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映画を見ました。
夏期休暇に田舎に帰省して、地元の友人2人と映画『おおかみこどもの雨と雪』を見てきたのです。
そう、3ヶ月ほど前にね。



そしていつしか季節は巡り、秋たけなわプリンスホテルの今、8月に見た映画の感想に何の価値があるのかと自分でも思いますが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の後には多分、アップする気が無くなりそうなので、心の区切りをつけておくためだけにメモを公開します。

※2012年11月17日注
とか言ってたら、もう公開日が来た!今更感ドン!さらに倍!はらさんができなければ全てお返しします。

このメモについて


『おおかみこどもの雨と雪』の鑑賞後、断片的なメモを書いたのですが、自分のメモといえど、3ヶ月後では熱量と記憶が全くちがうため、まとめるのは不可能でした。単なる「メモの集まり」ということにしておきます。
相変わらず、自分でも呆れるほど、無意味に長文です。
ブロックごとに見出しをできる限りつけましたので、興味のある箇所だけ読んでいただければ結構です。
ネタバレは当然しまくっていますが、特に誰も気にしないでしょう。夏映画のネタバレなど。



全体的な印象


破綻するほど要素を盛り込んだ『サマーウォーズ』の反動からか、極めてシンプルな要素で組まれていました。
ふしぎ要素は「おおかみおとこ」だけ。(これも「おおかみこども」登場のために必要なだけなのですが)
ストーリーラインも驚くほどシンプル。
2人の「おおかみこども」が生まれて、母がひとりで育てて、子供が自立する。それだけ。

映画を見ながら、多くの作品を連想しましたが、シンプルなストーリーと濃密な演出で連想したのは、押井守の『イノセンス』または『スカイクロラ』。

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これに近いものを今回『おおかみこどもの雨と雪』を見て感じました。
もちろん押井守っぽい演出ということでなく、映画の枠組みというか、基本構造の話としてです。

『おおかみこどもの雨と雪』は子供が生まれて、成長して、自立する、という、生物の流れを追っているだけで、そこには想定できる必然しか起こりません。驚くべき衝撃展開などもありません。
だが、それでもこの映画は豊かで楽しい。

同ポジ、分岐路、同ポジ、同ポジ、分岐路。さいごちょっとみぎ?(山の方向)という感じで、2時間たっぷり細田守の演出を堪能しました。
要するに、シンプルな物語を細田演出フィルターを通して、出力する形式が私には好ましかった。
私は『時をかける少女』と『サマーウォーズ』より圧倒的に好きです。

では、映画の流れを追いながら、メモを並べてみましょう。

物語のはじまり。主人公:花について


映画の序盤では、主人公の花が、「おおかみおとこ」の彼と出会い、愛を育み、母になるまでが、花の娘・雪を語り手とした回想で語られます。

  • あまり幸せな生い立ちでは無かった花は、奨学金で大学に通う大学生。
    身寄りがいないのは、おおかみこどもの子育てに親族が関与しないため(映画の要素を減らすため)という実利から導入された面が大きいのでしょう。
    それに「奨学金で大学に通う苦学生」と「つらい時も、笑顔をつくってしまう」あたりを合わせて、補強しつつキャラクターにしている。

  • でも逆に言えばそれぐらいしか無くて、花は「苦労しているシングルマザー」という属性無しには、成立しようがないキャラクターだと思う。少なくとも映画だとそう見える。
    「母」を描くための、「母」主人公の物語とはいえ、それはあまり好みではありません。
    「母」になる前の大学生の花が、何をしたいのか、将来何になりたいのか、どういう夢があるのか、どういう生き方を目指しているのか、みたいなことが良く分からない。
    「母」である以前に、ひとりの人間として、やりたい夢や、なりたい職業などがあった方が良かったのではないか、と思う。

  • もちろん、それすら要素整理の対象だったのかも知れない。
    結局、花は社会人にはならずに母になってしまうので、「子供が生まれたせいで自分自身の夢をあきらめた」ように観客に見えてしまうのを避ける意味合いがあったのかも知れない。
    (もしそうなら、『サマーウォーズ』のときに頻出した「観客を信用しない優しい配慮」だと思うけどね。)

  • 不幸な身の上から、花が「暖かな家族をつくりたい」「子供をつくってお母さんになりたい」と、そもそも願っていたことにする、という方法はあり、特に表現されていないが、結果とそれを受け入れたことを見れば、花はわりとそれに近いキャラクターだったのかな、という気はします。
    しかし、そうすると今度は、奨学金とバイトの掛け持ちしてまで大学通う花の夢が「母」なの?という問題が発生しないこともない。
    のちの展開を踏まえて、保育科や医学部にするのもひとつの手だけれど、「彼との出会い」「貧乏」などとのバランスが悪くなるかも知れない。(学部は物語の補強にうまく使えた気がするけども)

  • 語り手、雪の視点を借りて、事実関係は分かるけれど、結婚前の花についてはよく分からない(語らない)ということにして処理しているということかも知れないね。
    雪にとっては、花は当然最初から「母」でしかなく、「母」でない花は、雪にはまだよく分からない。ただ、父と母が出合って自分が生まれた事実だけははっきりしている。

「彼」との出会いと、結ばれる二人


とにかく、花は「おおかみおとこ」と出会って、彼の正体も見た上で、結ばれます。

  • ベッドシーンのとき、おおかみの姿になっているのは、彼がおおかみであることを受け入れた上で、異なるもの同士が結ばれるという象徴的な意味合いが大きいのでしょう。

  • ただ、本筋には全然関係ないが、色々考えてみるのも興味深い。
    おおかみこども達が、自分たちの意思以外にも、気が高ぶったり、興奮したりすると、つい、おおかみの姿に戻ってしまったことを考えると、おおかみおとこの「彼」も、もしかすると、あの姿(ビーストモード)じゃないとセックスできないのかも知れない。
    まさにSOS(セックスのときに、おおかみの、すがた)。男はおおかみなのよ、(変身に)気をつけなさい。年頃になったなら、(女の子見て変身しないよう)慎みなさい。
    大人だから、自分の意思以外では滅多におおかみにならないけど、極度の興奮状態に陥ったらどうしようもないよね、という具合に。

  • そうなると、恋人に対しては事前におおかみになって、受け入れてもらえるかどうかの確認は絶対に必要となるプロセス。
    だから、星降る夜に、彼は自分の全てを晒し、花は彼を受け入れた。
    そして次の日の朝、花のとなりですやすや眠る彼は、すっかり人間の姿に戻っていた。夜、獣になって、朝、賢者(人間)に戻る彼。

  • あとは花が、日没後は人間、昼間はタカに姿を変える設定だといいんじゃないかな。
    男は、昼間は人間。夜は、オオカミになる。
    女は、昼間は港署の刑事。夜は、人間。「ユウジ!」「タカ!い・く・ぜ!ウェイカップ!」
    (ネタのレイヤーを重ねすぎて、よくわからないようになってきた)

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おおかみこどもの誕生


妊娠した花は、どんな子供が生まれるのか分からないので、リスクのある自宅出産を選択。
そして、長女の雪と、その翌年には弟の雨が生まれます。ふたりは「おおかみこども」。

  • 自宅出産にはいろいろと批判がありました。
    この出産をはじめとして、花と「彼」は全く人間社会を信用していないのですが、それには、「彼」のルーツが、ニホンオオカミであることを理由付けにしているのだと思っています。

  • ニホンオオカミ絶滅の原因は、いくつかの複合的な理由のようですが、人間による駆除や、開発による餌資源の減少や生息地の分断なども理由としてあるようです。
    オオカミ絶滅に大きく関与したであろう人間を、追われたものとしてニホンオオカミが信用しないのはまあ普通かな、と私は思います。言い訳にはしていいんじゃないでしょうか。
    もちろん自分たちを追った人間社会に興味はあるし、憧れもあるけれど、信用はしていない。

  • その意思は、花が受け継ぎ、人間社会を信用しないまま、こどもたちを育てていきます。
    そういう意味で、花は人間ではないと言えるかも知れません。気味悪がられて、批判されても当然のね。
    このあたりは、後の良平登場のあたりでまた。

おおかみこどもの年子問題


もうひとつ、雪と雨が年子(1つ違いの姉弟)であることも批判がいろいろあったようです。
おおかみこどもを2年連続で自宅出産をするなんて、いったいどういう家族計画なのかしら。

物語上、「おおかみこども」に求められる設定を考えてみましょう。

・こどもはひとりでなく、複数人(ふたり)いた方が色んな意味で良さそう。
・できれば子供2人は、性別や年齢や性格を変えて、バリエーションをつくりたい。
・ラストに子供を2人とも自立をさせるためには、姉弟の年齢差は少ないほうがいい。


おおかみこどもは、映画のバラエティさの為にも、ラストのそれぞれの自立の為にも、2人は欲しいところです。
この映画では、姉と弟という組み合わせになりましたが、ラストで2人に自立させるのであれば、年齢差があるのはあまりよろしくない。
自立に時間差が生じてしまうので、できる限り、2人の年齢差は少なく抑えた方がいいはずです。

こうした背景があって、用意されたのが「年子の姉弟」なんでしょう。

ちなみに、上記の条件を満たすものとして「おおかみ双子」ではダメなのか?ということを当然考えました。
双子であれば、1回の出産で、2人のキャラクターが手に入ります。
条件は満たしていますし、母親に、2年連続で自然出産を強いることもありません。
なぜ双子ではないのか。

これは難しい問題ですが、『おおかみこどもの雨と雪』という映画としては、やはり双子ではなく、年齢差のある姉弟である必要があると思います。
話を変えるならできるでしょう。でも『おおかみこどもの雨と雪』のまま、おおかみ双子は選べないだろう、というのが、鑑賞した私の考えです。
双子を選ぶ道も当然あったと思いますが、できあがったフィルムを見て、私は姉弟を選択したことを尊重したいと思いました。
なぜ双子でなく姉弟なのか。これについては、また直接関係ある場面で詳しく書くことにしましょう。
(注:こんな白土三平みたいなメモばっか。そして、その後を書いたメモは見当たらない)

『赤ちゃんと僕』でのパパとママ


さて、この「おおかみこども」の前日譚ともいえる「花と彼が出会い、子供が生まれるまで」のパートを見ながら連想していたのは、マンガ『赤ちゃんと僕』でした。

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『赤ちゃんと僕』は、母を亡くした小学生の男の子が、パパと幼い弟を育てながら奮闘するホームコメディ。
この作品の中で、まさに前日譚として、パパと亡くなったママの出会いの物語が描かれます。
パパ(榎木春美)は、顔はいいけどチャラい大学生。突然、不慮の事故で両親を亡くし、家族を喪失する。
ママ(由加子)も、幼い頃、両親をなくし、引き取られた叔父の家を飛び出して、弁当屋でバイトする18歳。
おおかみこどもの2人と似たようなものですね。その後も似たようなもので、この2人も知り合って、同居をはじめ、子供ができちゃったのをきっかけに結婚します。

家族のいないもの同士が、寄り添って、新しく自分たちの家庭をつくっていくという定番のドラマなのですが、私は、春美と由加子の物語がとても好きです。
おおかみこどもの2人と比べて良いと思うのは、大学生の春美ちゃんがチャラいことです。
最初のきっかけとして、弁当屋の女の子(由加子)に声をかけるのも、無計画に子供をつくってしまうのも、基本的には、春美のチャラさで成り立っています。

その後、2人は幸せな家庭をしっかり築くとことまでは同じですが、『赤ちゃんと僕』ではこの後が逆で、母が亡くなり、父が残ります。
春美パパは2人の幼い子供を抱えて、父親としての責任を果たし、子供を育てていきます。それが、つまり『赤ちゃんと僕』の本編。
それがあっての、前日譚でのチャラい大学生なわけですが、早すぎる出産が発生する必要があるなら、こうしたチャラい男であった方が、物語としては健全かな、と思います。人は誰も、若いときは特に、無計画でバカなことをするものです。(バカなだけでダメなわけではない)
だから、おおかみおとこの「彼」が、春美パパのような未熟でチャラい男で、花を愛しているのは本当だけど、子供が2人できたのは、計算外だったなあ、まあいいか、という男にする方法もあったかな、という気はします。

でも、おおかみおとこの「彼」は実直で生真面目そうで、声が大沢たかおで、花のことを心から大事にしてそうなキャラクター設定です。
にも関わらず、年子を孕ませて連続自宅出産させるのは、映画としての要請と、映画が見せたいキャラクター(のルックス)が乖離しているので、批判が出ても仕方ないかな、という気はします。

どうせ、存在を序盤で消すのであれば、もっと積極的に「彼」に責任を負ってもらってもよかったのでは。
もちろん「できちゃったとか間違いではなく、愛しあう2人が心から求めて授かった子供」にしたいのは、分からないでもないけど、これも個人的には「観客を信用しない優しい配慮」に感じます。

語り手の雪が、子供が欲しいと願っていたパパとママは大喜びしたそうです、とナレーションしながら、画面では、妊娠検査薬の結果を前にしながら、2人が、どうするよ……と深刻な顔をしている、という「ズレ」で笑いをとるぐらいのおおらかさでも、別にいいのでは、と私は思います。

さて、これでめでたく「おおかみこども」が生まれたので、もはや「彼」は不用とばかりに、不可解な死に方をします。
この映画が欲しいのは「おおかみこども」で、「おおかみおとこ」ではないのです。父でなく母なのです。

都会生活からの逃亡と、田舎への移住


「彼」亡きあと、花は、ふたりの「おおかみこども」を育てようとしますが、人とは違う「おおかみこども」を人目の多い都会で育てることに疲れ果て、田舎への移住を決意します。

  • 子供ができる前の花と「彼」が、山々(立山連峰?)が描かれた絵ハガキのようなものを眺めながら、「彼」が何か話しているカットがあったので、てっきり「彼」の故郷というか、おおかみおとことしてのルーツになる山があり、のちの田舎暮らしの伏線になるのかな?と思ったのですが、ハガキ見ながら田舎で家探ししたぐらいでした。
    もしかすると、小説などではフォローがあるのかも知れませんね。

  • 田舎への移住には、都会から逃げ出すというネガティブ要素だけでなくて、「彼」(おおかみ)のルーツに近いところで子供たちを育ててやりたい、というようなポジティブ要素も合わせもったものだと思いますが、あまり伝わっていないような気がします。

  • この映画での「おおかみおとこ」は、西洋的な狼男ではなく、ニホンオオカミをルーツとしたものですが、特に山の神の使いとしての「オオカミ信仰」とのつながりを感じます。
    劇中でも、「おおかみこども」のいる花の畑だけが、害獣の被害から守られたりしていましたので、恐らくベースにはあるのでしょうが、使い方としてはその程度にして、表面化はさせていません。そういうバランスを選んだのだと思います。

  • 民間信仰とはいえ、ある種の宗教色やファンタジーを抑制するというのは分かるのですが、それらの幻想性を排除した結果生まれたのが、批判もある「お花さんのファンタジー田舎生活」であるならば、正真正銘のファンタジーに言い訳を委託してもいいのかも知れないと思います。

例えば、こんな風に考えてみました。

・「彼」には、おおかみおとことしてのルーツになる山がある。
・そこには、オオカミ信仰が未だ残るような山里がある。オオカミは神の使いとして大切にされている。
・「彼」は、いいところだから、おおかみこどもを育てる場としてはいいかも知れないと、生前、花に話す。
・「彼」の死後、都会で行き詰った花は、移住先として、「彼」が話していた山里を選ぶ。
・移住した当初の苦労の時期、玄関先に人知れず山の幸(キノコなど)が置いてあることがあった。
・「山の王」の帰還を感じた山の動物たちが、引っ越し祝いで持ってきたものだろうか?まだ畑で収穫のできない花は、よく分からないが、ありがたくそれを受け取る。
・鳥がワラをくわえて飛んできて、屋根の雨漏りを直す……のはやりすぎだから、やめておこうか。
・花が移住してきて、おおかみこども達が里で遊び始めてから、里全体の畑に害獣被害がなくなる。
・よく分からないが幸運を運んできた花に、村の人々は優しくなり、彼女を受け入れる。
・村人たちが花の家に遊びに行くと、おおかみの子供(にそっくりな)犬をよく目撃する。
・……まあ、よく分からんが、とにかくオオカミ(山の神の使い)に感謝しておこうか。んだ。んだ。
・もしかすると、村人は雪と雨の正体に薄々気づいているけれど、あえて何も触れないのかも知れないね、としておく。(単純な優しさだけではなく、畑が守られているという幸運=利益を失いたくない、触らぬ何とかにタタリなし)
・そこへあえて「お前、オオカミか?」と触れてくるのは、里の外部の人間だけ(つまり転校生の草平)。


あくまで例えでしかないけれど、話自体をあまり変えずに、バランスが傾きすぎないように、軸にオオカミ信仰を通してみました。
あまり、オオカミ信仰にウェイトをかけすぎると、山の中には狐の先生ではなく、モロ師岡こと三輪明宏先生が住むことになってしまうので、このぐらいのサジ加減でどうでしょ「黙れ小僧!」

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まあ何でもよいのですが、都合のよい田舎生活がせめて軌道に乗るまでは、こうしたファンタジーで言い訳を委託してもいいかな、と思います。

もちろん基本のストーリーラインは変わらなくとも、これはこれで物語のバランスや肌触りは変わってしまいます。
「母が人間の力で全ての問題を解決しなければ」とか、「おおかみこどもを、都合のよい神の子にはしたくない」という問題点はあるかも知れません。

ただ私は、子供が迷惑をかける存在だけでなく、子供にしかできないことで、母が救われてもいいと思っています。
この場合、「オオカミ」として霊的な意味での救済がひとつと、可愛い「こども」として、花と村人(大人同士)をつなぐパイプ役としての救済の二面でしょうか。

要するに「偉大な母」と「世間から隠さなければいけないマイノリティの子供」というバランスよりは、私はその方が好みだな、という個人的な話ですね。

用意された分岐路


田舎に移住したおおかみこども、雨と雪は、それぞれ成長をはじめます。

  • 公開前に『おおかみこどものアメとムチ』というネタを言っていた。
    「なんでこんなことが出来ないの!」と悪鬼のごとく子供達にキレてから、「……良くできたわね」と菩薩のように抱きしめる育児もの。実際見てみるとアメはあってもムチはなかった。

  • 移住した家の前にあるのは、分岐路。
    ←左に行くと、学校(人里)へ。 右に行くと、山へ→
    細田監督おなじみ分岐路ですが、初めて見る方でも分岐路の持つ意味がすんなりと受け取れると思います。

  • これまでY字路が多かった気がしますが、今回はT字路。
    モチーフとなった家の前に実際にT字路があるそうですが、この作品にはT字路がふさわしいのかも。
    Y字路と違ってT字路は、異なる道をゆくものが完全に背中を向けてしか歩いていけないものです。
    もうひとつの道とそこを歩くものに背を向けるしかない、完全に異なる道ですからね。

  • もちろん「なぜ、おおかみこどもが、おおかみと人間、どちらの道しか選べないのか」という問題はあります。彼らの父親も、人間とおおかみを内包したまま死んだのにねえ。
    子供を2人用意して別々の道を歩ませるのは、はっきりいって映画的な要請ですが、もし3人目の子供がいたら、用意された分岐路から自分の道は選ばないでしょうね。

  • もうひとつ。この映画の主人公が、分岐路を選んでいく子供たちではなく、この家に移住を決めた花であるということ。
    つまり、「分岐路を選ぶ方」でなく、「分岐路を用意する側」が主人公ということですね。
    インタビューにおいて、細田監督が「僕は心情的に、おおかみおとこの『彼』ではなく、花のほう」と語っていましたが、分岐路を用意するものが花であることを考えると、ちょっと面白いなと思いました。

ソーシャルゲーム『おおかみこどもの雨と雪』


ソーシャルゲーム『おおかみこどもの雨と雪』があるとしたら、プレイヤーが田舎で家と畑つくって、ふたりのおおかみこどもを育てるゲームになるのだろうか。

もちろん田舎生活は映画同様、ゼロか始まる。家が修理できず、野菜が収穫できなければ死ぬしかない。
ここで攻略のヒント。アバターをかわいい女の子にしておけば、他のプレイヤーから農業のレクチャーやプレゼントをもらえるぞ。序盤はこれで乗り切ろう。

毎朝、子供たちは出かけていく。家の前に分岐路があり、左に行くと学校(人里)、右に行くと山。
どちらに行くかで、内部パラメータが変化して、最終的にどちらの道を選ぶのかが決まる。
そして、大事なことはプレイヤー自身にどちらの分岐路へ行かせるか選ぶ権利がないこと。
プレイヤーにできるのは、分岐路を用意し、毎日朝食を食べさせて家から送り出すことだけだ。

雨の死と、再生


雪が積もった日。田舎で生きる場所を得た親子3人は、何かに解放されたかのように雪原を走り回る。
この映画の見せ場のひとつ。

  • その帰り道。雨が急に野生に目覚め、野鳥をとろうとして、真冬の川に落ち、流されて、死にかけますが、雪が飛び込んで助け、九死に一生を得ます。

  • シチュエーションとしては、雨の父親の死とほとんど同じ。多分、こんな感じで死んだのかな、という気もします。うっかりと。

  • 花はあと少しで再びおおかみの死に遭遇するところでした。
    彼女としては、もう二度とこんな思いはしたくないと思ったでしょう。何とか息を吹き返した雨を強く抱きしめますが、雨はこの日から変わってしまいます。
    狩りの中で通過儀礼的に一度死に、そして再生したことで、別のものに生まれ変わってしまったようです。

子供らしいおもちゃがない?


花の家庭に、ゲーム機もキャラクター玩具も何も無いという指摘がありました。
そのほか垣間見えるライフスタイルを含めて、花の育児に対する考えについて疑問をもつ方もいたようです。

私自身は独身男性で、もともと育児法の話題には疎かったこともあり、劇場鑑賞時はゲーム機やキャラクター玩具などが無いのは、単に映画が古びれるのを避けるためなのかな、と思っていました。

この映画は、携帯電話も出ませんが、かといって特定の古い時代を舞台にしているというわけでもなく、新しいものと古いものが混在して、受け手次第でどうとでも取れるようになっています。
恐らく意図的に曖昧にしているのではないかと思います。

「カラオケに使われる映像には携帯電話を映さない」という話を聞いたことがありますが、その理由は「すぐに映像が古びれて見えてしまうから」というものでした。それに近いですね。

この映画を見た私としては、ある程度、古びれない配慮をすることに賛成です。
普遍的なテーマとアニメーションの魅力に溢れたこの作品は、幅広い世代が自分の生きた時代をイメージしながら楽しみ、さらに経年劣化に出来る限り耐えることが望ましい。
私なら、それを第一目的として、花のおもちゃの与え方やライフスタイルを、それに合うように多少都合つけることを考えるかも知れない。

そのあたり、やっぱり『よつばと!』を連想する。

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『よつばと!』も少しそういうところがあって、製品や企業名などで割りと固有名詞は出てくるのだけど、数年レベルの時間経過に耐えられないようなものは基本的に出していないと思う。
特に、1年単位でめまぐるしく作品が入れ替わるキャラクター玩具などは登場させない。
だから、よつばの相棒はテディベアだし、レンタルビデオ店行っても借りるのは動物のDVDで、『ポケモン』も『プリキュア』も借りることはない(版権的な問題以前の例えの話ね)。

それは『よつばと!』世界のコントロールとして、意図的に行われていると思うけれど、必要なコントロールだと思う。現実と同じにすることがテーマの作品だと思っていないので。

雪と雨の、天上姉弟大ゲンカ


人間として生きようとする雪と、おおかみとして生きようとする雨は対立して口論となり、姉弟ゲンカがはじまります。この映画の見せ場のひとつです。

雪は弟に、学校へ行って人間として暮らせというが、雨は姉に、人間じゃないのだから山へ行こうと言う。
意見は真っ向から対立しケンカがはじまると、二人は戦闘モードに入り、おおかみのすがたになります。
家の中をめちゃくちゃにしながら、二匹の獣が爪と牙で傷つけ合っていく。

ビーストモードで戦闘中の2人を、人間の花は止めようがない。止めるすべがない。

おおかみこどもは特殊な状態としても、母親は自分が生んだ子に対して、生物として、体力的にもう抑えられないと感じる瞬間が必ず来る。
多分、私の母にもあっただろう。自分のお腹にいた子が自分より強くなるというのは、一体どういう感覚なんだろうか。私には一生分からないことだ。

幼い日より、年長で活動的な姉は、弟の雨とケンカをしても負けることは無かったんでしょう。この日までは。
戦いはいつしか、弟である雨の優勢となり、雪は風呂場へ逃げ込む。
かちり、と閉まる風呂場のカギ。それでケンカは終了。

湯船の中で背を向けた雪は、肩を震わせて泣いている。
その背中には無数の傷跡……エロス&バイオレンス!

私はこのシーンが、『おおかみこどもの雨と雪』の中でもっとも好きです。すばらしい。見てよかった!

この映画の3大エロいシーンとしては恐らく「花と彼の子作り(獣姦)」「雪と雨のケンカ」「夜の学校での雪と草平」の3つがあると思われます。私はもちろん「雪と雨のケンカ」派です。

特に好きなのがこのケンカの結末が、雪が閉める風呂場のカギであること。
先ほどまで、獣同士の殺し合いのようなケンカをしていたのに、なぜ風呂のカギを閉めたぐらいで、急にこの大ゲンカが終わるのか。

それは多分、もう雪と雨が一緒にお風呂場に入ることがなくなったから。
雪がカギを閉めたら、そこへ雨は入らないというルールが存在するような年齢に2人がなっている。
女性がお風呂に入っているのに、そこへ男性が入り込むわけにはいかないですからね。
それが雨の、獣としての本能よりも上のレイヤーにあることが、「カギかちり」でケンカが終わったことで分かる。(そういう意味ではこの雨はちゃんと人間ですよね)

恐らく雪も、風呂場に逃げ込めば、雨が風呂場にはもう入り込めないことを知っているんだろう。
雨が男で、自分が女であることを自覚している。
まあ、エロい。これはもう完全にエーロスエロス、エロすんませんですよ。

映画の体感時間的には、ちょっと前まで二人は仲良く風呂に入ってたわけで、少し見ない間に2人ともなんとまあ、いっちょまえに大きくなって!と、久しぶりに会った親戚のおじさんのような気持ちで見てました。

そして「なぜ、おおかみ双子じゃないのか」問題。

なぜ、おおかみ双子ではなかったのか?


根本的には同じである双子では、これまで負けたことがない姉が成長した弟に初めて負ける、というこの場面がもつニュアンスが崩れてしまう。
私には現実的な合理性より、映画としてこの場面の方が大事なので、双子ではなく年齢差のある年子の姉弟であることを支持したい。
しかし、それならばもう少し姉弟の生まれる環境は整えようがあったのでは、というのは先に書いたとおり。

幼い頃、雨を生命の危機から救ったのは、花ではなく、同じおおかみこどもで年長の姉だった。
人間として生きていくと決意した雪だが、別の道を進もうとする弟を止めるためにやむなく、おおかみの力を借りる。おおかみになりさえすれば、弟は止められると思っていた。
そして結果は雪の敗北で終わる。もう雪でも止められない。と、いうことは、この家で雨を止められるものは誰もいないということだ。
恐らくこれ以降、雪は雨の人生には不干渉となったのだろうと思う。
だから、姉弟の物語としてはここでおしまい。

ここから物語は、雪ルートと、雨ルートに分岐する。
母である花は、雨ルートを進む。では、雪ルートは?

草平と、おおかみに与えられた傷


雪のクラスに転校生としてやってきた少年草平に「けものくさい」と言われてしまい、雪は彼を避けはじめる。
自分がなぜ避けられているのか分からない草平は、雪を追い詰めてしまい、雪はおおかみの爪で草平を傷つけてしまう。

傷つけられた草平の耳には、傷が残ってしまうが、彼は雪がやったのではなく、おおかみがやったことだと言い、さらに、母である花にはその傷をつけたおおかみを「きらいではない」と告げる。

  • この草平を見て、物語終盤、花は雪のことを彼に任せていいと確信し、自分は雨ルートに進む。
    というのは分かるし、問題ないと思うが、終盤の段取りはもう少し何とかならなかったのかな、と思う。

  • 草平の耳につけられたのは、もはや聖痕と言ってもいいのかも知れない。
    彼は、おおかみに傷つけられた上で、おおかみを受け入れ、おおかみの真の姿を知る資格を得た。

  • この映画では、草平と花の二人だけが、おおかみの秘密を知ることができたことになる。
    おおかみの聖痕を得て、なお、おおかみを受け入れたものが、おおかみに近づく。
    「彼」亡きあとの、花のスタンスは人間というより、おおかみのそれだし、草平もつらい境遇に負けず、大人に頼らず早く自立したいと願っている。花と草平の笑顔は基本的に同質のものだ。

  • それを考えると、この映画で「おおかみに傷をつけられたのは二人」とした方が面白いかも知れない、と思う。
    ひとりは、もちろん雪の爪で引っかかれた草平だが、花はどう傷つけられたことにすればいいのか?

  • そうなると、花が「彼」を受け入れたあの夜に、体に傷を受けたことにするのが良いのかな、と思います。
    要するに、花が処女であり、「彼」によって、おおかみの聖痕を受けたことにする。

  • フィクションに登場する女性キャラクターが処女かどうかは、物語構造にからむものでも無ければ、個人的には極めてどうでもいいのですが、花と草平を「聖痕」で結ぶのなら、花が処女であった方が都合がいいなあ、と思っています。
    ほかに「彼」から受けた傷があればいいのですが、大人同士だとDVにしかならないので、双方合意の上で与える/受ける傷として、これしかないかな、と思うのですが、まあ世迷いごとですね。

ともかく雪ルートは、こうして草平が担当しました。
あらしのよる、学校で、雪は自分の正体を明かし、草平はそれを受け入れます。(雪ルート・完)

では、雨ルートは?

雨と雪、どちらを選ぶか


同じくあらしのよる。雪を学校に迎えに行こうとした花だが、雨が山に入っていくのを見かけ、それを追う。

花と草平の役割分担は、すでに述べたとおり、準備はできているので、それ自体は問題ないのだが、ストーリー進行上、それがうまく段取りできていないと思う。
雪が草平と一緒にいるということは、花は知らないので、「雪は草平に任す」というスイッチができていない。
花は、家の前の分岐路で、学校か山かで一瞬、逡巡して、山を選ぶが、スイッチができてないので、雪を放置し、雨を優先させたように見える。

お姉さんで学校に(恐らく)いて安全な雪より、嵐の山に入っていった弟の雨を優先させるのは当然とも言えるが、母親を描く映画で、その極めて冷静な判断の見栄えがいいとは思わない。
(そもそも、嵐の山に入って危険なのは、人間である花自身であり、雨ではない)

雪の状態を確認できた描写があるといいのだが、先に述べたようにこの映画は携帯電話を使わない。
かといって、雪が学校から、自宅の母に電話をひとつ入れる、というのも違うように思う。
彼女はこの後、母との約束を破り、おおかみこどもであることを他人である草平に明かす。
その展開を考えると、母と雪との間にコミュニケーション機会を発生させないほうがいい気がする。
そう考えると、草平がひとりになった時間帯に、花へ電話する、というあたりでどうだろうか。
草平は「雪は学校で俺といる」と言い、花は「雪をお願い」と任せ、役割分担をする。

いや……夜の学校での、雪と草平には、全く大人が介在していない方がいいかな。

先に帰った雪の女友達(とお父さん)とか、何か全く別系統の方がいいのかも知れないが、自然にシナリオに織り込めるかどうかは難しいね。
こうしたことをいろいろ検討した上で、この要素自体をカットしているのだと思うけれど。

雨は夜更けすぎに、犬(狼)へと変わるだろう


雨を追って、山に入った花だが、足場の悪い山に苦戦したり、熊と遭遇するが、二匹の小熊を連れた母熊に見逃してもらったりする。倒れた花を助けるために現れた雨。そして今、万感の思いを込めて汽笛が鳴る(鳴りません)。

雨とのお別れのとき、花は自分が子供に「なんにもしてあげてない!」と言う。

これは、花の視点から見ると、実際に「なんにもしてあげてない」。
例えば雪は、母関係なく、草平との確執と和解の中で大人の階段を登っていくし、雨も自分で、山の中の先生(老狐)を見つけてきて教えを受け、これを継ぐ決意をする。

子供たちの自立に、花は関わっていない。
子供は親とは関係のない自分の世界を見つけて、そこで成長し、大人になっていく。
そうでないと自立では無いので、花は関わっていなくて正しい。

ただ「なんにもしてあげてない」というのも、正しくない。
花は、都会から田舎に引越し、安心して暮らせる環境を与えた。
家の前の分岐路で「学校(人間社会)」と「山(おおかみの世界)」のどちらにも行ける選択肢をつくった。
人間として生きたい雪には、おおかみにならないオマジナイを教え、かわいいワンピースも与えた。
学校に興味の薄い雨には、自然を学ばせ、シンリンオオカミに会わせた。

環境を整え、選択肢も用意し、きっかけとサポートをしながら、子供を育てた。
そして、花が「なにもしていない」のに、成長した子供たちは自分で選択し、それぞれ母離れした。
分岐路を用意してあげた上で、その選択は子供に任せ、そして、それぞれが選んだ道を最終的に肯定した。

極端に言えば、母は子供に捨てられて、子育て成功なので、花の子育ては成功といっていい。
だから山中で気を失った母は、花園の中で再び「彼」と出会い、君はよく子供を育てた。ありがとうと抱きしめられる。

この最後に「彼」に褒められて抱きしめられるシーン。
意味は分かるけど、これ無しで構成できないかなと考えたりした。私はこのシーンを無しで組むほうが好みです。

ただ、恐らく「君はよく子供を育ててくれたね。ありがとう」と言って、愛する人に抱きしめられることが、現実世界で圧倒的に不足しているのだろう。このシーンは良し悪し以前に、現実世界で不足しているからこそ、構成に加えられたシーンであるように思う。恐らく、その判断は正しい。
正しいが、こんなシーンは必要とされない世界である方が望ましいし、映画作品としても無い方が私の好みなので、世の父親であり夫である皆さんは、とっとと愛する妻を抱きしめといて下さい。

エンディング:物語の終わり


エピローグでは、二人の子供が共に巣立ち、山奥に一人で暮らす花の姿が描かれる。
もう完全に余生状態だったので、やはり花には「母」以外の属性が何かあった方が良かったと思う。

たまに、山奥からおおかみの遠吠えが聞こえてくる。耳をすませる花。
雨は自分が元気であることを、母に伝えているようだ。

しかし、この遠吠えが、突然の銃声と共に断ち切られたら、という想像をせずにいられなかった。

付近住民から「おおかみのような遠吠えが頻繁に聞こえ、不安である」との声。

自治体に相談。

猟友会に要請。

遠吠えが銃声でかき消される。


そういえば夏頃、今年は『おおかみこどもの雨と雪』のあとに『伏 鉄砲娘の捕物帳』が公開されるので、これは、おおかみこどもが根絶やしにされるな、という冗談を言っていた。雨だけでなく、人間社会に溶け込もうとする雪も当然、狩られる。

その不安を解消するためにも、前半に述べた、普通の山村に見えて、実はオオカミ信仰のある集落。
ということにしておくと、山は神聖なものとして不可侵となり、雨が狩られる心配も無くなるのではと思っています。(理由は何でもいいのだが、不安感だけ解消して欲しい)

感想のまとめ/あとがき


ここまで長文にお付き合いありがとうございました。
最初は断片メモをまとめて、ちゃんとひとつの読み物にしようと思いましたが、記憶が薄れすぎて、もう無理でした。映画への記憶もそうだし、自分の書いたメモの心境についての記憶も薄れていたり。

まさか『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の公開日に記事をアップすることになるとは思いませんでしたが、甘んじてこの周回遅れの罰ゲームを受けたいと思います。これで心置きなく『ヱヴァQ』に行ける。

さて冒頭で述べたように、私は『時をかける少女』と『サマーウォーズ』より圧倒的に好きです。
問題はいろいろとありますが、前二作より一段上のステージへ進んだ映画だと思います。

この映画の悪い部分のために、良い部分を見ないでおく、というのはあまりにもったいないです。
人からの伝聞で食わず嫌いする方も多そうですが、できれば自分の目で見て、良いところと悪いところを見極めて欲しいな、と思います。

では最後に『おおかみこどもの雨と雪』とセットで読んで欲しい作品を紹介しましょう。

『九井諒子作品集 竜のかわいい七つの子』収録の短編、「狼は嘘をつかない」。

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現代社会に生きる狼男をテーマにしたこの短編は、二つのマンガで構成されている。

ひとつは、ほのぼの育児エッセイマンガ風に書かれた「我が家のワンぱく息子」。
絵柄も、育児エッセイマンガ風のゆるいもので、「狼男症候群」という病気を持って生まれた男の子を育てる母が書いたという設定だ。

『おおかみこどもの雨と雪』と違うのは、狼男が「病気」の一種であるという設定であり、社会的に認知されているということだ。それゆえに、おおかみこどもでは直接的には書かれなかった社会的「ハンディキャップ」として、狼男が扱われている。

1歳で「狼男症候群」を発祥した息子を持ったママの、人とは違う我が子の子育て苦労が、エッセイマンガとして描かれるが、社会的に認知されている世界なので、病院でも検査があり、専門の支援センターがあり、同じ子を持つ保護者の交流会など社会的サポートがあることが紹介される。

エッセイマンガの最後は、いろいろと大変だったが、ひとりで全て気負わず、皆と一緒に少しずつ歩んでいくことが大切だ、というママの前向きなコメントで締められている。

そして、このエッセイマンガを踏まえた上で、本編「狼は嘘をつかない」がはじまる。

絵柄も九井諒子本来のものに戻り、主人公も母から「狼男症候群」の息子本人に代わる。
息子はすでに大学生に成長しており、持って生まれた「狼男症候群」によって、苦労しているようだ。
病気を理由にバイトがクビになったり、病気で学校の欠席も多く、友達もできない。

大学では病気のことは隠して生活しているらしく、それゆえの気苦労も耐えない。

母は、息子の育児体験をマンガで発表したり(先のエッセイマンガね)、講演会で後援をしたり、ハンディを持った息子を育てた体験をもとに、活動を行っているようだ。
狼男の症状を抑える薬が存在するが、副作用などの面から反対派であるらしい。

そんな母親にもやもやとイライラがつのった息子は、思わず母に言ってしまう。

楽しそうだよな。講演会も、あのくだらない漫画も。
「息子は不幸にも病気を持って生まれましたが」
「私の努力の甲斐あって、変な薬に頼らず、ちゃんと育てることができました」
そういうアピールをするのが楽しいんだろっ。
俺のため俺のためって全部あんたの自己満足だ。
俺をだしにするのはもうやめてくれないかな。


『おおかみこどもの雨と雪』とセットで読むことで、それぞれのアプローチの違いを楽しめます。
どちらかでなく、両方見ていただくのを強くおすすめします。
どちらも、愛と、それからコメディにあふれていますよ。

そして、どちらも母の物語です。
神が天にいて我々を見守ってくれているのかどうか、私には分かりませんが、
この二作を見た私には確実に言えることがひとつだけあります。

「母は地上にいまし、全て世は事もなし」



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