劇場版『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は、ネット世界で「災害」が発生する物語です。
ネットやコンピューターの大混乱によって、わたしたち現実の社会システムも二次災害的に大いに混乱することになります。

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この作品では「災害」の主体として、ディアボロモンというデジタルモンスターが登場していますが、目的、善悪、敵味方の概念はなく、ただひたすらに人々に迷惑をかける存在です。
すでに起こってしまった「災害」に対するリアクションのみを描いた作品といえるでしょう。

なぜ具体的な目的や善悪の概念を持った敵を、作品に組み込まないのか?
それには、いくつかの理由があるでしょう。

そもそもがいわゆる「2000年問題」という混乱をモチーフにしたもので、ディアボロモンはその擬人化に過ぎません。冬の厳しさを擬人化して表現した「冬将軍」みたいなものと考えてもいいかも知れませんね。
また実利的なことをいえば、わずか40分の上映時間しかないこの作品では、「敵」の存在を描くことを、最初から戦略的に放棄した面が大きかったように思います。
「世界の混乱と、それに対応する人々(リアクション)」のみが必要とされた結果、限りなく「災害」に近い敵として設定されたのでしょう。

大人は見えない夢の島(デジタルワールド)


この「災害」――ディアボロモンによる世界規模の混乱に対して、大人たちは何も解決できません。
それどころかデジモンが原因であることすら大人は見えない、しゃかりきコロンブスです。大人は夢の島(デジタルワールド)までは探せないわけですね。

原因に気付き、対処ができるのは子供たちだけ。まさしく、ごきげんいかが、はしゃごうよパラダイスです。
映画では、主人公・太一を中心とした「選ばれし子供たち」が、世界中の子供たちの支援のもと、仲間のデジタルモンスターと協力してディアボロモンを倒し、問題を解決します。

大人たちは物語に関与できず、子供たちが主役として問題を解決する、というのは東映アニメフェアのデジモン劇場版として全く問題ありません。

確かに大人たちは、原因がデジモンとは分からず、また問題を解決することもできませんでした。
しかし、大人たちも実際に世界の混乱には巻き込まれ、それに対し、それぞれの立場で現実的な対処を強いられたはずです。

子供たちに救われるまでの世界


実際にディアボロモンによって起こされた世界混乱の対処として、例えば、

「警官」は交通整理や治安維持を、事故や火災には「救急隊員」「消防士」が駆けつけ、病院では「医師」が治療にあたり、「水道局員」はライフラインを守り、「自衛隊」も災害出動したかも知れません。

賢明なる読者諸氏はお気づきかも知れませんが、これらは『ぼくらのウォーゲーム!』と同じ細田守監督作品『サマーウォーズ』において、ヒロイン夏美が所属する「陣内家」の大人たちの職業です。

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『サマーウォーズ』に登場した職業以外でも、コンビニやスーパーなどの小売、飲食店、物流、製造などの店舗・企業、学校、公共施設、それからもちろん各家庭でも、ありとあらゆる場所で大なり小なり影響を受け、大人たちはみな、それぞれのポジションで日常を守るための戦いを余儀なくされたはずです。
IT系の企業などは、ネット災害が直接業務に関係するだけに、その対応たるや想像するだに恐ろしいですね…。

つまり『サマーウォーズ』は、大人が出てこない『ぼくらのウォーゲーム!』において、画面に映らないところで世界中の大人たちが社会や日常を守るためにしていたであろう戦いを、基本要素として取り込んでいるわけです。
なぜなら、子供たちの活躍で世界は救われたけど、救われるまでの世界は大人たちが守ったはずだから。

ただ、大人たちにデジモン(デジタルワールド)と子供たちの活躍が見えないのと同様に、もしかすると子供たちには見えない、分かりづらく、面白みのない戦いであったかも知れないけどね。

大人になった『ぼくらのウォーゲーム!』世代


『デジモンアドベンチャー』の主人公・八神 太一が小学5年生(10~11歳)で、『ぼくらのウォーゲーム!』の劇場公開が2000年春。
主人公・太一と同世代だった視聴者のちびっこだと、10年ほどが経過して成人している頃です。

子供たちのための映画として『ぼくらのウォーゲーム!』が見せたものと、見せなかったものは極めて正しいので、あの作品はあれで問題ありません。

だけど、デジモン世代が大人になっているような時期に上映する映画で、「あのとき、みんなが世界を救うまで、実は大人たちも世界を守っていたんだよ」ということを伝えるのは私は悪くないと考えます。
『ぼくらのウォーゲーム!』と基本的なしかけが同じでありながら別の映画になるための、つまり再構築(リビルド)の方法のひとつとして。

もう「選ばれし子供」では無くなった太一が、年長の大人たちと出会いながら別の戦い方を見つける物語になるだろうし、次世代の子供たちがデジタルワールドで活躍する立場を担う物語になるかも知れない。(この新旧三つの世代を、もっとも身近で分かりやすい単位で表現すると、おそらくは「家族」になるでしょうね)

それは、ディアボロモンが混乱をもたらした10年前、「世界を救ってくれた子供たち」と、(当時描かれなかったが)「日常を守ってくれた大人たち」へ送る物語。
恐らくその映画は、基本のストーリーラインや各種ギミックは『ぼくらのウォーゲーム!』と同じものを使っても、多分、意味が違う映画になっているはずです。

『サマーウォーズ』のパッケージング


実際現れた『サマーウォーズ』という作品は、要素を内包してはいますが、特にそういう映画ではありませんでした。
もちろん、『サマーウォーズ』はデジモンの続編でも後日譚でもないですし、そもそも、こうあらねばならないというものでもありません。

『サマーウォーズ』は、作品として、商品として、巧みに要素を選んでパッケージングされた映画です。
私自身の興味は、映画としての出来がどうこうより、この作品のパッケージングにこそあるといっていい。

この作品の枠組みが、なぜこうなっているのか、あるいはなぜこうしなければならなかったのか、ということが最も興味深く、可能性も含めて、考える価値があると思っています。

そのあたりのことを、先ほど書いた「10年前、世界を救ってくれた子供たちへ」という視点での可能性を中心に考えてみました。雑多なメモ形式で書いておきます。

メモ1:主人公とヒロイン


  • 『サマーウォーズ』は「男の子を主人公に」ということでつくられた映画ですが、それにも関わらず、ヒロイン夏美を主人公においた女の子視点の方がいろいろ整理しやすい内容になっています。(この辺りは、上映当時の感想にも書きました)
    ですから「男の子主人公」という前提が崩れますが、女の子主人公にしてしまう、というのはひとつの方法です。

  • 「男」にこだわるのであれば、枠組み自体が変わってしまいますが、大人になったデジモン世代へという意味も含め、「男の子」ではなく「大人の男」の映画にするという方向があります。

  • 例えば、28、9歳ぐらいのシステムエンジニア。もう少し若くとなれば24、5歳くらいか。OZ末端での開発や管理の仕事でしょうか。大学院生で、これからなんの仕事について社会に出ればいいのか悩みながら就職活動中というのでもいいかも知れません。
    かつて数学の天才児でしたが、今ではごく平凡な大人です。仕事に対して、充実しているとはいえない状況です。
    (「10年後のケンジ」をイメージしていただいた方が分かりやすいかも知れません。)

  • 主人公を大人の男性にした場合のヒロインは同年代でもいいですし、少し年下でもいいと思います。
    主人公とヒロインはすでに恋人関係にあり、ヒロインの実家に結婚(または交際)の挨拶に行く、ということにします。
    当然のことながら、主人公とヒロインの間には何らかのトラブルを抱えており、2人は結婚の挨拶に向かいながらも、「これでいいのか?この相手でいいのか?」という疑惑をもっています。
    『サマーウォーズ』は、細田監督が、結婚の挨拶をするために、奥様のご実家(上田市)を訪問したことがひとつのモチーフになっているそうですが、はっきりいえば、それそのままの方が日本映画になると思います。

  • 「男の子」視点がなくなりますが、これにはカズマを使いましょう。
    カズマにとって、ヒロインは、親戚のちょっと憧れていたおねえちゃん、という感じになるでしょうか。そのねえちゃんが男を連れてくる、ということになります。

メモ2:陣内家


陣内家(サマーウォーズ)
  • 陣内家のメンバーが全て「災害時に日常を守るための職業についている」こと自体は別に悪くありません。祖母の家訓という、言い訳もあります。しかし、災害の序盤でその役割を終え、陣内家に集まったときには、ごく一部の人間をのぞいて単に設定上のものでしかなくなってしまいます。

  • また田舎の旧家として、外部や近隣社会との関わりというのが全く不明なので、いっそ家業として、老舗旅館や老舗料亭を経営しているということにしてもいいかも知れません。
    従業員や取引先(酒屋など)、お客様、といった形で、「陣内家」の内部に、外部を存在させることができます。

  • 老舗旅館だけど最近はなかなか経営が苦しく、「温泉でも派手に湧いてくれればなあ…」ということにでもすれば、ラストの伏線にできるかも知れませんね。

  • 後述しますが、「陣内家」というのは、血族というよりマフィア・ファミリーといった場合の「ファミリー」の要素がありますので、家族+構成員=陣内一家、という意味を強めた方がいいかも知れません。娘をもらいに実家に行ったらジャパニーズ・マフィアだったというのも、ある種定番ですが、旅館や料亭といった商売でも「ファミリー」を表現することはできるでしょう。

  • この場合、主人公とヒロインも空部屋に泊めてもらって、お客気分でのんびり…のつもりが、ヒロインどころか初対面の主人公まで旅館の手伝い(一家の仕事)をさせられる、というのも良いかも知れません。

メモ3:陣内栄(ゴッドマザー)


  • マフィアの親分としてのゴッドマザーという位置づけにする。旅館・料亭にするなら、大女将ということになるでしょうか。

  • 血族だけでなく、「身内」と認めたものは、ファミリーの一員としてどんなことがあっても守る。だから侘助や主人公なども、ファミリーの資格がある。
    侘助との断絶は、愛情というより、仁義の問題にするという方向もあるかも知れない(でも結局、愛情がからんでくるのだろうけど)。

  • 扱いがデリケートなのだけど、少し認知症が入っているキャラクターにするという方法はあると思う。

  • ケンジをいきなり承認して、ファミリーの中に入れてしまうことや、災害発生後の各所への電話なども(あくまで作劇上の言い訳として)認知症によるものにしておくが、そのことは伏せておき、死後はじめて主人公(観客)に明かされてもいいのかも知れない。
    そうなると、電話なども普段一緒に暮らしている家族から見れば「また、おばあちゃんは電話して迷惑をかけて…」という扱いになるだろう。

  • 栄の電話は批判も多かった場面ですが、「劇中の人物は感動。でも観客は批判」という構図ではなく、できれば「劇中の人物は批判・反対。でも観客視点では真意を汲み取れるから感動」となるべきのように思います。
    陣内家としては認知症の老人のやることにすぎないのでスルーしがちですが、老人と暮らしていない主人公や作品外部の観客にとってはそうではなく、その行動の意味を汲み取ることになるでしょう。
    結果、主人公(と、多分ヒロイン)だけが、老人の意図を理解して継承するということにする。

  • 主人公を、侘助と勘違いして、ファミリーとして受け入れてしまう手もあるかも知れない。すると、早すぎる根拠なき承認は、単なる老人の勘違い、ということになる。
    「OZにアクセスできないが、陣内家には入れる主人公」と、「ラブマシーンによりOZを自由にできるが、陣内家には入れない侘助」という対比が強調されるかも知れない。

  • 余談だが、私の親戚のおばあさんも認知症で、たまに会うと「○○のとこの、二番目のせがれか?」などと、私ではよく分からない親類の誰かと間違われたりする。でも、元気で明るく楽しい人なので、親族の集まりではアイドル的な人気があったりする。ちょっとそれをイメージした。

メモ4:侘助


  • 『サマーウォーズ』では、ラブマシーンの開発者なので、全ての元凶ともいえますが、あらゆる社会的な責任を免責されるため、「敵」でもない。彼に与えられるのは、個人的なペナルティ(栄の死)。

  • 栄との関係をどうするか、というキャラクターなのだろうけど、私には正直よく分からない。

  • ラブマシーンを開発した侘助が、物語が始まったときにはすでに死んでいるという「帆場暎一」ネタにするのはどうか。そして香貫花・クランシーがコンバット目的で来日すればいい。

  • 主人公とヒロインを、結婚間近のカップルに設定した場合、侘助の「ヒロインの初恋の人」というポジションがもう少し生々しくなるでしょうね。

  • 個人的には、むしろ「主人公と侘助」の関係性に興味がある。主人公をOZの末端に関わるエンジニアと設定した場合、AI開発者としての侘助の存在を、正当に評価できる存在になると思う。
    陣内家の外部から来たことも合わせて、侘助の唯一の理解者になれるかも知れない。

  • その意味で、栄の代わりに侘助を承認するのが、擬似的に栄を継承した主人公、というのはいいかも知れない。で、主人公と侘助が、開発者同士とても仲良くなって、それにヒロインがヤキモチを焼く、という三角関係がよいと思う。

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メモ5:陣内家の戦い


  • 『ぼくらのウォーゲーム!』での戦いは、「選ばれし子供たち」による、いわばノブレス・オブリージュな自発的な行動によるものでした。

  • 2時間の尺がある『サマーウォーズ』でも、『ぼくらのウォーゲーム!』と同じように「敵」とそれに伴う悪意は省略されている。ハッキングAI「ラブマシーン」という存在はいるが、『ぼくらのウォーゲーム!』と同じく、社会的には「大災害」でしかない。

  • OZでは、誰もがネットワークに参加している。大人も子供も。その中で、誰が、何の理由で、リスクを負ってまで最後までラブマシーンと関わらないといけないのか。

  • 『サマーウォーズ』では、陣内家が戦う理由を、身内の侘助がラブマシーンをつくり他人様(ひとさま)に迷惑をかけ、栄が死んだから――つまり完全に「私闘」にしている。良い悪いでも、正義のためでも、世界のためでもなく、身内のため。
    そのために、ラブマシーン災害で直接の死者はいないこととし、陣内家が唯一、身内の死を被ったことに(物語上は)している。

  • 『サマーウォーズ』の状況の場合、「私闘」でないと、きっと戦う理由として成立しないだろう、と考えたことは、『ぼくらのウォーゲーム!』との比較という意味において興味深い。

  • ただし、この「私闘」感が、映画ではうまく伝わっていないようにも思う。前述したように、「ファミリー」としてのオトシマエ、という要素を強調するものが何か必要かも知れない。

メモ6:花札勝負


『サマーウォーズ』における最後の花札勝負は、はっきりいえばフィクションの大嘘としての「奇跡」です。
その意味で、前回記事で書いた『逆襲のシャア』と良く似ているところもあります。

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『逆襲のシャア』と『サマーウォーズ』 奇跡のプロセス
↓世界危機だが、根源は個人の「私闘」でもある(マクロとミクロ)
↓宇宙から、大きなものが落ちてくる。
↓危機に対して、ちっぽけな個人が何とかしようとする。
↓それを見つめる多くの人間たちの意思が集まってくる。【奇跡】が起こる。
↓その副産物として、危機的状況が解決される。


単純な絵面やシチュエーションとしてもそうですし、理屈からはずれた大嘘による解決であることも似ていますが、決定的な違いは、『逆襲のシャア』はタイトルどおり、シャアが人為的に起こす世界危機であることでしょう。

シャアにはアコギなことをしてでも、それをする理由があり、またアムロにはそれを止める理由があり、さらに2人には地球規模のマクロな戦いとは別に「私闘」とも言うべき因縁がありました。

  • 『サマーウォーズ』でも、意思と目的をもった「敵」を立ててもよいかも知れません。
    背後にいるものとして、侘助を立てる手もあるかも知れませんが、ラブマシーンがAIの割には、精神的な進化を感じさせなかったので、神々しくなっていくと共に、何か超越的な目的(それが人類には悪意に観えるかも知れないが)を手に入れるべきなのかも知れない。
    ただ、世界ネットワークを掌握したAIと、田舎の人のつながりの濃いファミリーの戦い、という単純構図になるのは避けたいところ。

また、『サマーウォーズ』では、花札勝負で夏希が代表に出ることに対して、いろいろと意見がありましたが、2つの意味で夏希しかありえないと思います。

  • ひとつは、映画として、観客の応援を受け、奇跡を起こす対象は美少女がふさわしいだろう、というもの。
    もうひとつは、OZでこの戦いを観ているギャラリーに対して、奇跡を起こそうとするキャラクターが美少女(アバターではあるのだが)である必要がある、というもの。
    この2つは、映画の観客と、その映画内のギャラリーという違いはあれど、起こす作用はほぼ同じ。
    シンボルとしてのアイドル(偶像)を応援してもらおう、というものだ。

  • つまり、OZで戦いを見守るギャラリー達の協力を最も得やすいキャラクターを出すのが、この戦いで奇跡を起こすための最低条件になっていると思います。
    陣内家で、その役ができるのは、恐らく夏希しかいない。
    (カズマは既に「キングカズマ」という別の偶像をやっている)

  • だから、この戦いでは花札が最も強いキャラクターを代表として出しても、多分意味がない。
    夏希のタレント力で世界中から人々の協力を集めることができるか、という戦いになっているはずです。

  • OZの守り神、ジョンとヨーコは、戦う前に夏希に幸運のアイテム(着物)を与えてくれたが、あれは実際の効果というより、アイドルの魅力を増すステージ衣装のようなものと考えてもいい。

  • 話は少しずれるけど、例えば、ジャニーズのアイドルが個人で大金を募金する必要はないし、その力を持つ必要もないよね。
    彼らがすべきことは、日本中の女の子から100円ずつお金を集めること。それは彼らにしかできない。
    ジャニーズのアイドルたちには、私の100円を預けるとするなら、あなたたちがいい、と思わせる力があるんでしょう。それはまさにタレントです。

  • 夏希も同じように、みんなのアカウントを集めたのだろうと思います。ネット上の「祭り」のような形ですけどね。もちろん、全てのギャラリーが味方についたわけでも協力してくれたわけでもない。あくまで一部ですが。

  • しかし、この仕事を美少女に委託しなければならないということであれば、やはり男性主人公というのは難しいのかも知れない。
    花札勝負の場合、外部と内部、二重の観客を納得させなければならないが、それは男に可能だろうか。(画面上は個人情報が紐づいているとはいえ、ただのアバターなんだけどね)

  • カズマも、彼の価値は、強大な戦闘力という男性的で分かりやすい評価軸に支えられていた。
    (だからこそ「敗北」で、一気に価値を失ってしまう)

  • 個人的には『サマーウォーズ』での夏希の最大の仕事は、最後のピースである侘助を呼び寄せて、家族を全員集合させたことで、花札勝負ではないと考えています。
    花札勝負は物語上の最大の仕事ではないかも知れませんが、「私闘」にギャラリーを巻き込んで奇跡まで持っていった見せ場ではありますので、これはこれでいいのかも知れません。夏希のアイドル的魅力や、タレント力をどう保証するのかは難しい課題ですが。

脇道:ギラ・ドーガのパイロットについて


クライマックスで協力してくれた人の中には、キングカズマの敗北のとき罵倒していたような人たちも大勢いただろう。なぜ、そんな人達が協力してくれたのか、ということについては『逆襲のシャア』で最後にアクシズを押してくれたギラ・ドーガのことを思い出す。

アクシズを落とそうとしたギラ・ドーガが、なぜ最後にアクシズを押す側に回ったのか。いろいろ内面的な解釈はできると思うけれど、行動から見る事実として、ギラ・ドーガはあのシチュエーションにならないと、アクシズは絶対に押してないはずなんだよね。

敵味方もなく、アクシズを押すというラストシーンはある種の奇跡なんだけど、逆に言えば、あの状況以外では、ギラ・ドーガのパイロットは押す方へ参加していない、ということになる。

それはギラ・ドーガのパイロットが悪いというわけでなく、多分、それが普通の人間ということなのだ。そこには私も含まれる。悲しいけれど、間違ったこともするし、日和見もするし、影響を受けてストーンと転向もする。
『サマーウォーズ』でのOZのギャラリーも同じ。どちらでもあり、どちらでもない。罵倒するし、神と崇めるし、状況や空気を読みながら、ポジションと行動を決める。

でも、東日本大震災のときに、恐らくほとんど反射的に人を助けたり、避難に協力したり、呼びかけたりした人が大勢いたことを報道で知った。
私は被災していないが、その場でそういうことができるかどうか分からない。自信がない。そこまで自分を信じきれない。
ただ、最初のひとりにはなれないかも知れないけれど、誰かがやろうとしてることの協力ぐらいだったらできるのではないか、やるべきではないか、などと甘いことを考えたりもしています(まさにギラ・ドーガ精神)。
アムロ・レイは、最初にアクションをとった人になりましたね。前回記事でも書いたけど、私はニュータイプだからどうかとは一切関係なく、人間としての行動を賞賛します。

メモ6:物語の終わり


  • 『サマーウォーズ』では最終的に、ラブマシーンを撃破し、映画的なカタルシスを得るために一方的にやられて消滅します。

  • ラブマシーンの意味合いをどう変えるか、に関係しますが、侘助は自分の生んだAIを否定すべきではないかも知れません。いや、侘助は栄を失ったこともあり、自分の仕事と生まれたものを全否定していてもよいですが、唯一の理解者である主人公が肯定すべきかも知れません。

  • 主人公は、これからどうしようかな、どう生きようかな、と物語の冒頭で悩んでいたことにしましたが、「好奇心」いっぱいのAIラブマシーンを面白い、と感じて、開発者魂に火がついたことにするのもいいですね。

  • 侘助は、ラブマシーンの責任を取らないといけないですが、AI開発は、主人公が引き継ぐ、または将来的に侘助と一緒に研究者として活躍したり、ベンチャー企業を立ち上げて、など、何でもよいのですが、やることが決まって進みだした、ということにしておくのがよいでしょうか。

  • ベタではありますが、主人公がAI開発者になって、将来生まれるかも知れない「デジタルモンスター」の生みの親になることを示唆するようなオチも、まあ、ありかも知れません。

  • 主人公とヒロインの関係は、これまでの過程で修復されるでしょう。
    ヒロインは、主人公が世界を救うのに重要な働きをしたからではなく、祖母を継承し、ファミリーに承認され、バラバラになりそうだったファミリーをひとつにまとめた、という事実をもって、彼が大事な人であり、自分の選択が間違っていなかったことを再認識するでしょう。

  • ちなみに、これまでの流れでは、軽い認知症にしてしまった栄の電話ですが、全てが終わったあとに、総理大臣から陣内家に電話が入って、侘助の件と、陣内家がやった私闘の後始末はできるだけ手を回す、栄さんの頼みだからな、と伝えられるというのもいいかも知れないですね。
    老人の困った電話と思っていたけど、その中で1本だけ、本当にすごいところに、ばあちゃんの電話が効いていた、と最後に分かって全員びっくり、というような形で。

  • この場合、最後の遺影は、笑顔でなくウインクになるかも知れないけどね。

『サマーウォーズ』が選んだものと選ばなかったもの


以上のように、長々と雑多なメモで、『サマーウォーズ』のありえたかも知れない可能性のひとつを探ってみました。
これは、『サマーウォーズ』批判でもなければ、「こうすればもっといい映画になるよ」という改善案でもなく、ありえたかも知れない可能性の話でしかありません。

はっきりいって、私が思いつく程度のこれらの断片的な案は、制作時の会議などで、すでに出ているものばかりでしょう。
さまざまな作品の可能性が、制作時には検討されているはずです。
そして、皆さんが知っているあの『サマーウォーズ』が形作られ、映画として上映された。
実際の映画で選ばれている各要素は現実的に考えて、多くの場合で正しいものであったろうと思います。実際に結果も出ています。

ただ、「男の子主人公」の「誰も傷つけない」ただひたすら「とにかく楽しめる」映画をつくろうとして、こういう枠組みの映画になったというのは、私にとって、とても興味深いことです。
『サマーウォーズ』が選んだものと選ばなかったもの、それは何なのか、なぜなのか、誰のためなのか、ということを考えてみるのはきっと面白いですよ。

終わりに。『逆襲のシャア』と『サマーウォーズ』


このブログでは上映前後にいくつか『サマーウォーズ』の記事を書きましたが、未だにたまにコメントをいただいたりします。基本的にコメントが少ないブログなので、これはかなり異例のことです。
それらのコメントを見ると、私より若いデジモン直撃世代の方が、もやもやしているように見えて、なかなか罪作りな映画になってしまっているかも、と感じています。

私は『機動戦士ガンダム』いわゆるファーストガンダムを幼少期に見た世代ですので、これを原体験としてのデジモンおよび『ぼくらのウォーゲーム!』の位置に置くなら、『サマーウォーズ』に位置する作品は、おそらく『逆襲のシャア』になるでしょう。

『逆襲のシャア』を見たタイミングでは、私はまだ大人にはなっていませんでしたが、原体験の約10年後に見た映画としては大きな価値がありました。
私は自分の成長過程でこれを体験しているから、『サマーウォーズ』が、『ぼくらのウォーゲーム!』を見たデジモン世代への、10年後のアンサーになってほしかったと、自分勝手に思っているのかも知れないですね。

『逆襲のシャア』については、前回の記事で詳しく書きましたので、それをご参照ください。
アムロ・レイが、宇宙世紀の最後にしてくれたこと。<『逆襲のシャア』で起きた【奇跡】>

いずれにせよ、「ニュータイプ少年」でも「選ばれし子供」でもない私が守れるのは、日常でしかありません。いつか世界を救ってくれるかも知れない子供たちのためにも、まあ、何とか自分のいる位置、手の届く範囲で、日常を守っていこうと思います。

追信:こどもたちへ
大人たちはたぶん、みんなこういう気持ちでがんばっているのですが、中には爆装(ばくそう=爆弾を抱えた状態)してる機体だってあります。
できれば全機(ぜんき)がオーバーロードして爆散(ばくさん)する前に、みんなに大きくなって手伝ってもらえると助かります。そこんとこよろしく(ここんとこごぶさた)。




『サマーウォーズ』関連記事(四部作)

このブログの『サマーウォーズ』記事です。よろしかったらどうぞ。最初の記事はネタバレありません。

■見る前(上映前)のレビュー
日本の夏。『サマーウォーズ』の夏。 < 『ぼくらのウォーゲーム』再構築(リビルド)の価値は >

■見た後のレビュー ※ネタバレあり
サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>

■特別編:ゴハン食べるの?食べないの?(フード理論) ※ネタバレあり
世界の危機には「家族で食事」を <『サマーウォーズ』 フィクションと現実で異なる「正しい行動」>

■完結編:『サマーウォーズ』のパッケージングと可能性の検討について(この記事) ※ネタバレあり
10年前、世界を救ってくれた子供たちと、日常を守ってくれた大人たちへ<『ぼくらのウォーゲーム!』と『サマーウォーズ』>

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映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』において、νガンダムを駆るアムロと、サザビーを駆るシャアのラストバトルが行われ、アムロはこれに完勝します。
シャアはνガンダムの腕1本もぎとることすらできませんでした。

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それにも関わらず、この戦いは宇宙世紀屈指の名勝負にあげられることも多いようですね。それはなぜなのか?と、いうようなテーマで、以前、記事を書きました。

サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

この記事にコメントをいただいたのが今回の記事の直接のきっかけです。一部、抜粋させていただきます。

コメントより
アムロの遠隔操作によるバズーカでシールドを、ファンネルの撃ち合い、
その他の二人のニュータイプとしての描写から考えて、
その二人のニュータイプの能力差が、五体満足のν、サザビーの崩壊
という考え方はいかがでしょう?
シナリオを原点とする視聴者側ならではの発想になるとも思います。
MSの性能も武器もパイロット技術も互角なら、あとはニュータイプ能力と「運」の差でしょうか?


皆さんでしたら、「νガンダム(アムロ)とサザビー(シャア)の命運を分けた、でも絶対に存在する差はいったい何だったのか?」という問いに、どう答えますか?

モビルスーツのスペックや、パイロット技倆、ニュータイプ能力などを中心にした考察や比較は、話のタネとしてあちこちで語られています。
知識も資料も持ちあわせてもいない私がその辺りの話をすることはできませんし、そもそもそういうことを語ること自体に興味が全くありません、というのは先の記事を見ていただくと分かっていただけるかと思います。

しかし、せっかく貴重なコメントをいただいたので、あくまで物語として「なぜアムロが勝ち、シャアが負けたのか」というのを、あれこれ考えることにしました。

小説『ベルトーチカ・チルドレン』のアムロパパ


物語としての構図を考えるならば、アムロに子供ができていることした方が圧倒的に分かりやすくなります。
つまり、これは小説『ベルトーチカ・チルドレン』であり、映画では実現しなかった形ですね。

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この形ですと、父親になって地球(子供)を守るアムロと、ララァに母を求めていた子供であることを告白するシャアの対比になりますので、当然のようにシャアは負けることになるでしょう。大変分かりやすい構図です。

いろいろありまして、映画でのアムロは、パパではなく、コスモ☆独身貴族となってしまいましたが、分かりやすい構図が良いのかどうかはまた別の問題です。
映画『逆襲のシャア』はあれでよいと、私個人はそう思っています。

ニュータイプ少女を再び死なせる二人


映画ではアムロもシャアも、クェス・パラヤという少女をフォローすることができず、死なせてしまっています。

高いニュータイプの素養を持つ少女クェス・パラヤの関心は、当初、先に出会ったアムロに向いていました。
ララァ・スンが先に出会ったのが自分でなくシャアだったという悲劇が、人生最大のトラウマであるアムロとすれば、過ちを繰り返さないためのひとつのチャンスといえたかも知れません。
しかし、アムロは普通の女性チェーンと恋人関係にありました。
自分の居場所を求めるクェスは名言「アムロ、あんた、ちょっとセコいよ!」を残して、シャアの元へ去ってしまいます。

そのシャアは、自分へ身を寄せたクェスをマシーンとして、戦争の道具に使いました。
シャアは役割を求められることを極端に嫌います。シャアに父性を求めてくるクェスは、もちろんララァの代替ですらありません。
しかし劇中の最後で、シャアはアムロに気付かされたように、この私が直撃を受けている級の衝撃セリフをつぶやきます。

シャア「そうか、クェスは父親を求めていたのか…。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」


父を求めていたクェスに優しさの演技で応えつつ、確信犯的に戦争の道具にしていると思っていたのに、その自覚がなかったですって?
『逆襲のシャア』を最初に見たのは、クェスやハサウェイと同世代の子供でしたが、このセリフには驚いたのを覚えています。(このあたりが、シャアのかわいいところでもあるんでしょうが、シロッコだったら100%自覚の上、振舞うところですよね。)

「ララァ以後」の女性観


こうしてアムロとシャアの間を行き来したクェスを見ていると、アムロとシャアの「ララァ以後」の女性観の歪みが見えるようで面白いものがあります。

アムロは、ニュータイプ的な素養のある女性に深入りするのを可能な限り避けているような気がします。
ララァと精神の交流を果たして、あの体験をした彼なのに、ベルトーチカ、チェーンと、人生のパートナーを意識的なのか普通の女性から選んでいます。
フォウにこだわるカミーユにも、クェスにこだわるハサウェイにも、自分のような過ちを繰り返さないために、応援するのではなく、むしろ深入りに否定的な立場にいました。
フォウの亡骸を抱くカミーユの後ろで「人は同じ過ちを繰り返す…」とアムロはつぶやきますが、クェスをシャアの元へ去らせてしまったアムロ自身が、そのセリフの正しさを再び実証してしまいました。

一方のシャアは、アムロとは逆にニュータイプ少女ばかり、ララァの幻想ばかり求めている気がしますね。
かつてのハマーン、ナナイ、それからクェス。
もちろん幻想は幻想でしかないので、彼女たちがララァのように、シャアに何も求めない少女だったわけではないですし、かといって戦場に送り込んでも、ララァになるわけでもありません。
レコア・ロンドという、大人の女性に去られてしまうのも、面白いですね。

富野小説はあまり読んでいませんが、ララァ以後のシャアとアムロの女性観は小説にいろいろ書かれているかも知れません。(もちろん、小説に答えが書いてあるわけでも、それが全てでもないですが)

『GUNDAM EVOLVE 5』での「可能性」の物語


「ララァ以後」を踏まえて考えてみると、アムロはクェスに対して、ニュータイプとしても、男と女としても、多分関わらない(関われない)。
それ以外の関係性でないといけないから、例えば、子供ができて父親になったアムロであれば、クェスをニュータイプとしてではなく、ひとりの人間としてフォローできたのかも知れない。マシンにならなくても、自然な父親として。
でも、映画のアムロは父親ではないし、チェーンも母親ではなかった。(それは単に事実であって、悪いわけではない)

ちなみに富野監督がストーリーを書き下ろしたという『GUNDAM EVOLVE 5』は、クェスをフォローする可能性のエピソードになっていました。

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映画とは逆に、α・アジールでハサウェイを撃墜してしまい、動揺して暴れるクェスを、νガンダムのアムロが説得します。それは大人が子どもにする「しつけ」でした。

自暴自棄になり暴れる子どもを、ファンネルでつくったデルタ・エンド型いやピラミッド型のフィールドに閉じ込めて、暴力を抑えこみながら、アムロは根気よく言い聞かせます。
最終的にアムロは、ハサウェイがまだ生きていることをクェスに感じ取らせ、彼を救うようクェスを導き、送り出します。

『ガンダムF91』のラストで、宇宙に漂うセシリーの生命を、シーブックが探すシーンにシチュエーションが似ていますね。
ここでもシーブックが「わかんない/できない/無理だよ」と投げ出しそうになるところを、シーブックの母モニカが丹念に諭して、導いていました。
『GUNDAM EVOLVE 5』は、実験的な短編フィルムに過ぎませんが、エピソードの内容は「ありえたかも知れない可能性の物語」になっていて、とても興味深いものでした。
もちろん、どちらが正しいかではなく、どちらも同時に可能性として存在しえる物語として、です。

νガンダムは伊達じゃない


こうした「ララァ以後」の女性観や、カミーユら後輩に対する態度を見ても、アムロがニュータイプに対して複雑な想いを抱いていることは想像できます。
彼は「ニュータイプでも人間の業からは逃れ得ない」ということを身をもって体験してしまったので、宇宙世紀最高のニュータイプでありながら、もっともニュータイプ幻想を持っていない人間であるともいえます。

でも、いや、だからこそ『逆襲のシャア』ラストでの、アムロの行動が私は好きです。

映画の最後でアムロは、地球に落ちようとする小惑星アクシズを、νガンダムで受け止めて、押し返そうとします。アムロ「アクシズほどのー、石ころひとつー、楽しいことを、たくさんしたい」

最初に見た子供のときにも感じたし、今の方がよりはっきりと感じるけれど、この「小惑星をモビルスーツで押して、落下を食い止める」というシーンは、【奇跡】です。
つまり、ありえない、大嘘です。うそっぱちです。理屈でもなく、リアリティも度外視した、文字通りのミラクルです。

そういうシーンだと私は思っていますが、その【奇跡】において、アムロが何をしたのかというと、モビルスーツで小惑星を押し返そうとした。ただそれだけでした。ニュータイプであるかどうかなど全く関係ない行動です。
でも、そのアクションによる「ニュータイプでなくても伝わるメッセージ」は、ジェガンや敵であるギラ・ドーガのパイロットに伝わり、彼らはアムロと同じようにアクシズを押しはじめます。全員一緒にミラクル、ミラクル、全員一緒にミラクルナイトです。

アムロ「Come on a baby!」
ジェガン&ギラ・ドーガ「Come on a Fire!」(大気圏の摩擦熱で)←シャレになってない。


これを「ジェガンやギラ・ドーガのパイロット達はサイコフレームの光に導かれるようにアクシズに集まってきて…」などと文学的な表現をすることも、まあお好みであれば可能かも知れません。
しかしそうだとしても、落下するアクシズを目の前にして、何をすべきか、どう動くべきか、というのを伝えたのは、アムロ・レイが見せた具体的なアクションであったはずです。

経験上、『逆襲のシャア』を富野ガンダム免疫のあまりない人と見ると、「これはサイコフレームというやつの力なの?サイコフレームってなに?この光はなに?」となりがちです。
「よく分からないけど、ニュータイプのアムロとサイコフレームとやらの不思議なパワーで地球が助かって…」のように思えるかも知れませんが、ジェガンやギラ・ドーガのごく普通のパイロット達が集まってきてアクシズを押し始めたのは、そういったこととは全く関係ありません。アムロがνガンダムでアクシズを押していたからです。

最後の最後で、ニュータイプだから普通の人間だから、何が特別で何ができて、というのはもう一切関係なくなっています。その場に居合わせた人間ができることがひとつしかない。

ニュータイプといえば、離れていても、手や口を動かさなくても、感じあったり、意思を伝え合ったりと表現されていますが、ガンダム界最初にして、最高のニュータイプが、宇宙世紀で最後にしたことが、石ころにしがみつくことだった、というのが私は好きです。もうニュータイプだからどうこうの行動ではないですよね。

それが人の心の光を見せたことになったのかどうかわかりませんが、【奇跡】は起こりました。

『逆襲のシャア』で起こった【奇跡】


まず、地球が確実にダメになる状況で、ひとりの人間が「ダメになるかどうか」というレベルまでもっていこうとしていました。
それを見て、宇宙では一緒に押すものも現れました。地球でも多くの人々が宇宙(そら)を見上げました。
そして、全ての人々ではないけれど、恐らく人類始まって以来最も多くの人々が、アクシズを見つめて、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ「同じこと」を思った。

それは確かに【奇跡】と呼んでさしつかえないでしょう。
アクシズの軌道が変わったのは、この【奇跡】に付随する単なる一要素でしかない。

(しかし、それが本当に一瞬で、その後も人類が変わらずに闘争を繰り広げていくことを、悲しいけれど私たちは知っています。)

この【奇跡】の説明(言い訳)として、『逆襲のシャア』ではサイコフレームという概念を用意しています。
言い訳が自分に必要&言い訳を考えるのが面白い、という方は、積極的にサイコフレームという概念を解釈してみてもいいかも知れません。
しかし、サイコフレームやニュータイプのことが分からないから『逆襲のシャア』が分からないという方は、別に無理に考えなくてもよいと思います。
この映画はサイコフレームを描くためにつくられた映画ではないので、サイコフレームの要素を抜いても、映画の構造的には成立します。

ちなみに「モ、モニターが死ぬ!」とコクピットのモニタが全て死んでしまい、外の様子が全く見えなくなったシャアさんは、音声は聞こえていたものの、一切、この光景を見ていません。
シャアは、コクピットの外で何が起こったのか見ないまま、光の中へ消え去りました。

アムロの遺産を受け継ぐ、アムロの子供たち


最初に、父親になって地球(子供)を守るアムロと、ララァに母を求めていた子供であることを告白するシャアという構図を紹介しました。
この分かりやすい対比は、アムロがコスモ☆独身貴族となったことで無くなりましたが、その代わりに映画『逆襲のシャア』は、

ニュータイプには絶望したけれど、人類に絶望しなかったアムロと、人類に絶望しているけれど、ニュータイプへの幻想を捨てていないシャア

という構図になっているように思います。
そのシャアが負け、アムロがその計画を阻止する、という意味で、この映画はアムロ自身によってニュータイプ幻想に決着をつけたともいえます。でも私はそんなアムロを支持します。

アムロ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ 人類に絶望もしちゃいない!」


それは彼が地球を救ったニュータイプだからではなく、人類には絶望しないでいてくれたから。

私は、幼い頃からガンダムを見て育ちましたが、やっぱり子供の頃は特別な存在であるニュータイプに憧れました。
でも、大人に近づくにつれ、自分がどうしようもなく普通の人間であり、普通のまま、がんばって生きていかないといけないと気づいていく。
私たちはニュータイプにならなくても、私たちなりの大人になるしかないし、脳内で意思を伝え合う便利な力は無いので、さぼらずに相手と向きあってコミュニケーションをとるしかない。「私たちは分かり合えない生き物だ」という前提でね。

そう覚悟してがんばれば、【奇跡】が起こるのかといえば、もちろん起きません。
でも、【奇跡】はなくても結構、いや十分生きていけるものだと、大人になってしばらくした今は思います。
【奇跡】は、物語の中にしかない、なんのリアリティもない大嘘だ、ということを、『逆襲のシャア』に教わりましたしね。

アムロが絶望せずに、残してくれた世界と創ってくれた時間が「アムロの遺産」であり、そこで生きる私たちが、生まれなかったベルトーチカ・チルドレンの代わりの「アムロの子供たち」。
そう思えば、映画で我が子を奪われたアムロが、子供も無しにあそこまで戦った意味があるんじゃないでしょうか。

おまけ『火の鳥<逆襲編>』


宇宙市民の父とも言うべきジオン・ズム・ダイクンを父に持ち、
多感な少年時代を母なる地球に育てられたシャアが、
宇宙と地球の交わる大気圏の狭間で、
外が見えない状態で球体のコクピット(たまごの殻)に包まれたまま、
「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」とつぶやきながら、消えていく。

というのはやっぱり面白いですね。

父ジオンを殺し、アクシズというペニスで母なる地球を犯す。
「愛と幻想のジオニズム」というネタをまたどこかで書きたいですね。いや「愛と逆襲のジオニズム」かな。

この人はもう一度人間界に生まれ落ちて人間をやり直させた方がいいんじゃないか、という欲望にかられます。
手塚治虫なら、何度も生まれ変わる呪いをかけることでしょう。

火の鳥「お前は生まれ変わって、革命家となり、インテリの世直しをするのです」
シャア「え、またですか!?」
火の鳥「その次もです」
シャア「えー!」


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前回、冨野アニメ体験を、前編後編の二回に渡って書いてみましたが、『逆襲のシャア』について書いたとき、当時の友人がこんな感じのことを言っていたのを思い出した。

「サザビー(とシャア)って弱いよな。νガンダムにはコテンパンにやられて。
結果的に、νガンダムは五体満足なのに、サザビーは大破して脱出コクピットだけだもんな。しかもアムロにつかまるし。これはサザビーが弱いのか、シャアが弱いのか」


確かに。
戦いの結果だけを見れば、ファーストガンダムとは違い、大きな差がついてしまいましたね。
アムロとシャアのパイロット技量は、ほぼ互角でしょうし、νガンダムとサザビーの性能もシャア本人が望んだとおり、ほぼ互角のはずです。
なのになぜ、アムロとシャアの最終決戦では、このような大きな差がついてしまったのでしょう。

というわけで、今回のお題は、「νガンダムとサザビー、どちらが強いのか」から転じて、
「νガンダムvsサザビー戦は、なぜ『アムロの完全勝利』という大きな差で決着したのか」です。

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なぜ、シャアはアムロに勝てなかったのか


アムロとシャアの最終決着となる、せっかくのνガンダムとサザビーの一騎討ちが、なぜ
νガンダム = 五体無事
サザビー = 大破→脱出
という、アムロの完全勝利で終わってしまったのか。

私の答えはこれです。
それは、「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」

「そんなのあったりまえ」「身もフタもない」と言われるかもしれませんが、私にとってはこれが何より重要なことです。モビルスーツの性能もパイロット技量も関係ない。

確か私の記憶では、冒頭の友人の問いに対して、これを答えたら、結果的に言い争いになったような気がする(笑)。友人は、多分、こういう答えは望んでいなかったんでしょう。それは分かる。
ただ、今なら当時よりは分かりやすく自分の考えを説明できると思いますので、当時の友人の問いに十何年かぶりに答え直してみましょう。

私にとって「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」というのは、結論ではありません。むしろ逆。
これからするのは、「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」を大前提、つまりスタート地点として考えていくと、νガンダムvsサザビー戦がすばらしい戦いであることが見えてきませんか、というお話です。

大前提から逆算して、νガンダムvsサザビー戦を考える


映画『逆襲のシャア』の制作過程について、私は資料も何もありませんが、ラストの落とし方は決まっていたんじゃないかと思います。
落とし方とはつまり「νガンダムが地球に落ちる小惑星アクシズを受け止めて、アムロとシャアが運命を共にする」というラストです。

この「落とし所」をラストに持ってくることを前提に考えると、場面の流れは以下の順序になりますね。

(A)アムロとシャアの一騎討ち(νガンダムvsサザビー戦)

(B)アムロとシャアの戦闘決着(νガンダムvsサザビー戦終了)

(C)νガンダムがアクシズを受け止める

(D)ああ、メビウスの輪からー、ぬけだせーなーくーてー(エンディング)


さて、ここでは(C)パート(νガンダムがアクシズを受け止める)を中心(大前提)に考えてみましょう。
(C)パートに進むためには、その前にあたる(B)パート終了時に、最低限どういう状況になっているのが望ましいでしょうか?

(B)アムロとシャアの戦闘決着時に望ましい状態
・アムロ(ラストシーンの主演)が勝利する。
・敵味方もなく「アクシズを受け止める」というラストシーンのためには、戦闘はここまでに終了させておく方が良い。つまりシャアの無力化が必要。
・νガンダムに両手が必要。(片手では弱いので、両腕が欲しい)


こんな感じでしょうか。と、なると(B)パートの大まかな形が見えてきましたね。

(B)アムロとシャアの戦闘決着(νガンダムvsサザビー戦終了)
アムロが、νガンダムの両手を失うことなく勝利し、それによりシャアは無力化する。


これをνガンダムvsサザビー戦の基本的なルール(枠組み)としましょう。

とりあえずこの時点でシャアさんに残念なお知らせをすると、サザビーはνガンダムの両腕を切り落としたり、吹き飛ばすことはできないようですね。

では、両腕がダメなら、両足はどうでしょう?

両腕に比べれば、片足、両足ならば無くなってもいいかも知れません。
しかし、足にもバーニア(補助的なロケット噴射口)がついてますから、アクシズを押す推力が弱まってしまうイメージを与えてしまうかも知れません。
また、これは足に限りませんが、大きな傷跡があると、摩擦熱でそこから爆発がはじまってしまう不安を与えてしまうかも知れません。

どうも、νガンダムの両手両足を無くしてしまうのは、「小惑星アクシズを押す」という奇跡の下準備としては、あまりよろしくないようです。これから起こるのが奇跡だからこそ、見ている人の心に不安感や疑念を挟むような要素は出来る限り、とりのぞいておきたいところです。

以前の記事で、「モビルスーツは傷つくことを例外的に許された肉体」と書きましたが、この場面でのνガンダムは傷つくことを許されない状況のようですね。

ここまでを踏まえて、(B)パートの基本条件を少し修正しましょう。

(B)アムロとシャアの戦闘決着
アムロが、νガンダムの両手(できれば両足も)はもちろん、出来るだけ傷を受けない形で勝利し、それによりシャアは無力化する。


ああ、こんなこと、大佐になんて言って説明したらいいか…。あの人、勝つ気まんまんなのに…。

こうして見ると、シャアが勝つとか負けるとかそういう問題じゃないことが分かりますね。

そう、この戦いで本当に大事なのは勝敗ではありません。
「永遠のライバルの最終対決。しかし結果は、勝者が五体満足で勝つ」という、難しい条件が提示された舞台で、「いかに面白い”最後の死闘”をつくればよいのか」という問題です。少なくとも私にとってはそうです。

これは非常にエキサイティングな課題ですよね。
宿命のライバル同士のラストバトル。しかもロボットという傷つく肉体を使ったバトル。できれば壮絶な激闘にしたい。
しかしこの後のラストシーンのためには、勝者は五体満足のまま、敗者は無力化されることが望ましい。
さて、皆さんなら、この戦いをどういう展開にして、どう盛り上げますか?
「映画が面白くなるかどうかなんだ。考えてみる価値はありますぜ!」

ガンダム史上の名勝負となったνガンダムvsサザビー戦


「答え合わせ」は、とりあえず『逆襲のシャア』本編を見ればできますね。
この映画での、アムロとシャア、νガンダムとサザビーの戦いは、まさに死力を尽くした激闘となっていました。
もちろん、戦闘結果は設定された条件どおりに

(B)アムロとシャアの戦闘決着
アムロが、νガンダムの両手、両足を失うことなく勝利し、それによりシャアは無力化する。


となって、次のパートである(C)パート(νガンダムがアクシズを受け止める)へ、キレイにつないでいます。

しかし、だからといって、νガンダムvsサザビー戦が、アムロが一方的に勝っただけの面白くない戦いだとは言う人は少ないでしょう。

YouTube動画があったので、すでに逆シャアを体験した方の確認用に貼っておきますね。(未見の方は一度はちゃんと見るのをオススメします)

逆襲のシャア アムロvsシャア


ファンネル、ビームライフル、バズーカ、メガ粒子砲、ダミーバルーン、バルカン、ビームサーベルなどなど……あらゆる武器をフルに駆使して、死闘が繰り広げられます。
最後は、双方の武器が全てなくなり、拳と拳の殴り合いで決着をつけます(「紅の豚」方式)。

この戦闘シーンは、(C)パート(νガンダムがアクシズを受け止める)を迎えるための条件をクリアーしているのはもちろんのこと、さらにさまざまな補強やフォロー(言い訳)も加えており、全ての要素がラストシーンに生かされていることがすばらしいと私は思います。

νガンダムvsサザビー戦でのポイント


■サザビーのビームサーベルが切り裂けるもの


例えば、サザビーのビームサーベルが、νガンダムの腰の辺りを切り裂くシーン。
シャアがνガンダムを傷つけるシーンは入れておきたい。しかし、ここまで読んだ方には分かる通り、体の重要部分や頭などには手を出せない。
ではどうする?どこを切ればいい?と考えたとき、「致命傷にならないレベルで腰の辺りをサーベルがかすめる」という描写が選ばれたことに私は感動する。確かにどう考えても切り裂けるのはそのあたりの部位しかない。
このシーンは、厳しい制限がある中、それでもνガンダムをギリギリまで傷つけるためのせめぎあいが感じとれて、見直すたびに感動する。

■サザビーを殺して、シャアを殺さない攻撃


肉弾戦によるサザビーへのとどめ。
さっきまでファンネルが飛び交っていた2人の戦いが、原始的な殴り合いで決着する壮絶さが表現できているが、それと同時に単なるパンチやタックルなので、サザビーは大破できてもシャアは殺せない攻撃なのがいい。「俺はお前を殺さない!その機体を殺す!」わけですね。

■裸体(はだか)のガンダム


さらに、νガンダムが全ての武装を使いきって丸裸になったことは、後のシーンにおいても効果を発揮しています。
νガンダムがアクシズを押しているとき、敵味方のモビルスーツ達もアクシズに取りつきはじめましたが、アムロは彼らに対して、こう叫びます。

アムロ 「しかし、爆装している機体だってある」
アムロ 「ダメだ、摩擦熱とオーバーロードで自爆するだけだぞ!」


親切なことに、爆装(ミサイルなど爆弾を積んだ状態)した機体では、とっても危ないことをわざわざ見せてくれています。νガンダムは大丈夫なのか?
心配はご無用。我らがνガンダムは全武装をサザビー戦で使いきっている。それがこの場面では幸いして自爆の心配が無くなるわけです。サザビーとの総力戦が、ちゃんとこのパートにつながって別の形で生きている。
ちなみに何度も言うようですが、爆装してなけりゃ科学的、物理的に大丈夫とかそういう問題ではありません。この場面は結局、「行うは荒唐無稽、見せるは奇跡」ですから、観客が不安感や疑念、引っかかりを生むような要素は出来る限り排除しておく方が良い、ということだと私は考えています。

バランス調整としてのシャア総帥のフォロー


さて、厳しい制約があるにも関わらず、見事な展開を見せたνガンダムvsサザビー戦ですが、あと不足しているものといえば、やはり、あまりに凶悪なハンデで戦わされたネオ・ジオン総帥へのフォローでしょう。
結果だけ見れば、アムロの圧勝に見えてしまうだけに、いくつか言い訳を用意して、バランスを整えてあげるべきです。ナナイばりの優しさに大佐も胸の中で泣いてくれるかも知れません。

■シャア敗北のためのエクスキューズ(言い訳)


・戦略レベルでの勝利
この映画の舞台は、アコギなこともしながら全てシャアが整えました。
このレベルの戦いでは、最強のエースとは言えパイロットに過ぎないアムロはどうしようもないところで、連邦上層部の無能さもあって、ロンド・ベルは後手後手をつかまされることになります。
この辺りは、「銀河英雄伝説」のラインハルトとヤンのようなもので、お互いが最も実力を発揮できる階層をずらすことで、それぞれの活躍できるエリアを用意する、という形ですね。

・サイコフレームの技術提供
νガンダムは、シャアからの技術提供があって完成したモビルスーツです。シャアが敵に塩を送った理由は「対等の条件で決着をつけたかった」から。
物語の冒頭、サザビーvsリ・ガズィ戦では、明らかにサザビーの優勢でしたから、「大佐が技術提供しなければ、アムロにも普通に勝ってた」とシャアファンは、「もしも」の夢を見ることができるでしょう。
「そのままいけばシャアが勝つルート」が存在しえることを見せた上で、シャアの技術提供→νガンダムの登場なのがすばらしい。
言ってみれば「νガンダムの勝利の何%は、(敗者である)シャアのおかげ」なわけです。

・ナナイのわりこみ
νガンダムvsサザビー戦で、ナナイがシャアの脳内に話しかける。

シャア「なに?戻れと言うのか?ナナイ!男同士の間に入るな!」


これでスキができて、サザビーが大破するきっかけとなりました。まあ、その前から押されっぱなしなんですが、ちゃんとシャアの外部にアムロに遅れをとった理由を1つ作っておくのは、良いやり方だと思います。

劇中でシャアが「対等の勝負」と言っているのと裏腹に、物語の構造上、対等の勝負とはなりえない2人のバトルですので、この辺りのシャアへのフォロー(言い訳)は、バランス調整としてすばらしいと思います。

あとはそうですね、ガンダムをミリタリー的に見る能力のある方は、サザビーとνガンダムのカタログスペックを比較して、どちらが強いかという分析ができるでしょう。でも個人的には、この二機のモビルスーツ戦には物語上の役割があるので、それに合うように、スペック表をうまいことバランス調整すればいいという話だと思うんですよね。言ってしまえば、架空兵器のデータだから。
一番大事なことは作品で果たすべき表現や目的であって、あとのことはその実現のために揃えていけばいいと私は思います。




νガンダムvsサザビー戦のまとめ


さて、最後にここまでの内容をまとめておきましょう。

お題
「νガンダムvsサザビー戦は、なぜ『アムロの完全勝利』という大きな差がついたのか」

私の答え(前提)
「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」

これを前提としたときの、νガンダムvsサザビー戦の勝利条件(ルール)
「アムロが、νガンダムの両手(できれば両足も)はもちろん、出来るだけ傷を受けない形で勝利し、それによりシャアは無力化する」

νガンダムvsサザビー戦の課題
「この条件を守った上で、アムロとシャアのすばらしいラストバトルをつくりあげること」

実際に行われたバトル
・両者が全ての武器を駆使し、全てを使い果たすまで戦う。武器はどんどん壊れるが機体は傷つかない。
→シャアにνガンダムを傷つけさせるために、腰の辺りを切り裂くことを選ぶ。絶妙の位置調整。
→全ての武装を使い果たしたνガンダムには、アクシズを受け止めるときに爆装→自爆の危険性がなくなる効果も。

・全ての武装を使い果たした両者は、殴り合い宇宙(そら)へ。肉弾戦で決着。
→壮絶なフィニッシュであると同時に、シャアを殺さず、脱出へスムーズへつながる優しい攻撃方法。

シャアさんへのフォロー
・戦略的にはシャアさんの勝利にしておく(最後の奇跡以外は、シャアがつくった通りの舞台)。
・アムロに技術提供しなければ普通に勝ってたかも知れない未来を見せておく(序盤のサザビーvsリ・ガズィ戦)。
・ナナイさんからキャッチが入ったので、電話をとるスキにやられたんです(シャア本人の外部に言い訳をつくっておく)。

実際のところ、このバトルがどのような意図で、どのような過程で組み立てられたか、全く知らないのですが、私にとってνガンダムvsサザビー戦は、こういうバトルです。難しい条件ではありましたが、すばらしいラストバトルになっていると思います。
ガンダムの歴代ベストバウトTOP10なんかを決めるときに、この戦いに票を入れる人も多いんじゃないでしょうか。

■最後に


映画全体として見たときに、そもそも映画の落とし方である「νガンダムが地球に落ちる小惑星アクシズを受け止めて、アムロとシャアが運命を共にする」が良くない、好きではない、という方もいるでしょう。私個人は、アムロとシャアを始末することに賛成だったので、この落とし方は「あり」ですが、映画の作り方はさまざまですので、いろいろな可能性があると思います。

ただ、ここまで語ったことに関しては、そういう「落とし方」の是非は関係ないと考えています。
違う落とし方があれば、違う条件と課題が設定され、それをクリアーし、さらにそれ以上のシーンにするために別のフィルムが作られる、というだけの話で、やることは同じですから。

だから私は、この映画のテーマがどうとか、落とし方がどうとか、そういうこととは別に、サザビーのビームサーベルがνガンダムの腰を切り裂いたことに毎回感動しているのです。
「幼年期の終わり」は、アーサー・C・クラークのSF小説。かくあるごとにタイトルを耳にする古典的名作ですが、最近になってやっと読みました。

お話は世界の主要都市の上空に超巨大宇宙船がやってくるところから始まります。このイメージは映画インディペンデンスデイですね。

やってきた宇宙人は地球とケタ違いの科学力を持っており、地球上空に留まったまま、地球を統治する彼らは上帝(オーバーロード)と呼ばれた。

侵略ではなく統治。それはまるで父親が子供に接するがごとく。
人間同士では永遠に解決できない戦争を始め諸問題もオーバーロードという天の父の介入により一瞬で解決し、人々に幸せが訪れた。

しかし疑問が二つ。オーバーロードの目的は何なのか?
そしてもう一つ。全く姿を見せないオーバーロードとはどのような人々なのか?
という小説です。
ここから二つの疑問のネタばらしするけど、それはオチでも何でも無く、むしろ始まりと言っていい。

オーバーロードの目的。それは人類をより高次元に進化した存在に導くこと。
タイトルの幼年期の終わりとは、人類自体の幼年期が終わりに来ていることを指す。

オーバーロードは50年以上、姿を見せずに時期を待った。
そしてついに見せたその姿は、短い角、コウモリのような翼、トゲのある尻尾。それは人類が〈悪魔〉として思い浮かべるイメージそのものだった。

幼年期と決別させられる人類とそれを導く悪魔の姿をしたオーバーロード。それぞれの悲哀。
これだけでもう面白そうですよね。そそりますよね。

あと面白いのは後世の作品に与えた影響の大きさ。
今さら読んだからこそ色々な作品への影響を感じ取れて大変興味深い。

映画もそうだが、ガンダムのニュータイプなんかにも影響を与えてるんだろうな。逆襲のシャアで、シャアがアムロに「愚民どもに今すぐ叡知を授けて見せろ!」
と人類全体がニュータイプに覚醒しない絶望を叫ぶが、ガンダムの世界にオーバーロードはいないからな。
(シャアのこのセリフを受けてアムロの「貴様を殺ってからそうさせてもらう!」と続いて、逆シャアきっての名ゼリフであるクェスの「アムロ、あんたちょっとセコいよ」へつながります。)

もう一つ。幼年期の終わりの影響を感じる作品は、ファイブスター物語なんですが、それは次回の記事で。

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