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映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』において、νガンダムを駆るアムロと、サザビーを駆るシャアのラストバトルが行われ、アムロはこれに完勝します。
シャアはνガンダムの腕1本もぎとることすらできませんでした。

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それにも関わらず、この戦いは宇宙世紀屈指の名勝負にあげられることも多いようですね。それはなぜなのか?と、いうようなテーマで、以前、記事を書きました。

サザビーのサーベルはνガンダムを切り裂いたか <『逆襲のシャア』 νガンダムvsサザビー戦のルール>

この記事にコメントをいただいたのが今回の記事の直接のきっかけです。一部、抜粋させていただきます。

コメントより
アムロの遠隔操作によるバズーカでシールドを、ファンネルの撃ち合い、
その他の二人のニュータイプとしての描写から考えて、
その二人のニュータイプの能力差が、五体満足のν、サザビーの崩壊
という考え方はいかがでしょう?
シナリオを原点とする視聴者側ならではの発想になるとも思います。
MSの性能も武器もパイロット技術も互角なら、あとはニュータイプ能力と「運」の差でしょうか?


皆さんでしたら、「νガンダム(アムロ)とサザビー(シャア)の命運を分けた、でも絶対に存在する差はいったい何だったのか?」という問いに、どう答えますか?

モビルスーツのスペックや、パイロット技倆、ニュータイプ能力などを中心にした考察や比較は、話のタネとしてあちこちで語られています。
知識も資料も持ちあわせてもいない私がその辺りの話をすることはできませんし、そもそもそういうことを語ること自体に興味が全くありません、というのは先の記事を見ていただくと分かっていただけるかと思います。

しかし、せっかく貴重なコメントをいただいたので、あくまで物語として「なぜアムロが勝ち、シャアが負けたのか」というのを、あれこれ考えることにしました。

小説『ベルトーチカ・チルドレン』のアムロパパ


物語としての構図を考えるならば、アムロに子供ができていることした方が圧倒的に分かりやすくなります。
つまり、これは小説『ベルトーチカ・チルドレン』であり、映画では実現しなかった形ですね。

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この形ですと、父親になって地球(子供)を守るアムロと、ララァに母を求めていた子供であることを告白するシャアの対比になりますので、当然のようにシャアは負けることになるでしょう。大変分かりやすい構図です。

いろいろありまして、映画でのアムロは、パパではなく、コスモ☆独身貴族となってしまいましたが、分かりやすい構図が良いのかどうかはまた別の問題です。
映画『逆襲のシャア』はあれでよいと、私個人はそう思っています。

ニュータイプ少女を再び死なせる二人


映画ではアムロもシャアも、クェス・パラヤという少女をフォローすることができず、死なせてしまっています。

高いニュータイプの素養を持つ少女クェス・パラヤの関心は、当初、先に出会ったアムロに向いていました。
ララァ・スンが先に出会ったのが自分でなくシャアだったという悲劇が、人生最大のトラウマであるアムロとすれば、過ちを繰り返さないためのひとつのチャンスといえたかも知れません。
しかし、アムロは普通の女性チェーンと恋人関係にありました。
自分の居場所を求めるクェスは名言「アムロ、あんた、ちょっとセコいよ!」を残して、シャアの元へ去ってしまいます。

そのシャアは、自分へ身を寄せたクェスをマシーンとして、戦争の道具に使いました。
シャアは役割を求められることを極端に嫌います。シャアに父性を求めてくるクェスは、もちろんララァの代替ですらありません。
しかし劇中の最後で、シャアはアムロに気付かされたように、この私が直撃を受けている級の衝撃セリフをつぶやきます。

シャア「そうか、クェスは父親を求めていたのか…。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな」


父を求めていたクェスに優しさの演技で応えつつ、確信犯的に戦争の道具にしていると思っていたのに、その自覚がなかったですって?
『逆襲のシャア』を最初に見たのは、クェスやハサウェイと同世代の子供でしたが、このセリフには驚いたのを覚えています。(このあたりが、シャアのかわいいところでもあるんでしょうが、シロッコだったら100%自覚の上、振舞うところですよね。)

「ララァ以後」の女性観


こうしてアムロとシャアの間を行き来したクェスを見ていると、アムロとシャアの「ララァ以後」の女性観の歪みが見えるようで面白いものがあります。

アムロは、ニュータイプ的な素養のある女性に深入りするのを可能な限り避けているような気がします。
ララァと精神の交流を果たして、あの体験をした彼なのに、ベルトーチカ、チェーンと、人生のパートナーを意識的なのか普通の女性から選んでいます。
フォウにこだわるカミーユにも、クェスにこだわるハサウェイにも、自分のような過ちを繰り返さないために、応援するのではなく、むしろ深入りに否定的な立場にいました。
フォウの亡骸を抱くカミーユの後ろで「人は同じ過ちを繰り返す…」とアムロはつぶやきますが、クェスをシャアの元へ去らせてしまったアムロ自身が、そのセリフの正しさを再び実証してしまいました。

一方のシャアは、アムロとは逆にニュータイプ少女ばかり、ララァの幻想ばかり求めている気がしますね。
かつてのハマーン、ナナイ、それからクェス。
もちろん幻想は幻想でしかないので、彼女たちがララァのように、シャアに何も求めない少女だったわけではないですし、かといって戦場に送り込んでも、ララァになるわけでもありません。
レコア・ロンドという、大人の女性に去られてしまうのも、面白いですね。

富野小説はあまり読んでいませんが、ララァ以後のシャアとアムロの女性観は小説にいろいろ書かれているかも知れません。(もちろん、小説に答えが書いてあるわけでも、それが全てでもないですが)

『GUNDAM EVOLVE 5』での「可能性」の物語


「ララァ以後」を踏まえて考えてみると、アムロはクェスに対して、ニュータイプとしても、男と女としても、多分関わらない(関われない)。
それ以外の関係性でないといけないから、例えば、子供ができて父親になったアムロであれば、クェスをニュータイプとしてではなく、ひとりの人間としてフォローできたのかも知れない。マシンにならなくても、自然な父親として。
でも、映画のアムロは父親ではないし、チェーンも母親ではなかった。(それは単に事実であって、悪いわけではない)

ちなみに富野監督がストーリーを書き下ろしたという『GUNDAM EVOLVE 5』は、クェスをフォローする可能性のエピソードになっていました。

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映画とは逆に、α・アジールでハサウェイを撃墜してしまい、動揺して暴れるクェスを、νガンダムのアムロが説得します。それは大人が子どもにする「しつけ」でした。

自暴自棄になり暴れる子どもを、ファンネルでつくったデルタ・エンド型いやピラミッド型のフィールドに閉じ込めて、暴力を抑えこみながら、アムロは根気よく言い聞かせます。
最終的にアムロは、ハサウェイがまだ生きていることをクェスに感じ取らせ、彼を救うようクェスを導き、送り出します。

『ガンダムF91』のラストで、宇宙に漂うセシリーの生命を、シーブックが探すシーンにシチュエーションが似ていますね。
ここでもシーブックが「わかんない/できない/無理だよ」と投げ出しそうになるところを、シーブックの母モニカが丹念に諭して、導いていました。
『GUNDAM EVOLVE 5』は、実験的な短編フィルムに過ぎませんが、エピソードの内容は「ありえたかも知れない可能性の物語」になっていて、とても興味深いものでした。
もちろん、どちらが正しいかではなく、どちらも同時に可能性として存在しえる物語として、です。

νガンダムは伊達じゃない


こうした「ララァ以後」の女性観や、カミーユら後輩に対する態度を見ても、アムロがニュータイプに対して複雑な想いを抱いていることは想像できます。
彼は「ニュータイプでも人間の業からは逃れ得ない」ということを身をもって体験してしまったので、宇宙世紀最高のニュータイプでありながら、もっともニュータイプ幻想を持っていない人間であるともいえます。

でも、いや、だからこそ『逆襲のシャア』ラストでの、アムロの行動が私は好きです。

映画の最後でアムロは、地球に落ちようとする小惑星アクシズを、νガンダムで受け止めて、押し返そうとします。アムロ「アクシズほどのー、石ころひとつー、楽しいことを、たくさんしたい」

最初に見た子供のときにも感じたし、今の方がよりはっきりと感じるけれど、この「小惑星をモビルスーツで押して、落下を食い止める」というシーンは、【奇跡】です。
つまり、ありえない、大嘘です。うそっぱちです。理屈でもなく、リアリティも度外視した、文字通りのミラクルです。

そういうシーンだと私は思っていますが、その【奇跡】において、アムロが何をしたのかというと、モビルスーツで小惑星を押し返そうとした。ただそれだけでした。ニュータイプであるかどうかなど全く関係ない行動です。
でも、そのアクションによる「ニュータイプでなくても伝わるメッセージ」は、ジェガンや敵であるギラ・ドーガのパイロットに伝わり、彼らはアムロと同じようにアクシズを押しはじめます。全員一緒にミラクル、ミラクル、全員一緒にミラクルナイトです。

アムロ「Come on a baby!」
ジェガン&ギラ・ドーガ「Come on a Fire!」(大気圏の摩擦熱で)←シャレになってない。


これを「ジェガンやギラ・ドーガのパイロット達はサイコフレームの光に導かれるようにアクシズに集まってきて…」などと文学的な表現をすることも、まあお好みであれば可能かも知れません。
しかしそうだとしても、落下するアクシズを目の前にして、何をすべきか、どう動くべきか、というのを伝えたのは、アムロ・レイが見せた具体的なアクションであったはずです。

経験上、『逆襲のシャア』を富野ガンダム免疫のあまりない人と見ると、「これはサイコフレームというやつの力なの?サイコフレームってなに?この光はなに?」となりがちです。
「よく分からないけど、ニュータイプのアムロとサイコフレームとやらの不思議なパワーで地球が助かって…」のように思えるかも知れませんが、ジェガンやギラ・ドーガのごく普通のパイロット達が集まってきてアクシズを押し始めたのは、そういったこととは全く関係ありません。アムロがνガンダムでアクシズを押していたからです。

最後の最後で、ニュータイプだから普通の人間だから、何が特別で何ができて、というのはもう一切関係なくなっています。その場に居合わせた人間ができることがひとつしかない。

ニュータイプといえば、離れていても、手や口を動かさなくても、感じあったり、意思を伝え合ったりと表現されていますが、ガンダム界最初にして、最高のニュータイプが、宇宙世紀で最後にしたことが、石ころにしがみつくことだった、というのが私は好きです。もうニュータイプだからどうこうの行動ではないですよね。

それが人の心の光を見せたことになったのかどうかわかりませんが、【奇跡】は起こりました。

『逆襲のシャア』で起こった【奇跡】


まず、地球が確実にダメになる状況で、ひとりの人間が「ダメになるかどうか」というレベルまでもっていこうとしていました。
それを見て、宇宙では一緒に押すものも現れました。地球でも多くの人々が宇宙(そら)を見上げました。
そして、全ての人々ではないけれど、恐らく人類始まって以来最も多くの人々が、アクシズを見つめて、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ「同じこと」を思った。

それは確かに【奇跡】と呼んでさしつかえないでしょう。
アクシズの軌道が変わったのは、この【奇跡】に付随する単なる一要素でしかない。

(しかし、それが本当に一瞬で、その後も人類が変わらずに闘争を繰り広げていくことを、悲しいけれど私たちは知っています。)

この【奇跡】の説明(言い訳)として、『逆襲のシャア』ではサイコフレームという概念を用意しています。
言い訳が自分に必要&言い訳を考えるのが面白い、という方は、積極的にサイコフレームという概念を解釈してみてもいいかも知れません。
しかし、サイコフレームやニュータイプのことが分からないから『逆襲のシャア』が分からないという方は、別に無理に考えなくてもよいと思います。
この映画はサイコフレームを描くためにつくられた映画ではないので、サイコフレームの要素を抜いても、映画の構造的には成立します。

ちなみに「モ、モニターが死ぬ!」とコクピットのモニタが全て死んでしまい、外の様子が全く見えなくなったシャアさんは、音声は聞こえていたものの、一切、この光景を見ていません。
シャアは、コクピットの外で何が起こったのか見ないまま、光の中へ消え去りました。

アムロの遺産を受け継ぐ、アムロの子供たち


最初に、父親になって地球(子供)を守るアムロと、ララァに母を求めていた子供であることを告白するシャアという構図を紹介しました。
この分かりやすい対比は、アムロがコスモ☆独身貴族となったことで無くなりましたが、その代わりに映画『逆襲のシャア』は、

ニュータイプには絶望したけれど、人類に絶望しなかったアムロと、人類に絶望しているけれど、ニュータイプへの幻想を捨てていないシャア

という構図になっているように思います。
そのシャアが負け、アムロがその計画を阻止する、という意味で、この映画はアムロ自身によってニュータイプ幻想に決着をつけたともいえます。でも私はそんなアムロを支持します。

アムロ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ 人類に絶望もしちゃいない!」


それは彼が地球を救ったニュータイプだからではなく、人類には絶望しないでいてくれたから。

私は、幼い頃からガンダムを見て育ちましたが、やっぱり子供の頃は特別な存在であるニュータイプに憧れました。
でも、大人に近づくにつれ、自分がどうしようもなく普通の人間であり、普通のまま、がんばって生きていかないといけないと気づいていく。
私たちはニュータイプにならなくても、私たちなりの大人になるしかないし、脳内で意思を伝え合う便利な力は無いので、さぼらずに相手と向きあってコミュニケーションをとるしかない。「私たちは分かり合えない生き物だ」という前提でね。

そう覚悟してがんばれば、【奇跡】が起こるのかといえば、もちろん起きません。
でも、【奇跡】はなくても結構、いや十分生きていけるものだと、大人になってしばらくした今は思います。
【奇跡】は、物語の中にしかない、なんのリアリティもない大嘘だ、ということを、『逆襲のシャア』に教わりましたしね。

アムロが絶望せずに、残してくれた世界と創ってくれた時間が「アムロの遺産」であり、そこで生きる私たちが、生まれなかったベルトーチカ・チルドレンの代わりの「アムロの子供たち」。
そう思えば、映画で我が子を奪われたアムロが、子供も無しにあそこまで戦った意味があるんじゃないでしょうか。

おまけ『火の鳥<逆襲編>』


宇宙市民の父とも言うべきジオン・ズム・ダイクンを父に持ち、
多感な少年時代を母なる地球に育てられたシャアが、
宇宙と地球の交わる大気圏の狭間で、
外が見えない状態で球体のコクピット(たまごの殻)に包まれたまま、
「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」とつぶやきながら、消えていく。

というのはやっぱり面白いですね。

父ジオンを殺し、アクシズというペニスで母なる地球を犯す。
「愛と幻想のジオニズム」というネタをまたどこかで書きたいですね。いや「愛と逆襲のジオニズム」かな。

この人はもう一度人間界に生まれ落ちて人間をやり直させた方がいいんじゃないか、という欲望にかられます。
手塚治虫なら、何度も生まれ変わる呪いをかけることでしょう。

火の鳥「お前は生まれ変わって、革命家となり、インテリの世直しをするのです」
シャア「え、またですか!?」
火の鳥「その次もです」
シャア「えー!」


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