーズ構成的にそれが狙いだと仰ると思いますが)
終盤のインパクトやひっくり返しがあるからといって、前半をそのためだけに奉仕させる必要がTVアニメにあるのか私には疑問で、むしろ終盤のためには、多くのダミーレイヤーやダミードラマを展開させておく方がコンテンツとしていいのでは、と思います。

もちろん限りあるリソースをどこに配分するか、および劇場版完結までどう引っ張るかということも前提のシリーズ構成だとは思いますけどね。

ちなみに小夜も友達いない芸人ですね。友達の役割をふられて演じたキャラはいましたが、みんな死んでしまいました。

アン・シャーリーがつくる心の「王国」


ケーブルテレビ(アニマックス)にて、途中からですが『こんにちは アン ~Before Green Gables』を見ています。

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『こんにちはアン』は、『赤毛のアン』の前日譚となる『Before Green Gables』を原作としたアニメーション。

この原作はモンゴメリではなく、『赤毛のアン』100周年を記念して、モンゴメリ財団から依頼された児童文学作家バッジ・ウィルソンが執筆した作品だそうです。
「世界名作劇場」シリーズ第26作として、2009年4月よりBSフジなどで放送されました。私は見る機会が無くてこれまで見ていませんでした。

主人公アン・シャーリーが両親を失ってから、マシュウとマリラの兄妹に引き取られるまでの11年間の物語で、いわば『赤毛のアン エピソードゼロ』ですね。ということは最後は、マシュウに引き取られるところかな。

前日譚ということは、グリーンゲイブルズへ落ち着く前のたらい回し時代なので、もちろん不幸がいっぱい、夢いっぱい。心の友ダイアナに出会う前ということもあり、友達にもなかなか恵まれません。
このあとに『赤毛のアン』が来ると分かっているので、何とか落ち着いて見ることができる。そんな作品です。

作中で、薄幸の少女としてのアンをひたすら見ることになるわけですが、いわばそれは『おしん』のようなもので、ドラマとしての一形態だから特に胸が痛むわけではない。
ただ、やっぱりね。不幸なアンが現実逃避の方法として、空想や物語や演劇じみたひとりごとの世界へ行くと、胸が詰まる。

アンは幼いながら、かなりシビアな現実と向き合って何とか対処しているんだけど、だからこそ一方でバランスを取るための現実逃避を必要としている。
ここでの現実逃避は、現実を先送りにして逃げるというよりは、逃げられない現実があると理解した上で、それでも何とか楽しく生きていくためのポジティブな逃避のニュアンス。
もちろんアン・シャーリーとして生来の性質もあるだろうけど、加えて境遇がそれを育てた。

アンは、現実(不幸な日常)と空想(幸福な非日常)の2つのレイヤーに、絶妙なバランスでまたがって生きている。

『非現実の王国で』を書いたヘンリー・ダーガーだってそう生きたのかも知れないし、私自身も子供の頃は、誰かに見せる予定が全くない自分のためだけの物語をノートに書いていた。
アン・シャーリーやヘンリー・ダーガーほど特別な理由も想像力も無かったが、何とか勉強机の上にある道具だけで(自分を)楽しくできないか、と考えていたことは覚えている。

誰のためでもなく、ただ自分のためだけに使う想像力。そしてその力で築く、心の「王国」が必要だと私は信じている。そこでは自分が国王となり、たったひとりの国民のために、国を統治する。
それは現実という強大なものと対等に渡り合うための対抗勢力でもあるが、「王国」を滅亡させずに、荒廃させずに、よい国に育てるのは大変むずかしい。

その点、アン・シャーリーを見ていると、心の「王国」をうまく育てることで、世界を二層化して乗り切っているところに、ぐっとくるのです。

例えば少し前の『こんにちはアン』。
アンが諸事情から、次の家へもらわれてゆき、新しい環境でつらい目にあっている頃の次回予告で「アンに新しい友達ができました」という。これはグッドニュース。
やったやったやった、よかったね、と「やったね♪マーチ」を歌いながら、次の回を見てみると、アンの友達とは、実は山びこのことでした。やまびこ…。
そう。話し相手のいないアンは、必ず返事をしてくれる聞き上手の山びこを唯一の友達として、話しかけているのでした。

これは完全にかわいそうな子です。友達が山びこなんですから。まさにエア友達です。これはみじめで、かわいそうな現実です。賢いアンはそんなこと(現実)は分かっています。
でもアンは、山びこに「ヴィオレッタ」という名前をつけて、山びこをキャラクター化して会話します。早速、自分の王国の住人にしてしまうわけです。

いわゆるイマジナリーフレンド(空想の友達)なんですが、アニメでは山びこという現象(現実)をちゃんと認識した上で、ヴィオレッタ(空想)を名付けるシーンになっており、また演出上も擬人化されたヴィオレッタの幻が見えるでなく、単に山びこが返ってきた描写しかされていません。
そのため私は、アンが意識的に世界に情報を付加して、二層化したような印象を受けました。

現実 : 山びこ(そこには山しかなく、誰もいない)
空想 : ヴィオレッタ(そこには、友達のキャラクターがいる)


世界はひとつですが、それを認識するためのレイヤーは、アンによって二層化されています。想像力で行う一種の「拡張現実」と言えるかも知れません。
拡張された現実にはヴィオレッタというキャラクターが存在していて、会話をしてくれるので、彼女は孤独で厳しい現実にも対処することができました。
もちろん小さな子供であるアンには現実を書き換える力は無いので、空想のレイヤーの方を書き換えるしかなかったのですけどね。

だから大人なら、まずは現実を修正することを考えた方がいいと思うけれど、それでも心の「王国」は必要だと思うな。世界を二層化する技術が。
世の中の大きなことから小さなことまで楽しいと思える人は、きっと世界の見え方が違うと思うけど、それを支えるのは心の「王国」による「拡張現実」だと思う。どれだけ世界にプラスの情報を付加できるか。
すべての大人にとは言わないし「王国」ばかりが豊かになってもいけないけどね。

それにしてもアニマックスには『こんにちはアン』最終回のあと、そのまま続けて『赤毛のアン』をスタートする義務があるな。と思っていたら、キッズステーションで『赤毛のアン』がスタートするらしい……。なんで?

マシュウ「そうさのう…」

いや、見れるならどのチャンネルでもいいけども。タイミング的にはバッチリだし。

マシュウ「そうさのう…」

「円都(イェン・タウン)」という拡張現実


少し話はズレますが遠慮なくズレると、想像力での「世界の二層化」「拡張現実」と書いていて思い出すのが、岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』

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"円"が世界で一番強かった時代。一攫千金を求めて日本にやってきた外国人達は、街を"円都(イェン・タウン)"と呼び、日本人達は住み着いた違法労働者達を"円盗(イェン・タウン)"と呼んで卑しんだ。そんな円都に住む、円盗たちの物語である。
Wikipedia:スワロウテイル


映画は当時に一度見たきり。まったく見直してないので内容はほぼ忘れましたが、いくつか印象深いシーンはいまだに頭に残っています。

世界観とか設定・話の枠組み大好きっ子としては、話は半分どうでもよくて、舞台である「円都(イェン・タウン)」に感動していました。
「円都」というとファンタジーのような架空の街みたいだけど、フィルムに映っているのはあくまで「東京」(正確には「日本」というべきかな)。

「円都」は共通の幻想をもつものだけに見える都。「東京」に情報(幻想)を付加することでできた世界の見え方(レイヤー)のひとつ。現実の「東京」と仮想の「円都」が同時に存在し、重なりあう。
ネーミングやいくつかの設定だけで、現実を物語にふさわしい舞台に書き換えられるんだ、と感銘を受け、ああ、こういうのをいつか手に入れたいと思った覚えがあります。

アン・シャーリーはお金に幻想とロマンを感じるとは思えないけれど、彼女だったら、東京と同時に別の世界である円都が見えるだろうか。いや、もっとすてきなものが見えるのかもしれないね。

以下、余談。
前述のとおり記憶あやふやなんだけど、確か本編中に「東京」というセリフや情報がモロに出るんですよね。
もちろん誰が見ても「東京」なんですよ。でも「円都(イェン・タウン)」という幻想(嘘)を劇中では通すんじゃないの?「東京」を撮って「円都」って言うんじゃないの?惑星ゾラという地球じゃないの?
記憶がなさすぎて、シナリオ上、幻想の「円都(イェン・タウン)」ではなく、現実の「東京」と言わねばならない必然のシーンなのかどうか全く覚えていない。
メインの三上博史(中国系の移民役)あたりが言っていたような気がするので、キャラクターや立ち位置によって世界のとらえ方が違うということで呼び方を変える、みたいなのではなかったような。

自分の記憶を信用していないので『スワロウテイル』に冤罪をかけてるかも知れないけど、「東京(日本)」を撮って「円都」で通すべき、または立ち位置で世界のとらえ方が違うことにすべき、と思ったこと自体は間違ってないと今でも思う。『スワロウテイル』がそうなっていたのなら、それはそれでよしなので、ごめんなさいします。

では最後にCHARA HEAD-CHA-LAさんによる映画のテーマ曲「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」を。頭からっぽの方が円(イェン)つめこめる。


今回「友達が少ない」つながりと冒頭に書きましたが、全体読み返したら、真のテーマは80~90年代歌謡曲ベストヒット(CD5枚組・通販だけの特別価格)という気もしてきた。

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