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人生で初めて買ったDVDは、細田守監督作品、劇場版『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』 でした。

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藤田淑子坂本千夏

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その細田守監督の最新作、映画『サマーウォーズ』は8月1日公開。
今はまだ7月。公開前。私は試写会にも行っていないので、まだ作品は見ていない。
見てないのに、いや見てないからこそできる『サマーウォーズ』のおはなし。



『サマーウォーズ』は、『ぼくらのウォーゲーム【リビルド】』?


ネットをながめていると、あちこちで、『サマーウォーズ』の試写会へ行ったというお話や感想が。うらやましい限り。

見に行った方の感想を読むと、映画の内容は『ぼくらのウォーゲーム』を再構築した、『ぼくらのウォーゲーム【リビルド】』のようです。同じことを、多くの皆さんが話しておられるので、恐らくそうなのでしょう。

これは予告編を見ても、ある程度は感じることはできますね。

■「サマーウォーズ」 劇場用予告


ああ、細田さんの集大成的なところもあって面白いなあ。『ぼくらのウォーゲーム』の田舎とネット描写、タイムサスペンス。『SUPERFLAT MONOGRAM』のアバター。夏と恋と高校生。

そうか。『ぼくらのウォーゲーム』が、サマーを冠につけて帰ってきたか。
人生で初めて買ったDVDが『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』である私としては、これは喜ぶべき情報だ。

しかし、これに対しては、当然のように別の反応も考えられる。

映画の公開後、
「なんだよ、サマーウォーズって、デジモンの焼き直しじゃないか」
という感想が出てきたりするかも知れない。

その反応は分かる。でも、そういう人はちょっと見ている範囲が狭すぎるんじゃないかな。
ここでは、『ぼくらのウォーゲーム』が再構築(リビルド)された意義を考えてみたい。

今ここで、細田守が選んだ映画


あえてはっきり言うけど、デジモンの映画なんて誰も見てない。
見ているのは、当時のターゲットである子供と、一部のアニメファンだけ。
だって「東映アニメフェア」で「デジモン」で「40分」の映画だもん。
当時、アニメが普通に好き、という私の周りの友人たちも見ていなかったが、それは当然だと思う。

だから、「あなた」がすでに『ウォーゲーム』を見ているかどうかは個人的な問題で、映画『サマーウォーズ』の成立にはあまり関係がない。

映画『ぼくらのウォーゲーム』は、誰にも見られていない。
そのあと「誰もが見る映画」になるはずだった細田版『ハウルの動く城』は幻になった。

そして、その後『時をかける少女(時かけ)』で再び高い評価を受けたことで実現したであろう、次の映画が、この『サマーウォーズ』。

『時かけ』を経て、次回作のチャンスを得た細田さんが選んだのが、ほかでもない『ぼくらのウォーゲーム【リビルド】』なのは圧倒的に正しいと思う。
今必要なのは、劇場版『デジモン』よりも(さらにいえば『時かけ』よりも)、広く、遠くまで届く『ぼくらのウォーゲーム』だ。
金曜ロードショーで放映できる『ぼくらのウォーゲーム』だ。

エヴァンゲリオンも今、再構築(リビルド)がされていて、それは細田さんとはまた意味合いが違うけれど、共通して言えることは、再構築は決して無意味じゃないということ。
時代や状況、選ばれた作品の枠組み、制作者当人、そして見ている人々も変化していくものだから。それをちゃんと把握して、行われた再構築は無駄にはならない。
出てくるキャラクターやストーリーラインは、ほぼ同じでも、物語の持つ意味を変えることはできる。
(自分でも『聖戦士ダンバイン』の記事を書いた時に、その片鱗だけでも体感したから、私はその価値を信じる)

だから、もし公開後に「サマーウォーズなんて、デジモンの焼き直しだ」という人がいたなら、その人にはこう言いたい。

「君のいうことは正しい。―――だが、なぜそれを喜ばないのか」

地上波でゴールデンタイムにリピート放送できる映画


デジモン映画のリビルドであることは、批判ポイントには全くならない。私は肯定する。

すばらしい作品であるにも関わらず、「デジモン」だからって、「東映アニメフェア」の1本である「40分」作品だからって、みんなが見ていなかった映画が、『時かけ』の監督最新作として、2時間の映画になって帰ってきたんだよ。カムバックサーモンだよ。喜ぶべきことじゃないのか。

『サマーウォーズ』はおそらく、『時をかける少女』のように地上波で放送するだろう。
うまくいけば夏の風物詩になってくれるかもしれない(なってほしい)。
友人はもちろん、家族や恋人や、デジモンを知らない世代の子供たちとも一緒に見ることができる。

『ぼくらのウォーゲーム』みたいな楽しい映画が、みんなで見れるような映画になって帰ってきた。
うまくいって夏の定番になれば、リピート放送されて、ずっとこの先も見れる。
これが喜びでなくて、なんなんだ。
自分が見たことがあるからといって批判する必要などない。

誤解の無いよう書くが、これは私が『ぼくらのウォーゲーム』が好きだから、もう1回それが見れてうれしい、という話ではない。それを喜ぶなら、DVDを繰り返し見ていればそれでよい。

私は『ぼくらのウォーゲーム』が、誰でも楽しめる普遍的な面白さを持っていることを知っている。
しかし『ぼくらのウォーゲーム』が、ある一部の層にしか届かない作品であることも知っている。

作品が持つ面白さと同時に、その限界を知っているからこそ、それが今『サマーウォーズ』という別の映画になって現れたこと、それに意義を感じる、という話だ。

これでやっと、作品が持つ普遍的な面白さと、作品が届く距離と範囲のギャップが解消され、ゴールデンタイムの地上波でリピート放送されるようなアニメ映画になっているかも知れない。

そして、それができているのは、現時点ではジブリ映画。つまり宮崎駿だけだ。

「宮崎駿の後継者」としての細田守


細田守を「宮崎駿の後継者」と呼ぶことに一面の真実があるのだとしたら、そこに期待を込めるのだとしたら、私はゴールデンタイムにTVで流せるオリジナルアニメ映画を作れるかも知れない、というところにこそあると思っている。作風だの演出だのではもちろんない。
(逆に個人的には、庵野秀明にはゴールデンタイムじゃない宮崎駿を担当してほしい)

だからこそ、『サマーウォーズ』を構成する要素として「家族」を入れてきたのには、私は方法論としては納得できる。実際どう表現されたのかは、見てみないと分からないが、結果はどうあれ、考え方、やり方自体は間違ってないと思う。
このあたりは、『ウォーゲーム』よりも、家族がいらない映画『時かけ』と対比させて考えた方が分かりやすいかも知れないね。

『サマーウォーズ』を見ていて、インターネットやSNS、アバターなどが分からない大人は、一緒に見ている子どもたちに聞こう。
田舎や花札のことが分からない子どもたちは、一緒に見ている大人に聞こう。(私も、子供のころ、花札は父や大人たちに教えてもらって遊んだ)
見ていて、分からないことが映画の中で全て解消される必要はない。
映画の外で(理想は家族のコミュニケーションで)、解消されることを促すようなつくりでも面白いんじゃないか。実際、どうなのかは見てないので分からないが。

あと映画に季節感を付与するのは、宮崎駿との違いとしては、いいやり方だと思います。
でも夏の映画はこれで2本になりましたね。
今度は年末にでも放映できるようなクリスマスや冬の映画でもつくるといいかもしれないね。



というわけで、まだ見てないからこそ、今のところ私にとっての『サマーウォーズ』の位置づけはこんな感じになります。CMの入りタイミングまで覚えるほどにリピートされる映画になっていたら一番うれしい。

ネットの描写はあくまでアバターを介した象徴的なものだから、すぐにダメになるようなものでもないでしょう。(実際、『ぼくらのウォーゲーム』も、Adobe Illustrator的なネット世界を選択しているおかげで、古びることを最小限に抑えていると思う)

しかしこれで実際見てどうなのかは神のみぞ知る、ですね。
すでに試写会に行った人から見ると、バカなことを言っているように見えるのかも知れない。
でも、ここまで希望と理想に満ち溢れたことは、公開前じゃないと言いづらいしね。

しかし、仮に『サマーウォーズ』の作品の出来がどうだったとしても、自分の書いたことは無価値ではないと信じていますし、考え自体は変わらないでしょう。

とにかく『サマーウォーズ』が楽しみ。
「夏」はすぐそこまで来ている。



8/19追記:『サマーウォーズ』見てきましたので、感想メモを書きました。

『サマーウォーズ』関連記事(四部作)

このブログの『サマーウォーズ』記事です。よろしかったらどうぞ。最初の記事はネタバレありません。

■見る前(上映前)のレビュー(この記事)
日本の夏。『サマーウォーズ』の夏。 < 『ぼくらのウォーゲーム』再構築(リビルド)の価値は >

■見た後のレビュー ※ネタバレあり
サマー"ウォーズ"バケーション <田舎で見た、映画『サマーウォーズ』鑑賞メモ>

■特別編:ゴハン食べるの?食べないの?(フード理論) ※ネタバレあり
世界の危機には「家族で食事」を <『サマーウォーズ』 フィクションと現実で異なる「正しい行動」>

■完結編:『サマーウォーズ』のパッケージングと可能性の検討について ※ネタバレあり
10年前、世界を救ってくれた子供たちと、日常を守ってくれた大人たちへ<『ぼくらのウォーゲーム!』と『サマーウォーズ』>
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前回、冨野アニメ体験を、前編後編の二回に渡って書いてみましたが、『逆襲のシャア』について書いたとき、当時の友人がこんな感じのことを言っていたのを思い出した。

「サザビー(とシャア)って弱いよな。νガンダムにはコテンパンにやられて。
結果的に、νガンダムは五体満足なのに、サザビーは大破して脱出コクピットだけだもんな。しかもアムロにつかまるし。これはサザビーが弱いのか、シャアが弱いのか」


確かに。
戦いの結果だけを見れば、ファーストガンダムとは違い、大きな差がついてしまいましたね。
アムロとシャアのパイロット技量は、ほぼ互角でしょうし、νガンダムとサザビーの性能もシャア本人が望んだとおり、ほぼ互角のはずです。
なのになぜ、アムロとシャアの最終決戦では、このような大きな差がついてしまったのでしょう。

というわけで、今回のお題は、「νガンダムとサザビー、どちらが強いのか」から転じて、
「νガンダムvsサザビー戦は、なぜ『アムロの完全勝利』という大きな差で決着したのか」です。

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なぜ、シャアはアムロに勝てなかったのか


アムロとシャアの最終決着となる、せっかくのνガンダムとサザビーの一騎討ちが、なぜ
νガンダム = 五体無事
サザビー = 大破→脱出
という、アムロの完全勝利で終わってしまったのか。

私の答えはこれです。
それは、「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」

「そんなのあったりまえ」「身もフタもない」と言われるかもしれませんが、私にとってはこれが何より重要なことです。モビルスーツの性能もパイロット技量も関係ない。

確か私の記憶では、冒頭の友人の問いに対して、これを答えたら、結果的に言い争いになったような気がする(笑)。友人は、多分、こういう答えは望んでいなかったんでしょう。それは分かる。
ただ、今なら当時よりは分かりやすく自分の考えを説明できると思いますので、当時の友人の問いに十何年かぶりに答え直してみましょう。

私にとって「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」というのは、結論ではありません。むしろ逆。
これからするのは、「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」を大前提、つまりスタート地点として考えていくと、νガンダムvsサザビー戦がすばらしい戦いであることが見えてきませんか、というお話です。

大前提から逆算して、νガンダムvsサザビー戦を考える


映画『逆襲のシャア』の制作過程について、私は資料も何もありませんが、ラストの落とし方は決まっていたんじゃないかと思います。
落とし方とはつまり「νガンダムが地球に落ちる小惑星アクシズを受け止めて、アムロとシャアが運命を共にする」というラストです。

この「落とし所」をラストに持ってくることを前提に考えると、場面の流れは以下の順序になりますね。

(A)アムロとシャアの一騎討ち(νガンダムvsサザビー戦)

(B)アムロとシャアの戦闘決着(νガンダムvsサザビー戦終了)

(C)νガンダムがアクシズを受け止める

(D)ああ、メビウスの輪からー、ぬけだせーなーくーてー(エンディング)


さて、ここでは(C)パート(νガンダムがアクシズを受け止める)を中心(大前提)に考えてみましょう。
(C)パートに進むためには、その前にあたる(B)パート終了時に、最低限どういう状況になっているのが望ましいでしょうか?

(B)アムロとシャアの戦闘決着時に望ましい状態
・アムロ(ラストシーンの主演)が勝利する。
・敵味方もなく「アクシズを受け止める」というラストシーンのためには、戦闘はここまでに終了させておく方が良い。つまりシャアの無力化が必要。
・νガンダムに両手が必要。(片手では弱いので、両腕が欲しい)


こんな感じでしょうか。と、なると(B)パートの大まかな形が見えてきましたね。

(B)アムロとシャアの戦闘決着(νガンダムvsサザビー戦終了)
アムロが、νガンダムの両手を失うことなく勝利し、それによりシャアは無力化する。


これをνガンダムvsサザビー戦の基本的なルール(枠組み)としましょう。

とりあえずこの時点でシャアさんに残念なお知らせをすると、サザビーはνガンダムの両腕を切り落としたり、吹き飛ばすことはできないようですね。

では、両腕がダメなら、両足はどうでしょう?

両腕に比べれば、片足、両足ならば無くなってもいいかも知れません。
しかし、足にもバーニア(補助的なロケット噴射口)がついてますから、アクシズを押す推力が弱まってしまうイメージを与えてしまうかも知れません。
また、これは足に限りませんが、大きな傷跡があると、摩擦熱でそこから爆発がはじまってしまう不安を与えてしまうかも知れません。

どうも、νガンダムの両手両足を無くしてしまうのは、「小惑星アクシズを押す」という奇跡の下準備としては、あまりよろしくないようです。これから起こるのが奇跡だからこそ、見ている人の心に不安感や疑念を挟むような要素は出来る限り、とりのぞいておきたいところです。

以前の記事で、「モビルスーツは傷つくことを例外的に許された肉体」と書きましたが、この場面でのνガンダムは傷つくことを許されない状況のようですね。

ここまでを踏まえて、(B)パートの基本条件を少し修正しましょう。

(B)アムロとシャアの戦闘決着
アムロが、νガンダムの両手(できれば両足も)はもちろん、出来るだけ傷を受けない形で勝利し、それによりシャアは無力化する。


ああ、こんなこと、大佐になんて言って説明したらいいか…。あの人、勝つ気まんまんなのに…。

こうして見ると、シャアが勝つとか負けるとかそういう問題じゃないことが分かりますね。

そう、この戦いで本当に大事なのは勝敗ではありません。
「永遠のライバルの最終対決。しかし結果は、勝者が五体満足で勝つ」という、難しい条件が提示された舞台で、「いかに面白い”最後の死闘”をつくればよいのか」という問題です。少なくとも私にとってはそうです。

これは非常にエキサイティングな課題ですよね。
宿命のライバル同士のラストバトル。しかもロボットという傷つく肉体を使ったバトル。できれば壮絶な激闘にしたい。
しかしこの後のラストシーンのためには、勝者は五体満足のまま、敗者は無力化されることが望ましい。
さて、皆さんなら、この戦いをどういう展開にして、どう盛り上げますか?
「映画が面白くなるかどうかなんだ。考えてみる価値はありますぜ!」

ガンダム史上の名勝負となったνガンダムvsサザビー戦


「答え合わせ」は、とりあえず『逆襲のシャア』本編を見ればできますね。
この映画での、アムロとシャア、νガンダムとサザビーの戦いは、まさに死力を尽くした激闘となっていました。
もちろん、戦闘結果は設定された条件どおりに

(B)アムロとシャアの戦闘決着
アムロが、νガンダムの両手、両足を失うことなく勝利し、それによりシャアは無力化する。


となって、次のパートである(C)パート(νガンダムがアクシズを受け止める)へ、キレイにつないでいます。

しかし、だからといって、νガンダムvsサザビー戦が、アムロが一方的に勝っただけの面白くない戦いだとは言う人は少ないでしょう。

YouTube動画があったので、すでに逆シャアを体験した方の確認用に貼っておきますね。(未見の方は一度はちゃんと見るのをオススメします)

逆襲のシャア アムロvsシャア


ファンネル、ビームライフル、バズーカ、メガ粒子砲、ダミーバルーン、バルカン、ビームサーベルなどなど……あらゆる武器をフルに駆使して、死闘が繰り広げられます。
最後は、双方の武器が全てなくなり、拳と拳の殴り合いで決着をつけます(「紅の豚」方式)。

この戦闘シーンは、(C)パート(νガンダムがアクシズを受け止める)を迎えるための条件をクリアーしているのはもちろんのこと、さらにさまざまな補強やフォロー(言い訳)も加えており、全ての要素がラストシーンに生かされていることがすばらしいと私は思います。

νガンダムvsサザビー戦でのポイント


■サザビーのビームサーベルが切り裂けるもの


例えば、サザビーのビームサーベルが、νガンダムの腰の辺りを切り裂くシーン。
シャアがνガンダムを傷つけるシーンは入れておきたい。しかし、ここまで読んだ方には分かる通り、体の重要部分や頭などには手を出せない。
ではどうする?どこを切ればいい?と考えたとき、「致命傷にならないレベルで腰の辺りをサーベルがかすめる」という描写が選ばれたことに私は感動する。確かにどう考えても切り裂けるのはそのあたりの部位しかない。
このシーンは、厳しい制限がある中、それでもνガンダムをギリギリまで傷つけるためのせめぎあいが感じとれて、見直すたびに感動する。

■サザビーを殺して、シャアを殺さない攻撃


肉弾戦によるサザビーへのとどめ。
さっきまでファンネルが飛び交っていた2人の戦いが、原始的な殴り合いで決着する壮絶さが表現できているが、それと同時に単なるパンチやタックルなので、サザビーは大破できてもシャアは殺せない攻撃なのがいい。「俺はお前を殺さない!その機体を殺す!」わけですね。

■裸体(はだか)のガンダム


さらに、νガンダムが全ての武装を使いきって丸裸になったことは、後のシーンにおいても効果を発揮しています。
νガンダムがアクシズを押しているとき、敵味方のモビルスーツ達もアクシズに取りつきはじめましたが、アムロは彼らに対して、こう叫びます。

アムロ 「しかし、爆装している機体だってある」
アムロ 「ダメだ、摩擦熱とオーバーロードで自爆するだけだぞ!」


親切なことに、爆装(ミサイルなど爆弾を積んだ状態)した機体では、とっても危ないことをわざわざ見せてくれています。νガンダムは大丈夫なのか?
心配はご無用。我らがνガンダムは全武装をサザビー戦で使いきっている。それがこの場面では幸いして自爆の心配が無くなるわけです。サザビーとの総力戦が、ちゃんとこのパートにつながって別の形で生きている。
ちなみに何度も言うようですが、爆装してなけりゃ科学的、物理的に大丈夫とかそういう問題ではありません。この場面は結局、「行うは荒唐無稽、見せるは奇跡」ですから、観客が不安感や疑念、引っかかりを生むような要素は出来る限り排除しておく方が良い、ということだと私は考えています。

バランス調整としてのシャア総帥のフォロー


さて、厳しい制約があるにも関わらず、見事な展開を見せたνガンダムvsサザビー戦ですが、あと不足しているものといえば、やはり、あまりに凶悪なハンデで戦わされたネオ・ジオン総帥へのフォローでしょう。
結果だけ見れば、アムロの圧勝に見えてしまうだけに、いくつか言い訳を用意して、バランスを整えてあげるべきです。ナナイばりの優しさに大佐も胸の中で泣いてくれるかも知れません。

■シャア敗北のためのエクスキューズ(言い訳)


・戦略レベルでの勝利
この映画の舞台は、アコギなこともしながら全てシャアが整えました。
このレベルの戦いでは、最強のエースとは言えパイロットに過ぎないアムロはどうしようもないところで、連邦上層部の無能さもあって、ロンド・ベルは後手後手をつかまされることになります。
この辺りは、「銀河英雄伝説」のラインハルトとヤンのようなもので、お互いが最も実力を発揮できる階層をずらすことで、それぞれの活躍できるエリアを用意する、という形ですね。

・サイコフレームの技術提供
νガンダムは、シャアからの技術提供があって完成したモビルスーツです。シャアが敵に塩を送った理由は「対等の条件で決着をつけたかった」から。
物語の冒頭、サザビーvsリ・ガズィ戦では、明らかにサザビーの優勢でしたから、「大佐が技術提供しなければ、アムロにも普通に勝ってた」とシャアファンは、「もしも」の夢を見ることができるでしょう。
「そのままいけばシャアが勝つルート」が存在しえることを見せた上で、シャアの技術提供→νガンダムの登場なのがすばらしい。
言ってみれば「νガンダムの勝利の何%は、(敗者である)シャアのおかげ」なわけです。

・ナナイのわりこみ
νガンダムvsサザビー戦で、ナナイがシャアの脳内に話しかける。

シャア「なに?戻れと言うのか?ナナイ!男同士の間に入るな!」


これでスキができて、サザビーが大破するきっかけとなりました。まあ、その前から押されっぱなしなんですが、ちゃんとシャアの外部にアムロに遅れをとった理由を1つ作っておくのは、良いやり方だと思います。

劇中でシャアが「対等の勝負」と言っているのと裏腹に、物語の構造上、対等の勝負とはなりえない2人のバトルですので、この辺りのシャアへのフォロー(言い訳)は、バランス調整としてすばらしいと思います。

あとはそうですね、ガンダムをミリタリー的に見る能力のある方は、サザビーとνガンダムのカタログスペックを比較して、どちらが強いかという分析ができるでしょう。でも個人的には、この二機のモビルスーツ戦には物語上の役割があるので、それに合うように、スペック表をうまいことバランス調整すればいいという話だと思うんですよね。言ってしまえば、架空兵器のデータだから。
一番大事なことは作品で果たすべき表現や目的であって、あとのことはその実現のために揃えていけばいいと私は思います。




νガンダムvsサザビー戦のまとめ


さて、最後にここまでの内容をまとめておきましょう。

お題
「νガンダムvsサザビー戦は、なぜ『アムロの完全勝利』という大きな差がついたのか」

私の答え(前提)
「最後に、νガンダムが小惑星アクシズを押す必要があったから」

これを前提としたときの、νガンダムvsサザビー戦の勝利条件(ルール)
「アムロが、νガンダムの両手(できれば両足も)はもちろん、出来るだけ傷を受けない形で勝利し、それによりシャアは無力化する」

νガンダムvsサザビー戦の課題
「この条件を守った上で、アムロとシャアのすばらしいラストバトルをつくりあげること」

実際に行われたバトル
・両者が全ての武器を駆使し、全てを使い果たすまで戦う。武器はどんどん壊れるが機体は傷つかない。
→シャアにνガンダムを傷つけさせるために、腰の辺りを切り裂くことを選ぶ。絶妙の位置調整。
→全ての武装を使い果たしたνガンダムには、アクシズを受け止めるときに爆装→自爆の危険性がなくなる効果も。

・全ての武装を使い果たした両者は、殴り合い宇宙(そら)へ。肉弾戦で決着。
→壮絶なフィニッシュであると同時に、シャアを殺さず、脱出へスムーズへつながる優しい攻撃方法。

シャアさんへのフォロー
・戦略的にはシャアさんの勝利にしておく(最後の奇跡以外は、シャアがつくった通りの舞台)。
・アムロに技術提供しなければ普通に勝ってたかも知れない未来を見せておく(序盤のサザビーvsリ・ガズィ戦)。
・ナナイさんからキャッチが入ったので、電話をとるスキにやられたんです(シャア本人の外部に言い訳をつくっておく)。

実際のところ、このバトルがどのような意図で、どのような過程で組み立てられたか、全く知らないのですが、私にとってνガンダムvsサザビー戦は、こういうバトルです。難しい条件ではありましたが、すばらしいラストバトルになっていると思います。
ガンダムの歴代ベストバウトTOP10なんかを決めるときに、この戦いに票を入れる人も多いんじゃないでしょうか。

■最後に


映画全体として見たときに、そもそも映画の落とし方である「νガンダムが地球に落ちる小惑星アクシズを受け止めて、アムロとシャアが運命を共にする」が良くない、好きではない、という方もいるでしょう。私個人は、アムロとシャアを始末することに賛成だったので、この落とし方は「あり」ですが、映画の作り方はさまざまですので、いろいろな可能性があると思います。

ただ、ここまで語ったことに関しては、そういう「落とし方」の是非は関係ないと考えています。
違う落とし方があれば、違う条件と課題が設定され、それをクリアーし、さらにそれ以上のシーンにするために別のフィルムが作られる、というだけの話で、やることは同じですから。

だから私は、この映画のテーマがどうとか、落とし方がどうとか、そういうこととは別に、サザビーのビームサーベルがνガンダムの腰を切り裂いたことに毎回感動しているのです。
「私の履歴書」富野アニメ体験プロフィールと題しまして、幼少の頃からの富野体験を語りましたが、思いのほか(脱線ばかりで)長くなったので、前後篇に分けました。今回は発動篇です。

接触篇はこちら→「私の履歴書」富野アニメ体験プロフィール【前編】

<前回までのあらすじ>

  • 幼児期、アルバムの写真が全てライダー変身&ウルトラマン光線ポーズになるほど、ウルトラマン&仮面ライダーに狂っていた私だが、ガンダムに出会ってからそれを全てやめる(分かりやすい)。
  • その後、順調に冨野アニメに染まっていくが、「はじめて自分のものと言えるガンダム」であるZガンダムを失い、「Zガンダムは、私の母になってくれるかもしれなかったアニメだ」状態になる。
  • そして、Zの反動ともいえる路線変更をされたZZガンダム。子供向けにされた展開に「こ、こんなのが欲しいわけじゃない!」と子供らしい反発をして、ついにZZ後半を見ないという事態に。

はたして、このまま富野アニメと決別してしまうのか!
もちろん全然決別してないから、こんなん書いてるんだけど!



アムロの子ら


ZZの後半を見なくなったあと、後番のドラグナーあたりも見たりもしたけれど、ガンダムを含めたロボットアニメ全体から遠ざかりつつあった。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』


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そんな流れから現れた逆襲のシャア。劇場では見ていない。
モチベーション的な理由もあったが、田舎だったから、逆シャアを上映する劇場まで子供が行くのはかなりの覚悟がいるというのもあった。そもそも交通費、チケット代を含めたお金も全然無かった。

でも富田靖子が出てくる、公開前特番みたいなのは見た気がする。TVだから。タダだから。
ある程度の年齢から上の人しか分からないと思うけど、その昔、ガンダム芸(能)人といえば、富田靖子でしたよね。好きなアニメに、ドラえもんやディズニーやハウス名作劇場でもなく、「ガンダムが好き」と公言する芸能人(ましてや女優)がまだほとんどいなかったころのおはなし。

「逆襲のシャア」を初めて見たのは、劇場公開から2年ほどたった冬休みか何かの地上波放映時。
見終わって、友人らとしばらく「それはエゴだよ」を言い合っていたのを覚えている。
「数学の宿題写させて」「それはエゴだよ」みたいに、ちょっとわがまま言うと、全部エゴ扱い(もちろんエゴの意味はなんとなくしか分かっていない)。そんなハッピーエゴライフを送っていました。

■永遠のアムロ


当時の私の感想は「うまいこと、アムロとシャアをまとめて殺したな」でした。
この感想は基本的には今でも変わってはいない。

Zガンダムを作ったことで、ガンダムに歴史が生まれて、その歴史の時の流れは、アムロ達登場人物にも平等に年をとらせる。
スター役者であるアムロヤシャアはこの世界で、この先どう生きていくのか。
老いたアムロヤシャアがモビルスーツで、若いパイロットに押されてロートル扱いされるのか。
そんな芸能界のアイドルや、スポーツ選手と同じような、逃れられないせつなさを味わうのかも知れない。
さらにその先。
ブライトのようにアムロやシャアにも子供が生まれて、その子もパイロットになり、ガンダムに乗って人殺しをしたり、殺されたりするのかも知れない。その次の子供も、そのまた子供も敵味方に分かれ、殺しあいを続けていくのか。

それを避けるには、2人の時を止めて、永遠の存在にするしかない。
ジェームズ・ディーンのように。松田優作のように。

だから「逆襲のシャア」のラストで、アムロとシャアの結末がああなったのは、子供ながらに納得がいった。
ああなった以上、アムロとシャアの物語は宇宙世紀のこの先、存在できない。
富野監督はもちろん、サンライズや、バンダイもアムロとシャアの未来をつくることはできない。
アムロとシャアをこれ以上誰も触れないように(もちろんそこには富野監督自身も含まれてしまう)、葬ったんだな、と感じていました。

ところが、その後、友人から小説「ベルトーチカ・チルドレン」を借りて読んだりして、アムロの子供の存在を知ったり、「ガイア・ギア」の存在を知ったり、血のつながりは無いけれど、ハサウェイがアムロとシャア、2人の子供になっていったりするのを見て、よく分からなくなっていった。

「アムロとシャアを葬りたかったんじゃないの?」
「俺(冨野)はいいんだよ!でも他のやつはさわんな!」

というのも、まあ、あったりするでしょうが、そもそも「他のやつ」は「逆襲のシャア」でアムロの子供が登場することに反対したんですよね。

当初書き上げた映画シナリオの第1稿は、内部での審査時に「アニメーション映画の主人公が妻子持ちになるのはどうか?」という批判を受けて改訂が行われた。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(wikipedia)


アムロに子供がいれば、アムロが身を捨ててでも地球を守りたかった行動がより明確になる。そういう意味でも、「子供を持つアムロ」はとても自然に思える。

だがそういうアムロが存在することは反対されてしまったので、彼は結局、ぼくたちに地球を残してくれたけれども、血を分けた子供は残さずに宇宙世紀から去っていった。

私は映画を見た後で裏事情をいろいろと知ってしまったわけだが、さまざまな思惑や偶然の結果にせよ、アムロやシャアに子供が残されなかったのは良かったと今でも思っているし、「キャラクターにどう始末をつけるのか」という問題としては、非常に示唆に富むサンプルだと思う。

これは今思いついたので、思いつくまま書くけど、庵野秀明は「THE END OF EVANGELION」で、物語とキャラと世界を、全てを終わらせる映画をつくったけど、富野由悠季は「エンド・オブ・ガンダム」は作れない立場なんだよね。ガンダムの世界は続かないといけない。世界は続く。
富野が作るのは「エンド・オブ」じゃなくて、「リング・オブ・ガンダム」なんだよね。
もうそれは、「1周回って」ポジティブなものに感じられるけどね。ターンAも生まれたし。

そういう富野由悠季にとって、アムロとシャアを殺すのは彼に可能だったギリギリの、でも譲れないラインだったんじゃないかな、と思える。実際はどうかは知らない。でももし私なら、アムロとシャアは自分で殺したい。

「逆襲のシャア」はもうひとつ書きたいことがあるけれど、富野体験とは少しずれるし、長くなりすぎるので、独立して記事をつくります。「νガンダムとサザビー、どっちが強いの?」というような記事です。

シャアの動乱以降


『機動戦士ガンダムF91』


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辻谷耕史冬馬由美

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劇場に見に行ったはじめてのガンダム。
この辺りでやっと、自分たちで劇場に行けるようになっていた。公開前特番を見たものの、ほぼ事前情報の無いまま、私の方から友人達を誘い、劇場に行った。
ご存じの通りTVシリーズ化を前提にした企画だったため、物語的にはダイジェスト的になっていて、全てがキレイにおさまる映画ではない。
上映が終わり、館内が明るくなると、友人達が私の顔を見ていることに気がついた。
み、見るな!俺の顔を見るな!俺も、コスモ貴族主義がどうなるかなんて知らなかったんだよ!
世界の風呂敷は全然たたんでないが、シーブックとセシリーの物語としては、うまいことまとまってたじゃないか。な?そうだろ?
「さ、ご飯でも食べに行こうか。」
と、友人たちの視線には鉄仮面をかぶって無視し、劇場を出た。


『機動戦士Vガンダム』


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(2004/01/23)
阪口大助黒田由美

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Vガンについては、カテジナ裁判の記事を書いたので、とりあえずそちらで。
【ガンダム三大悪女】 カテジナ・ルース裁判

この当時は、本当にアニメが無かったし、みんなアニメ見ていなかった。
私もVガンダムとセーラームーンぐらいしか見ていなかった。「アニメがない!」って今ではちょっと考えられないですけどね。ガンダム友人もVガンのときには1人しかいなかった。もともと友達少ないけども。
またこれも今では想像しづらいけど「ガンダム?あったねえそういえば。え?まだガンダムのこと考えてるの?」と言われる時期は何度もあった。みんなガンダムは過去のものとして忘れていたし、そしてそれは自然で当然のことだった。
現在、ガンダムが世代を越えた基礎教養のようになっているのが、ちょっと信じられないという感覚はいまだにある。それは素直にすばらしいことだと思っておくが、正直なところ、リアルタイムの時さみしかったよ、その時にいろいろしゃべりたかったよ、という思いもある。

宇宙世紀の外側


『機動武闘伝Gガンダム』


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(2002/12/21)
関智一天野由梨

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富野監督作品ではないけれど、無関係では無いし、Vガンダムの後番だし、リアルタイムでちゃんと見たしで、取り上げておきたい。それに個人的にもガンダムシリーズ内でも重要な位置づけにある。

Gガンダム放映当時のことで思い出すのは、やはり放送前のマイケル富岡と内山君の特番……いや第一話。第一話見た後の感想は「あれ?思ったよりおとなしいな」でした。はじめのうちは暗めで地味なお話が続くんですよね。
今川監督だし、事前に聞いた情報から、もっとむちゃくちゃ破天荒かな、と想像してました。東方不敗が出てくると全て吹き飛ぶのですが。

本放送当時、ネットも無かったので私の周りだけの反応でいうなら、やっぱり「これをガンダムとは受け入れられない」という人もいました。(今もいるのかな)
低年齢層とか、これまでのガンダムを知らない人たちも見れるコンテンツという意味はあったと思います。うちの妹も、これまでガンダム見てませんでしたが、途中からは私が見てる横で見てました。

今だとすっかり「Gガンは熱い」「燃える」で評価が定まった感がありますが、放送中に私が感じてたのは面白いと感じつつも「くやしい」。ひたすら「くやしい」でした。
当時、ガンダムはVまでしか無く、ガンダムで遊ぶのは二次的な創作の役割でした。SDガンダムや、ボンボンの佐藤元さんのマンガ(ぷっつんカミーユ)、そして私たち視聴者が友達とふざけて話すガンダムネタもそう。

でもね、Gガンダムは面白ガンダム博覧会で、しかも今川監督だからパイロットが涙流したら、ガンダムの顔も涙流すんですよ(個人的にはこれが今川監督で、すごいなと思う)。
やられた、と思った。「熱い」「燃える」と言っている場合ではない。
今後、ガンダムで面白ネタを考えても、そのほとんどはGガンダムに回収されてしまう、と思った。

例えば「ガンダムでオリンピックやったときに、各国の代表ガンダムはなに?」なんて、某巨大匿名掲示板のスレッドにいかにもありそうですよね(実際あるかどうかは知らない)。
そのときに「だとするとあれだよね。オランダ代表は風車に手足が生えたネーデルガンダムだよね」「それいいね。採用!」と勝手に考えて、ゲラゲラ笑うのは私たちの役割ではなかったか。

しかしGガンダムでは、こうした私たちのバカ話のようなガンダムを、大河原邦男やカトキハジメがデザインして、1年間のガンダムシリーズとしてガンダムオリンピック(ファイト)を放映して、あまつさえ、それが面白くて、しかもマンダラガンダムがちょっとかっこいい、とか、もうどうすればいいの?
だって、同じようなネタはみんな考えるけど、本当のスタッフとスタジオが本気で面白いものとしてつくってしまったんだよ!オフィシャルが!本気で!
オフィシャルにこのネタをやられちゃあ、おしめえよ!

のちにターンAガンダムがガンダム全肯定するんだけど、その前に面白ガンダムについては、Gガンダムが全肯定した上で全て回収しているんですよね。
そしてそのGガンダムごと、ターンAが全てを回収する。

だから当時は、もちろん楽しんで見てたんだけど、ある意味絶望してた。
当時はなぜみんながもっとGガンダムに絶望したり、悔しがったりしてないのか分からなかった。少なくとも私はGガンを見て以降、ガンダムで思いつく面白いことの何%かは「あ、これはGガン」と、回収されてしまうことに気づかされてしまう。

そしてせっかく”「あの顔」がついてりゃ全てガンダムだ。”
ということをVガンダムの直後のGガンダムが徹底してやってくれたのに、この後のガンダムがなぜかずっと執拗に「戦争」をえがこうとするのか、私には良く分からない。
ガンダム=戦争だとは全く思わないし、しかもそれはオフィシャルのGガンがすでに証明済みだ。
戦争は、あくまでロボットアニメのための都合のいい舞台装置だと思うし、宇宙世紀の冠をはずして、ここまで自由にやっていいとGガンで線引きをしたのに、なぜあそこまで戦争自体をテーマにしたがるんでしょう。
ロボットアニメのために徹底して利用する「戦争」ならいいけれど、むしろ「戦争」をえがくためにガンダムを使っている印象をどうしても私は受けてしまう。
ガンダム出て楽しけりゃどんなでもいいのに「戦争とは」「平和とは」を語りたがるのは不思議だ。

『新機動戦記ガンダムW』


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緑川光関俊彦

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富野関係ないけど、Vガンダムが選ばなかった「ガンダム戦隊」を背負った作品として。

これも昔書いたが、「もったいない」という思いは当時も今も変わっていない。
多くの人を幸せにするポテンシャルを持っていた作品なのに誰も幸せにしなかったと考えている。
誰でもいいから多くの人を幸せにしてほしかった。その対象に私が含まれていなくても全く構わない。

もったいないと呼ばれたガンダム、「新機動戦記ガンダムW」

2つ目の衝撃


体験としては、ここで「新世紀エヴァンゲリオン」が入る。
これはやはり大きかった。私の作品や物語の見方を変えたり、自覚を促したという意味では、ファースト(ガンダム)に続く、セカンド(インパクト)と言ってよいと思う。
これで、ガンダムや富野作品の見方も変わった。このブログの記事は、基本的にその通過を経たことによって、書かれたものです。
サードは今のところまだない。

「新世紀エヴァンゲリオン」についてはまた稿を改めて。

白富野三部作


『ブレンパワード』


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白鳥哲富野由悠季

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リアルタイムでは見ていない。のちにビデオ化されてから、レンタルで見た。かなり後のことだ。
うーん、私はあまりこれを語る資格はないな。体に染みついていない。ただ順番は一応守った(笑)。

『∀ガンダム』


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ターンAの記事は独立しては書いてないけど、個人的にはある程度書いたかなと思うのですが。

当時、本放送を見始めたときに思ったのは、やっぱり「Vガンダムのやり直しと救済」。
これはちゃんと独立したエントリ立てたいけど、要するに、ディアナ・ソレルの中にVガンダムの女王マリアを見たし、キエル・ハイムの中にカテジナ・ルースを見たということ。
多分、私はここに至るまでずっとVガンダムが、カテジナ・ルースが、心に引っ掛かっていたんでしょう。だが、ここで解放された。

『キングゲイナー』


WOWOWでの放送だったので見れないはずだったが、ちょうどWOWOWがサッカーのチャンピオンズリーグの放送権を持っていたので、サッカーと富野観戦(観戦?いや観戦でいいな)という二大趣味が揃うということで加入し、リアルタイムで見ました。
放送中は幸せでした。終わってしまうと、連続TVシリーズでも一個の作品として評価されてしまうから、全体の評価としては色々難しいところもあるけれど、毎週毎週リアルタイムで見ている身としては、週刊少年マンガのように次回を常に楽しんでたよ。

Vガンダムの後の作品については、
「リハビリのブレンパワード」「ガンダム卒業のターンA」「新たな世界へエクソダスのキングゲイナー」
という印象が私にはありまして、富野由悠季は今後、ガンダムを卒業して、ちょっと違う方向へ行くのかな、行って欲しいな、と思っていたので、

ゲイン「エクソダス……するかい?」

「する!する!」と、そのときは二つ返事でついていきました。

その後と現在


『Z劇場版』は一作目のみ劇場で。『リーンの翼』はまだ見ていないので、出来る限りリアルタイムで順番に、というのはもう果たされていない。
そんなのでは富野ファンとは呼べないな、と言われるなら、そうかも知れない。
でも、もう大人になったので、作品のリリースタイミングとは別に、自分が作品を必要としたときに見ることにしたい。その日は必ず来るはず。

子供のころ、父が以前買った本があるのに、また多くの本を買ってくるのを見ていて、
「なんで、読んでないのに次々に本を買うの?」と聞くと、
「本を買いたいときと、読みたいときは別だから」と答えられた。
子供のときは、今あるものを今体験したいと思っていたのだけど、年齢が上がれば体験できる作品の範囲が大きくなるのもありますが、自分が必要とするタイミングで作品に接する方が自然じゃないかと思う。
まあ、まだ見ていない作品についての言い訳ですね。これは。

さて、長々と自分語りをしてきたわけですが、富野アニメやガンダム体験の一つのサンプルと思っていただければ幸いです。私はこんな感じですが、皆さんはどんな富野作品体験を持っていらっしゃるでしょうか。良ろしければお聞かせください。ララァも喜ぶ。

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